2003年9月1日月曜日

ゴキブリホイホイ(2) 2003.9.X 初出

ゴキブリホイホイ使用方法欄。

曰く。
ゴキブリさんが入り込みたくようなハウス形の
ボックスを築き、入口にゴキブリさんの
足ふきマットを設置する。
足ふきマットで足元の油分、水分を
吸い取られてからハウスに入り込んだ
ゴキブリさん達は、ホイホイハウスの
強力粘着シートに手足や体を
のめり込ませ、もがけばもがくほど
身動きができなくなる……そうであります。

ホイホイハウスの中心部に設置した
エビ、野菜などの匂いがする強力誘引剤で
ゴキブリさん達はスイスイ寄ってきます。
物陰や壁など、一度に数箇所に設置して
一挙に捕獲して下さい……との事であります。

おお、なんと人類は残酷な生き物なので
ありましょう。
自分の快適な生活のためには
一生物種を生き残る事のないように
根絶やしにしてしまう事も辞さない。
人類とは、なんと業深い存在なので
ありましょう。
僕は人類が地上の王者となるまでに
費やしてきた、5000年の業深い月日の流れに
思いを馳せました。
人類はきっと、こうした自然や動植物を手なずける
努力を5000年以上にわたって繰り返し
地上の王者となったのです。

ゴキブリホイホイを中世の人に見せたら
きっとその人は、神、と崇められる事でしょう。
僕達人類は、神を含む大自然、に挑戦し続け
ついにゴキブリホイホイを近所の薬局で
買える段階に至ったのであります。

だがしかし、ゴキブリさん達の生命力は
並大抵のものではありませぬ。
彼らはこれほど人類に忌み嫌われる存在で
ありながら、今日の今日まで悠久の時を
生き抜いてきた地上のシーラカンスであります。

僕は人類の英知の結晶であるゴキブリホイホイを
台所の棚の奥、合計7箇所に仕掛けましたが
最新科学兵器を持って他国の罪のない人々及び
街、自然に対して武力攻撃を加える
アメリカ国防総省のようで、なんだか心が痛みました。
仕方がない。
僕は毎晩ゴキブリさんが出没するような部屋には
住みたくありません。
それにゴキブリさんと話し合っても時間の無駄です。
彼らはどうしても僕とは共存できない存在なのだから
ゴキブリホイホイで駆除してしまうしかないわけです。

嗚呼、これでは自分達に都合の悪い
タリバン政権とフセイン政権を
最新兵器で崩壊させ、フセインの息子を
確かに殺しました、などと発表して
喜んでいるアメリカ国防総省と全く同じ
論理ではないか。
おお、僕達人類は、結局自分に都合のよいようにしか
考えられない罪深い存在なのではないのか。

ゴキブリ達よ、許せ。
僕は聖人ではないのだ。
イエス・キリストのように、右の頬を打たれたら
左の頬を差し出せ、などという芸当は
僕にはできない。
ゴーダマシッダルダのように虎に自分の体を
食べさせるなどという芸当は僕にはできない。
僕は君達が毎晩床をゴソゴソするような
部屋には住みたくない。
僕は君達とはどうしても共存する事はできない。

台所の棚の奥に
三日以内に立ち退け
さもなくば駆除する、などと
張り紙を貼っても君たちには通じないだろう。

だから僕は今日ここに
己の罪深さを自覚しつつも
ゴキブリホイホイを台所の棚の奥
合計7箇所に仕掛けたのだ。

嗚呼、僕は何と言えばいいのだろう。
嗚呼、僕は何を思えばいいのだろう。

何日か経てば、ホイホイハウスの中に
ゴキブリさん達の死骸が山と築かれることだろう。
そして僕はそれを望んでいる。
おお、これでは自分達の都合の悪い存在を
抹殺してしまえ、というホロコーストの論理と
全く同じではないのか。

嗚呼、僕は何と言えばいいのだろう。
嗚呼、僕は何を思えばいいのだろう。

僕がいつか大金持ちになったら
乱開発で禿山になってしまった場所に
駆除されたゴキブリさん達への贖罪として
たくさんの木を植えよう。

その植えられた、木、が
アニミズム的宗教の本質なのではないか、と
僕は今思った。

というわけで僕は
我が家の台所の棚の奥
合計7箇所にゴキブリホイホイを
仕掛けたのであります。

さて、その結果や、如何に。


ゴキブリどもよ、
人間様をナメるなよ。





註、ゴキブリホイホイの使用方法欄の文章は
  多少デフォルメされております。


-ゴキブリホイホイ(完)-

ゴキブリホイホイ(1) 2003.9.X 初出

ついに出てしまったのであります。やつが。

僕が草木も眠る丑三つ時に
ああ、明日の分のご飯を炊かねば、と
ゴソゴソと、台所の棚を空けたその刹那、
何やら黒い物体がゴソゴソと、台所の床を
駆け抜けて行ったのであります。

そう、我が家にゴキブリさんが
出てしまったのであります。

気の弱い僕は黒い物体がゴソゴソと
台所の床を駆け抜けて行ったその刹那、
草木も眠る丑三つ時であるにも拘らず
ややっ!!
と、大声を上げてしまいました。
お隣さんは安眠を妨害されてしまったかも
しれませんが、僕のせいではありません。
やつらのせいであります。

僕は急いで玄関のドアを開けると
やつらをホウキで外へ追い出したので
ありますが
しばらくドキドキとした胸の動悸が
収まらなかったのであります。

胸打つ動悸をやまやの発泡酒で収めてから
僕はなんとかお米を研いで
炊飯ジャーのタイマーをセットし
床についたのでありますが
まさか僕の家にゴキブリさんが生息しているとは
夢にも思わなかったのであります。

僕は一応、いつ来客があってもよいように
マメに部屋の掃除は行っているので
ありますが、まさか台所の棚の奥に
ゴキブリさんが生息しているとは。

こんな事が許されてよいのでありましょうか。

僕はカチンときてしまいました。
カチンときた僕は
翌日さっそく近所のダルマ薬局で
ゴキブリホイホイを生まれて
初めて購入したのであります。

ダルマの袋を抱えてゴソゴソと家に帰り
ゴキブリホイホイパッケージを取り出し
使用方法の欄を読んだ僕は
驚愕してしまったのでした。
ゴキブリホイホイはまさに
人類の英知の結晶だったのであります。




-ゴキブリホイホイ(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2-20039x.html

転換期を迎えた労働組合(4) 2003.9.X 初出

僕が以前某役所に派遣労働者として
勤めていた時の事です。
僕はその役所の労働組合の方々と仲良くなる機会が
ありまして、いろんな話を聞いたのですが
その中で、みんな9時出勤で17時退勤
組合の書記長さんは、メルセデス・ベンツに
乗ってるよ、という話を小耳に挟んだのであります。

別に組合の書記長が、何の車に乗っていようが
個人の趣味なので勝手ですが(僕はYAMAHA
ビラーゴXV250という格好いいバイクに乗っています)
メルセデス・ベンツ、というと、労働者階級、というよりも、
どうも、ブルジョワ資本家の象徴、という感じがしてしまうのは
僕だけではないような気がしますが
どうなのでしょう。

ちなみに、僕がそこの組合に勤めていた
ちょっと年下のかわいい女の子に

給料いくらなの? (How much? )  

と、ズバリ率直に、且つ、生々しく聞かれた事がありまして、
僕は赤面しながらも正直に

時給610円だよ

と答えたら
そこの組合に勤めていた
ちょっと年下のかわいい女の子に、ゲッとした表情で

何で働いてんの? 

と怪訝そうに聞き返された事を、僕は今でも覚えております。
たぶんその刹那、僕は彼女の恋愛対象から外されたのだと思いました。
ひどい、そりゃひどい。嗚呼、ひどい。

メルセデス・ベンツに乗っているという組合の書記長さんを
僕が何度か見かけた感じでは、結構人の良さそうな人でしたし、
メルセデス・ベンツも、実は中古の52回ローンかもしれません。
そこの組合に勤めていたちょっと年下のかわいい女の子も、鈍い、というだけで、
別に悪気はなかったのかもしれません。
それに僕が以前勤めていたという、某役所、というのも
あくまで、某、なので、もしかしたらそんな役所は
実在しないのかもしれません。

でも現在の労働組合というものの存在あり方が
実に凝縮して現れているシーンだな、と思ったので
公共性があると判断し、僕は、某役所、の組合の
実態を書いてみたわけです。

何を言いたいのか、と言いますと
メーデーでシュプレヒコールを挙げているような人達も
結構いい暮らしをしているのだな、という事です。
はっきりいって旧来の意味での組合活動というのは、
もう存在意義をなくしているのではないか、と
僕は思ってしまいます。
で、僕のように派遣で宮城県の最低賃金、610円、で
働いているような人達は、何の保護も受けない。
仕事がなくなれば、退職金もないまま、ハイ、さようなら。何かがおかしい。

団塊の世代の人に話を聞いたところでは
そういった組合活動でリッチな暮らしをしている人達を
労働貴族、と言うそうです。労働貴族。

共産主義思想とか社会主義思想というのは
理論の上ではユートピアをうたっても
革命にいたる段階で、権力の集中、を
引き起こすため、結局、労働貴族、が誕生してしまうのかな、と
僕は思ってしまいます。
でも革命を志向しなければ、それは、空想的社会主義、となってしまいます。
北朝鮮やキューバは現在も一応共産主義革命を
志向している事になっているようなので
金日正書記長やカストロ議長は現在も労働服を
着ていたりします。
キューバの実態は情報が少ないので僕はよく分からない
のですが、北朝鮮の金親子の貴族ぶりは
最近日本でもよく知られるようになってきました。

最近、労働組合に若い人達が加入しなくて困る、という話もよく聞きますが、
それもある意味当然で
右肩上がりで給料が上がるわけでもなく
一つの会社に一生勤めるような時代でもないのだから
現在の形の組合に加入しても
若い人達にはあまりメリットはないのではないか、と
僕は思ってしまいます。

でもそういった組合活動も
高度成長期くらいまでは
上手く機能していたはずで
なんとか労働者をこきつかってやろう、とする
資本家ブルジョワ層に対する
カウンター勢力になっていたのだと思います。

村上龍さんの、愛と幻想のファシズム、という小説で
そういった企業側と組合側の戦いが、凄まじい筆力で
描かれていますが、それを読むとほとんと戦争です。

僕が、仙台駅東口新寺にあるその名も、新寺、という飲み屋で、
一部上場企業の役員さんに鉢合わせた時に聞いた話では、
一部上場企業の人事部の人は、みんな労組の突き上げと戦って
胃潰瘍になってしまうので、だいたい手術の後が
お腹に二、三ヶ所はあるのだ、そうです。
なんとも凄い話ですね。
団塊の世代の人達で、企業の側に立っていた人達は
まさに命がけの、企業戦士、だったわけです。

