2003年5月1日木曜日

駄洒落考 2003.5.X 初出

というわけで
ギャグ、コント、コメディー、ユーモア、駄洒落……
いったい人間にとって笑いとはなんだろう、と
思った僕は、早速手元の三省堂大辞林を引いてみた。

ギャグ……映画や演劇などで、観客を笑わせる
ために筋と関係なく挿入される即興的な
台詞や動作

コント……短編小説。特に風刺やひねりの利いた
軽妙な短い物語。風刺に富んだ軽妙な寸劇。

コメディー……映画で緊張した場面に滑稽な場面を
挿入して緊張をときほぐすこと。
またその役を演ずる人。

ユーモア……思わず微笑させるような、上品で
機知に富んだしゃれ。

駄洒落……下手な洒落。つまらない洒落。

テレビのバラエティー番組では、結婚式や葬式のシーンがよくコントの場面に選ばれます。それは上記コントとコメディーの効果を狙ったものであろうと考えられます。
つまり、視聴者も共有できるであろう緊張した場面を設定し、そこで出演者に滑稽なことをやらせて笑いをとる。
コントやコメディーは、社会的禁忌、こういった場所シーンでは普通こういうことをしてはいけない、という暗黙のルールの共有があって、初めて面白みを発生させる事ができるように思います。
最近ではそういった社会的禁忌や従来の日本社会の常識暗黙のルールが崩れてきていて、マスメディアが一般大衆に向けて笑いをとろうとすると、どうも嘘くさく、何がおかしいの、となってしまう事が多いし、場合によっては笑われている対象がかわいそうだな、とさえ思う事があります。
1940年体制の崩壊、一億総中流社会終焉の影響はここにも見られ、普通の日本人像、が
なくなってしまったためみんなが笑えるコントやコメディーを成立させることが
非常に難しくなってきているように思います。
一人一人、個人個人で考え方や趣味、ものの感じ方が
異なる社会では、みんなが同じ対象を笑うという事が
中々できません。

でも僕はそれはおそらく進歩だと思います。
みんなが同じ対象を笑うのは楽しいかもしれませんが
笑われる対象はきっと自尊心を傷付けられていたことだと
思います。

若い人は分からないかもしれませんが
最近DVDでリバイバル発売された
オレたちひょうきん族、という番組では
みんなが笑っていたような気がします。
僕が子供の頃は、ひょうきん族を観ていないと
友達との会話に入れないほどでした。
お化け番組という言い方もありました。
日本人のほとんどが観ているロングラン番組の事です。
そういった甘い感傷に包まれた古き良き時代は
もう帰ってこないような気がします。 

ヨーロッパの政治家達のユーモア
は洗練されている、とよく言われますが
それはヨーロッパの戦争の歴史の中で
洗練されていった哀しいもののように思います。
常に一触即発、一歩間違えば戦争になるという
ぎりぎりの緊張状態の中で
気の利いた一言を言ってかわす、という術が
磨かれていったのでしょう。

小渕首相がかつて、ある国際会議で
オプチミストの小渕です、と言って失笑を買ったそうですが、それは国内的には
あたたかい駄洒落であっても残念ながらユーモアとしては国際社会で
認められなかったのでしょう。

僕は日本社会から駄洒落がなくなっていく
ような気がします。
唯一成功した社会主義国と揶揄された
あたたかい一億総中流社会が終わり
個人個人で考え方、感じ方が異なり
常にコミュニケーションに気をつけなければ
ならない、という社会が訪れると
きっと駄洒落は通用しなくなっていくでしょう。

僕もこれからは駄洒落を言う事をやめようと思います。

これがホントの……


マイチェア・マイブーム 2003.5.X 初出

団塊の世代の人々は、とひとくくりに
してはいけないのでしょうが
総じて団塊の世代の人に聞くと
このコートは五万円のコートだから
いいコートだ、このスーツは10万円の
スーツだからいいスーツだ
この靴は三万円の靴だからいい靴だ
という言い方をします。
或いは自慢の一品を見せて
いくらすると思う? と聞く。
僕はそういった消費行動が
過去のものになってしまったような気がします。

僕はバイク乗りなので、ちょっとバイク業界の
事を考えてみても、自分流にカスタムする、という
売り方が増えてきたような気がします。
ホンダのスーパーカブをかわいくカスタムして
乗りこなす女の子をよく見かけますが
ホンダのスーパーカブと言えば、かつては
燃費がよくて壊れない、寿司やラーメンの
出前用のバイクだったのです。
それを若い女の子に売ってしまうのだから
ホンダの感性は凄い。
モッズ系ファッションでべスパに乗る子も
見かけますが、べスパのカスタムショップも
五橋あたりにあると聞いた事があります。
きっとそういう子達は
このバイクいくらすると思う? とは
聞かないような気がします。
このシートかわいいでしょ? とか
ここのランプ小さくしたんだけど
どう? と聞くはずです。

