2003年10月1日水曜日

太陽が燃えている 2003.10.X 初出

日本が屈辱の敗戦から不死鳥のように
起ちあがり、戦後復興から高度成長へと
向かっていた1970年に開催された
日本万国博覧会。

僕はまだ生まれていませんが
それはきっと韓国におけるソウルオリンピックや
中国にとっての今度の北京オリンピックのような
国際社会に対して、近代化、先進国家の仲間入りを
宣言できる一大イベントだったのだと思います。
1960年代から70年代を、日本の青春時代、などと
言う人もいます。
じゃあ日本はもう、中年時代、なのだろうか。
腹は出てくるし、髪は薄くなってくるし……ああ、やだやだ。

で、その日本万国博覧会に、岡本太郎という芸術家は
太陽の塔、というモニュメントを出品しました。
岡本太郎さんは、日本の近代化・先進国家の仲間入りの
一大イベントに対して、思いっきり非近代的で
思いっきり原始的な、太陽の塔、を出品したのであります。
とても挑戦的なアプローチですし
無謀とも言える行為です。
万国博当時、太陽の塔、は、何を意味しているのか
さっぱり分からない、目障りだ、と酷評されたそうです。
さすがに、芸術は爆発だ、の名言で知られる
岡本太郎さんであります。
まさに、太陽の塔、は爆発しています。

岡本太郎さんの母親は、岡本かの子、という
結構有名な文学者で、太郎さん自身
このエッセイで度々登場する、死霊、を書いた
埴谷雄高氏らと共に、夜の会、を結成してみたり、と
かなり文学的な人でもあったようです。

その岡本太郎さんの、太陽の塔、に対する弁。

日本中が、進歩、GNPに自信満々の時代だった
そこへ、万国博。
恐らく全体が進歩主義、モダニズム一色に
なることは目に見えていた。
そこで私は逆に時空を超えた、絶対感。
馬鹿みたいに、ただどかんと突っ立った
「太陽の塔」を作ったのだ。
現代の惰性への激しい挑みの象徴として。

<岡本太郎、歓喜、P116、二玄社>

つまり岡本太郎さんは、万国博で日本中が
モダニズム(近代主義)一色に染まるのを
予想して、そのアンチテーゼとして
思いっきり非近代的で原始的な、太陽の塔、を
出品したわけです。

で、その岡本太郎さんの1970年の挑戦を
今にして振り返ってみると、その試みは
確かに的を得たものだったと分かります。

高度成長以後、つまり日本が近代先進国家の
仲間入りを果たしてから生まれた僕は
ずっと進歩・科学・都市が素晴らしいと思い
土臭い田舎を馬鹿にし、太陽を見上げることなんて
一度もありませんでした。

でもこのエッセイで、色々と現代社会の問題を
考えてきてみて、太陽や、神道の天照大神にまで
考えが及ぶようになってみると
日本の近代化・先進国家の仲間入りの
一大イベントである万国博覧会において
思いっきり非近代的で
思いっきり原始的な、太陽の塔、を出品した
岡本太郎さんのアプローチがいかに
偉大だったか分かります。

日本社会が近代化・都市化で
なくしたものは、太陽、なのではないか、とさえ
最近思います。

人間どもが地上でいくら近代化だ
都市化だ、とセコセコしていたところで
太陽はいつの時代も確実に燃えているのです。
ギラギラと燃えているのです。
そしてその光なくして、全ての地球上の
有機物の活動はなりたたないのであります。
近代化・都市化は、そういった基本的な事実を
忘れさせてしまいます。
僕がこうして文章を書いている時も
太陽はギラギラと燃えているのです。
病める時も苦しい時も貧しい時も
太陽は燃えている。ギラギラと燃えている。

朝の光が待てなくて、眠れない夜もあった。
朝の光が待てなくて、間違った事もやった。
僕が生まれたところが、世界の片隅なのか。
誰の上にだって、お日様は昇るんだ。

1985年デビューのブルーハーツも
そう歌っていました。

やはり日本社会が近代化・都市化でなくしたものは
太陽、なのかもしれません。

太陽は燃えている。
ギラギラと燃えている。
光あれ。

故岡本太郎氏のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

芸術は爆発であります。

と、書いてきたところで
ちょうど太陽に関するニュースが
飛び込んできたのであります。
今週の日経新聞(電子版)によりますと
太陽表面で28日、フレアと呼ばれる
大規模な爆発現象が発生、地球が激しい磁気嵐に
見舞われる可能性があると、米海洋大気局
(NOAA)が警告した~そうです。

太陽で爆発現象が起きている。
故岡本太郎氏の仕業なのだろうか……んなわけないか。

今回は、北米の一部で停電などを引き起こした
1989年の大規模なフレアより規模が大きく
過去30年で最大の可能性もあるとのことです。
磁気嵐は、29日から30日にかけて、地球に到達。
航空機などの通信や放送の障害、電子機器の
誤作動・停電などを招くこともある、との事。

みなさん気をつけて下さい。




-太陽が燃えている-
歓喜 (Art & words)

情熱の薔薇(4) 2003.10.X 初出

と、だいぶ話が逸れてしまいましたが
日本人は何故か、みんなと一緒、になりたがるので
戦争も経済戦争も、一度流れが決まると
修正が効かなくなってしまうのだ、という話なのであります。
そしてマイノリティー(少数派)は
常に、みんな、によって、非国民、として排除される。
常に、みんな、が中心で、個人、は、排除の対象となる。
で、完全に負けが見えるまで修正が利かない。
負けた責任も誰にあるのか分からない。
だって、みんなと一緒、にやった事なのだから。
そういった構図はやはり、不健康だな、という
話なのであります。

どうしてそうなるのか、と言うと、日本社会が
自立した市民一人一人が構成する社会、ではなく
顔の見えないみんな一緒の集団、になって
しまっているからなのだと僕は思います。
この国のマスコミは、この人が悪人だ、と決まると
まるで堰を切ったかのように一斉に一個人を
叩き始めますが、あれは覆面をして匿名性の影に隠れた
集団による、集団リンチ、私刑、村八分です。
僕はそういう映像を見ると
とても気味が悪くなります。
極論すれば、そういった姿勢が
バブルの狂乱を生み出したのです。

おかしいとは思うけど
みんながやってるからまあいいさ、と。
赤信号もみんなで渡れば怖くはないさ、と。
A社さんもB社さんもゴルフ場を作ったらしいから
じゃあ、うちも……なんてやっているうちに
バブルは止まらなくなってしまったと言われています。

まだバブルの熱が冷めやらぬ頃、
僕は定価17000円くらいのエア・ジョーダンという
バスケットシューズを、35000円くらいで
購入してしまった記憶があります。
ある意味僕も、バブルの子、だったわけですが
前回も少し触れましたように、僕は冗談抜きで
現在注目の田臥勇太選手のように
真剣にNBA入りを目指してバスケットボールに
打ち込んでいたので、大好きな、エア・ジョーダンが
投機の対象にされているのが嫌で仕方がありませんでした。
大人になってから分かったのは、投機の対象にしていたのは
実は発売元の当のナ○キ自身だったわけですが……
やはり80年代のバブル経済は狂乱だったわけですね。

一応記しておきますと、僕は、ネタ、ではなくて
当時は真剣にNBA入りを目指していて
田臥勇太選手の母校、名門能代工業とも対戦した事があります。
僕らの頃は、半田選手、がスターでした。
これは本当の話なのですよ、みなさん。
僕はバスケは相当上手い。

で、懸命なる読者諸氏はお気づきの通り
お気楽で、且つ、おめでたい僕は
当時、NBA選手になるんだ、と回りに
公言していましたので、あらゆる人に
日本に生まれた時点で無理だよ、と笑われていました。
あいつは、やはり、変わり者だな、と。
そんな夢みたいなこと言ってないで
受験勉強しなさい、と何度も怒られていました。

でも2003年現在、バスケに限らず
野球はもとより、サッカー、バレーと
あらゆるスポーツ選手が海外のプロリーグ入りを
目指して頑張っているので、当時の僕のように
テストの成績はブッチギリで学年最下位
全国偏差値は毎回25、でもバスケだけはやたら上手い
という紅顔の美少年が、NBA選手になるんだ、と公言しても
誰も笑わないはずです。

むしろ今時無理して、いい大学、なんて行っても
たいしていい事はないのだから
とりあえずお前は、バスケットボールを頑張れよ、と
言ってくれる人もいるはずです。
構造改革はやはり20年遅れているのです。

海外の事情を一切考えずに、日本の中だけで
みんなと一緒、に、盛り上がっていたのが
バブル経済の正体です。

そんな狂乱のバブル、1980年代にあって
ブルーハーツは、またまた歌っていたのです。

見てきた物や聞いた事
いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ち分かるでしょう

これはブルーハーツの、情熱の薔薇、という曲の一節
なのですが、僕は当時、非国民、だったので
そんな気持ち、が分かったのです。
なんだか最近の、卵のなかみ、は
ブルーハーツ特集と化している感が
ありますが、僕はやはりあのバブルの狂乱の時代に
あって、ブルーハーツは正しかったような気がします。

見てきた物や聞いた事
いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ち分かるでしょう

そういう視点を多くの日本人が、自立した個人、として
自立した市民、として持っていれば
日本人みんな、が一方向に傾いて
戦争や経済戦争を繰り広げ
完敗するまで誰も何も言えない、気がつかない
といった不健康な構図はなくなるのではないか、と
僕は思ってしまうわけです。

実際こうして、終戦と、第二の敗戦、と呼ばれる
現在の状況を比べてズラズラと書いてきてみると
僕が今まで見てきたものや聞いた事
覚えてきたもののほとんどは、でたらめ、だったようです。

じゃあ答えは、いったいどこからくるのだろう。

答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る

それが、情熱の薔薇、における、答え、でした。

情熱の真っ赤な薔薇を、胸に咲かせよう。




-情熱の薔薇(完)-

情熱の薔薇(3) 2003.10.X 初出

僕は以上見てきたような、社会の敷いたレール、に乗らないで、
中学・高校とも全く勉強せずに、NBA選手目指してバスケットボール
ばかりしていたので、社会が敷いたレール、に乗せられて受験勉強ばかり
している同級生達からは、変人、のように見られていました。
太平洋戦争中なら、僕は、非国民、だったわけですね。

社会が敷いたレールに乗るための、受験戦争、にとられて、
出征、してしまった同級生達は、今頃どうしていいか分からず
路頭に迷っているはずです。
だってもう社会が敷いたレールはないのだし
画一的な大卒ホワイトカラー中間管理職、みたいなものも
そんなに必要とされていないのですから。

どうだ! あの頃僕を、非国民、扱いした
同級生や暴力教師どもよ、ざまあみろ! と
太平洋戦争後の、進歩的文化人、のような事を
僕は言いたいわけではなくて
終戦後においても、第二の敗戦、と呼ばれる
現在の状況においても
日本中で一気に180度価値観が変わってしまう、という構図は
不健康なのではないか、という事を言いたいわけです。

僕は、戦争に加担した、とされ
戦後ずっと沈黙を強いられてしまった文学者や
画家が嫌いではありません。
むしろ終戦後急に、進歩的文化人、となって
しまった人達よりも気合が入っていて
格好いいな、とさえ思ってしまうところもあります。

第二の敗戦、と呼ばれる現在の状況においてもそうで
奇跡の戦後復興を成し遂げた人達や
NHKの人気番組、プロジェクトX、に見られるような
高度成長を成し遂げてくれた人達に対して
僕は敬意を持っています。
ただ、バブルの狂乱、を引き起こした人達は
好きではありません。
この人達が、戦犯、のような扱いを受けるのは
ちょっと分かります。

いずれにしろ、戦争も経済戦争も、完敗したのが
明らかになってから、日本人みんなが一緒に
価値観を180度変える、という構図は一緒です。

それは現在進められている、構造改革、と呼ばれる
基本的な社会構造の変換を、バブルの狂乱の前、つまり
1970年代にやっておけば全く問題なかったのに、
どうしてできなかったのだろう、という問いに繋がります
(太平洋戦争においては、軍部の暴走、がこれにあたると思います)
80年代のバブルの狂乱、や、90年代の失われた10年、は
やはり痛手というか余計だったと誰もが思うでしょうし
そこに太平洋戦争における軍部の暴走を見るのは
僕だけではないと思います。
つまり構図としては、敗戦も、第二の敗戦、と呼ばれる
現在の状況も一緒なわけです。

新世紀に入りやっと、小泉政権のもとで、構造改革が必要だ、という
コンセンサスが社会にできたのはよいのですが、本来なら1970年代から
やっておかなければならないような事を、20年以上遅れてやろうとしている
からそれは、痛みを伴う、構造改革になってしまったわけです。