でもそういった話もこれからの日本社会では
聞かなくなっていくのかもしれません。

現在は韓国が、そういったかつて日本の企業社会が
経験した激しい労使対立の状況にあるらしいのですが
組合活動に、甘い、とされるノ・ムヒョン氏が
大統領に就任してから
組合側の要求が企業側に通るようになってしまって
それを嫌気した外国人投資家が
韓国から資金を引き上げたりしているようです。
でもそういった動きが大手企業職員間での
話であるというのは、韓国でも変わらないようで
庶民からは、やはり、労働貴族、と呼ばれたりしているようです。
ちなみにハングルでは、労働貴族、を何と書くのでしょう。

生産手段を握るブルジョワ層と戦うのだという
組合員達の姿も、ほとんどの、庶民、から見た場合
金持ち同士のケンカにしか見えない、というのが
実情なのかもしれません。
韓国ではどうか分かりませんが
僕が、某役所、で見た旧い体質を引きずった組合活動は
実際そんな感じでした。金持ち同士のケンカ。
カール・マルクスが泣いてるぜ。

大手の松下労組がそういった形態の組合活動を
もう辞めます、と宣言したのは
まさに時代の要請なのでしょう。

本当に現在はありとあらゆる分野が過渡期で
何が正しくて何が間違っているのか
分からなくなってしまいます。

現在、道路公団、が、やり玉、に上がっていて
社会の敵、のようにメディアに報道されていますが
そういった様々な公団・公社も
戦後の焼け跡から復興し、高度成長に向かう頃までは
高い理想とモチベーションを持った組織だったのだと
僕は思います。

とりあえず国土が焼け跡になってしまって
何もない状態では、まず道路を引っ張る必要が
あったはずです。
そして国民が必死に預けた郵便貯金を原資とした
財政投融資がそれら国家の大事業を資金面で
上手くサポートしていたのだと思います。

でも哀しいかな、組織というものは
肥大化し、長い間存続していく中で
当初の高い理想とモチベーションをなくし
自己保身しか考えなくなっていってしまうものなのでしょう。
だからこそ先述のリチャード・ブランソン氏や
ビル・ゲイツ氏は、組織が大きくなり過ぎて
顔の見えない集団になってしまったら
分割していけ、と言っているのかも
しれないな、と僕は今思いました。

今、公団の職員です、とか、公社の職員です、と言っても
羨ましがられる事はあっても尊敬される事はないような気がします。
つまり公(おおやけ)の仕事をするはずの組織が
単なる、よい勤め先、となってしまっている。
これはあまりよろしくない事態なのではないか、と
僕は思ってしまいます。

と、松下労組のニュースからズラズラと
文章を書いてきてみて
結局僕は何を言いたいのかといいますと 
労働組合に限らず、現在の日本社会は
そういった金属疲労を抱えて全く機能しなくなってしまった組織ばかりが
溢れていて、若い人達が高い理想と
モチベーションを持って何かを始めようとしても
全く入り込めない状態なのではないか、という事を
言いたいわけであります。






-転換期を迎えた労働組合(完)-



愛と幻想のファシズム〈上〉 (講談社文庫)

愛と幻想のファシズム〈下〉 (講談社文庫)

転換期を迎えた労働組合(3) 2003.9.X 初出

労働組合には、どうも共産党系と社民党系のものが
あるようです。
そのイデオロギーの根底にあるのは
やはり共産主義思想なのでしょう。
でも1991年に共産党政権の本家本元ソビエト連邦が
崩壊してしまったので、現在世界は資本主義万歳な
思想状況にあるわけです。

イデオロギー対立といった視点からみれば
共産党宣言のマルクスとエンゲルスの理論の下
労働者よ、団結せよ! 
労働者よ、今こそ立ち上がるのだ!
我々は生産手段をブルジョワから奪還し
プロレタリアート独裁の……と、赤い旗を振ったり
ゲバルト棒を振り回したり
シュプレヒコールを上げたりしながら

30代以上は信用するな! 

などと時に絶叫し、若さを発散させながら
男らしさ、或いは、ますらおぶり、を競い合い
オルグするふりをしながら女を口説く……
という形での労働組合のあり方は、もう存在意義を
なくしているのかもしれません。

日本の政治が、11/2(一と二分の一)政党制とか
55年体制と呼ばれていた頃は
社会党(現社民党)が、自民党へのカウンター勢力としての一角を
占めていたようです。
でも2003年現在、こう言っては何ですが
国会では共産党も社民党も、もうほとんど
現実的な力を持っていないように思えてしまいます。

誤解されると困りますが、僕は自民党支持者でも
共産党支持者でも、社民党支持者でも
ありません。
あくまで不偏不党の立場から現在の政治状況を
見ているわけです。
もしかしたら僕のような人間を無党派層と
呼ぶのかもしれません。
たぶんほとんどの、無党派層、と呼ばれる人達も
政治に関心がないわけではないような気がします。
あ、そういえば僕は、卵党総裁でした。フフフ……。

一応、共産党支持者や社民党支持者の方が
気を悪くされないように記しておきますと
経営者側は労働者側に配慮しなければならないのだ、という思想を
社会に定着させた、という点では
僕は戦後のある時期までの組合活動の成果はあったと思っています。

でも現在の政治経済状況では
どうなのだろう、と思ってしまうわけです。

次回その辺を具体例を挙げながら
考えてみたいと思います。





-転換期を迎えた労働組合(4)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/09/420039.html

転換期を迎えた労働組合(2) 2003.9.X 初出

今回の松下労組の結成以来の大改革に対する
朝日新聞社の記事では、組合本部から権限を移譲される支部の側に
人材が足りない、という、組合員の不安の声、が紹介されていましたが、
一番の課題はそこではないか、と僕も思ったりします。

今回の自民党総裁選で、道州制移行、を掲げて闘った
亀井静香氏が敗れたため、しばらく、道州制移行、は
ないかと思いますが
行政の分野で考えてみても、仮に中央政府から
地方自治体への大幅な権限委譲があった場合
地方自治体の側が、独自法案を作成し、それを円滑に
執行できるだけの人材を抱えているのか、と
いう問題が出てくるように思うわけです。

戦後長らく、地方自治体の職員が中央官庁に
陳情、に出かけて行って、法案を作成してもらう、という形で
この国のシステムは動いてきたわけです。
当然中央官庁にはそれなりの人材も集まっているだろうし、
自分達が国を動かしているんだ、という形で
ある程度意識の高い人も多いはずです。
でも戦後長らく続いてきたそういったシステムが限界を迎えて、
これからは地方分権の時代です、と言われた時
果たして、ずっと中央官庁に、陳情、に行くのを仕事にしていた人達が、
独自に法案を作成し、且つ
円滑に執行できるだけの能力を持っているのだろうか、と
僕は疑問に思ってしまうわけであります。

構造改革の流れの中で、福岡県太宰市で独自に導入された、
歴史と文化の環境税、と呼ばれる、駐車場新税、は
結局混乱の後に中止に追い込まれてしまったようです。
そういった混乱が、これから様々な自治体で見られるようになって
いくのではないか、と僕は危惧してしまうわけです。   

昨日NHKで、新閣僚に聞く、という番組を観ていたのですが、
その中で某大臣が、自治体間での格差を容認するような発言を
されていましたが、たぶん構造改革と呼ばれるものの正体はそういう事なのだと
僕は思いました。
つまり、日本人はみんな一緒、ではなくなります。
格差がつきます、という事。

僕も、日本人はみんな一緒だよね、という環境の中で
育ってきたので、その発言を聞いていてなんだか
嫌な気分になってしまいましたが
たぶんそれが真実なのだと思います。
もう、ドラえもん、や、サザエさん、や
ちび丸子ちゃん、は出てこないという事なのだと
思います。
かっくらきん大放送、も、オレ達ひょうきん族、も
笑天、も、歌のトップテン、も出てこないのでしょう。
ドリフ大爆笑、も。
なんだか僕はとてもセンチな気分になってきました。
村上龍さん風に言えば
センチメントとは、取り戻せない過去、を思い出す事から生まれるのです。

と、取り戻せない過去、を思い出しながら
ちょっとセンチな気分になってきた僕ですが
構造改革の流れの中、地方自治体独自の新税を導入
しようとして混乱をきたし話題となっている福岡県の大宰市には、
学問の神様として名高い、菅原道真公(845~903年)を祭ったその名も、
大宰府天満宮、という由緒ある神社があります。
今回の太宰市の、歴史と文化の環境税、駐車場新税、導入においても、
この大宰府天満宮周辺の駐車場を巡っての混乱だったようです。
神社好きの僕としては、太宰市にちょっと高めの
駐車場税を払ってでも、ぜひ参拝してみたいところです。

松下電器産業労働組合の結成以来の大改革、という
ニュースから今回のエッセイを書き始めて
気がついたら太宰市の税制の話題に至ってしまいましたが、
どちらも、明治以来の画一的中央集権化の流れが終わりそうだ、という点では
共通しているような気がします。
それと中央なり本部なりから権限を移譲された
それまでの末端組織が、その権限を上手く運用していけるのか、という面でも
共通した問題点があります。
構造改革と呼ばれるもののイメージも、
僕なりにだんだんとつかめてまいりました。

で、今回は労働組合の話という事なので
脱線はこの辺で止めて、労働組合に絞って考えてみる事
にしたいと思います。



-転換期を迎えた労働組合(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320039.html

転換期を迎えた労働組合(1) 2003.9.X 初出

松下電器産業労働組合が、1946年の結成以来の大改革に
乗り出した、というニュースが先日ありました。
2006年夏に、現在の組合本部中心の組織運営から
事業領域ごとに独立単位を設けて交渉権限を移譲する
分権型、へと移行することを柱としたものとの事です。

明治以来の画一的中央集権化の流れの中で
1940年体制の下、日本人みんなが何かに向かう
戦争へ、或いは経済戦争へ、という社会構造が
98~2002年を境にして限界を迎え
あらゆる分野のベクトルが逆に向かい始めたのではないか、という
僕の仮説は、けっこう妥当性があるかも、とこのニュースを見て思いました。

