2004年1月10日土曜日

我が国とこの国(1)エスノセントリック 2004.1.10 初出

謹んで新年のお喜びを申し上げます。
本年も、卵のなかみ、をよろしくお願い致します。

2004年、平成16年の最初のエッセイは
我が国とこの国、と題する事にしてみました。

日本では多くの人が、日本社会の問題を
論じる際、我が国、という表現を用います。
ヨーロッパで、我が国、と表現する人は
右翼、とか、ネオナチ、と思われてしまうそうです。
ドイツなどは、ナチス・ドイツの歴史を抱えているので
尚更でしょう。
でも日本では、多くの人が自然に
我が国は、という主語を持ってきます。

司馬遼太郎さんのエッセイ集に
この国のかたち、というタイトルのものが
ありましたが、司馬さんは、この国、と
突き放して観察するので、俯瞰的な作家、と
評されていたようです。

村上龍さんも、この国は、という主語で
突き放して書く方なのですが
お前が、この国、と書く時
あの国、はあるのか、と批判がくると
述べられていました。

難しい問題です、我が国とこの国、もしくは、あの国。

レヴィ=ストロースという人類学者は
悲しき熱帯(中公クラシックス)という著書の中で

どんな社会も完全ではない。
あらゆる社会は、その社会が宣揚する規範とは
両立しない不純さを元来含んでおり
そうした不純さは、様々な割合で配合された不正
無感覚、残忍となって具体的に表れている。
この配合をどう評価すべきであろうか?
民族誌的な探索は、そこに至る道を開いてくれる。
なぜなら、少数の社会を比較する時
それらが互いに著しく異なったものに
見えることは確かだとしても、考察の対象が
拡がれば、そうした差異は縮小するからである。
そのとき人は、どんな社会も真底から善くはないが
だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはないという
ことを発見する。あらゆる社会はその成員に
ある種の利点を提供するが、一方、不正の澱は
なくなるわけではなく、その分量はほぼ一定のように
思われ、それはまた、社会生活の面では
組織の努力に対立する、その社会固有の
惰性に相当しているのである。(374ページ)

と述べています。
なんだかやたらと晦渋で難解な文章でありますが
要はこれが、我が国、この国、の本質を
ついた文章ではないかと思うのです。
キーセンテンスは三行。

・どんな社会も完全ではない。
・どんな社会も真底から善くはないが
だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはない。
・あらゆる社会はその成員に
ある種の利点を提供するが
 一方、不正の澱はなくなるわけではない。   

ブルーハーツという80年代に一世を風靡した
パンクバンドの、TRAINTRAIN、という曲の中に

ここは天国じゃないんだ。
かと言って地獄でもない。
いい奴ばかりじゃないけど
悪い奴ばかりでもない。

という一節がありましたが
要はそういう事なのではないかと
思うのであります。
つまり、どんな社会も天国ではないが
かといって、どんな社会も地獄のようではない、という
事です。

でも人間は本来誰もが
エスノセントリック(自民族中心主義)である
というのは、このエッセイの中でも
何度か書いてきたところです。

日本が世界一素晴らしい国だ、と思いたいのは
日本に生まれ育った者として当然であるわけです。
アメリカ人は、アメリカ合衆国が世界一素晴らしい国だ
と思いたがっているでしょうし
中国人は、中華人民共和国が世界一素晴らしい国だ、と
思いたがっているはずです。

だから日本社会の問題を論じる時に
我が国は、という主語で語ってくれる
人の方が人気が出るのはよく分かります。
我が国は、という主語を持ってくる事で
日本人としてのエスノセントリックを満足させられるので、
エモーション、感情が刺激されて高ぶってくるからです。

難しい問題です。我が国とこの国。


-我が国とこの国(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220041.html






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文明の衝突(1)~(3)
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