いつまでも高度経済成長が続くわけがないのだから
本来ならオイルショックで一息入れた1970年代に
戦後復興期や高度成長期型の社会システムの改革に
着手しておかなければならなかったのに
太平洋戦争と同じで、そのまま
みんなと一緒に、バブル経済に突入し
完敗が見えるまで何もできないでしまった。

どうして僕がこういった見方をするのか、と
言いますと、僕は1970年代の生まれなのですが
生まれてからずっと社会システムとぶつかってばかり
いたような感じがするからなのです。
それはもしかして、20年近く構造改革が遅れている
社会システムとぶつかっていた、という事のではないか、と
最近思うようになったからなのです。
そしてそれはたぶん、僕だけではないのではないか、と。

だから現在の機能しなくなってしまった
社会システムと齟齬をきたして
ブチキレそうになってしまっている子供達の気持ちが
なんとなく想像できてしまったりするのです。

そしてあの頃の僕がそうだったように
おそらく少年達は、言葉を持たないままノイローゼ寸前の状態で
悩んでいるのだと思います。そしてナイフを手にしてしまう。

別にグレてる訳じゃないんだ
ただこのままじゃいけないってことに気付いただけさ

先生たちは僕を不安にするけど
それほど大切な言葉はなかった

誰のことも恨んじゃいないよ
ただ大人たちにほめられるようなバカにはなりたくない

そしてナイフを持って立ってた
そしてナイフを持って立ってた

このエッセイに度々登場するブルーハーツという
80年代に一世を風靡したパンクバンドの
少年の詩、という曲の一節です。

このままでは、間違った教育による犠牲者、が
どんどん増えていくばかりのように思えて
僕はとても憂鬱な気持ちになります。
僕が知る範囲では、学校の現場では
ほとんど価値観の変化が見られないようです。

透明な存在の不安、に怯えながら
いい大学に行け、だの、なるべく大きな会社に入れ、だのと、
完全に時代遅れの訳の分からない事を要求してくる親や
教師達の存在にも苛立ち
ナイフを手にしそうになっている少年がいたら
僕は呼びかけたい

言葉を書け
言葉はナイフの代わりなのだ

と。

筆の走った勢いで極論してしまえば
国語のテストで、ここで作者は何を言おうとしていますか、
以下のA~Cのうち一つを選びなさい

A、いとおかし
B、とてもおかしい
C、ちゃんちゃらおかしい

などとやっている、文学教育、などというものは
C、ちゃんちゃらおかしい、なのであります。

少年達よ、そんな、文学教育、は無視していい。
ナイフを持つ代わりに、読みたい本をたくさん読んで
言葉を鍛えておけ。言葉はナイフの代わりなのだ。



-情熱の薔薇(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/4200310_8.html

情熱の薔薇(2) 2003.10.X 初出

僕が紅顔の美少年だった頃
つまり僕が、中学生や高校生だった頃は
悪名高い、管理教育、が全盛でした。
学生服の丈が短いといって停学になったり
バイクの免許を取ったのがバレて
退学になったりしている同級生がたくさんいました。

同年代の人達と話をするとよく
いったいあの教育は何だったのだろうね、と
いう話になります。

僕は今でも覚えているのですが
当時、ちょっと定刻に遅刻した女子生徒が
教師が力づくで閉めた校門の間に挟まれて死亡する、という
とても痛ましい事件がニュースになったりしていました。
ニュースになるのは氷山の一角なので
たぶんそれに似たような事件事故は
全国でたくさんあったのだと思います。
若い人達には想像がつかないかもしれませんが
僕が中高生の頃は、学校の教師は刑務所の看守のような
存在だったのです。
僕もささいな理由で何度暴力教師に
殴られたり蹴られたりしたか分かりません。

どうして当時そんな、管理教育、が
当たり前のように行われていたのか冷静に考えると、
たぶん日本社会が、戦後の焼け跡から復興し、
高度成長を成し遂げる仮定において
大量生産・大量消費型の生産ラインに必要な
従順で画一的な労働力を、大量に必要としたから、なのだと思います。

大量生産・大量消費型の経済社会でメインとなる
大工場には、画一的で従順な労働者が
それこそ大量に、必要となるからです。

受験戦争、というのもおそらく、その画一的で従順な
大量の工場労働者を管理する、大卒ホワイトカラー、を
生産するためのシステムだったのでしょう。

団塊の世代の人達には、大学まで出た人に
こんな単純労働はされられない、とか
できない、といった意識が残っていたりしますが
たぶんそういった事情があるのでしょう。
つまり戦後のある時期まで、大卒、は
社会が敷いたレール、における、エリート、だったわけです。
この中でも、受験戦争の王者、東京大学法学部卒の
高級官僚、は、そういった戦後システム全ての
管理職、だったのだと思います。

でも、実は本当のこの国の管理職は他にいるわけですよね。
懸命なる読者諸氏はお気づきの通り
社会が敷いたレール、を敷いた人達こそ
本当のこの国の管理職なわけです。
現在の、高級官僚、と呼ばれる人達は
本当のこの国の管理職、が敷いた、社会の敷いたレール、に
乗せられて、受験戦争に勝ち抜いて東京大学法学部に入り、
高級官僚、になった世代なので、訳の分からないことばかりして
国益を損なってばかりいるのだと思います。


-情熱の薔薇(3)へ続く-
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情熱の薔薇(1) 2003.10.X 初出

卵のなかみ、を書いてきて分かったのは
かつて、社会が敷いたレール、と呼ばれていたものの正体は、
要するに、20世紀後半における、大量生産・大量消費型の経済世界にあって、
日本が経済成長を果たすために必要とされた
大量の画一的な労働力生産システムの
ことなのではなかったか、という事です。

そして2003年現在、国民が一丸となって戦った
20世紀後半の経済戦争において
日本は完全に負けてしまったので
今どっと経済的に不必要とされる
人口が増えてしまった。

いわゆる、ひきこもり、がクローズアップされるように
なった頃、彼らは間違った教育による犠牲者だ、と
評していた人達が多かったのも
このラインで考えるとよく分かります。

つまり日本政府が、20世紀後半の経済戦争を戦うにあったって
敷いた生産ライン、いわゆる、社会が敷いたレール、に適合するために、
画一的労働力生産システム(間違った教育)を受けて育ってきたのに、
いざ社会に出てみたらその、社会が敷いたレール、がなくなっていた。
そして多くの、何をしたらいいか分からない
何がしたいか分からない、といった層を大量発生させてしまった。
そして今元気なのは、社会の敷いたレール、に
乗っていなかった、かつては、変わり者、とか
変人、と呼ばれていたような人達ばかり、といった構図ができてしまった。
それがおそらく2003年現在の日本の状況でしょう。

僕はこれは何かに似ているな、と思ったのですが
たぶん、というよりも、多くの人が指摘するように
太平洋戦争の終戦時に似ているのです。

官民一体となって太平洋戦争へ向かっていたのが
日本の完敗が明らかになる事で終戦を迎えると同時に
社会の基本的な価値観が180度変わってしまい
戦前の教科書は、軍国主義を助長する、間違った教育、であるとして
墨で真っ黒に塗りつぶされてしまった。

現在イラクで同じ事が行われているそうですが
このエッセイに度々登場するブルーハーツという
80年代に一世を風靡したバンクバンドは

先生、僕の教科書に、誰か墨をこぼしちゃった

と歌っていましたが、たぶんその事を指していたのでしょう。
やはりブルーハーツの詩には普遍性があるな、と
僕は感心してしまいます。
今、イラクで多くの子供達が

先生、僕の教科書に、誰か墨をこぼしちゃった

と、つぶやいているはずです。

で、そんな事が終戦後の日本社会にはあって
戦前に戦争に関わっていたとされる指導者や学校の先生
文学者、画家、などは、戦後ずっと沈黙を
強いられてしまったそうです。
イラクでフセインのバース党に関わっていた人達が
職にあぶれて困っている、というニュースを
見れば、太平洋戦争の終戦後、日本社会でいったい
何が起こったかは想像ができますね。

結局終戦後の日本社会では、太平洋戦争中にはおそらく
変人、扱いされていたであろう、進歩的文化人、と
呼ばれるような人ばかりが、元気、という状況に
なっていった。

似てます。
やっぱり現在の日本社会は、多くの人が指摘するように
第二の敗戦、にあるのだと思ってしまいます。

戦中派の人達は、社会の基本的な価値観が
180度変わってしまうという事の恐怖感を
身をもって知っている、と言われますが
現在、また同じ事が起きているわけです。

奇跡の戦後復興や、高度経済成長を
成し遂げた人達が、第二の敗戦、によって
ほとんど、戦犯、といっていいような扱いを
受けています。
族議員しかり、公団の総裁しかり
高級官僚しかり、受験教師しかり……。

昨日まで、善、とされていた事が
次の日には、悪、とされるという
恐ろしい感覚を、僕らの世代も知ってしまった
わけです。




-情熱の薔薇(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2200310_3474.html

平成おじさん 2003.10.X 初出

現在の日本社会では信じられない事が
次々と起き始めていて
電話や郵便、道路といった戦後日本の成功を
支えてきた業界が、次々とその歴史的役割を
終えようとしています。
明治からさかのぼれば、これに鉄道も入ります。
つまり電電公社がNTTになり、国鉄がJRに
なったように、郵便局・道路公団が
民営化されようとしているのです。

これらの動きに共通しているメッセージは
何だろう、と僕なりに考えてみると
やはりこのエッセイで何度も書いてきたように
官尊民卑、から、民尊官卑、への移行なのだな、と
思ってしまいます。

そして時を同じくするようにして
帝国主義の時代に形成された
帝都、東京を中心とした
都市型のヒエラルキー(階層構造)社会
旧帝国大学を中心とした
学歴社会・受験戦争も終わろうとしています。

インターネットの普及は、四大新聞を中心とし
かつて司法・立法・行政に次ぐ、第四の権力、と
されていたマスコミの権力構造を壊しつつあります。
インターネット上で動画のストリーミング配信が
もっと容易になっていけば、活字マスコミに続き
きっとテレビの権力も次第に弱まっていく事でしょう。

これらの、情報流通経路の革命、とも呼べそうな
状況を一言で表すとすれば
それは、情報の民主化・権威・権力の崩壊、です。

社会システムの、官尊民卑、から、民尊官卑、へ
といった動きと合わせて考えると
やはり現代は、戦後の繁栄、悪く言えばバブルの享楽で
幕を閉じた、明治以来の画一的中央集権化の
流れの終焉なのだな、と思ってしまいます。

もう官僚主導による愚民化政策の下で形成された
普通の日本人、による、みんなと一緒に人並みに、の社会は
戻ってこないと思いますし、また戻そうとすべきではないと思います。
戻す道はただ一つ、全体主義、ファシズムしかないからです。

これから求められるのは
自分で考えて行動できる自立した、市民、なのだと思います。
たぶん、そういった自立した市民一人一人によって
構成される日本社会が求められているのです。
あらゆる権威、帝国主義的制度が
次々と全面崩壊し始めている時代状況にあって
何かにすがろう、とするアプローチでは
たぶん生き残れないのです。

昭和天皇が崩御され、次の年号、平成、を
発表した故小渕恵三首相は、総理大臣としてよりも
むしろ、平成おじさん、として人々に記憶された感が
ありますが、まさに今の時代状況を一言で言い表せば
平成、つまり、平(たいら)に成る、時代なのだなと
僕は思ってしまいます。

平成、という時代は、帝国主義時代の遺物が
音を立てて崩れていって残骸となり
平(たいら)に成る、時代。
だから現代の、平成維新、とも呼べそうな大混乱の
状況において、坂本竜馬、や、西郷隆盛、のような
英雄は必要ないのだと僕は思ってしまいます。
だって平成は、平(たいら)に成る、時代なのだから。

求められているのは、
坂本竜馬、や、西郷隆盛、のような
俺がやってやる、といったタイプの
英雄豪傑ではなくて、
自分で考えて行動できる自立した市民一人一人による
小さな行動、なのだと思います。
いわば市民一人一人が、維新の担い手、とならなければ
ならない時代状況なのだと僕は思うわけです。
とても理想主義的に聞こえるかもしれませんが
たぶんそれが、平成維新、において
最も求められている事なのでしょう。

自民党の古いタイプの政治家が
なんだかおかしな行動を繰り返しているように
見えてしまうのは、今の時代状況にあって
坂本竜馬、や、西郷隆盛、のようなアプローチで
行動するからなのだと思います。
ムネオハウス、などでマスコミに叩かれていた
鈴木宗男さんも、僕はその手のタイプの政治家なのだと
見ているのですが、歌手の松山千春さんが
擁護していたように、本人はきっとそんなに悪人では
ないのでしょう。
ただ決定的にアプローチが古いのです。