松下電器ほど大きな組織になってしまえば
当然、事業分野ごとに労働環境もかなり異なって
くるわけで、その全ての労使関係を一律に本部で
管理するという形がもう限界を迎えているという事なのかもしれません。
ヴァージングループの創始者であるリチャード・ブランソン氏や、
マイクロソフトのビルゲイツ氏は組織が大きくなりすぎて顔の見えない集団に
なってきたら分割していく事だ、と発言していましたが(ファンキービジネス
/ヨーナス・リッデルストラレ、シェル・ノードストレム共著)結果を
出している組織のトップの発言だけに説得力があります。

事業領域ごとのドメイン単組に権限を移譲し
グループ共通の労働条件だけを上部組織で
管理する、という今回の松下労組の結成以来の大改革は
はたして、英断、となるのでしょうか。
ただ今回の松下労組の決断は、他の大手企業の
組合にも波及していく事は間違いないでしょう。

となると、今年の春闘の賃上げ交渉がどうのこうの、といった言い回しも、
10年後ぐらいには死語になっているかもしれません。
いや、たぶん5年後、もしかしたら3年後
もっともしかしたら、来年あたり……。

最近、死語、がものすごい勢いで
増えているような気がしますが
それだけ時代の変化が早い、という事なのでしょう。
2003年死語辞典、のようなものを作ったら
結構売れるような気がしますが、どうなのでしょう。
作ってみようかな。




-転換期を迎えた労働組合(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220039_7.html

日輪の翼 2003.9.X 初出

近世日本では、お伊勢参り、が
大変盛んだったそうです。

これは現在の三重県北部にある、伊勢神宮、という所へ
全国から人々が大挙して参拝に出かける、という
信仰行事のようなものですが
テレビゲームも新聞もインターネットも
なかった近世の日本人にとって、お伊勢参り、は
信仰と旅行と情報収集を兼ねそろえた一大イベントだったのだと思います。
聖地伊勢に行ける、という信仰上の達成感と
道中で様々な土地の文化に触れられる、という
旅行の側面と、普段は農村や藩内の狭い世界で
仕切られた生活をしている人々へ外部の情報を
もたらす、という正に一石二鳥ならぬ、三鳥も、四鳥も獲れる、
お伊勢参り、が近世日本では大変盛んだったわけです。

では、その伊勢参りのルーツは、となると
これは戦国時代から江戸に入る頃に始まるようです。

伊勢神宮は、鎌倉・室町の時代までは
民衆と繋がりを持たずに超然としていた、との事ですが
戦国時代を経て江戸時代に入ると
伊勢神宮の経済的基盤であった諸国の領地が
武士達に押さえられてしまったため
経済的に立ちゆかなくなってしまった、そうです。
そこで御師(おし)と呼ばれる人達が登場し
お伊勢様信仰を全国に販売したり
伊勢神宮の近くで旅館を経営したりして
お伊勢様を経済的に助けたそうです。
そして、お伊勢参り、が盛んになっていった。

現代で言えば、JTBやH.I.S.のような旅行代理業のような事をして、
お伊勢様を経済的に助けた
この御師(おし)と呼ばれる人達は、
信仰を持ちつつも、ビジネスライクな判断もできる
中々機転の利く人達のように思えて
僕は、大変面白いな、と思ってしまいます。

で、そんなユニークな御師達の活躍もあって
江戸時代、お伊勢参り、は大ブームとなり
ここ東北地方からも相当な数の人が
伊勢まで行っていたようです。
新幹線どころか、電車も自動車もない時代なのだから
まさに一生に一度のビッグイベントだったのだと
思います。お伊勢参り。

と、前置きが長くなってしまいましたが
中上健次さんの、日輪の翼、という小説に
この、お伊勢参り、の話が出てくるわけです。
前回の、月に兎、太陽には烏、のエッセイで
伊勢の天照大神(太陽)と
熊野のヤタガラス(太陽黒点)の関係を
考察していて、僕は、日輪の翼、について
書いてみたいな、と思ったわけであります。
伊勢へ七度、熊野へ三度(いせへななたび、
くまのへさんど)という諺があるくらい
伊勢参り、と、熊野参り、は
かつて日本では大変盛んに行われていたようです。

で、そのヤタガラスの熊野地方出身の
中上健次さんの小説、日輪の翼。
深読みすれば、これは太陽(日輪)に
住むカラス(翼)ともとれます。
中上健次さんは、そのまま、熊野集、という小説も
発表していますが、、日輪の翼、というタイトルにも
きっと何か含みがあるのだろう、と僕は思います。

日輪の翼、という小説は
若き日に売春で生計を立てていた老婆達が
女あさりが大好きな若者が運転する冷凍トレーラーに
乗って、熊野から伊勢、諏訪、出羽、恐山……と
日本各地の霊地を巡り、そして最後に皇居のある東京へ至る、という
なんとも凄まじい小説です。

何が凄まじいか、と言えば
女あさりが大好きな若者が、
若き日に売春で生計を立てていた
老婆達と日本各地の霊地を巡る、という点に既に
僕が、♂♀生・性・聖のエッセイで考えたような
人間存在に対する問いが凝縮されていますし
冷凍トレーラーに老婆を乗せて聖地に乗り付けて
警察官に注意されたり
老婆達が素朴な信仰心から聖地の参道を
ホウキで掃こうとして警備員に注意されたりすると
いう話の展開の中で、近代化した社会の哀しさが
さり気に描写されていたりします。
そしてそれらの問いと、古事記や日本書紀の
神話の世界がシンクロして、なんとも言えない
ロードムービー風のストーリーとして提出されています。
凄い力技です。凄い小説です。日輪の翼。

話が逸れますが
僕は、一般の人々が神の死亡を知る、それを持って
近代化は達成される、のではないかと最近考えています。
日本社会が98年から2002年にかけて完全に近代化を
成し遂げたのだと仮定すれば、同時にそれによって
日本の多くの一般の人々が、神の死亡を知ったのだ、と
言えるのではないかと思うわけです。
現在様々な場面で言われている、人心の荒廃、というものの原因は、
日本社会が完全に近代化を達成して、
多くの人が、神の死亡を知った、ことにあるのではないか、と思うわけです。

ヨーロッパが近代化を達成し、ニーチェが神の死亡宣言を行った
19世紀後半、切り裂きジャック、という猟奇犯が、
当時の西欧社会を震撼させたそうですが
僕は、サカキバラ事件、に、切り裂きジャック、と似た不気味さを
感じてしまうのです。
あの少年は確か、バイオモドキ神、とかいう神を
自分で作り上げていたように思います。
新興住宅地の母性が強い家庭がどうのこうの、と
評論家諸氏に指摘される事もありますが、
僕は、サカキバラ事件、に、神の死亡、を感じました。
切り裂きジャック、も、サカキバラ事件、も突っ込んで
調べたわけではないので、単純な推測は危険ですが
僕はそんな気がします。神の死亡。

どうして人を殺してはいけないの?

警察に捕まるからだ。

じゃあ、警察に捕まらなければ殺してもいいの?

それが神が死んだ後の、近代社会の末路の姿のような気がします。
まさにハルマゲドン。

その民族の、倫理観の最終的な拠り所、というのは
やはり、素朴な宗教心、なのではないかと僕は思ってしまいます。
でも近代化は、それらを法律やシステムに
どんどん置き換えていってしまいます。
そして、子供達に、どうして人を殺してはいけないの? と聞かれて、
警察に捕まるからだ、としか答えられなくなって行く。
僕は近代化の恩恵にさずかって、卵のなかみ、を書き続けているのに、
実は近代社会が嫌いなのではないか、と思ってしまう事があります。

近代化は、街から闇を無くし
人々に知識をもたらすので
人間はだんだん怖いものがなくなってきます。
それはそれで、無知による悲劇、がなくなるので
良い事だと僕は思いますが
そうして次々とこの地上で自由に生きる力を獲得していくと、
人間は、神を含む大自然に対する畏れ、を
次第になくしていきます。
そして、一般の人々が神の死亡を知る、ことで
近代化が達成される。そして人心が荒廃し始める。

エデンの園で蛇にそそのかされたイブが
知恵の実を食べてしまったために、
人類は楽園を追い出されて現在の形に
至ったのだ、と旧約聖書は教えていますが
やはり知識というものは罪なのではないか、と
僕は思ってしまいます。

と、話がだいぶ逸れてしまいましたが
中上健次さんの、日輪の翼、の話に戻ります。

若き日に売春で生計を立てていた老婆達が
素朴な信仰心から、聖地の参道をホウキで掃きたい、と言う。
神さんに奉仕したいのじゃ……。
清められたいのじゃ……。
警備員さん達も無粋な事を言わずに掃除させて
上げればいいのに、と思ってしまいますが
そんな不幸な一生を送った老婆達の
ちょっと切なくなるような素朴な宗教心は
不用意な、神の国発言、などで
ヒンシュクを買ったりしている
自民党の政治家先生達より、よほど、神さん、に
近づいているのではないか、と僕は思ってしまいます。

男の生体を知り尽くしている元売春婦の老婆達は
冷凍トレーラーを運転する若者が
旅先で女あさりを繰り返しても
別に責め立てたりはしません。
そんな無軌道な若者が運転する冷凍トレーラーに乗って
老婆達は聖地巡礼を繰り返す。

♂♀生・性・聖に対する根源的な問いと
近代社会の矛盾がない交ぜになっていて
それらが、日本の神話世界とシンクロし
一つのロードムービースタイルの小説として
提出されている。
凄い小説です。日輪の翼。

文庫版後書きで、いとうせいこう、さんという方が
三島由紀夫の豊饒の海四部作との対比を述べられて
いましたが、ご説ごもっともであります。
豊饒の海、は、三島由紀夫が自決の直前に
書き上げたという曰くつきの作品で
これもまた、凄い小説です。
名作の条件は二度読める事だ、とよく言われますが
けだし名言で、豊饒の海、や、日輪の翼、は
一度読んだだけでは吸収しきれないくらい
ぎっしりと文学のエキスが詰まっていて
もう一度読んでみようかな、と思わせる力が
あります。
そして読者の内面の成長とともに
読む度に新たな発見があったりする。

究極、文学とは、この世界とは何か、人間とは何か
神とは何か、愛とは何か、死とは何か、といった
人間の形而上学的要求に、物語として答えを
与えてくれるものなのではないか、と思う事があります。

科学は、様々な事象の仕組み、は教えてくれても
その意味、は与えてくれません。
でも人類は、高度に発達した脳、や
もの思う心、が与えられているので
どうしても、その意味、を求めてしまいます。
いくら科学的知識が増えたとしても
それだけで人間の心が救われたりする事は
ないような気がします。
マッドサイエンティストという生き方は
ちょっと寂しいような気がします。

