2003年10月1日水曜日

手のひらを太陽に 2003.10.X 初出

ここ、仙台市青葉区北山という場所は
仙台市中心部まで自転車で10分という場所にありながら
やたら自然に恵まれた場所で、巨大なカエルさんが出る、という事で
有名な場所でもあります。
僕は何度も、その噂の巨大なカエルさんを
見たことがあるのですが、本当にデカイのです。
言葉なくしてしまいます。
冗談抜きで、20センチくらいのカエルさんが
デデン、と道端に鎮座されていたりするのです。
僕はその度に、あたりはばかりもせずに
ややっ! と大声を上げてしまうのでありますが、
北山周辺で、巨大なカエルさんの前で
ややっ! と大声でわめいている人がいたら
それはきっと僕です。

で、先日僕は、そんな自然に恵まれた
仙台市青葉区北山の路上で、アリさんの大群が
ミミズさんの死骸に群がっている場面に
出くわしたのであります。
ミミズさんが生をまっとうし
その亡骸がアリさん達の食料となっているのだな、と
僕は感心しながらその光景を眺めていました。
生命の循環が行われている中々崇高なシーンで
ありました。

アリさん達が群れを成して、ミミズさんの
死骸に群がっている姿は、ある意味残酷なので
ありますが、それを残酷と感じるのは
僕の右脳なのでしょう。
アリさんやミミズさん達は、右脳も左脳も
前頭葉も持っていないので
たぶん残酷であるとは思っていないはずで
あります。

そう考えると、人類が亡き者に対して
墓を造って弔うのは、高度に発達した脳のせいなの
だろうか、と僕は思ってしまうのであります。
だから人類の墓が下らない、という話ではなくて
ネアンデルタール人も死者に花を捧げたという
エピソードからも推察されるように
死者を丁重に扱う、というのは
高度に発達した脳や、もの思う心を与えられた存在である人類の、
洗練、なのだと思います。
そう、洗練。

その点日本人は、死者の弔い方に関しては
相当、洗練、されている民族なのだな、と僕は思ってしまいます。
つまり死者の弔い方が、垢(あか)抜けて、いるのです。
で、葬式にやたら金がかかる。
坊主丸儲け、と言ったら、仏教関係者に
怒られるでしょうか。

どこの民族か忘れてしまいましたが
世界には、鳥葬、と言って
死体を鳥に食べさせて、葬式、としてしまう
民族がいるそうです。
鳥葬。

鳥さんに死体を食べさせると
喰われた人間の死体は、鳥さんのクソとなって
それはやがて土に還ることになります。
土に還る。
そう、有機物としての人類は
ミミズさんと同じくやがて、土に還る、のであります。
そして土中のミミズさんや微生物さんが
分解してよい土ができる。

人間様とミミズごときを一緒にするな、と
キリスト教的人間中心主義的価値観をお持ちの方は
怒られるかもしれませんが
有機物と無機物、という区別で捉えると
人類もミミズさんもアリさんもカエルさんも
鳥さんも、みんな有機物であります。

それに旧約聖書の創世記には
神様が一通り天地から鳥から獣から
万物を造り終えてから
土(アダマ)の塵で
人(アダム)を形づくり
その鼻に命の息を吹き入れられた、
人はこうして生きるものとなった、とちゃんと書いてあります。
土からできた人間が、やがて土に還るのは
ユダヤ・キリストラインで考えても
全くおかしくないわけであります。

ただ神様が、土から人間を造ってみたはいいが
その人間どもが神様の言うことを全く聞かない存在に
なってしまったため、当の神様も困っている、というのが
人類5000年の歴史なわけであります。

卵のなかみ、を毎回読んでくださっている読者の方は
またか、と思われるかもしれませんが
埴谷雄高(ハニヤユタカ)の、死霊、という小説では
限りなく造物主に近い視点を持つ、虚体、が
イエス、と、釈迦、を呼び出し、大審問、を開きます。
そして、イエスよ、お前は人間中心的教義を広め
その後の人類の歴史を、人間同士による
絶えない戦いの歴史にしてしまっただろう、
釈迦よ、お前は、不殺生、を唱えながら
瞑想中に近くのチーチカ豆を無自覚に食べただろう、と裁く。
それは一応ごもっともな視点であって
そういった視点をアニミズム(精霊崇拝)への退行と
とる人もあるかもしれませんが
果たして人類は、進化、してきているので
ありましょうか。

キリスト教的世界観から始まった科学技術の発展による
近代は、果たして進化だったのだろうか、とまで
言ってしまったら、歴史を否定してしまう事に
なるのでしょうが、近代に入ってから、
自然破壊も人間どうしによる戦争も
格段にひどくなってきている事は間違いありません。

日本人初のジャーナリスト宇宙飛行士となった
某テレビ局に勤めていた秋山豊寛さんが
宇宙から帰還後、農業をしながら木を植える、森の番人、になられた、
というのは結構有名な話で
それを、宇宙病、と呼んで笑い飛ばす人もいますが
欧米でも宇宙飛行士が帰還後、何を思ったか改心して
牧師さんになってしまった、なんていう話はよく聞きます。
先日の中国初の有人宇宙飛行船、神舟、に乗って
帰還した宇宙飛行士はどうなることやら……。

僕は、秋山豊寛さんが宇宙から帰還後
土を耕し、木を植えるようになったというのは
象徴的だと思います。

脳科学の視点から大変ユニークな社会論や
文学論を展開している養老孟司さんは
911以降、文明の脳化による都市主義の限界を
盛んに訴えていますが(興味のある方は、中公叢書から
出ている、都市主義の限界、という本をお勧めします)
僕も近代の、都市主義、はもう限界なのではないか、と
思ってしまいます。
はっきり言って近代の都市主義は、地球にも人類にも
あまりよろしくない。

と、仙台市青葉区北山の路上で
巨大なカエルさんを見かけて、あたりはばかりもせずに
ややっ! と大声を上げました、という話から
例によって壮大な話になってしまったわけで
ありますが、僕は今、ふと、ある歌を思い出したので
あります。

僕らはみんな生きている
生きているから歌うんだ
僕らはみんな生きている
生きているから悲しいんだ
手のひらを太陽に、透かしてみれば
真っ赤に流れる僕の血潮
ミミズだって、オケラだって
アメンボだって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ

 
僕らはみんな生きている
生きているから笑うんだ
僕らはみんな生きている
生きているから嬉しいんだ
手のひらを太陽に、透かしてみれば
真っ赤に流れる僕の血潮
トンボだってカエルだって
ミツバチだって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ
 
たぶん多くの方が知っているであろう
この、手のひらを太陽に、という曲の詩には
最も純粋なる神道精神があるのではないか、と
僕は今思い至ったのであります。
つまり、太陽、天照大神のもと
人間も動植物達も、みんなみんな生きているんだ
友達なんだな、と。




・註、有機物とは簡単に言えば、生命体。
   無機物とは、有機物を除いた全ての
   物質、金属、塩類、水、各種気体など、です。



-手のひらを太陽に-

「都市主義」の限界 (中公叢書)

宇宙よ

死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)