そういったわけなので、これからの日本社会において
偉そうに不特定多数の日本人に対して
ああせよ、とか、こうせよ、と
がなっている人がいたら、少し疑って見た方がいいと思います。
帝国主義の時代と違って、庶民は格段に情報を持って
いますし、もうそんなに無知でもなくなって
きているわけですから。

平成維新は英雄を必要としない。
社会を構成する、市民、としての自覚を持った
一人一人の、小さな行動、よって平成維新は達成される。
それが、平成、のメッセージなのだと
僕は思いたい。

あらゆる権威が、音を立てて崩れ去った後
台頭してくるのは、英雄、ではなくて
たぶん、市民、なのです。
それが、平成、つまり、平(たいら)に成る、時代の
意味なのだと思います。

平成おじさん、故小渕恵三首相の
御冥福を、心からお祈り申し上げます。
僕は、オプチミストの小渕です、という
駄洒落は、嫌いではなかった。




-平成おじさん-

手のひらを太陽に 2003.10.X 初出

ここ、仙台市青葉区北山という場所は
仙台市中心部まで自転車で10分という場所にありながら
やたら自然に恵まれた場所で、巨大なカエルさんが出る、という事で
有名な場所でもあります。
僕は何度も、その噂の巨大なカエルさんを
見たことがあるのですが、本当にデカイのです。
言葉なくしてしまいます。
冗談抜きで、20センチくらいのカエルさんが
デデン、と道端に鎮座されていたりするのです。
僕はその度に、あたりはばかりもせずに
ややっ! と大声を上げてしまうのでありますが、
北山周辺で、巨大なカエルさんの前で
ややっ! と大声でわめいている人がいたら
それはきっと僕です。

で、先日僕は、そんな自然に恵まれた
仙台市青葉区北山の路上で、アリさんの大群が
ミミズさんの死骸に群がっている場面に
出くわしたのであります。
ミミズさんが生をまっとうし
その亡骸がアリさん達の食料となっているのだな、と
僕は感心しながらその光景を眺めていました。
生命の循環が行われている中々崇高なシーンで
ありました。

アリさん達が群れを成して、ミミズさんの
死骸に群がっている姿は、ある意味残酷なので
ありますが、それを残酷と感じるのは
僕の右脳なのでしょう。
アリさんやミミズさん達は、右脳も左脳も
前頭葉も持っていないので
たぶん残酷であるとは思っていないはずで
あります。

そう考えると、人類が亡き者に対して
墓を造って弔うのは、高度に発達した脳のせいなの
だろうか、と僕は思ってしまうのであります。
だから人類の墓が下らない、という話ではなくて
ネアンデルタール人も死者に花を捧げたという
エピソードからも推察されるように
死者を丁重に扱う、というのは
高度に発達した脳や、もの思う心を与えられた存在である人類の、
洗練、なのだと思います。
そう、洗練。

その点日本人は、死者の弔い方に関しては
相当、洗練、されている民族なのだな、と僕は思ってしまいます。
つまり死者の弔い方が、垢(あか)抜けて、いるのです。
で、葬式にやたら金がかかる。
坊主丸儲け、と言ったら、仏教関係者に
怒られるでしょうか。

どこの民族か忘れてしまいましたが
世界には、鳥葬、と言って
死体を鳥に食べさせて、葬式、としてしまう
民族がいるそうです。
鳥葬。

鳥さんに死体を食べさせると
喰われた人間の死体は、鳥さんのクソとなって
それはやがて土に還ることになります。
土に還る。
そう、有機物としての人類は
ミミズさんと同じくやがて、土に還る、のであります。
そして土中のミミズさんや微生物さんが
分解してよい土ができる。

人間様とミミズごときを一緒にするな、と
キリスト教的人間中心主義的価値観をお持ちの方は
怒られるかもしれませんが
有機物と無機物、という区別で捉えると
人類もミミズさんもアリさんもカエルさんも
鳥さんも、みんな有機物であります。

それに旧約聖書の創世記には
神様が一通り天地から鳥から獣から
万物を造り終えてから
土(アダマ)の塵で
人(アダム)を形づくり
その鼻に命の息を吹き入れられた、
人はこうして生きるものとなった、とちゃんと書いてあります。
土からできた人間が、やがて土に還るのは
ユダヤ・キリストラインで考えても
全くおかしくないわけであります。

ただ神様が、土から人間を造ってみたはいいが
その人間どもが神様の言うことを全く聞かない存在に
なってしまったため、当の神様も困っている、というのが
人類5000年の歴史なわけであります。

卵のなかみ、を毎回読んでくださっている読者の方は
またか、と思われるかもしれませんが
埴谷雄高(ハニヤユタカ)の、死霊、という小説では
限りなく造物主に近い視点を持つ、虚体、が
イエス、と、釈迦、を呼び出し、大審問、を開きます。
そして、イエスよ、お前は人間中心的教義を広め
その後の人類の歴史を、人間同士による
絶えない戦いの歴史にしてしまっただろう、
釈迦よ、お前は、不殺生、を唱えながら
瞑想中に近くのチーチカ豆を無自覚に食べただろう、と裁く。
それは一応ごもっともな視点であって
そういった視点をアニミズム(精霊崇拝)への退行と
とる人もあるかもしれませんが
果たして人類は、進化、してきているので
ありましょうか。

キリスト教的世界観から始まった科学技術の発展による
近代は、果たして進化だったのだろうか、とまで
言ってしまったら、歴史を否定してしまう事に
なるのでしょうが、近代に入ってから、
自然破壊も人間どうしによる戦争も
格段にひどくなってきている事は間違いありません。

日本人初のジャーナリスト宇宙飛行士となった
某テレビ局に勤めていた秋山豊寛さんが
宇宙から帰還後、農業をしながら木を植える、森の番人、になられた、
というのは結構有名な話で
それを、宇宙病、と呼んで笑い飛ばす人もいますが
欧米でも宇宙飛行士が帰還後、何を思ったか改心して
牧師さんになってしまった、なんていう話はよく聞きます。
先日の中国初の有人宇宙飛行船、神舟、に乗って
帰還した宇宙飛行士はどうなることやら……。

僕は、秋山豊寛さんが宇宙から帰還後
土を耕し、木を植えるようになったというのは
象徴的だと思います。

脳科学の視点から大変ユニークな社会論や
文学論を展開している養老孟司さんは
911以降、文明の脳化による都市主義の限界を
盛んに訴えていますが(興味のある方は、中公叢書から
出ている、都市主義の限界、という本をお勧めします)
僕も近代の、都市主義、はもう限界なのではないか、と
思ってしまいます。
はっきり言って近代の都市主義は、地球にも人類にも
あまりよろしくない。

と、仙台市青葉区北山の路上で
巨大なカエルさんを見かけて、あたりはばかりもせずに
ややっ! と大声を上げました、という話から
例によって壮大な話になってしまったわけで
ありますが、僕は今、ふと、ある歌を思い出したので
あります。

僕らはみんな生きている
生きているから歌うんだ
僕らはみんな生きている
生きているから悲しいんだ
手のひらを太陽に、透かしてみれば
真っ赤に流れる僕の血潮
ミミズだって、オケラだって
アメンボだって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ

 
僕らはみんな生きている
生きているから笑うんだ
僕らはみんな生きている
生きているから嬉しいんだ
手のひらを太陽に、透かしてみれば
真っ赤に流れる僕の血潮
トンボだってカエルだって
ミツバチだって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ
 
たぶん多くの方が知っているであろう
この、手のひらを太陽に、という曲の詩には
最も純粋なる神道精神があるのではないか、と
僕は今思い至ったのであります。
つまり、太陽、天照大神のもと
人間も動植物達も、みんなみんな生きているんだ
友達なんだな、と。




・註、有機物とは簡単に言えば、生命体。
   無機物とは、有機物を除いた全ての
   物質、金属、塩類、水、各種気体など、です。



-手のひらを太陽に-

「都市主義」の限界 (中公叢書)

宇宙よ

死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)

皆殺しのメロディー(2) 2003.10.X 初出

もうだいぶ昔の話のように思えてしまいますが
アフガニスタンのタリバン政権による
バーミヤンの大仏破壊を
多くの日本人は、先進国、の一員として非難したわけですが
果たして日本人はタリバン政権を非難できるのであろうか、と
僕はまず言いたいわけであります。

タリバンがバーミヤンの大仏を破壊したのは
アメリカを中心とした、先進国、の圧力を受けてのことなのではないか、と
僕は思うわけであります。
誤解されると困りますが、僕はビン・ラディン氏を匿ったとされる
タリバン政権を擁護しているというわけではありません。
ただ、イスラム原理主義タリバンによる大仏破壊には
日本人が明治期に、西洋先進国の圧力に
対抗して国家神道を築くために行った
廃仏毀釈(仏教を捨てる)と同じ文脈が
隠れているのではないか、という事を言いたいわけであります。

そもそもアフガニスタンという国は
冷戦期にソビエト連邦の侵攻を受けて
一度ズタズタにされてしまった国なのであります。
そして当然ながら当時ソビエト連邦と対立していた
アメリカ政府がアフガニスタンの側を援助したため
この時にビン・ラディン氏が育ってしまったのです。
いわばイスラム原理主義は、東西冷戦、という
大国の都合で芽生えてしまったのです。

そしてソビエト連邦が崩壊した冷戦終了後
急速に一極主義的傾向を強め始めたアメリカ政府が
今度は自分で育てたようなものである
イスラム原理主義を叩くと称してアフガニスタンに
攻撃を仕掛けたわけです。
本当に世界を支配しているのは、力だけなのだろうか?
おお神よ、と、僕は祈りを捧げてしまいたくなりますが
古くはシルクロードの中継点として栄えた麗しのアフガニスタンは、
ソビエト連邦の侵攻以来、大国の都合で何度もズタズタにされた挙句、
暴行・略奪溢れる無法地帯と化してしまっているわけです。

そういった複雑な事情を抱えているアフガニスタンに
果たしてイスラム原理主義タリバン以外に
秩序を回復できる勢力があったのだろうか、という視点は、
議論の際、絶対必要だと僕は思うのですが、どうでしょう。
僕はタリバン政権を擁護する危険人物なのでしょうか。

日本のマスコミは、世界遺産を破壊するような野蛮な
タリバン政権が、正義の味方、アメリカ政府によって転覆され、
女性がブルカを被らなくてもよくなりました、とか、
凧揚げが再開しました、とか、映画が観れるようになりました、という
視点のニュースしか発信しません。
でもたぶん、アフガニスタンの郡部は、タリバン登場以前の
略奪・暴行・賄賂が横行する無政府状態に戻ってしまったはずです。
タリバンは決して賄賂を受け取らなかった、と言いますし、
ノーパンシャブシャブなどとは無縁の
ボロボロの事務所で必死に行政を行っていたと言われます。

とりあえずの安定を確保するために
宗教が一つのよりどころとされるのは
どの国でも事情は同じなのではないか、と僕は思います。
日本もかつて、廃仏毀釈、によって、国家神道、を打ち立て
西洋に対抗できる近代社会を築こうとした歴史が
あることは既にみてきました。
その時に明治政府の役人主導で
国宝級の仏像・観音像、及び神社が、かなり破壊されたわけです。
そういった歴史を持つ国に住む者として僕は
単純に、バーミヤンの大仏破壊は野蛮だ、と
非難する事はできません。

僕はアメリカの言い分もよく分かりますが
近代化して自由化・民主化していくには
プロセスがあるはずです。
無政府状態にある場所に
いきなり自由で民主的な理想的な近代国家を作れ、という
アメリカのロジックは無理があるのではないか、と思うわけです。
アメリカ政府は近代化途上にあってなんとか宗教を
より所として安定を保っている国に対して
民主的ではない、と言って攻撃をしたり
独裁政権によってなんとか安定を保っている国に
対して、民主的ではない、と言って攻撃を加えたりします。
確かに僕も民主化・自由化は大切だと思います。
僕も、卵のなかみ、を自由で民主的な近代社会の恩恵に
さずかって書いているわけです。

でもしつこいようですが、近代化にはプロセスがあるのであって、
その過程にある国に対して、魅力的な民生品を送り込んで
次第に自由化・民主化させていくというのではなく、
その政権をいきなり武力攻撃で崩壊させて
自分達に都合のよい人物達による、民主的政権、を
成立させようというのは、本当にその国に住む人達のことを
考えているとは思えません。
本当は自国で余っている武器を
使ってみたいだけなのだろう? と
勘ぐられても仕方がないと思います。

第一タリバン政権が匿っているとされていたビン・ラディン氏も
まだ見つかっていないという話です。
アフガニスタン攻撃の大義名分は
いったいどこへ行ってしまったのでしょう。
そして息つく間もなく、今度はイラクの
フセイン政権を崩壊させる。
次の標的はいったいどこなのでしょう。
シリアなのでしょうか。
北朝鮮なのでしょうか。

僕はアメリカ政府に呼びかけたいと思います。

正義はあったのか、バカ
正義は勝ったのか、バカ

前回のエッセイ、ゆりかごから墓場までバカ野郎が
ついて回る、に続き、ブルーハーツという
80年代に一世を風靡したパンクバンドの曲の一節です。
これは、皆殺しのメロディー、という
かなり過激なタイトルの曲の中にある一節です。

我々人類は、バカ
過去現在未来、バカ
正義はあったのか、バカ
正義は勝ったのか、バカ

ブルーハーツが言う通り
きっと我々人類は、バカ、なのでしょう。
我々人類は、過去現在、未来永劫、バカ、なのでしょう。
正義はあったのか、バカ、なのでしょう。
正義は勝ったのか、バカ、なのでしょう。

だからボーカルの甲本ヒロトさんは
繰り返し
繰り返し
繰り返し
歌っていたのだと思います。
皆殺しのメロディーだ、と。

僕はやっぱり、人類の中で最も罪のない存在は
知的障害者、だけなのだと思います。
知的障害者は一般に、バカ、だと思われていますが
たぶん健常者とされる僕達ほど、バカ、ではないのです。
バカ、なのは、きっと健常者とされる僕達の方です。

皆殺しのメロディーだ。
切り裂きジャックを呼んでいる。
マシンガンのリズムだぜ。
皆殺しのメロディーだ。
夜の闇に悲鳴を上げた少年が、今オオカミに
なる、なる、なる、なる、なる、YH!