様々な科学的知識を体系的にまとめ上げ
それらを、人々の形而上学を保証する物語、として
提出できた時、最も良質な文学作品が
誕生するのではないか、と僕は思ったりするわけであります。

キリスト教的世界においては
ダンテの、神曲、や、ゲーテの、ファウスト、が
それにあたるのでしょうし
日本的世界においては
三島由紀夫の、豊饒の海、や
中上健次の、日輪の翼、がそれにあたるような気がします。

日輪の翼、に関しては、またいずれ別の角度から
書いてみたいと思います。
一本の小説について様々な角度から
いつまでも話ができる。
それも名作の条件なのでしょう。



・註、近世……歴史の時代区分の一。
   中世と近代の間の時期。
   ・日本史では後期封建制の時期の
   安土桃山・江戸時代をいう。
   ・西洋史では近代と同義に用いられる
   ことが多いが、特にそのうち
   市民革命・産業革命までの時期を
   近代と区別していう場合がある。
           (三省堂 大辞林)
 
        


-日輪の翼-
日輪の翼 (小学館文庫―中上健次選集)

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)

奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)

暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)

天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)

ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)



月に兎、太陽には烏 2003.9.X 初出

満月の夜、お月さんでは、いつもウサギさんが
餅つきをしております。
月の表面の陰影がウサギさんの餅つきに
見えるという事なのだと思いますが
なんともロマンチックな話です。
月には兎さんが住んでいるのであります。
十五夜お月さん見てくれろ。

では太陽さんには何が住んでおるのか、と
言えば、これは太陽さんにはカラスさんが
住んでおるようなのであります。
現代ではよく知られるようになった太陽黒点が
カラスが飛んでいるように見える、という事
なのだと思いますが、これまたロマンチックな
話です。
ギリシャ神話には、太陽神アポロと
その使いであるカラスの話が出てきます。
金色に輝く鳥だったカラスさんは
太陽神アポロによって真っ黒にされて
しまったそうです。
カラスさん、お可愛そうに。

月に兎、太陽には烏。

最近は陰陽師がちょっとしたブームという事
らしいですが
陰陽師、安部晴明(あべのはれあきら)は
その名も、金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)
という書物を学んでいたそうです。
金烏玉兎集、つまり、太陽に住むカラス、と
月に住むウサギ、の法則を
安部晴明は学んでいたのです。
金烏玉兎集。
手に入るなら僕は一度読んでみたい気がします。

月に兎、太陽には烏。

月のウサギさんは肉眼で確認できますが
太陽のカラスさんは、ちょっと肉眼では
確認できません。
そんな事をしたら目が壊れてしまいます。
よい子は絶対真似しないで下さい。
では太陽黒点を最初に発見したのは誰だろう、と
なると、これは定説では、ガリレオ・ガリレイと
なっているようです。
1609年、ガリレオ・ガリレイが
ガリレオ式望遠鏡で太陽黒点を発見。

当時のキリスト教世界では
神の創りたもうた天体は完璧のはずで
太陽黒点などというものがあるはずがない、と
されていたので
当然ガリレオ・ガリレイは、宗教裁判に
かけられたようです。
キリスト教世界の中世は本当に残酷です。
たぶん中世において、キリスト教の締め付けが
あまりにも厳しかった、という事もあって
近代に入ってからは、科学教と呼べるほど
科学、科学、と誰もが言うようになったのだと
僕は思います。
科学的に証明されたのだ、と言われると
現代人は、ハハア、参りました、となって
しまいますが
それは、聖書に書いてあるのだ、と言われて
ハハア、参りました、となるのと同じ構図
なのではないか、と僕は思ってしまいます。
現代は科学教の時代です。
文学などという非科学的なものに
関わろうとしている僕は
キリスト教中世の科学者のような気分です。

話が逸れてしまいましたが
ギリシャ神話や安部晴明の金烏玉兎集の例を
見る限り、ガリレオ以前から、太陽黒点の存在は
知られていたのではないか、という事を
言いたいわけです。

カラスが鳴いて、陽が昇り
カラスが鳴いて、陽が暮れますが
大昔の人が、カラスを太陽の使いと考えたのも
無理がないような気がします。
カラスが鳴くから帰ろう。

月に兎、太陽には烏。

僕はこのエッセイで何度か書いてきましたが
太陽や月、もっと言えば天体と人体の間には
やはり何かあるような気がします。
古代の人が、稲作の成果を左右する
太陽の働きに神を見たのは当然だとしても
僕が少しかじった精神病理学では
精神病患者に絵を描かせて治療を行うという
ケースで、患者の描く絵の中に太陽が出てくる
ようになると、どうも治癒が近いらしい、という
太陽体験、と呼ばれる症例が紹介されていました。
最近では、社会問題化している
所謂、ひきこもり、の症状を発している人に
毎朝太陽光を浴びせてやると外出できるよう
になる、という研究も発表されました。
お月さんに関した話でも、それこそ狼男の話では
ありませんが
満月の夜は交通事故が多い、という俗説は
よく聞きますし
女性の生理は、月の満ち欠けに関係があるのか
そのまま、月経、と書いたりします。
近代化して、自然の驚異から自由に
なったかに見える現代人も
太陽や月の力から意外と自由ではないの
ではないか、と思ってしまいます。

月に兎、太陽には烏。

日本の神話には、天照大神の直系である
神武天皇を熊野の地で勝利に導いた、という
三本足の神鳥、ヤタガラス、の話が出てきます。
伊勢の天照大神が、太陽神であると考えると
熊野のヤタガラスは、たぶん太陽黒点の
ことだろう、と容易に察する事ができる
わけですが、そう考えると
日本の神話も中々よくできているな、と
僕は感心してしまいます。

サッカー日本代表の公式エンブレムは
この、三本足のヤタガラス、ですが
これは日本サッカー協会の生みの親でもある
中村覚之助氏が和歌山県の熊野の出身だったと
いう事から来ているようです。
中村覚之助氏の生地、和歌山県の熊野地方は
日本全国に3000社以上ある熊野神社の総本山とも
いえる場所で、中世には、蟻の熊野詣で、と
呼ばれるほど日本全国から多くの人が訪れる
一大聖地だったそうです。
で、その熊野大権現の守り神が
ヤタガラス、なわけであります。
ちなみに何故かこの熊野の地は
南方熊楠、佐藤春夫、中上健次……といった
大文人を次々と生み出しますが
やはりヤタガラスのお導きなのだろうか……などと
僕は妄想してしまいます。

太陽黒点は周期的に太陽の表面を移動する事が
知られています。
サッカーワールドカップで
熊野大権現の守り神、三本足のヤタガラス、が
歴史の表舞台に登場して参りました。
日出ずる国、は、これからいったいどちらへ
向かうのでありましょう。

ヤタガラスよ、願わくば
日出ずる国を、どうか勝利にお導き下さい。




-月に兎、太陽には烏-

言葉屋詩人のりさん 2003.9.X 初出

あなたを見てインスピレーションで
言葉を書きます。

そんなコンセプトを掲げて
ストリートで詩を書き続けている
知る人ぞ知る有名人、言葉屋詩人のりさんが
今仙台に来ている。

僕は典(のり)さんとは、仙台のアーケードで
三回ほど会っている。

二年前程前、初めて典さんをアーケードで見かけた時
典さんは、寒い仙台のストリートで
小さくなって震えていた。
たぶんあれは冬だったのだ。
典さんは、地べたに自分の書いた詩を
並べて座っていた。
気の弱い僕は、典さんの前を二度三度と
行ったり来たりしてから
勇気を振りしぼって話しかけてみたのを覚えている。
ヒッチハイクの話なんかで盛り上がったけれど
お互いまだ、何かを始めたばかりの鼻たれ小僧だった。
何かをやろうとするあなたに
この詩集を買って欲しい、と
典さんに熱く勧められたのに
その日僕は典さんの詩集を
買わなかったのを覚えている。
こうして書いてみると、僕は結構ヒドイ奴だな、と
思う。

二回目に典さんをアーケードで見かけた時
僕は忙しかった事と、自分の事で頭が一杯だった事も
あって話しかけなかったのを覚えている。
正直、まだやっているな、という感じで
地べたに座って詩を書いている典さんを見ていた。
こうして書いてみると、やっぱり僕は結構
ヒドイ奴だな、と思う。

で、三回目となる今回の典さん。
アーケードを歩いていて典さんを見かけた時
僕は典さんの雰囲気が、以前と変わっているのに
気がついた。
表情が全く違っていて
凛として、とてもたくましく見えた。
初めて会った時とは、別人のようになっていた。
たぶん経験によって培われた自信なのだ、と
僕は思った。継続は力なりです。
気の弱い僕は、二年前と同じく
典さんの前を、二度三度と行ったり来たりしてから
勇気を振りしぼって話しかけてみた。

前も仙台にいらしてましたよね、と、僕。

ええ、もう仙台に来ると、お帰り、と言われんです、と
テレながら頭を掻く典さん。

そんなちょっとした仕草も、二年前とは
明らかに違う。

あなたを見てインスピレーションで言葉を書きます。

そんな大きな文字を僕は目にした。
おうよ、書いてもらおうじゃないか、と、僕は思った。

おうよ、一つ頼むよ典さん、と、僕。

おうよ、そこに座りなよ、と、典さん。

おうよ、と、地べたに広げられた座布団に座る僕。

おうよ、と、筆を手に取る典さん。

おう……よよよ。

僕は怖くなった。
僕が地べたに広げられた座布団に腰を下ろして
顔を上げたその刹那、目の前に典さんの凄まじく
鋭い眼差しがあったのだ。
その眼は、僕が知っている二年前の典さんの目では
なかった。
アーティストの真剣な眼差しで真っ直ぐに
見つめられるというのはとても怖いものなのだな、と
僕は思った。
僕は何故だかよく分からないままニヤついてしまった。
何故ニヤついてしまったのかは、よく分からない。
たぶん、男性に真っ直ぐに見つめられて
真剣にプロポーズされた時、全ての女性は
きっとこんな気持ちになるのだろう、と僕は思った。
何故だかよく分からないがニヤついてしまう。

意味なくニヤついている僕の表情から
典さんはインスピレーションを受けたのか
構えていた筆を一気に和紙の上に走らせた。

(タイトル)理史

志をたかく持ち
進み生け

理史が「良い」と感じる方へ。

それで良し、
それで良し、と
理史ほめながら。

2003.9.12  典(のり)