-皆殺しのメロディー(完)-
すっきりわかる「靖国神社」問題

皆殺しのメロディー(1) 2003.10.X 初出

現在の、靖国神社、に代表される
国家神道、というのものは、明治期に行われた
廃仏毀釈(仏教を捨てる)によって
誕生したものであります、という事は
以前にも書きましたが
それが現代においても、いわゆる、靖国神社問題、として
政治問題となっていたりするわけであります。

国家神道? 靖国神社? という読者の方も
おられるかもしれませんが
国家神道、靖国神社問題、というのは
最近では夏の風物詩となった観すらある
マスコミが靖国神社へ向かう自民党の先生方に
マイクを向けて、公式参拝ですか?
私的参拝ですか? とやっている
お馴染みのあれの事であります。

まずその、国家神道、靖国神社問題が
政治問題化するまでの経緯を確認しておきたいのでありますが
江戸時代までの日本では、神仏習合、という事で
神道の神社と仏教の寺院は一緒になっていたのであります。
今でも神社と寺院が隣り合わせているところは
多いものですが、あれは江戸時代までの
神仏習合の名残なのでしょう。
日本人はかつて、神仏習合、を当たり前のように
受け入れていたのであります。

ところが江戸末期のいわゆるペリーの黒船来航以来
西洋列強の圧力を受け始めた日本社会では
強力な近代国家を築き上げる事が
急務となったわけであります。
そこで主に伊藤博文らが中心となって
西洋文明の強力な一神教、つまりキリスト教に
対抗できる国教として、神社から仏教を
排斥したいわゆる、国家神道、を
造ることにしたわけであります。

熊野が生んだ大作家、南方熊楠は
この明治期の、国家神道、の整備のために
行われた、廃仏毀釈、に対して猛反対しています。
おい熊さん、何かあるのかい? というくらいの
すさまじい反対ぶりで
外国の学者に手紙を書いて
援軍を頼んだりもしています。

結局南方熊楠の猛反対も虚しく
この時期、日本全国で多くの仏像・観音像
が取り壊され、国家神道にそぐわない
神社も相当程度破壊されてしまったようであります。
その背景には、江戸末期に葬式仏教化して
金取りばかりしている仏教に対する
庶民の反感もあったと言われています。

で、僕は南方熊楠の肩を持ちたいのでありますが
南方熊楠の言うところでは
日本の神社というのは、史跡、名所としての効果に加え
動植物保存の効果、風俗、里伝の保存の効果
健全な愛郷心より出でた愛国心を
堅固にする効果、山林を保存する効果、
西洋社会に見られる公園としての役割、などなど
上げていったらきりがないほどの美点があるのに
それを破壊してしまうとは何事か、という事なので
あります。
これは日本の自然保護運動の原点とされる
南方二書、という文書に書かれている事です。

南方熊楠は、他のエッセイにおいても
日本の神社は、参拝することでたちまちにして
頭のてっぺんからつま先まで感化されてしまう
ものである、とか、それがわが国固有の
心の曼荼羅である、とか様々なことを述べています。

それらの事から僕は
神社を破壊することは、日本人の心を
破壊する事でもあるのだ、というメッセージを
受け取ったのでありますが
結局、南方熊楠の猛反対虚しく
国家神道整備のための、廃仏毀釈、によって
多くの神社・寺院がこの時期破壊されてしまいました。
この辺から日本人の心の荒廃が始まったのでは
ないか、と僕は見ています。

こういったわけで、僕は、明治以前には
自然に存在した、神仏習合、という感覚を
とても大切に思っているので
冷戦期に作られた、右翼だ、左翼だ、といった
イデオロギー対立に利用された神道には
正直言って余り興味がなかったりします。

神仏習合。
神も仏もみな、一緒。
こんなに広い宗教心は
世界広し、と言えど、日本しかないのでは
ないでしょうか。
今でもほとんどの日本人は
神様や仏様は……と呟いても不自然には
思わないはずです。それもきっと、神仏習合、の名残なのです。
でも欧米では事情が違うはずです。
神様は……と呟いたら、それはアッラーか
エホバか、となってしまうでしょうし
神様や仏様は……と呟いたら
あんたは、ユダヤなのかキリストなのかイスラムなのか
仏教徒なのか、それとも唯物史観に立つマルキストなのか
はっきりしろ、となってしまうでしょう。

で、たぶんそういった西洋先進国の姿を
知っていた明治の近代化の時期の
エリート達は、西洋の強烈な一神教(この場合はキリスト教)に
対抗するために、仏教を捨てて、国家神道を作りあげたのだと思います。

そして明治以後の日本社会は、靖国神社を頂点とする
国家神道のもと、急速に近代化していくわけです。
戦争の際、日本軍の兵士達は、靖国で会おう、と
励ましあっていたという話です。
つまり戦死した日本軍の兵士達は、神様として
靖国神社に祭られる事になっているのです。

で、近代国家日本のために戦って戦死した兵士達の霊
いわゆる、英霊、を祭ってある靖国神社に
最も保守的な政党である自民党の政治家が参拝するというのは
ある意味当然の行為であると言えるわけであります。
ちなみに小泉首相は、神風特攻隊の遺書を読んで
涙を流したと言われています。

でも日本の戦争は、GHQが行った東京裁判で
侵略戦争であるとされ、その戦争を
遂行した人達は、戦争犯罪人、とされているわけです。
そうなると、中国政府や韓国政府の側からは
戦争犯罪人、を祭る靖国神社に
国家の最高権力者が、私人としてではなく
公人として公式に参拝するとはいったい何事か、という事になるわけです。
でも自民党の政治家にしてみれば
近代国家日本のために命を捧げた人々を
祭る靖国神社に参拝するのは
戦没者遺族の方々に対する最低限度の礼儀だろう、となるわけであります。

そういったわけで毎年夏になると、マスコミが
靖国神社に参拝する政治家の方々にマイクを向けて
私的参拝ですか、公式参拝ですか、と聞く
そして政治家の側が渋い表情を見せる、という
お馴染みの騒ぎを僕達は見せられる事に
なるわけであります。
そして中国政府や韓国政府から遺憾の意の表明が
あった後、なんだかよく分からないまま事態が終息する。

戦争を知らない子供達、どころか
高度成長期すらも知らない子供達が圧倒的に
増えた現代社会にあって、
あの毎年夏の騒ぎはいったい何なのだろうねえ
お父さん、という話になるわけですが
実はそのお父さん自身も戦争を知らない子供達なので
お父さんもよく分からない、という話になるわけです。
で、ほとんどの人にはマスコミだけが一人歩きしているように見えてしまう。

日本の国家神道、靖国神社問題、の流れはだいたいこんなところで
あるわけですが、こうして書いてきてみるとホントに複雑ですね。
その複雑な政治問題を、とりあえず
私的参拝ですか? 公式参拝ですか? と
聞いておけばいいだろう的アプローチで夏の風物詩と
化してしまっているマスコミの報道姿勢に
僕はちょっと不満があるので
ズラズラと書いてきてみたわけであります。
で、せっかくズラズラとここまで書いてきたので
今日はもっと大きくズラズラと書いていこうと思います。



-皆殺しのメロディー(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/10/2200310.html

ゆりかごから墓場までバカ野郎がついて回る 2003.10.X 初出

少子高齢化社会を打開しようとする
アプローチの一つなのだと思いますが
最近、若者よ、もっとセックスしろ! 的
過激な発言をお偉方からよく聞くようになりました。
でもかなり過激な発言です。
若者よ、もっとセックスしろ!

卵のなかみ、でも折に触れて書いてきましたが
現代は余りに若者達にとって、サバイバルの条件が
悪すぎる時代です。
失業問題から社会保障制度の破綻から
狂ったTVCMの悪影響から何から
挙げていったら切りがないくらいです。
責任感あるまともな人間なら、こんな時代に
子供を持ってしっかり育てていけるのだろうか、と
不安になるのが当然の状況です。
結婚している僕の友人が、奥さんが30歳超えちゃったけど
今の(社会)状況じゃ、とても子供なんかつくれないよ、と
ボヤいていましたが、それがほとんどの若い人達の正直な感覚だと思います。

で、先日、某老政治家が、集団強姦事件を起こした学生達を、
元気があっていい、などと持ち上げて物議をかもしていましたが、
要は、その老政治家は、それくらい元気一杯セックスして
少子化問題を解決しろ、という事を言いたかったのでしょう。
でもそれは決定的に間違っています。
強姦を、元気がある、と捉える感覚は
明らかに異常です。
強姦は、刑法で懲役刑とされる立派な犯罪です。
国政に関わる政治家が、その強姦を、元気があっていい、と評する、
というのは、明らかに異常です。
どうなってしまったのだろう、この国は。

そもそも強姦や殺人といった類の犯罪は
法律以前の罪であって
婦女子を力で犯してはならない、というのは
人類普遍のルール、自然法のはずです。
僕は性観念のおかしな民族・部族の話は
たくさん本で読んだことがありますが
強姦を許す民族・部族の話は、まだ聞いた事がありません。
その普遍的罪である、強姦、を
ヤ○ザではなく、国政に関わる政治家先生が
元気があっていい、と持ち上げるのは明らかに異常な感覚です。
他にも少子化委員がAV男優を持ち上げたとか
どうとか、なんて話も聞きますが
ホントにいったいこの国はどうなってしまったのでしょう。
まるで旧約聖書で神に滅ぼされた
ソドムとゴモラの町、の様相を呈してきました。
ホントにもうすぐこの国は滅んでしまうのだろうか。

権力の側は、いわゆる、できちゃった婚、でも
何でもいいからとにかく子供を産め、と言いたいのかもしれませんが、
まともに考えれば、避妊方法の普及した現代社会にあって、
単純に、セックス、を奨励したところで出産・育児にまで繋がるはずがない、と
僕は思うのですがどうなのでしょう。

元人気アイドルが、赤ん坊を抱えたTVCMを
流したりするアプローチも見られますが
そのTVCMを観て、私も早くママになりたい、と
思う人が今時そんなにいるとは思えません。
やらないよりはマシでしょうが。

要は、近代国家というのは時に応じて
生産性に繋がる性を必要とするのだ、という事なのでしょうが、
生産性に繋がる性を国民に定着させたいのであればセックスを奨励するよりも
むしろ中世のキリスト教カトリック的な
生殖以外のセックスは認めません、
マスターベーションもいけません、
避妊禁止、というアプローチの方が有効なのではないかと僕は思います。
でもそれも現実的ではありませんね。
近代国家と個人の性、非常に難しい問題です。

中国でかつて人口爆発が懸念されていた時
俗に、一人っ子政策、と呼ばれる政策が採用されていた
というのは、よく知られるところですが
その政策は人口抑制の効果と同時に
戸籍のない子供達をたくさん発生させてしまいましたし
二人目以降の子供が、いわゆる、間引き、されたりという
とても暗い影を残しました。

お隣り韓国でも、60年代までは出産率6.0人ということで
人口爆発の懸念があったため、避妊法を
普及させたり、政府がキャンペーンを行ったりして
なんとか人口を抑制していたようです。
でも最近になって出生率が1.5人近くまで落ちてしまい
このままでは韓国の生産人口が減ってしまう、という事になったらしく
韓国政府は、なんとか若者達にセックスさせて子供を産ませよう、と
躍起のようです。
今の日本の状況と似ています。

たぶん近代国家が、個人の、性、を管理しようと
するのが間違いなのだ、と僕は思うのですがどうでしょう。
ミッシェル・フーコーという思想家が、その辺を
かなり突っ込んで研究しているのですが
国家が、個人の、性、を管理しようとするから
生産性に結びつかない性を持つ
性的マリノリティーの人々、いわゆる、ゲイ、であるとか、
レズビアン、である人とかが差別を受けるのだ、というのが
フーコーの視点だったように思います。
ちなみにミッシェル・フーコー自身ゲイだったと
言われています。フーコー自身が、個人の、性、に
口出ししてくる国家権力が気にいらなかったわけですね。
三島由紀夫もその気があったと言われています。
残念ながら僕はノーマルなのですが
僕は、近代国家と個人の性、に関しては
産みたい夫婦は産めばいいし、
産みたくない夫婦は産まなければいい、ただそれだけの話だと思います。
人間は厩舎で種付けしている種牡馬とは違うのであります。
近代国家の都合で、セックスしろ、とか、するな、とか
言われる筋合いはないのではないかと思ってしまいます。

政府がどうしても外国人労働者を受け入れる事なく
生産人口を増やしたいのであれば
若い夫婦が子供を産んでも
安心して育てられる社会設計をすべきです。
そうすれば生産人口は自然に増えると思います。

そういった本質的な部分はおざなりにしておいて
若者よ、もっとセックスしろ! 的なことを言うのは
ズレているし、間違っていると思います。
はっきり言って余計なお世話であります。
まして集団強姦事件を起こした重罪人達を
元気があってよろしい、などと持ち上げたりする感覚は
どう考えても異常です。
ホントにいったいどうなっているのだろう、この国は。

その老政治家は、日本人が一丸になって
国家の近代化に取り組んでいた時期を
イメージしているのでしょうが、もう完全にズレています。
国民はもうそんなに無知ではありません。
子供をたくさん産んで少子化問題解決に寄与した夫婦は
政府から表彰されるのとでも言うのでしょうか。
その政府はきっと、時代状況が変われば
今度は、あまり産みすぎるなよ、と言うのです。
それが近代国家と個人の性の問題の
本質なのでしょう。

僕は今やっとブルーハーツという
80年代に一世を風靡したパンクバンドが
千のバイオリン、という曲で伝えようと
していた事が分かりました。
その曲の中に、こんな一説がありました。

ゆりかごから墓場まで、バカ野郎がついて回る。

政府が国家の都合で、個人に対して
もっとセックスしろ、と言ってみたり
セックスするな、と言ってみたりする。

全くブルーハーツの言う通り
ゆりかごから墓場まで
バカ野郎がついて回るのであります。



-ゆりかごから墓場までバカ野郎がついて回るー

フーコー入門 (ちくま新書)

小説とは何か(5) 2003.10.X 初出

そもそも小説が進化してきた、というよりも
小説は時代を書いているわけなので、その時代の側が変化しているだけ
だったりもします。

川端康成のノーベル文学賞受賞は、日本のオリエンタリズムが
世界に認められたわけですが、大江健三郎さんの場合は
オリエンタリズムではなくて、普遍、として認めらた感があります。
安部公房(アベコウボウ)という洒落た名前の作家も
ノーベル文学賞を狙えた、と言われていましたが
安部公房氏の小説も、日本のオリエンタリズムとは無縁の普遍的、な小説です。
これからは、普遍、をテーマにした小説しか成り立たないかもしれません。
日本のオリエンタリズム溢れる小説を書こう、と思っても、
社会が完全に近代化・西洋化してしまったのでもう書く対象がなかったりします。

日本であり、且つ、普遍的な小説、がベストかもしれません。
小説ではありませんが、北野武さんの、HANABI、という映画は、
日本であり、且つ、普遍的な映画、でした。

では翻って、その普遍とされる西洋文学とは
いったいどのようなものか、と考えてみますと
これは、存在の耐えられない軽さ、という小説で知られる
ミラン・クンデラという作家が、小説の精神(法政大学出版局)という
中々面白いエッセイ集を書いています。
以下引用。

至高の審判者、の不在の中で
世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわしました。
神の唯一の、真理、はおびただしい数の、相対的真理、に解体され、
人々はこれらの相対的真理を共有するようになりました。
こうして近代世界が誕生し、と同時に
近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある
小説が誕生したのでした。(7ページ)

小説。すぐれた散文形式。この形式において作者は
実験的自我(登場人物)を介して実存のさまざまな
重大な主題をとことん考察する。(170ページ)

要はミラン・クンデラの小説観で言えば
近代化して人々が神の死亡を知ってしまい
至高の善悪の基準がなくなって価値観の相対化がおき
何が正しくて何が間違っているかわからなくなって
しまったところに、小説、が発生し
作者は作品の中で相対化してしまった価値観の中で
生きる人々の姿を書いて行くのだ、ということになります。

やはり神の死亡なのかな、と思ってしまいます。
僕はこのエッセイで98年から2002年にかけて
日本社会は完全に近代化したのだ、という事を何度も
書いてきましたが、それは同時に日本社会でも
神が死んでしまったという事を意味します。
僕は一般の人々が神の死亡を知る、それを持って
近代化は達成されるのだ、と考えています。
2003年現在の近代化した日本社会では、
もう倫理観の最終的なより所としての神は死んでしまいました。
それに加えて、日本社会独特の、世間様、というものも
機能しなくなってきているので、普通こうだよね、という形で
分かり合える部分もどんどん減ってきています。
ある意味今こそミラン・クンデラの定義するところの
小説、を読んで、一人一人が人間の実存的問いに思いを
馳せなければならない時代だったりするわけですが
パソコンや携帯電話の操作を覚えるのに時間を
取られてしまって中々、小説をきっちり読む、という
時間がとれなくなっているのが現状だったりします。

それがコミュニケーション不全を起こし
社会の様々な場面で悲劇的な事件となって
噴出しているような気がします。

近代化による神の死亡と近代小説の発生、というのは
イスラム世界を見るとよく分かります。
イスラム世界では、まだ神が死んでいないので
つまり近代化が達成されていないので
アラーやマホメッドを侮辱した小説を書いたり
すると、ファトワ、が出せれて
作家の身に危険が及ぶ場合があります。

実際、悪魔の詩、でイスラム教を冒涜したとされる
サルマン・ラシュディという作家には
ファトワが出されました。
ファトワ、死刑です。
アナカシコ、アナカシコ……。

イスラム世界はそういう世界なので
今も上手く近代化できずにいます。
近代化できないと、結局西欧先進国との関係で
経済的格差が開いてしまうので、奴らは悪魔だ、などと
いう話になってしまいます。
たぶんそれがテロの温床になっていると思います。

日本でも明治期に廃仏毀釈(仏教を捨てる)によって
成立した国家神道が、国体概念、として機能していた頃は、
天皇陛下について下手なことを書くと死人が出る、などと言われていたようです。
最近、建国義勇軍、を名乗って爆発物をしかけたり
している事件が増えていて僕は大変気がかりなのですが
ほとんどの人は支持する、というよりも
眉をしかめている、という感覚だと思います。
というか、そうであって欲しい。

前回の、ポップなお地蔵さん、のエッセイにも
書きましたが、現代の日本社会は、消費者金融が地蔵菩薩を
ポップなキャラにしたてて借金を薦めるTVCMを大々的に流しても
基本的に誰も文句を言いません。
つまり日本は良くも悪くも完全に近代化してしまったので、
神の死亡、価値観の相対化、という段階にきているわけです。

サカキバラ事件を起こした少年に小説を
書かせたかったという人がたくさんいた、というのも
このラインで考えるとよく分かります。
人々が完全に神の死亡を知ってしまって
価値観の基準となるべきものがなくなって
しまった現在の日本社会にあって
あの少年は、透明な存在の不安、を
自らのうちに、バイオモドキ神、を創造する事で
解決しようとし、凶行に及んだわけです。
そこには、ミラン・クンデラ的意味での
近代小説、が誕生しています。
誤解されると困りますが
だからあの少年が偉い、という事では決してありません。

やはりあの少年は、その毒を小説で表現すべきだったのかもしれません。
不謹慎な表現ですが、小説の中でなら
何人殺してもいいのです。
僕はあまりそういう小説を読みたいとは思いませんが。

あ、俺このままではヤバいかも、という
感覚を抱えている人は、小説を書いてみるといいかも
しれません。別に賞を取るとか取らないとかは
抜きにして、そういったプロセスは自分に対する
セラピーになるかもしれませんし、
少なくとも人間に対する認識が深まる機会にはなるはずです。
一人で抱えていた心のおりを、他者に読ませる作品を意識して
書いてみることで、自分に対する他者性を獲得できます。
あ、俺の感性ヤバいかも、と思えるのが他者性です。
他者性を獲得できれば、暴発して凶行に及ぶ
少年は減るような気がします。

以上、小説とは何か、と大きく飛び出して
ズラズラと書いてきてみたわけですが
小説とはいったい何なのだろう……。
小説とはヤバいこと!?
いや、やはり現代のノーベル文学賞作家である
大江健三郎さんが言うとおり
小説とは、精神のことをするとこ、なのでしょう。



-小説とは何か(完)-

古代研究〈3〉国文学の発生 (中公クラシックス)

日本の名著 1 (中公バックス)

日本書紀〈2〉 (中公クラシックス)

日本書紀〈3〉 (中公クラシックス)

口語訳古事記 完全版

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)

日輪の翼 (小学館文庫―中上健次選集)

愛と幻想のファシズム〈上〉 (講談社文庫)

愛と幻想のファシズム〈下〉 (講談社文庫)

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)

奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)

暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)

天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1)

風の歌を聴け (講談社文庫)

個人的な体験 (1964年)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)



小説とは何か(4) 2003.10.X 初出

折口信夫翁の国文学の発生からズラズラと
小説とは何か、という事を大きく考えてきました。

このラインで考えてみると、古事記や日本書紀といった、大説、と
個人の精神の葛藤をオーバーラップさせた
中上健次さんの日輪の翼という、小説、や
日本の近現代史という、大説、と個人の精神の葛藤を
オーバーラップさせた三島由紀夫の、豊饒の海、という
小説、の評価が高いのも頷けます。
日本の現代史という、大説、と個人の精神の葛藤を
オーバーラップさせた村上龍さんの、愛と幻想のファシズム、も
やはり素晴らしい、小説、なのでしょう。

日本文学というのは、折口信夫翁言うところの
官を、大、とし、民を、小、とする
官尊民卑の思想からきた、小説、という概念から出発し
それがやがて、ノベル、の訳語となり
大江健三郎さんが言うところの
精神のことをするとこ、文学、に至った。
そして現代の俗に、W村上、と呼ばれる
村上龍さんや村上春樹さんのような
西洋文学を吸収したスタイルにまで
進化してきたのかもしれません。

W村上、の、小説、はどれだけ進化しているか。

村上春樹さんの第一作、風の歌を聴け、は
書き上げた、テキスト、を、一度全文英訳してから
和訳しなおして完成させたと言われています。
村上春樹さんのその努力は凄いものがありますが
そういったプロセスを経て、日本語のベタベタした感じを
テキスト、から抜き取る事に成功したわけです。
本当に凄い努力ですが、そういった努力を
一読して見抜く文壇の選考委員達の、読み、も
また凄いものがあります。
僕はたぶんそこまで読めません。

対して、村上龍さんの第一作、限りなく透明に近いブルー、は、
主人公の内面の葛藤がほとんど書いてありません。
ただ、米軍基地のある街、で、薬物を吸って
乱交に及ぶ若者達の姿が詩的に描かれているだけです。
発表当時は、こんなものは、文学、ではない、と
酷評されたそうです。ただの風俗小説だ、と。
麻薬やセックスは、当時(70年代)の日本社会では
まだ大っぴらには話せない話題だった、という事も
あったのでしょうが、限りなく透明に近いブルー、は
100万部売れたそうです。
実際、覗き見趣味的、興味本位で売れた部分も
あったのでしょう。
まさに風俗小説的に読んだ読者もいたのだと思います。
でも今となれば、それが日米安保以来
一貫して米軍基地に侵食されている日本文化の
原点であったと分かります。

2003年現在、日本全土がアメリカの基地になって
しまったので、薬物をキメて乱交に及ぶ若者達、という
刺激的な見出しが週刊誌の広告を飾っても
別にほとんどの人は驚かなかったりします。
その元締めが、ビッグな芸能人の息子だ、となると
話はまた別ですが……。
たぶん現在、お嫁さんに行くまでは処女でいたいの、という古典的な女性は、
笑われてしまうのではないでしょうか。
処女はダサいから、テキトーな男と
さっさとセックスしておきたい、という若い女性はきっと多いでしょう。
もう、限りなく透明に近いブルー、は日常化してしまったのです。
限りなく透明に近いブルーだ。