うーん、グレイトな詩です。
言葉屋詩人のりさんが
僕だけのために書いてくれた詩です。
古風な和紙に墨汁でしたためられた
世界に一つしかない宝物が完成しました。

感激した僕は、典さんに仙台定住を勧めてみました。
でも典さんは、放浪するのがとても好きなので
たぶん定住はしないのでしょう。
またしばらくしたら仙台を発って
どこかのストリートで詩を書くのだと思います。
そしていつかまた仙台のアーケードで見かけたら
僕は、お帰り、と声をかける。
そういう関係も悪くないような気がします。

さて、そんな言葉屋詩人のりさんとは
いかなる人物なのか。


言葉屋詩人のり、公式プロフィール

1999年道を歩く人を見て、やりたいことやってんの? と疑問を抱き、
言葉を書き始める。
この年の秋、大阪→北海道ヒッチハイクツアーを決行。
そのツアーの中で、書く楽しさを知り、2000年の春に
大阪に戻る。
その頃からお客さんを見て言葉を書き始める。
2001年春に上京、路上やライブペイントなど
渋谷を中心に活動を行う。
2002年、東京の他に仙台、長野など地方を巡り、活動範囲を広げる。
2003年、4年の年月が過ぎ、書き上げた作品の数、
およそ35000枚。
ただ今、全国を視野にいれ活動中。
自分自身のやりたい事を積極的にやっていきたいと
思い駆けていきます。


典さんは、もうしばらく仙台にいるそうなので
アーケードで典さんを見かけたら
みなさん一筆書いてもらってはいかがでしょう。
あなただけへの一言を、古風な和紙に墨汁でしたためて
くれます。



-言葉屋詩人のりさん-

卵のなかみ100回記念(6)NO FUTURE IN JAPAN!? 2003.9.X 初出

・NO FUTURE IN JAPAN!?

というわけでなんとか
人類史上最大の乱気流であるとか
明治維新や戦後よりも大きな変化であるとか呼ばれているものの概要が、
僕なりにつかめたような気がします。

人類史上最大の乱気流
明治維新や戦後よりも大きな変化

僕は個人的には明治維新はもっと激しい変化
だったのではないか、と思ってしまいますが
現在は、国外の大きな変化と
国内の大きな変化が重なっている、という点では、
やはり、明治維新や戦後よりも大きな変化、と
言っていいのかもしれません。

そもそも国民国家という概念も怪しく
なってきていて
アフガン戦争やイラク戦争で
アメリカ政府はひどいな、と思っても
現代では身近にアメリカ人がいたり
友達がアメリカに住んでいたりして
単純に、鬼畜米英、とはなれなかったりします。
中国政府はひどいな、と思っても
餃子屋さんで中国人と隣り合わせたり
バイト先に中国人がいたりして
結構いいやつだったりします。

個人という概念が育ってきているし
人の交流も盛んになって、情報も増えてきているので
国家、組織、集団、地域、で
単純にその人をステレオタイプ化して
憎んだり愛したりする事ができなくなってきて
います。

それは大変よい変化かな、と僕は思ってしまいます。
近代国家アメリカを憎んでも、アメリカ人を
憎むわけではない。
近代国家中国を憎んでも、中国人を
憎むわけではない。
国家と個人はイコールではない、というのは
考えてみれば当たり前ですが
偏狭なナショナリズムが幅を利かせるように
なると、どうしても人間はその辺の判断が
つかなくなってしまう、それが20世紀の
二つの大戦中の悲劇だったのかもしれません。

僕は近代国家は必要悪だと思います。
悪だけどないと困るもの。
だって僕たちは、今さら竪穴式住居には住めないのだから。

で、その豊かな近代社会を建設するために
作られた、国民国家、という概念が
現在揺らいでいるわけです。
一応確認しておきますと
近代国家というのは、近代化するために
作られたものであって、自明のものではないわけです。
社会を近代化させるためには、均質な文化を持った
画一的で生産性の高い集団と、強力な中央集権制度が必要になるわけですが
そういった歴史が始まったのは、たかだかここ300年くらいです。
日本は島国のためか、明治の近代化以前から
ずっと、日本、としてのまとまりを持っていたので
その辺の感覚が分かりずらいところですが
世界では、ここ300年で作られた国民国家がたくさんあるわけです。
で、その国民国家という概念が現在揺らいでいる。

明治の近代化以来、中央集権の流れの中で作られてきた
普通の日本人像、が最近見えなくなってきています。
普通こうだよね、と言っても
何が普通だか分からなくなってしまったし
普通の日本人、と言ってもどういう人だか
分からなくなってしまいました。
価値観の多様化、と呼ばれるものの正体は
明治以来の画一的中央集権化の流れの終焉なのではないかと思ってしまいます。

それに加えてグローバル化という
問題も絡んできています。
20年後30年後には明らかに、父がアメリカ人で
母が日本人です、とか、父が日本人で
母が中国人です、という人も
かなり増えてくると思います。
今までの、日本の常識、は
そういう人達をマイノリティーとして
排除してきていましたが
これからはそうはいかなくなるでしょう。

そういった状況をさして、世界が中世化している、という人もいます。
もしかしたら、
NO FUTURE IN JAPAN!? という
問いの立て方自体が成り立たなくなっていくのかも
しれません。

もう中央政府が発する号令に従って
普通こうだよね、とやっていれば
すべて安泰という時代ではなくなってきています。
実際今回の自民党総裁選では
亀井静香氏が、道州制移行、を掲げています。

いったいこれからどうなってしまうのだろう。

そういった混乱の時代にあって
一番必要になるのは、コモンセンス、では
ないかと僕は思います。
人や情報の交流が盛んになり
今まで、日本の常識、とされていたものが
あらゆる場面で見直しを迫られていて
何が正しくて、何が間違っているのか
分からなくなっている今だからこそ
コモンセンス、が必要なのでは
ないかと思ってしまうわけです。

国家、集団、組織、人種、地域を越えて
それこそ人間であるならば当然の普遍的
常識、良識、コモンセンス。
永遠に変わらない価値、自然法。

で、僕は文学において
その、普遍、を探っているわけであります。


卵のなかみ、これからも宜しくお願いいたします。



-卵のなかみ100回記念(完)-

卵のなかみ100回記念(5)日本経済 2003.9.X 初出

・日本経済

日本経済をマクロで見た場合
ほとんどいい事がなかったりします。
銀行は相変わらず不良債権を抱えているし
雇用を生み出すような新産業が起ち上がったという
話も聞きません。
銀行に預金を預けても金利は、0。
それなのに預けたお金を引き落とす度に
手数料を取られるのだから
いっそタンス預金の方がいいのでは
なんて人も増えてきました。
中小企業が融資の申し込みをしても
銀行が融資をしてくれないという所謂、貸し渋り問題、も
相変わらずのようです。

経済の根幹を成すはずの銀行がまったく
機能していなくて
日本経済を人体に例えれば、心臓が弱まっているので
血の巡りが悪くなってしまっている、という危機的状態です。
銀行の頭取さん達は、時価会計基準の導入に根を上げて
ゲームの途中でルールが変わるスポーツだ、と嘆いてばかり。

で、頼みのIT革命は、となると
これは今のところ中間業者抜き
中間管理職抜きの、いわゆる、中抜き、の
役割しか果たしていなくて
むしろデフレ要因になっていたりする。
現在日本経済をマクロで見ると
全くいいところなしです。

ではミクロではどうか、と目を向けてみると
IT技術で徹底した中抜きを行って
営業マンまで廃止し、オンライン取引に特化して
証券業界で一人勝ちしている松井証券が
目につきます。
松井証券の松井道夫社長は、業界のエイリアン、と
呼ばれているそうです。エイリアン、宇宙人です。
宇宙人、松井道夫社長によれば
現在マーケットにおいて
天動説から地動説への変化が
起きているのだとの事です。
つまりコペルニクス的変換が起きている、と。

かつては企業の都合で商品を作って
それを消費者に売るという、いわゆる企業による
顧客の囲い込みが常識でした。
それを天動説とすれば
これからは消費者の都合で企業が選ばれるという
地動説の時代になるのだ、との事。
これは価値観の大転換で、まさに全てがひっくり
返ってしまうコペルニクス的転換です。

振り返ってみると確かに
僕の子供のころは、企業によって
今、これが流行ですよ、と囲い込まれて
買わされていた、という感じがします。
TVCMで大々的にあおられると
日本人はみんな一緒、という1940年体制的ノリも
あったので、その商品を持ってないと
仲間外れになってしまう、という恐怖もありました。
インターネットもフリマもなかったので
値段も企業が自由に上下できていました。
まさに企業による顧客の囲い込み、状態でした。

で、松井道夫社長がコペルニクス的転換が
起きたとする2003年現在の状況を見てみると
日本人はみんな一緒、の時代が終わって
個人の時代、価値観の多様化の時代に
なってきているので
TVCMその他でいくら、流行ってますよ、と煽られても、
買わなきゃ、という脅迫観念まではもう作れないような気がします。
そもそもプロ野球の巨人戦の枠にTVCMを打っても
月曜9時のドラマ枠にTVCMを打っても
スカパーしか観ない、とか
セリエAしか観ない、という人が増えてしまったので
囲い込もうにも囲い込めなかったりします。
それに加えてインターネットその他で
消費者も情報的に武装できるようになったので
企業の都合で価格を上下する事も難しくなって
きています。
もうマス・マーケティングは成立しないという事かもしれません。
メガヒット、という現象も、90年代で最後になるでしょう。
まさにコペルニクス的転換。
天動説から地動説へ。

98~2002年を境にして、あらゆる分野で
ベクトルが逆に動き始めたという僕の
仮説は、結構妥当性があるような気がしてきました。
ちなみにこの時期、太陽系では占星学的に言って
魚座から水瓶座への移行が起きていますが
やはり関係があるのかな……などと
乙女チックな僕は妄想してしまいます。

現在日本経済をマクロで観ると
ほとんどいいところがありませんが
ミクロレベルでは、次の時代の可能性を感じさせる
動きが出てきているようです。

今、元気なのは、かつてエイリアンとか変人と
呼ばれていた人ばかりのような気がします。
小泉首相も、永田町の変人、でした。
変人、変わり者、エイリアン、宇宙人、万歳!