ちなみに村上龍さんの、限りなく透明に近いブルー、の
評価が文壇の選考委員の間で割れた時
卵のなかみ、でも何回か紹介している、死霊、を
書いた埴谷雄高翁の鶴の一声で受賞が決まったそうです。
埴谷雄高翁が、限りなく透明に近いブルー、を押した
理由がまた凄くて、今日の朝、天気が良かったから、だそうです。
今日の朝、天気が良かったから。

爆! という感じがしてしまいますが
その後村上龍さんが、20年以上第一線で書き続け
現在芥川賞の選考委員になられた事を考えると
埴谷雄高翁の、炯眼畏るべし、という気がします。

今日の朝、天気が良かったから、で歴史は動いてしまう。
このエッセイで僕は何度か書いてますが
やはり大切なのは太陽なのではないか、と思ってしまいます。



-小説とは何か(5)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/10/5200310.html

小説とは何か(3) 2003.10.X 初出

日本ではかつて、私小説、という分野の小説が
大変盛んで、文学と言えば、私小説、といった認識が
今も残っていたりしますが、私小説が喜ばれる、というのは
日本独自の文化だったようです。

かつての日本の私小説の作家は、たいてい自身の内面の
葛藤を書き綴っていって、最後は書かれた本文、テキスト、と
作者自身の人生が重なってしまい自殺に至る、というケースが多かったようです。
なんとも痛ましい話なのですが、日本人はかつて
そういう小説こそ、文学だ、として喜んでいたわけです。
私は死にます、私は死にます、という小説を書いているうちに
本当に作者が死んでしまう。
そういうケースを、テキストに喰われる、と言ったりしますが、
そういった面では、書く、という作業は大変恐ろしい行為であったりします。
現代ではホームページ上で誰もが自身の内面の葛藤を
公表できるようになりましたが、書かれたテキストに
喰われて死んでしまう事もあるのだ、という、書くことの恐ろしさ、を
頭の片隅に置いていて損はないと思います(僕も含めてね)

で、かつての日本では、そういった、私小説、が
最も、文学、とされていたのです。
ノンフィクションの、自殺モノ、が最も、文学、とされていた。
なんとも凄まじい話ですが
やはり日本人は死なれると、もう駄目、なのでしょうか。

そういったタイプの私小説があまり流行らなくなってしまったのは、
近代化を達成し多くの人が、純粋なる日本精神、をなくしてしまった事と
関係があるのかもしれません。

ちなみに現代のノーベル文学賞作家、大江健三郎さんは
小説とは、精神のことをするとこ、と定義されているようです。

確かに近代以降の小説というのは
人間の内面に入り込んで行って
精神のこと、を深く掘り下げていったものの方が上質、とされているように
思います。
そういった部分を、文学、と呼んでいる観があります。

小説、という言葉は、先述の折口信夫翁が言うところの
民間説話・伝説の記録、というニュアンスから
出発し、西洋から来た、ノベル、という概念の訳語となり、
精神のことをするとこ、文学、に至ったのかもしれません。

僕は文学史家ではないので、正確ではないかも
しれませんが、こうして一つの言葉の由来を追っていくだけでも
結構な事が学べてしまいます。
言葉って不思議です。



-小説とは何か(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/4200310.html

小説とは何か(2) 2003.10.X 初出

小説とは何か。

手元の三省堂大辞林によると
坪内逍遥が、小説神髄、で、ノベル、の訳語として
小説、を用いた、とあります。

僕は少しガッテンしました。
国文学の世界において、官を大とし
民を小とする、官尊民卑、の思想から
官僚の編纂したものを、大説
民間説話・伝説の記録を、小説、としていたところに
西洋文明から、ノベル、という概念が
流入してきたので、その訳語として、小説、を当てはめたのだな、と。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
絶対にそうだ。

ちなみに英語では、小説のもっとも小説らしい部分を
フィクション、と呼ぶらしいですが
これは日本語の語感とは少し異なります。
日本語化した、フィクション、と言えば
作り話、という感じがします。
ノンフィクション、というと、事実を書きました、という感じがしますが、
やはり英語と日本語は微妙に違うのだな、と改めて認識させられてしまいます。

明治の近代化の時期には、坪内逍遥や福沢諭吉などの
先生達が、そういった英語圏の文化の背景にまで
想像力を働かせながら新概念を日本語に訳していったのでしょう。
ですが現代は新概念の流入のスピードが速すぎて
カタカナ語だけで済ませてしまうしかない、という状況のように思います。
お年寄り方からは、最近世の中カタカナ語ばかりで
何が何だか分からない、と言った声も聞こえてきます。
困ったものです。




-小説とは何か(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/3200310.html

小説とは何か(1) 2003.10.X 初出

小説とは何か?

と、いきなり大きく出ましたが
僕は小説家を目指していながら
こういった基本的な問いを今まで
疎かにしていたのであります。
それで先日、折口信夫という国学者の、古代研究Ⅲ
国文学の発生(中公クラシックス)という本を読んで
いて、僕はハッと目を見開かされたのでありますが
折口信夫翁によりますと、小説とは
民間説話・伝説の記録である、との事です。
民間説話・伝説の記録が小説。
だから当然、そこには誇張や演出が入り込む
余地があるわけです。
小説は、民間説話・伝説の記録であるわけなので
その発生において既に、正確な事実の記録である事を
求められていないのだ、とも言えます。

どうしてそういった、民間説話・伝説の記録、を
小説、と呼ぶようになったのか、と言いますと
かつて史官の編纂した、史記、に絶対の権威があった
時代に、官、の編纂したものを、大、とし
民、の記録したものを、小、としていたところから
きているようなのであります。
即ち、官僚の編纂したものを、大説
民間の記録したものを、小説、としたようなのです。
そこには、官、を大とし、庶民・市井、を小とする
官尊民卑の思想が見られます。

官尊民卑の思想は、良くも悪くも
東アジアの伝統なのかもしれませんが
2003年現在の日本では、その東アジアの伝統
官尊民卑、が終わって、民尊官卑、の時代に
なろうとしています。
現代はやはり大変化の時代なのですね。

少々話が逸れましたが
小説、という言葉が、東アジア独特の
官を大とし、民を小とする、官尊民卑、の思想から
きていた、というのは、僕としては
非常に面白い発見でした。
でもそれはあくまで、国文学の発生、古代研究、の世界での話であります。



-小説とは何か(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2200310_668.html

ポップなお地蔵さん(2) 2003.10.X 初出

某消費者金融のTVCMに出てくる
とてもポップなお地蔵さん、お自動さん、とは
いったい何者なのだろう、と僕は思うわけであります。

生活苦で地獄に落ちてしまった衆生を
お自動さん、は、あまねく平等に救ってくれるとでも
言うのでしょうか。
地蔵菩薩様が、地獄で救ってくれた見返りに
お布施として金を取る、などという話は聞いた事がありません。
でも、お自動さん、は、高い金利を取るのだそうです。
何かおかしい、と思うのは僕だけではないような気が
しますが、どうでしょう。
僕の周りには、最近の消費者金融のTVCMの無軌道ぶりに
憤りを覚えている人達がたくさんいます。

僕はあのTVCMは絶対によくないと思う。
ずるいな、と思うのは、地蔵菩薩様をポップさにくるんでかわいい、
お自動さん、にしてしまっているという事。
とてもポップなお地蔵さん、お自動さん、に
してしまっているという事です。

少々話が逸れてしまいますが、まずその、ポップ、について考えてみたいと
思います。

アメリカ文化の強さはアンディ・ウォーホールに代表されるポップ性に
あるとはよく言われますが、戦後日本人はマクドナルドやコカ・コーラが
入ってきてもアメリカの思想が入ってきているとは気がつきませんでした。
何故か? 
それらがとても、ポップ、だったからです。
ポップは思想を隠します。

戦中派の人達は、街中でところかまわず
歩きながら飲み食いする若い人達を見て
眉をひそめますが、要は戦前の日本には
マクドナルドやコカ・コーラに代表されるものが
なかったわけです。
別にGHQに命令されて日本人がところかまわず
飲み食いするようになったわけではありません。

ちなみに70年代頃の日本では、マックが一番お洒落な
店だったそうです。
僕が子供の頃は、コカ・コーラ、が格好よく見えた気がします。
最近ではその本質がバレてしまって
マックをお洒落な店だと思う人はいないだろうし
コカ・コーラのビンを並べたりする人は
コレクター以外にはいないと思います。

では何故戦後のある時期まで
マックやコカ・コーラが格好よく思えたのか。
それは、勝者の文化だから、という事プラス
たぶん、ポップ、だったからなのだと思います。
ポップは思想を隠します。
その、隠された何か、によって日本文化は戦後
かなり侵食されてしまったのだと思いますが
その何か、はきっと重要なものなのだと思います。
イスラム圏では、その何か、を警戒して最近
コカ・コーラに対抗してメッカ・コーラを
発売したらしいですが、気持ちはよく分かります。
僕が子供の頃、ビートたけしさんCMの
ジョルト・コーラというものがありましたが
(確かカフェイン2倍がウリでした)
あれはもしかしたら、コカ・コーラの持つ何か、に対して対抗していたのでは
ないか、と今思いました。
ジョルト・コーラは日本のメッカ・コーラだったのです。
何か深読みし過ぎているような気もしますが
北野武さんはやはり凄い人だな、と今改めて思いました。

そういった文化の持つ力を
ソフトパワーと言うらしいのです。
ハーバード大学のジョセフ・ナイという政治学者が
ソフトパワー論というのを提唱していますが
アメリカ上層部は結構その辺意識的なわけです。
アメリカの上層部はとんでもなく頭がいいから
手に負えません。とにかく全てにおいて戦略的なのです。

そういったソフトパワー、文化の感染力のようなものの中でも
ポップカルチャーは、思想が見えないだけに
警戒のしようがないため実は最も強力なのでは
ないか、と僕は思ってしまいます。

ポップは武器です。
日本はどんどんピカチュウを輸出すればいいと思います。
ピカチュウは日本最強のソフトパワーです。
ピカチュウは人々に警戒心を持たせないので
外国の人は、ピカチュウを見ても
日本の思想が入ってきているとは
感じないと思います。
ちなみに僕は、一度観光地でピカチュウバスを見かけた
事があるのですが、なんだか嬉しくなってしまって
難しい事を一切考えずにピカチュウバスに
乗ってしまったことを覚えています。

なんだか嬉しくなってしまって
難しい事を一切考えずに~してしまう。

それがポップの力なのではないかと思います。
その感覚はきっと、インテリ先生が100万言を尽くしても
説明できない性質のものなのです。
論理ではなく感覚に訴えるもの。
左脳ではなく右脳に訴えるもの。
それがポップの持つ力なのだと思います。
インテリにポップは無理だ、と
かつて村上龍さんが発言していましたが
全くその通りです。
インテリ先生が百万言を尽くしても
ポップの力は説明できません。
だからそれは力なのだ、と僕は思います。

つい最近まで、反日、というキーワードで
国民の一体感をキープし、国家の近代化に
取り組んでいた大韓民国が、日本文化の
流入を制限していたのもそのためなのでしょう。
韓国のインテリ先生達が、百万言を尽くして
国民に反日思想を吹き込んだとしても
ピカチュウが侵入してきたら
韓国の子供達は、日本を好きになってしまいます。
それは日本人がディズニーランドで
アメリカを好きになってしまったのと
パラレルなのだと思います。

そういった関係は、実は近代国家同士の文化戦略だけに
限らなくて、ヤッシー人形などで上手くポップ性を獲得する事に
成功している田中康夫長野県知事と長野県民の関係も同じだと僕は思います。
ポップは力です。
ヤッシー人形は警戒心を持たせません。
田中康夫知事の政治理念がどういったものか
分からなくても、ヤッシー人形に代表されるポップ性で
改革してそうに見えてしまいます。
インテリ先生が百万言を尽くして
田中康夫知事の政策批判の文章を書いたとしても
ヤッシー人形のポップ性の前には敗北してしまう。
ポップは力です。
そういった政治手法はテレビとセットなのでしょうが
現代文明はテレビなしには成立しないのだから
仕方がないと思います。
嘘も方便、なのだから、田中康夫知事は、ヤッシー人形を前面に
出していけばいいと思います。
ちなみに僕は田中康夫氏がどういう考えを持っている人
なのかよく知りません。
でもヤッシー人形が振りまく、改革っぽい雰囲気、は
よく知っています。
その点で既に僕もメディアに侵されているわけです。
現代の政治家には俳優の才能が求められるし
現代の有権者には映像の嘘を見抜くメディアリテラシーが
求められるという事なのでしょう。