宇宙人の逆襲、が始まっているのかもしれません。
唯一それが明るい話題のような気がします。


参考 


数字は嘘をつかないが嘘つきが数字をつくる 失業率と実失業率
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_8931.html
数字は嘘をつかないが嘘つきが数字をつくる 視聴率と実視聴率
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_496.html
ベクトル
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037_9198.html






-卵のなかみ100回記念(6)NO FUTURE IN JAPAN!?へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100620039.html

卵のなかみ100回記念(4)日本では何が起きているか 2003.9.X 初出

・日本では何が起きているか

日本では何が起きているか、これは
卵のなかみ、の第一回でも書きましたように
ある意味、卵のなかみ、の出発点でも
あるわけですが、現在日本では
日本人みんなが何かに向かう、戦争へ
或いは経済戦争へ、といった1940年体制が
終わろうとしています。

結果の平等、所得再配分機能が上手く
機能していたという事情にもよるのでしょうが
1940年体制のもとの日本社会では
戦前から長らく、みんな一緒だよね
出る杭は打ちましょうね
人並みが一番だよね、という文化状況でした。
集団のルールに従って群れて生きるのが
善しとされていて
集団から抜け出して個人主義で生きようとする人は、
自分勝手な奴、エゴイスティックな奴
我の強い奴、という事で嫌われていました。
簡単に言うと、世間様が一番です、という社会でした。
日本社会が嫌いな人は、それを、日本村、などと呼んで
いました。
その1940年体制が終わろうとしている。
これは大変な事だと僕は思います。

みんなと一緒に個人を抑圧して生きていくのが
美徳だった社会で、ほとんどの人が精神を形成して
きたわけです。
1940年体制と呼ばれるくらいだから
もう60年以上日本は集団主義で
やってきているわけです。
当然、家庭でも学校でも職場でも
1940年体制の考え方に染まっているわけです。
それが終わろうとしているのは
大変な事だと僕は思ってしまうわけです。

で、現在小泉政権が進めている、構造改革、と
いうのは、その1940年体制の考え方の下で
形成されてきた社会構造を壊してしまいましょう、と
いうものです。
構造改革が達成されれば、また日本人みんなが一緒に
豊かになれるのだ、という形で報道される事が
ありますが、実際はそうではなくて
構造改革によって、日本人はみんな一緒、では
なくなって、個人として各自が自立して生きていく事を
求められるようになってしまうわけです。
自立、とか、自己責任、という言葉が溢れるように
なってきたのもそのためで
要は、集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会になる、という事です。

精神的に経済的に自立している人、
自己責任で生きている人、というのは
かつての1940年体制の下では
みんなと一緒になろうとしない
ツンとしたイヤみな奴、という事で
嫌われていました。
それが最近では、自立できている人、
自己責任で生きている人、というのは
褒め言葉に近くなってしまいました。
これは大変な事です。
価値観が180度変わってしまった。
そういった価値観の変化が、家庭や学校や職場で
多くの人に大変なストレスを与えているような気がして
僕は憂鬱になってしまうわけです。

夏目漱石という作家が、明治時代に一人ヨーロッパへ
留学した時、みんなが個人主義で生きるヨーロッパの
近代都市にあって、大変なカルチャーショックを受け
たそうです。
そして苦しみもがいた末に、
私の個人主義、という名著を残しました。
それを読むと、農耕民である日本人が
個人主義で生きていくというのは
いかに大変なことなのか、よく分かります。
夏目漱石は、私の個人主義、という本の中で
個人主義とは、エゴイストになる事、とか
個人主義とは、自分勝手に生きる事、などと書いて
相当もがいています。
三島由紀夫が書き切ったように純粋なる日本精神とは、
大いなる大義のために腹を切る事、です。
つまり日本人は、大いなる大義のために頑張るのは得意でも、
個人として自分のために頑張るのはひどく苦手な民族であると言えるわけです。
その高潔な民族に対して、今、個人として自分のために
頑張るようになる事、が求められているわけです。
これは大変な事です。
日本のために、自分勝手に個人主義で生きる、というのは文章として
破綻していますが、僕はその路線で
行くしか抜け道はないような気がします。
日本のために、自分勝手に個人主義で生きる。

そういった近代社会における個人として
精神的に経済的に自立するために
苦しみもがいていく、というプロセスは
1940年体制の下では、特別な職業につく人以外は
必要ありませんでした。
社会の敷いたレール、という言葉は
既に死語に近くなってきていますが
それこそレールに乗ってみんなと一緒にしていれば
ほとんどの人は一生安泰だったわけです。
個人的に何かやろう、などと考えずに
社会が提唱するレールに乗って人並みに生きていれば
一生安泰を保証しますよ、という暗黙のルールが
厳然とあって、その暗黙のルールを破って
個人的に何かやろう、とする人は
ドロップアウト、とか、不良、とか、変わり者、と
呼ばれていたわけです。
今、新しいビジネスを起ち上げる若い人達が
テレビで取り上げられて褒められる事がありますが
そういう人達は社会のレールが機能していた頃は
ドロップアウトした、変わり者、でした。
もしくは、不良。
価値観が180度変わってしまったわけです。

2003年現在、もう社会が敷いたレールは
官公庁以外どこにも見当たりません。
いい大学、いい企業、出世コースというのも
復活しないようです。
旧来的意味での安定を求める人は
公務員になるしかないわけですが
全ての人が公務員になれるわけではありません。
その事が意味するのは
ほとんどの人が、自分は何をしたいのか
何が好きか、どんな能力があるのか
その能力は今も通用するのか、と
考えながら生きなければならなくなってしまった、と
いう事だと思います。
しつこいようですが
そういった作業は、かつては特別な職業の人や
ドロップアウト組や、変わり者や、不良にしか
必要なかったのです。

構造改革によってもたらされる
そういった精神面での痛みが
家庭や学校や職場で、これからも
悲劇的な事件となって噴出してくるだろう事を
考えると、僕はとても憂鬱になります。



参考 


卵党総裁演説(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037.html
ADSL開通パーティーで大恥をかいた僕は
寄らば大樹の陰の時代は完全に終わったと思 った
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2003.html
これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(1)~(2)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038.html








-卵のなかみ100回記念(5)日本経済へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100520039.html

卵のなかみ100回記念(3)世界では何が起きているか 2003.9.X 初出

・世界では何が起きているか

1991年のソビエト連邦の崩壊によって
資本主義VS共産主義の対立、いわゆる、冷戦、が
終了してから10年が経ちました。
日本のバブル崩壊が1991年で、その後の10年間を
失われた10年と呼んだりしますが
要は日本はバブル経済の余韻に浸っている間に
冷戦後の世界の変化から取り残されてしまったわけです。

で、冷戦後の世界はどちらに向かうのか、というのも
だんだんと見えるようになってきていて
一つは、自由と民主主義という価値を
市場経済を通してグローバルに普遍化していく事で
歴史の終焉、がもたらされるという、
歴史の終焉ライン。
もう一つは、冷戦の圧力から解放された各民族が
エスノセントリック(自民族中心主義)を
発揮して、文明の衝突、へ至るという、
文明の衝突ラインです。
世界は、歴史の終焉、に向かうのか
文明の衝突、へ向かうのか、というのが
現在の世界の状況です。

そして日本は、冷戦が終了したにもかかわらず
アメリカについていく事にしました。
つまり自由と民主主義という価値を
市場経済を通してグローバルに普遍化していく
歴史の終焉ラインを選択したわけです。

でも実際には世界は、文明の衝突、に
向かっている部分もあって、
ヨーロッパは文明的同一性の下、過去の対立を
超えてユーロ圏を築いてしまいましたし
アジアでは中国が中華圏構想を練り始めています。
中東やアラブ諸国では、イスラム教の下でのまとまりが
できつつあります。

そういった状況の中で日本政府は
アメリカ政府の国連決議を無視したイラク攻撃に対して
賛成してしまいました。
つまり日本政府は、文明の衝突ラインで考えれば
既にイスラム圏を敵に回してしまった事になります。
歴史の終焉ラインで考えてみても
自由と民主主義を市場経済を通じて
グローバルに展開していくはずのアメリカ政府が
国連という一応は民主的な機関の決議を
無視して他国へ武力攻撃を加えるというのは
大変な自己矛盾です。

そしてそういう覇権国アメリカの姿を、
世界は見ています。
世界は、文明の衝突、へ向かうかもしれません。


参考

グローバルリテラシー Thinkglobally ,Write locally
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/think-globallywrite-locally20037.html








-卵のなかみ100回記念(4)
 日本では何が起きているかに続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100420039.html

卵のなかみ100回記念(2)宇宙では何が起きているか 2003.9.X 初出

・宇宙では何が起きているか

これは現在のところ地球は一定の周期で自転しながら
太陽の周りを公転しているようなので
問題はないようです。
地球に遠心力が加わって地殻がずれ始めたという話も
聞きませんから
太陽暦の一日が45時間になってしまうのではないか、
という心配は要らないわけです。

最も衝突の可能性が高いとされる隕石でも
地球の軌道と重なるものは
0.00…1パーセントとかの確立のようです。
つまり隕石衝突の可能性も
ほとんどないと言っていい状態です。

フロンガスで壊されたオゾン層は
NASAの報告によると
少し回復の兆しが見えてきたようです。
日本の人工衛星が捉えたところでは
いやいやオゾン層の破壊は広がっている、という
ことらしいですが
たぶん太陽系及び地球は、当分大丈夫のように
思います。

昔中国で天が落ちてくると心配して
大騒ぎした杞という国の人物にちなんで
いらぬ心配をする事を杞憂と言ったりしますが
現在太陽系や地球の事を心配するのは
杞憂なのかもしれません。


参考

文系人間による数学講座(1)~(5)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/1-20037.html
石の話
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/07/20037.html
怪獣考
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037_5418.html
阿吽の呼吸
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20038_1382.html
白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/08/20038_1.html
水の話(1)~(5)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038_1467.html
奇跡とは、独座大雄峰
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/200391.html







-卵のなかみ100回記念(3)
世界では何が起きているかに続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100320039.html

卵のなかみ100回記念(1)NO FUTURE I N JAPAN!? 2003.9.X 初出

・NO FUTURE I N JAPAN!?

卵のなかみ、も早いもので100回を超えました。
どういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
ひょんな事から、卵のなかみ、を始めることに
なったわけですが
本当にこのエッセイを書き始めてよかったな、と
思っています。
毎回分野問わず自由に書かせてもらったおかげで
自分の小説のテーマも
今この国で起こり始めている変化の概要も
だんだんと見えるようになってきました。

僕がなんとか現代の状況を把握しようとして
書いているこのエッセイの中から
読んでくれるみなさんが一箇所か二箇所でも
あ、そうかもしれないな、という部分を
拾って生活に役立ててもらえたら最高に
嬉しいな、と思います。

で、100本書いてきてみたものを
パラパラと振り返ってみると
ずいぶんネガティブな話題が多いな、ということに
気がつきました。
やはり現代は暗い時代なのだな、と自分で
書いておきながら実感してしまいます。
それって結構大切で、日本が人類史上稀にみる
好景気に湧いていた1980年代の小説なり
エッセイなりに目を通してみると
たいてい異様に明るくて驚いてしまいます。
悩みと言えば恋愛の悩みくらいです。
あまりに景気が良過ぎて
貧乏に憧れる人まで出てきたのか
オレ達ひょうきん族という番組では
Mr.オクレというタレントさんが
涙の貧乏、というネタをやってウケたりしていましたし
一杯のかけそば、という絵本が売れたりも
しました。
現代は貧乏ネタをやろうとしても
明日はわが身、という不安を多くの人が抱えて
いるので、ちょっと笑えないような気がします。
何を言いたいのかというと
あらゆる表現は、その時代の政治経済状況から
自由ではないという事です。
世界の文学の年表を見てみても、その下にたいてい
世界史に残る政治経済事件のトピックスがついて
います。

現代はやはり暗いし
犯罪の凶悪化などを見ていると、
むしろ、ヤバい、という表現の方が適切ではないか、と思ってしまいます。
敗戦後の混乱を知る人に話を聞いてみても
今ほど殺伐とはしていなかったそうです。
現代はそれくらい、ヤバい。
今の時代何の根拠もなく異様に明るい人を見ると
逆に大丈夫かな、と思ってしまいます。

でもこんな時代に生まれてきてしまったのだから
仕方がないし、なんとか突破口を探さなくては
いけないわけです。

で、そのものずばり、卵のなかみ100回を記念して
NO FUTURE IN JAPAN!?
というタイトルを掲げてみたわけです。
実に相当ヤバい時代状況ですが
本当に日本に未来はないのだろうか、と。
僕は卵のなかみを100本書いてきて
それを探ってきたような気がしますが
今日はそれをある程度体系的にまとめて
みたいと思います。



-卵のなかみ100回記念(2)
宇宙では何が起きているかに続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100220039.html

文明の衝突!?(3)21世紀日本の戦略 2003.9.X 初出

というわけで現在世界は、文明の衝突、状態にあるわけです。
もう資本主義と共産主義の対立という時代は過去のものになってしまい、
少なくとも21世紀前半は文明の衝突になるだろう、という事であります。

そういった中、ヨーロッパはさすがにしたたかで
既にユーロ圏という文明圏と経済圏が
一致したブロックを築いてしまいました。
冷戦後、国連を無視した一国主義的傾向を
強めるアメリカに対しても対抗できる
スタイルを既にヨーロッパは築いてしまった。
実にしたたか、さすが欧州といった感じがします。
今回のイラク戦争に対しても、ユーロ圏の
フランスやドイツは、アメリカ政府に対して
ガンガン文句を言っていましたが、ユーロ圏を既に形成している、という
自信の裏づけがあっての事でしょう。
たいしたものだと思います。欧州。

ユーロ圏を見ていて実に、文明の衝突だな、と
思わせられるのは、ユーロ圏にトルコが加盟できなかった、という事です。
トルコがヨーロッパに位置しながらも
ユーロ圏に加盟できなかったのは
イスラム系の国家だからだ、という話です。
まさに文明の衝突。

では文明の衝突状態の中で、日本は21世紀どうやって
サバイバルを計っていけばよいのでしょう。
日本がユーロ圏のようなスタイルを
作ろうとした場合、ある程度モンゴロイドとしての共通性を
持つアジアと組むしかないような気がします。
ある程度のマーケットを確保できる
経済圏を作っておかなければ早晩
現在の経済規模を維持できなくなるのは
目に見えているわけですから。
そう考えるとバブルの勢いがあった頃に
日本主導でアジア経済圏を作っていれば
今頃ユーロ圏のように、一国主義的傾向を強める
アメリカ政府の横暴に対してNOと言える位置にいたのにな、と
思ってしまいます。
政策担当者はいったい何をしていたのだろう、と
思ってしまいますが、国防を米軍に一方的に依存している限り、
日本独自の戦略、というのは中々立てられないというのが現実なのでしょう。
新宮沢構想と言われるアジア通貨構想はアメリカ政府に潰されたようです。
反米、反グローバル化、反西欧の熱い発言で知られる
マレーシアのマハティール首相の東アジア通貨基金構想も
潰されてしまったようです。なんたる事だ。

今からアジア経済圏を作ろうとしたらきっと
ここ10年で急速に力をつけてきた
中国がイニシアティブをとる事になるのでしょう。
ちょっと前まで世界一の繁栄状態にあった国に住む
僕としては、ちょっと面白くない事実ですが
アジア圏は中華圏になってしまうかもしれません。
というか既になってきていますね。なんたる事だ。

そこで石原慎太郎さんの
大東亜共円圏構想となるのでしょうが
いくらなんでも、大東亜共円圏、は
ないのではないだろうか。
マッチョな石原さんらしくて
僕は面白い発想だとは思いますが
小泉首相が靖国神社に参拝する度に
中国政府や韓国政府が猛抗議してくる現在の状況で
大東亜共円圏、にどれだけ現実味が
あるのだろう、と思ってしまいます。

と、ズラズラと書いてきましたが
21世紀のスタートにおいて
日本は決定的に出遅れてしまったのかもしれません。
冷戦が終わり、国際政治の舞台は
歴史の終焉、ではなく、文明の衝突、へと
向かっていて
ヨーロッパはちゃっかりユーロ圏を築き
アジアでは急速に力をつけ始めた中国が
中華圏構想を練り始めている。
そういった中、冷戦に勝って一時は
一人勝ちしていたように見えたアメリカ政府の
イラク征伐に賛成してついて行くのは
ユーロ圏に距離を置いている
ヨーロッパの島国イギリスと
アジア圏に距離を置いている
アジアの島国日本。
僕は何か決定的な判断ミスがあったような
気がする。

文明の衝突の著者サミュエル・ハンチントン教授の
分類によれば
日本はアジア文明に属するのではなく
日本は日本文明という一つの文明圏であるとの事。
その点に関してはハンチントン氏の
炯眼かもしれません。
日本は、日本文明という一つの独立した文明圏。
僕もそんな気がします。

もう米軍に帰ってもらって
300年くらい鎖国するしか残された道はないのかもしれません。




-文明の衝突!?(完)-
文明の衝突


文明の衝突!?(2)国際政治とは汚きもの 2003.9.X 初出

そもそもサミュエル・ハンチントン教授の
予想が当たったというよりも、
アメリカ政府のネオコンと呼ばれる人達が
ハンチントン教授の、文明の衝突、を
政策として採用したのではないか、という
うがった見方もあります。
ハンチントン教授は、文明の衝突、の続編である
引き裂かれる世界、という本の中で
その疑惑を否定していますが、僕はハンチントン教授を
信じたいと思います。彼は単に学者として冷戦後の世界を
予測してみただけなのだろう、と。

よく知られるように、アメリカ経済は
軍産複合体という困った構造を抱えていて
戦争をすると兵器工場のある町が潤ってしまうという
業深いシステムで成り立っているわけです。
で、冷戦後の世界的軍縮の流れの中で
兵器の受注が減ってしまいそうだ、こりゃやべえ、と思った
兵器工場の利益代表者達(日本で言えば族議員)が
ハンチントンの理論を元に、ソビエトに替わる大きな敵として
イスラム圏を選んだのだ、といううがった見方が出てきてしまうわけです。

戦争をすると潤ってしまうという
業深い軍産複合体という経済構造。
それこそ、痛みを伴う構造改革、でも行って
さっさと解体してしまうべきではないか、などと
ウブで純真で平和主義者でもある僕などは
思ってしまいますが
そうはいかないというのが
大人の国際政治の世界なのでしょう。
汚い大人達め!

911テロはなんとか、文明の衝突、状態に持っていきたいネオコン勢力が、
テロ情報を事前に察知しながらも無視したために引き起こされたのだ、という
見方も出ているようです。
ネオコンと呼ばれる人達は
なんと汚いやつらなのだ、とウブで純真で
平和主義者でもある僕などは思ってしまいますが
そういう話は昔からあって
太平洋戦争開戦前夜、アメリカのルーズベルト大統領は
日本軍の真珠湾攻撃の情報を事前に把握していながら
黄色いサルどもが奇襲をしかけてきた、という大義名分をゲットして
世論を燃え上がらせるためにわざと真珠湾を打たせた、そうです。
なんとアメリカ政府は汚いやつらなのだ! と
ウブで純真で平和主義者でもある僕などは
思ってしまいますが
お互いの国益をかけた国際政治の舞台で
きれいも汚いもないというのが大人の国際政治の
世界の現実なのでしょう。汚い大人達め。
その辺は近代政治学の古典とも言えるマキャベリの、君主論、という本を
読むとよく分かります。
君主論お勧めです。これは文学作品でもあります。

アメリカ政府の悪口ばかりを並べてもフェアではないので
日本政府の例も上げておきます。
明治政府内で征韓論(韓国を征する)が盛んな頃
維新の英雄西郷隆盛が、自分が最初に韓国に
乗り込んで行って殺されてくる、と政府内で訴えた
というエピソードが残っています。
つまり、西郷が切られた、ということになれば
韓国に軍を出す口実ができるだろう、というわけです。
自分が最初に乗り込んで行って殺されてきてやる、という
西郷隆盛の度胸はすごいものですが、
要は近代国家が戦争を行う際に掲げる、大義名分、なるものは、
ほとんどの場合、作られた、ものである可能性が高いという事を
僕は言いたいわけです。
先日もイラク攻撃の正当性を保証するレポートに
関わったイギリス人科学者が、不審死、を遂げた
というニュースがありましたが、たぶん、消された、のでしょう。
アナカシコ、アナカシコ……。

と、ズラズラと書いてきましたが
要は国際政治の世界は、奇麗事だけでは
済まないのだな、という事を僕は今回確認して
みたかったわけです。
ウブで純真で平和主義者でもある僕などは
とても入り込めない世界なのだな、と。