と、ズラズラとポップの力、映像の力、ソフトパワーについて
書いてきたわけですが、そういった手法を駆使して、高利貸し、の
イメージを変えようとしている
消費者金融のTVCMはよくないのでは
ないか、と僕は言いたいわけであります。
特に、お自動さん、は、絶対よくないと思う。
仏教関係者はどうして何も言わないのだろう。

僕が子供の頃は、サラ金だけには手を出すな、と
よく教えられたものですが、最近の消費者金融のTVCMを見ていると、
だんだんお金を借りることへの罪悪感がなくなってきます。
これから若い夫婦が子供を育てようとする時に、
果たして、サラ金だけには手を出すな、と子供に教えられるだろうか、と
疑問に思ってしまいます。
TVCMでは借金を奨励しているようにさえ見えます。

もちろん借金が全て悪いわけではなく
ここが勝負どころだ、と思ったら借りるのも手だし
車を買う時なども頭金だけ払って
後はローンで、いう方が便利な場合もあります。
でもサラリーマン金融というものは、そういう性質のものではないような
気がします。

僕は高利貸しと売春は、人類の文明の本質に関わる
普遍的なテーマだと思います。

ユダヤ人は差別でまともな職につけなくて
高利貸しとして身を立てたために、ますます嫌われる、という歴史を
たどりましたし、イスラム世界ではマホメッドが金利を取る事を
禁止したりしました。
借金が返せないなら娘を風呂屋に突っ込め、というのは
昔はおなじみの脅し文句でした。
シェイクスピアの、ベニスの商人、という小説では
借金の返済の代わりに胸の肉を差し出すのは是か否か、という、
人肉裁判、が重要なモチーフとなっています。

そういった人間の悲喜劇が凝縮される高利貸しという行為を、
ポップ性にくるんで隠す、というのはズルいと思う。
まして多くの人々の悲痛な祈りを受け止めてきた
地蔵菩薩様を、お自動様、などというポップなキャラクターにしたてて
借金を薦めるTVCMを大々的に流す、などという行為が許されるのだろうか。

そう言えば、売春、も、いつの間にか
援助交際、というポップなイメージに
変換されてしまいました。
援助交際とテレビの関係についてもいずれ書く予定です。

僕は子供の頃からテレビがあまり好きではありませんでしたが
最近では、嫌い、という感覚に近くなってきているのに今気がつきました。
TVの普及をさして、一億総白痴化、と評したのは
大宅壮一だったと思いますが、もうそんなレベルを
超えているように思います。
もう狂気に至っているような気がする。
そして、毎日大量に浴びせられる狂った情報は
食品添加物のように次第に人々の深層意識に
蓄積されていくのです。
僕は知的障害者が人類の中で唯一罪のない存在だと
考えているので、一億総白痴化、という表現は使いたく
ありません。
あえて現在の状況を言えば、一億総狂気です。

ドス黒いメッセージを隠したポップなTVCMが
溢れていますが、そのポップ性を剥ぎ取られた
本物の地蔵菩薩にはやっぱり凄みがあるし
本物の売春の現場はとても生々しいと思うし
高利貸しもかなりドギツイ業界のはずです。
僕の知人はサラ金業界に入って三ヶ月で辞めて
しまいました。凄かったそうです。

偶像崇拝も売買春も高利貸しも
人類の業なので、なくなる事はないと思います。

でもそういった人間の悲喜劇が凝縮される
ディープな性質のものを、ポップさにくるんで
大々的にTVCMで流すという社会は
狂っているとしか言いようがありません。




-ポップなお地蔵さん(完)-
狂雲集 (中公クラシックス)

コーラン〈1〉 (中公クラシックス)

コーラン〈2〉 (中公クラシックス)

ヴェニスの商人 (光文社古典新訳文庫)










ポップなお地蔵さん(1) 2003.10.X 初出

お釈迦様は、偶像崇拝はいけない、としていたそうです。
つまりお釈迦様は、特定の偶像を拝んではいけいない、としていたのです。
僕は何故か、どういうわけか、どういう巡り合わせか
今日はお地蔵さんの話を書いてみようと思ったのでありますが、
お地蔵様信仰、というのは、お釈迦様が考えたものではないわけです。
お釈迦様は、偶像崇拝はいけない、としていた。

ちなみに、イスラム教もユダヤ教も
偶像崇拝を認めていません。
イスラム原理主義勢力、タリバン、が、バーミヤンの大仏を破壊して
世界中から非難された事件は記憶に新しいものですが、
イスラム教が偶像崇拝を認めていない事と無縁ではないような気がします。
宗教というのは、人々の感覚や感受性、最終的な正邪の判断にまで
影響を及ぼしてしまうものなので厄介ですね。

僕はその、偶像崇拝、というのはどちらかというと
教祖がいなくなった後に後世の指導者が
民衆を教化するために作った、嘘も方便、の類ではないか、と今のところ
考えています。
お地蔵さん信仰も、そういった流れの中で
出てきたものではないかと思うわけです。

ちなみに、お地蔵さん、というのは
正確には、地蔵菩薩、と呼ばれる菩薩様で
地獄に落ちてしまったどんな悪人でも
あまねく平等に救ってくださる
大変有難い菩薩様であるそうです。

中世の破戒僧、一休禅師、一休宗純は

南無釈迦じゃ、
娑婆じゃ地獄じゃ極楽じゃ
どうじゃこうじゃと
言うが愚かじゃ

という大変格好いい歌を遺していますが
全くその通りで、僕は人間が生きていく現実の中に
天国も地獄もあるのであって、死んでしまってから
天国に行ったり、地獄へ行ったり、という事は
ないのではないか、と思ってしまいます。

南無釈迦じゃ、
娑婆じゃ地獄じゃ極楽じゃ
どうじゃこうじゃと
言うが愚かじゃ

この大変格好いい歌を遺した、一休宗純、という
中世の破戒僧は、僕が子供の頃あったアニメ、一休さん、のモデルと
なった人物でもあります。
二十代後半以降の方はご記憶かと思いますが
頓知小僧、一休さん、は、将軍様こと足利義満の
押し付ける無理難題を、毎回頓知(とんち)で切り抜けていきます。
確かそんなアニメだったように思います。

一休宗純はその名も、狂雲集、という歌集を遺していますので
興味のある方はどうぞ読んでみて下さい。
中央公論新社の中公クラシックスから出ています。
僕もその、狂雲集、読んでみたのですが
一休さんこと一休宗純は、中々熱い人で
自殺未遂を起こしたり、女のもとに入り浸ったり、と
中々の、破戒僧、ぶりを発揮しています。
近代以降の言葉で言えば、デカタンス、とか、退廃、という事に
なるのでしょうが、近代以前はそれが、破戒、だったのかもしれません。
破戒、つまり、戒め(いましめ)を破る、という事です。

最近では、かつては、聖職者、とされていたはずの学校の先生達が、
女子高生と援助交際していたのがバレてクビになったりしてますが、
僕が受ける印象では、それらの事件はどうも、デカタンス、の匂いも、
退廃、の匂いもしない、かといって、破戒、という覚悟すらない、
なんともスケールの小さいミミッチイ事件ばかりのように思えて
とても嫌な気分になります。
はっきり言って、ちょっとした助平心、しか感じられません。
ちょっとした助平心で、前途ある少女の人生を
台無しにするような事は許されないはずです。

お地蔵さんの話を書くはずが
だいぶ話が逸れてきてしまいましたが、
気にしない、気にしない、一休み、一休み、です。

で、僕はまだ若いせいか、一休同様死んでからの
天国だ、地獄だ、という発想には懐疑的なわけであります。
でも歳をとったら、どうか分かりません。
お地蔵さん、わしが地獄落ちても救うてくれよ、と
毎日お地蔵様に線香を上げることになるかもしれません。
そんな時、地獄に落ちてしまったどんな衆生(しゅうじょう)でも、
あまねく平等に救ってくださる地蔵菩薩様は大変有難い菩薩様で
あるわけであります。

僕は最近その大変有難い地蔵菩薩様を
TVCMで見かけるようになったのでありますが
あれはいったい何なのだろう。
とてもポップなお地蔵さん、お自動さん!?



-ポップなお地蔵さん(2)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/10/2200310_1.html

テクスト 2003.10.X 初出

本文(テクスト)、という形で、前回のドン・キホーテのエッセイの中で
書き流してしまいましたが
文学の世界にどっぷりとつかって抜けられなくなってしまった気の毒な人達は、
作品として提出された本文、テキスト、の事を、ちょっと気取って、
テクスト、と呼んだりします。
テキストでいいじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、
そこはちょっと気取って、テクスト、なのです。
マスコミや音楽業界の人が使う、ギョーカイ語、のようなものです。

ギョーカイ語は部外者を排除する冷たさがありますが
ギョーカイ語を理解している者同士での伝達が早くなったりする効果もあるので、
一概に悪いとは言えないように思います。

でもやはりギョーカイ語を使ってお互いコミュニケーションをしていると、
どうしてもちょっとした優越感が出てきてしまいます。
それが部外者には嫌味に思える時もあります。
秘密結社の合言葉のようなものです。テクスト。

他に文学の世界にどっぷりとつかって抜けられなくなってしまった
気の毒な人達が使う言葉に、シニフィアン、と、シニフィエ、などがありますが、
この辺までくると実は僕ももうその意味するところがよく分かりません。
シニフィアン、と、シニフィエ、がどうのこうの、と
言っている人達のうち4割か5割は、たぶんその用語の意味するところを正確には
理解していないのではないか、と僕は睨んでいます。
でも、テクスト、という概念は結構重要だと僕は思います。

なぜ、テクスト、という概念が重要かと言うと
人間はどうしても、その作者の容姿その他の姿形と
作品の世界を被らせてしまうからです。
若くて美人な女性が、文壇で大きな賞を受賞したりすると
必ずと言っていいほど、大きな批判の声が出てきますが、
その批判はたいていどこかズレた、感情的なものである事がほとんどです。

何であんな奴に賞をやったんだ……etc.

懸命なる読者諸氏はお気づきの通り、やっかみ、が
入るわけであります。
テクスト、が素晴らしくて賞を受賞したはずなのに
受賞者が若くて美人な女性だったりすると
文句の一つも言いたくなるのが人情というものでしょう。 

若くて美人な上に、文壇の大きな賞までもらいやがって
コンチクショウ……etc.

人間というものは、どうしてもその作者の容姿その他の
姿形に目がいってしまって、本文、テキスト、を
まともに読めなくなってしまうから、テクスト、という
概念が重要なのだと僕は思います。

大きな声では言えませんが、実は僕も
街を歩けば、必ず年頃の娘さんが2.3人は振り返る、と
いう、好美男子、色男、ナイスガイ、いわゆるイケメンでありますので、
テクスト、をまともに読んでもらえない可能性が大なのであります。

僕とは逆に、あまりビジュアルが芳しくないタイプの方が
恋愛物の小説を書いたりすると、あの男(女)は、現実生活で異性に縁がないから
小説の世界で恋愛物語を書いて自分を慰めているんだ、などと
推測されてしまいがちです。

何を言いたいのかといいますと
ビジュアルが良くても悪くても結局、テクスト、を
まともに読んでもらえないのだな、という事を
言いたいわけであります。

そういった矛盾を解決する手段の一つとして
作者が存在しないものとしてテクストだけ読め、という文学理論が
出てくるわけであります。
現代作家の、テクスト、を読む方法としては
結構有効な手段だな、と僕も思います。

作者が存在しないものとして、テクスト、だけ読む。

現代作家は同時代に生きているので
僕達はどうしても、偏見、を持って、テクスト、を読んでしまいます。
僕たちは、作者がTVCMに出演して
ビールを美味そうに飲んでいるシーンを見たりすると
どうしても、テクスト、を読む際も色々と考えてしまいます。

TVCMなんか出演して俗物め……結構儲かってんだろな……
意外と女にモテそうだな……etc.

人間はそうなりがちなので、作者が存在しないものと
して、テクスト、だけ読む、という方法は結構有効な
アプローチだと僕も思ったりするわけです。

作者が存在しないものとして、テクスト、だけ読む。

そんな無理な努力をしなくてもよい方法が実は一つだけあって、
それは、古典、を読むという事です。
時代が経てば、美の基準、も変わりますから
当時作者が、絶世の美女、だったと言われても
美人に見えなかったりします(男性も同じ)
平安時代の美人は、現代のブ○、という話はよく聞きます。
作者は金持ち二代目のボンボンで一度も働かずに
小説ばかり書いていました、などと年譜に書いてあっても
本人この世にいないわけなので許せたりします。
何十年、何百年前の歴史上の人物に嫉妬心を抱くほど
愛に飢えた人間はそんなにいないと僕は思います。

つまり全ての古典は、先入観なしに素直な心で、
テクスト、だけ読む事ができるわけです。
やっかみ、の入りようがない。
本人この世にいないわけだから。
だから正確に読める。
残っているのは、テクスト、だけ。
それが、古典、です。

前回紹介した、ドン・キホーテ、を書いたセルバンデスが大きく認められたのは、
実はセルバンデスが亡くなってからです。
正確に言えば、セルバンデスが認められたわけではなく
残されたドン・キホーテという、テクスト、が認められたわけです。
やはり、テクスト、が全てのような気がします。
多くの時代、多くの場所で、多くの人に、何か、を感じさせた、
テクスト、だけが、古典、として残っているわけです。

それは実は小説だけに限らなくて、絵でも音楽でも
いい、テクスト、は、作者がこの世にいなくなっても
古典、或いは、マスターピース、となって
この世に残るのだと思います。

そういった古典を、たくさん読んで、たくさん観て
たくさん聴いて、鍛えられた、眼、は
たぶん現代作家の、テクスト、を読む際も
結構有効なのだと思います。
昔はそういった、読みのプロ、が、日本中にゴロゴロいたのだと僕は思います。
別に僕は偉そうに現代の文化状況を嘆いているわけでは
なくて、卵のなかみ、に何度か登場している
二日町の文芸喫茶のマスターは、そういった
読みのプロだったなあ、と今思い出したわけです。

そのマスターの話では、日本文学が一番元気だった頃は
三島由紀夫と太宰治が喧嘩したらしいぞ、なんていう
話題先行の形でテクストが売れたこともあったそうです。
そうは言ってもやはり三島と太宰のテクストは今も残っています。
やはり、テクスト、が本物なのでしょう。

芥川龍之介も三島由紀夫も太宰治も川端康成も
日本文学の巨匠はみんな自殺しているので
物書きは死ねば本物、のような感覚が日本人には
あったりして、二十代で芥川賞作家となってしまった
平野啓一郎さんが受賞当時、相当自殺を勧められたらしい、という
ユーモラスなエピソードがあったりします。
死ねば本物、という感覚は、ハラキリ、とか、カミカゼ、と
結びついた日本独特の感覚ではないか、と最近睨んでいるのですが
いったい何なのだろう。
不倫の二人が追い込まれた後に心中する、という
渡辺淳一さんの、失楽園、は大ヒットしましたが
やはり日本人は死なれると、もう駄目、なのかもしれません。

やはり死ねば本物なのだろうか。
いや、そんなことはないと思う。
だいたい人間はみんな生まれた瞬間から
毎日死に向かっているわけです。
人類史上一つだけ確かなことがあって
それは、一度この世に生を受けて
死ななかった人間はまだ一人もいない、という事です。

人間は遅かれ早かれみんな死ぬ。
だから死ねば本物、というのは嘘だと僕は思う。
だってみんないずれ死ぬのだから。

テクストは正直です。
作者が投身自殺しようと、焼身自殺しようと
心中しようと、生きながらえて大往生しようと
残るテクストは残るし
残らないテクストは残らない。

テクスト、は正直です。




-テクスト-

ドン・キホーテ(2) 2003.10.X 初出

仙台では今のところディスカウントストア、ドン・キホーテを見かけませんが、
僕は札幌に行った時に一度ドン・キホーテなるのものを見かけて、
中々面白い店だな、と思った事を覚えています。
ディスカウントストア、ドン・キホーテの社名は
やはりセルバンデスの小説、ドン・キホーテから
来ているようです。

そのドン・キホーテというディスカウントストアが
TV電話を使って薬剤師が深夜の薬販売に対応する
という事業を始めたところ
厚生労働省が、それは薬事法違反の疑いがある、という事で
指導を入れてきた、というのが今回の薬販売事件の発端だったようです。

指導を受けたドン・キホーテ側が、それならば、という事で、
店舗を限って、発熱や悪寒など緊急性の高い症状を発している人に
対してだけ薬を無料配布する、と
したところ、厚生労働省がまたまた出てきて
それも法律違反だ、と指摘してきたという話。

そこにマッチョな石原慎太郎都知事が絡んできて
あの役所(厚生労働省)はバカだ、と発言したため
マスコミも巻き込んでこの問題が一気に
クローズアップされるようになった、というのが
一連の流れのようです。

僕はビジネスの分野はずっと疎くて
ビジネス書界の重鎮とされる
ドラッカー博士の著書を何冊か読んでみてから
少しは分かるようになってきたのですが
要はビジネスというのは、その社会が抱えている矛盾や
人々が困っている事を解決しようとするところに
生まれるものらしいのです。
そしてその発生したサービスによって
マネーが動くようになっていく、と。
それはあくまで理想的なビジネスのケースらしいのですが。

で、今回のディスカウントストア、ドン・キホーテの薬販売事件を
ドラッカー理論に照らして考えてみると
夜間の急病で薬を必要としている人達に薬を提供したい、という
ドン・キホーテのビジネスモデルは、
まさに人々が困っているところにビジネスが発生した
理想的なケースだったわけです。

それに対して厚生労働省が、それは薬事法違反の疑いがある、と指導してきた。
薬害などを未然に防ぐのが厚生労働省の仕事なのだから
それはある意味当然だとしても
ドン・キホーテ側は、テレビ電話で薬剤師に対面販売させる、と
言っていたのです。
でも厚生労働省の側は、テレビ電話、では、対面、にならないと言う。
僕としては、この辺で既に、厚生労働省の側の感覚が
ズレてきているような気がしますが、どうなのでしょう。
テレビ電話、では、対面、にならない。

僕も薬局で薬を買う事がありますが、そういったケースで、
薬剤師さんに脈拍をとってもらった、という記憶はないので、
深夜で人手が足りない場合にテレビ電話で応対する、というので
あれば問題ないような気がします。

で、そういった指導があった後、ドン・キホーテ側としては仕方がないからと
販売を諦めて、店舗を限って夜間に発熱や悪寒など緊急性の高い症状を
発している人に対してだけ薬を無料配布する、としたところ、
厚生労働省がまたまた登場しそれも法律違反だ、と指摘してきたという事。

セルバンデスの小説では、ズレた理想に燃えてしまったために
時に滑稽な姿をさらしていたのは、やせ馬、ロシナンテ、を伴って
旅に出た老人、ドン・キホーテ、の側でしたが
今回の一連の騒動ではどうなのだろう。
ズレているのは、ドン・キホーテの側でなく
厚生労働省の側のような気がします。
古くは現在の民主党代表でもある管直人氏が
薬害エイズの件で厚生労働省とかなりやりあっていた記憶がありますが、
石原慎太郎都知事も言うように
やはりあの役所は、バカ、なのでしょうか。

誤解されると困りますが、僕はドン・キホーテさんから
マージンを頂いてこのエッセイを書いているというわけではありません。
むしろドン・キホーテに代表される
場所を選ばないディスカウントストアの深夜営業には
疑問を持っています。

実際ドン・キホーテは、深夜営業で地域社会の生活を
壊してしまう、とか、品揃えに品が感じられない、と
批判されていた時期もありました。
僕が札幌で見たドン・キホーテは、実際そんな感じで
若い人達の深夜の溜まり場になってしまうかもしれないな、という
雰囲気がありました。
でも、地域社会の生活を壊してきたのは
ドン・キホーテだけに限らなくて
大手スーパーも、コンビニエンスストアも
地域社会の生活、もっと言えば商業文化を壊してきたと
僕は思ってしまいます。

仙台では毎年初売りの時期になると
大手スーパーと地元商店街の間で
元旦営業を巡った対立が表面化しますが
その最たる例だと思ってしまいます。

私事となりますが、僕が子供の頃は
古本屋でエロ本を立ち読みしていたりすると
店のオヤジが咳払いをしながら何気に近づいてきて
ゴソゴソと周りで掃除を始めたりしたものです。
このクソガキが……といった古本屋のオヤジの
無言のプレッシャーに気圧された幼き僕は
エロ本をその場に置いて逃げ帰るしかなかったわけですが、
そういった非常にミクロな教育効果も地域社会の持つ商業文化だ、と
仮定すると、コンビニエンスストアの明るい店内にエロ本が堂々と
陳列してある、という状態は絶対によくないと僕は思います。

簡単に言うと、ディスカウントストアや
大手スーパーやコンビニエンスストアには
お客様、と、従業員、はいても、古本屋のオヤジがいない、
という事なのですが、古本屋のオヤジ、が
地域社会の持つ商業文化だ、と言ったら極論でしょうか。

でも時代の流れは逆には戻せません。
僕も今ではディスカウントストアや大手スーパーや
コンビニエンスストアを結構利用しています。
もうそういった商業施設の存在を否定しても仕方がない
ように思います。
現在は、普及したディスカウントストアや大手スーパーや
コンビニエンスストアを、どう地域社会のコミュニティーとして
機能させていくか、という段階にきているような気がします。
80年代頃には、若者の店、とされていた、コンビニエンスストアに
今ではお年寄りの姿も見るようになってきました。
現代はそういう時代です。
時代の流れは逆には戻せません。

夜中に熱が出て悪寒が襲ってきたりしても
ドン・キホーテに行けば、診療所が開くのを待たずに薬をもらって
応急措置ができる。
そんな意識が、人々の間で共有されるようになれば
ディスカウントストア、ドン・キホーテが
地域社会のコミュニティーとして機能し始めた、と言えるのではないかと
僕は思ってしまうのですが、どうなのでしょう。

そんな社会を夢見ている僕は
やはりズレた理想に燃えるあまり
現実が見えていない、ドン・キホーテ、なのでしょうか。





-ドン・キホーテ(完)-


関連、ゲーム脳とたけしの挑戦状
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_4146.html
ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)


ドン・キホーテ(1) 2003.10.1 初出

ドン・キホーテ。

これはセルバンデスというスペインの作家が書いた
小説のタイトルです。
世界の古典文学集などには
必ず入っているという所謂、名作、です。

ドン・キホーテというタイトルは
この小説の主人公である老人が名乗る名前からきています。
主人公の老人が、当時流行していたとされる騎士道ものの本
(今で言えばエンタメ本)を読みすぎて
自ら、ドン・キホーテ、と名乗り、やせ馬、ロシナンテ、を伴い
旅に出る、というのがこの小説のあら筋です。

ドン・キホーテは、騎士道もののエンタメ本で仕込んだ
理想、に燃えて常識にとらわれずに行動するため
行く先々でちょっと滑稽に思えるような
事件を引き起こしていきます。
その事件は、ある種の人々からは
少年のように美しくも見え
またある種の人々からは、ズレているようにも
見えてしまいます。

今でも共産主義革命を夢見ている人達を
理想に燃えるあまり現実が見えていない、という意味で
革命家気取りのドン・キホーテ、と表現したりする
口の悪い人がいますが、そういった形で
引用されるくらい、ドン・キホーテは
長く読まれてきた古典文学作品で
あるわけです。

世界の古典文学作品として長く残っているくらいだから
やはりそこには永遠に変わらない人間の普遍的な姿が
あるわけで、騎士道もののエンタメ本を読みすぎて
自ら、ドン・キホーテ、を名乗ってしまった
老人の姿には
現代で言えば、お笑い番組を見すぎて
お笑い芸人のような話し方しかできなく
なってしまった人や
ゲームをやり過ぎて、現実とゲームの世界の
区別がつかなくなってしまった少年や
東映のヤ○ザ映画を観すぎて
歩き方がすっかり変わってしまった中年のオジサンの姿が重なります。

お笑い番組の見すぎで
お笑い芸人のような話し方しかできなくなって
しまった人などは微笑ましい例ですが
ゲームをやり過ぎて、現実とゲームの世界の区別が
つかなくなってしまったと言われる
最近の少年達による暴力事件は、ちょっと笑えません。

作者のセルバンデスは、騎士道もののエンタメ本を読みすぎて
自ら、ドン・キホーテ、を名乗り
やせ馬、ロシナンテ、を伴って旅に出てしまった老人の話を通して
本来は生活の疲れを癒すためのエンターテイメントに
過ぎないメディアにどっぷりとつかってしまう事の危険性に
警鐘を鳴らしているふしがあります。
実際テキスト(本文)の中では、騎士道もののエンタメ本ばかりでなく、
たまに本物の芸術作品と呼ばれるものにも触れなければならないのだ、
というような一節があります。
現代に置き換えれば、エンタメ系の派手なゲームばかりではなく、
たけしの挑戦状、のような思想性の高いゲームもたまにやれ、
という事なのかもしれません。
(僕著、ゲーム脳とたけしの挑戦状 参考)

と、前置きが長くなってしまいましたが
今回は実は文学の話ではなくて、ビジネスの話です。
どうして前置きでセルバンデスのドン・キホーテの
話をしたかと言いますと、その名もドン・キホーテという名の
ディスカウントストアが絡んだ薬販売事件について今回書いてみたいと
思ったからであります。





-ドン・キホーテ(2)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/10/2200310_27.html