蛇足となりますが
僕は一応日本人という事なので
日本人としてのエスノセントリック(自民族中心主義)的要求を
存分に発揮して維新の英雄、西郷隆盛、に
ついてちょっと書かせてもらいます。
既に見てきたように国際政治が汚きものであることは
これはもう仕方がない。
ただ西郷隆盛とルーズベルト大統領やブッシュ大統領が
決定的に異なるところは、自らがかの地で殺される事で
開戦の口実をつくってやろう、というところだと思います。
ルーズベルト大統領もブッシュ大統領も国益のために
名もなき若い兵士達を見殺しにすることはできても、
自らが最初に死んでやろう、という芸当はできないはずです。
僕はそこに西郷隆盛のリーダーとしての偉大さを見てしまうわけです。
誰が言ったか忘れましたが、リーダーの条件とは
闘いの際、先頭に立つこと。
西郷隆盛は最後は部下が起こした勝てるはずもない西南戦争で、
賊軍の汚名を被ったまま死んでしまいました。
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に
困るもの也、この始末に困る人ならでは、
艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬぞ(西郷南州遺訓)

国際政治は汚きもの。
でもその中にあっても微かな人徳を残してみせるのが
日本流、なのかもしれません。



-文明の衝突!?(3)21世紀日本の戦略-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/09/32120039.html

文明の衝突!?(1)冷戦後の国際政治の行末 2003.9.X 初出

98~2002年、つまり世紀の変わり目頃
ハーヴァード大学の国際政治学教授
サミュエル・ハンチントンが書いた
文明の衝突、という本がよく売れていました。
これは東西冷戦終了後の世界は
世界各地の文明が衝突するようになるだろう、と
予測した本です。
冷戦後の世界を予測する上で大変重要な本だと
いう触れ込みで、学術系の本としては
当時信じられない規模のベストセラーとなりました。

そう、世紀の変わり目のベストセラー。
あれは確か2000年の夏でした。
当時まだ若く、少年のように好奇心旺盛だった僕は
よせばいいのに、文明の衝突、を
仙台駅前のJUNK堂書店で購入してしまった事を
覚えています。
世界を動かす知性が集うハーヴァード大学の教授が
書いた本を読んでみたい。若さゆえです。
とても青臭い。青い春、それが青春。

で、買ってしまったからには、と気合を入れて読んでみると、
そんなに難しいことは書いていなくて
ハーヴァード大学国際政治学教授、という重々しい
肩書きに騙されてはいけないのだな、と
若き僕は学んだものでした。

文明の衝突、という本が当時どうしてそんなに
売れたのだろう、と考えてみると
98~2002年の世紀の変わり目において
世界は明日を占うことができない状態で
みんなポーッとしている状態だった、という事情が
あったのだと思います。
明日を占うことができない時、人々が
正確な情報を欲しがるのは自然の流れです。

98~2002年。あの頃の雰囲気を僕は
まだよく覚えています。
歴史の大枠では、20世紀後半を通して激しく行われた
資本主義陣営と共産主義陣営の闘い、
もっと言えばアメリカ合衆国とソビエト連邦の闘いが
ソビエト連邦の崩壊、という形で幕となってから10年が経ち、
世界は資本主義体制の完全な勝利の下
市場を通した世界市民形成へと向かっていくの
だろうか、という時期でした。
アメリカ合衆国のクリントン政権が進める
経済のグローバル化は実際そういった流れに
向かっているように思えたし、僕にもそう見えた。
TVではアメリカやヨーロッパで活躍する日本人の姿が
紹介され始め、感度のいい人達はみんな、何かが変わり始めているな、と
期待と不安に胸を高鳴らせていた。
サミュエル・ハンチントン教授が、文明の衝突、を発表する少し前に、
フランシス・フクヤマという人が
歴史の終焉、という論文を発表して話題になっていましたが、
それはクリントンラインの本だったように思います。
文字通り、歴史の終焉。つまりソビエト連邦の崩壊で
人類のイデオロギー対立の歴史は終焉し、
後は民主主義と市場経済がグローバルに
展開し世界市民形成へ向かっていくだろう、というもの。

冷戦後の世界は、サミュエル・ハンチントンの、文明の衝突、か、
フランシス・フクヤマの、歴史の終焉、か、
僕が青春真っ盛りの、20世紀から21世紀への世紀の変わり目は、
ずばり、そんな雰囲気でした。

で、2003年現在の状況を見ると
ハンチントン教授の、文明の衝突、が
結果として正しかったという事になりそうです。
アメリカのブッシュ大統領は、イスラム世界に対して
聖書にもとずいた聖戦を謳っていますし
イスラム世界は逆にアメリカ、イギリスに対して
これまた聖戦(ジハード)を謳い上げています。
まるでキリスト教十字軍遠征の時代に戻ってしまった感があります。
まさに文明の衝突。
しかも兵器の性能は十字軍の時代より何万倍も
上がっているのだから目をあてられません。
これは、文明の衝突、でも、歴史の終焉、でもなく
実は、人類の終焉、なのではないか、などと
心配性の僕などは思ってしまいます。まさにハルマゲドン!!

ちなみに予想があたったハンチントンさんは
現在鼻高々のようです。
対して予想が外れたフランシス・フクヤマさんは
ブーたれているご様子。学者先生も所詮人間です。

で、簡単に言うと、現在国際政治の世界では、
文明の衝突、が起きているわけです。
自由と民主主義を市場経済を通してグローバルに
普遍化していくというラインの限界が見えてきてしまったわけです。
世界はなんだかんだ言って、文明の衝突、なのだ、と。

クリントンが握手させたイスラエルとパレスチナでは
またドンパチが始まってしまったようですし
韓国では、アメリカよりも北朝鮮の方が好きだ、
という人が増えているらしい、なんて話もあります。
日本国内でも、日本人はもっとニッポンを知ろう、
みたいなソフトなものも含めて、日本民族万歳的な言論が増えてきました。
実は僕も例外ではなくて、ここ2.3年、日本文化というものを
真面目に考え直すようになってきています。
そういったムーブメントは、20世紀後半を通じて
ずっとあった、東西冷戦、という大きな緊張状態から
解放された、という事とやはり関係があるのだと思います。

東西冷戦下では、みんな怖くて仕方ないので
とりあえずソビエト連邦かアメリカ合衆国に
守ってもらうしかなかったわけですが
その必要性がなくなってしまったために
自分達の民族性に目覚めてきた、という事なのでしょう。
本来世界中のどの民族も
エスノセントリック(自民族中心主義)的である、と言われています。
どんな民族でも、自分達の文化文明に
微かな誇りを持っているわけです。
そう考えると冷戦終結後、世界が、文明の衝突、に向かっているのは、
ある種必然なのかもしれません。

例えは適切ではないかもしれませんが
東西冷戦というのは、町の東西で
大きなヤ○ザ組織二つが睨み合っている事で
とりあえずの治安が守られていた、という状況だったと
言えるのかもしれません。
それは本当の平和ではなかった、と。



-文明の衝突!?(2)国際政治とは汚きものへ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220039.html

奇跡とは、独座大雄峰 2003.9.1 初出

ある修行僧が百丈禅師に尋ねた。
如何なるか、これ奇特のこと。
白丈禅師答えて曰く、独座大雄峰。
その答えを聞いた修行僧は、ひれ伏して百丈禅師を
拝んだ。
すると、百丈禅師はひれ伏した僧を棒で打った。

これは碧巌録(へきがんろく)という仏教書の第二十六則に出てくる、
独座大雄峰、という話です。
ドクザダイユウホウ。
いわゆる禅問答というやつで
禅問答は中々人を食ったようなところがあって僕は好きです。
ひれ伏して拝んでいる修行僧を百丈禅師が棒で打った、というところが
中々人を食っています。

どうして自分を拝んでいる修行僧を
百丈禅師は棒で打ったのでしょう。
修行僧は百丈禅師に、如何なるか、これ奇特のこと、と
尋ねたわけです。
つまり、禅をやったら何か不思議な霊験、ご利益はあるか、と
聞いてみたわけです。
それに対して百丈禅師は、独座大雄峰、と答える。
私が今独り、こうして大雄峰という場所に座っている、と。
大雄峰はちょっと偉そうに聞こえてしまいますが
北仙台とか一番町と一緒で、大雄峰は単なる地名です。
つまり、私が独りここにこうして座っている、という事が奇跡であり奇特であり、
有り難いことである、と百丈禅師は修行僧に答えたわけです。
私がこうしてここに座っているということの
素晴らしさ、それを発見することが禅によって得られる奇特、奇跡である、と。
修行僧のお前がそこに座っているのも有り難い奇跡なのだ、と。
なのに修行僧は言葉の意味が分からずひれ伏して百丈禅師を拝んでいる。
修業僧は自分より百丈禅師を偉いと思っている。
それで百丈禅師はその修業僧を棒で打った、のだと思います。
禅問答は非常に深い。

如何なるか、これ奇特のこと。
独座大雄峰。

奇跡というものは
手を触れずにスプーンが曲げられるとか
ヨーガのポーズを決めたまま10メートル飛べるようになる、という事ではなくて、
私がここにこうして独り座っていること、
あなたがそこに独り座っているということ、
その有り難さを知ることなのだ、という事なのだと思います。
奇跡とは、独座大雄峰。

翻って西洋ではどうか。
イエスも、奇跡は衆をまどわす行為だから
認めてはならない、と言っていたそうです。
新約聖書を読んでみても
今の時代の人はしるし(奇跡)を欲しがる、と
嘆いています。
でも聖書を読んでいくと
盲人を癒したり
魚をパンに変えたり、と
奇跡を行いまくっていたりするので
イエスという人は中々面白い人だな、と
僕は思ってしまいます。

洋の東西を問わず
人々がしるし(奇跡)を欲しがる、というのは
きっと普遍的な人間の心理なのでしょう。
どうしても人間は、常識では考えられないものを見せられると
畏敬の念を持ってしまう。
イエスも死んでから復活してみせて
やっと、まことにあの人は神の子だった、と
認めてもらえたようです。

僕は超能力や奇跡と呼ばれるようなことは
昔からあって、その事自体はさして重要なものでは
ないのではないかと思ったりします。
以前にも書きましたが、僕は空中を旋回する
ソフトクリームを見たことがあるので
超常現象全てを否定しようとは思いません。
ただ大切なのは超常現象ではなくて
そこから人間はどうあるべきか、
というとこに入っていくことなのだと
思ったりするわけです。
つまり目の前でヨーガのポーズを決めたまま10メートル
飛ばれようと、足の裏の相から自分の過去の行いを
言い当てられようと、そんな事くらいで
その人を教祖と仰ぎ、有り金全部お布施として
預けてしまうのは間違っているのではないか、と
思ったりするわけです。

奇跡とは、独座大雄峰。
つまり広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
僕がここにいて、あなたがそこにいるという事。
それが奇跡であり
有り難い事だと思うわけであります。




-奇跡とは、独座大雄峰-