消費行動において
価格が価値判断の基準ではなくなって
きているように思います。

センスとか、気分とか、自分に似合うかどうか、が
重要で、十万円のコートだろうが、300万円の
バイクだろうが、自分に合わなければ要らない、と
なってきているように思います。
僕はそれは進歩のような気がします。
バブルの頃は、大手のアパレル会社が今年の流行色は
青です、と仕掛けると、街は青一色に染まったらしい、です。
僕はそういうのが凄く苦手だったので
僕的には好ましい変化だな、と思ってます。

で、先日友人と話をしていて
最近、椅子流行ってるよね、という
話になったのですが
何で椅子? という話が例によって
取っ組合いの激論になってしまい
腕っぷしの弱い僕は
友情の拳を受けて腫れ上がった頬を
押さえながら思ったのです。
そんなに高い椅子でもないし……
デザインとか雰囲気で選んでるようだし……
あれもマイブーム志向の流れなのかな、と。

僕は綺麗な木目の座椅子に座り
ベージュの座布団を敷いて
この原稿を書いています。

マイチェア・マイブーム



友がみな、我より偉く見ゆる日よ 2003.5.X 初出

花を買い来て、妻とたしなむ。

というわけで僕は花を買って来てみた。
花ってなんだろう。
ネアンデルタール人も死者に花を
ささげる習慣があったらしいと言われている。
人間はなんでそんなに花が好きなのだろう。
特に女性は本当に花が好きだ。
花をもらって嬉しくない女性はいないとも
よく言われる。
最近ではそれはジェンダー差別だ
と言って非難されるかもしれないが。
味気ない事を……。

広い宇宙があって
その中の一つに人間の住む地球があって
そこには花があって
人間は花を美しいと思った。
そこには普遍的な何かがあるような気がする。

アスファルトで地面は覆いつくされ
高層ビルの乱立で空は四角に切り取られ
スモッグで覆われた夜空は、星の輝きを失ってしまった。
それが近代化の行きつく先で、僕たちはそういう社会を
目指してきたのだからしょうがないとは思う。
僕もそういった近代都市で活躍する自分を
格好いいと思い、土臭い田舎をバカにして
生きてきた。

近代合理主義というものは確かに効率的ではあるが
社会からいろいろなものが失われていくような気がする。
天文学の発達は、星の神話を無化してしまったし
DNA研究の発達は、輪廻転生の物語も
無化してしまいそうな勢いだ。
かつて夏目漱石が書いた、知に働けば角が立ち
情にさおせば流される。
近代合理主義と、失われていくサムシンググレイトとの
中で引き裂かれそうな人間性の、究極の言葉だ。
その失われたサムシンググレイトを
花は、思い出させてくれるような気がする。

極度のストレスで、狂暴化してしまいがちな現代人。
でも人間本来の姿はそんなものではないような気がする。

友がみな 我より偉く見ゆる日よ
花を買い来て 妻とたしなむ 
            石川 啄木





公的資金投入 2003.5.X 初出

公的資金が投入された。
公的資金が投入された。
ついに公的資金が投入されたのだ。

先日、僕の主要取引先銀行の一つである
某銀行に、公的資金が投入された。

公的資金が投入される、ということは
どういう事だ。
それはつまり僕も結構払っている税金で
一銀行の赤字を補てんするということか。
なんたることだ、そんなのありか。
僕はカチンときた。
カチンときた僕は某銀行に文句を言いに行く事にした。
スピーカーも街宣車も持っていない僕は
とりあえずヘルメットを被ってみた。
愛車のビラーゴXV250に跨り
アクセルを吹かしてみる。
ボンボボ、ボンボボ……
ドラッグパイプマフラーが怒りの
サウンドを響かせている。
青葉の香りがする五月の風の中を
僕は某銀行目指して突っ走った。
ブ~ン、ブ~ン
勾当台公園を越え、広瀬通りに入る。
青葉通りは渋滞だ。
僕は広瀬通りを直進し、西公園を越えた。
信号待ちの間、僕は空を見上げてみる。
結構天気がいいな、と僕は思った。
というか五月晴れだ。
だんだんバイクに
乗っているのが気持ちよくなってきた僕は
そのまま直進し、西道路に入ってしまった。
西道路はこの時間にしては意外な程
すいていて愛車のビラーゴはボンボボ、ボンボボ……と
快適なサウンドを響かせている。
僕はそのまま泉ヶ岳までツーリングに出かけた。



悪い男にブイブイ言わされ金だけ取られる健気な女 2003.5.X 初出

青葉区木町通りの一角、僕の秘密の居酒屋。
昭和初期を思わせる傾いた木造の建物に、
日焼けしたのれんが出ている。
昔の無頼派の文人はきっと、こういう場所で
ヒロポンをキメていたのだろうな、と僕は
思った。

3Sってスリーサイズのことですか
と聞いた僕は、店主のT氏に怒られた。
3Sとはスリーサイズのことではないらしい。

店主のT氏が言っていたのは
マッカーサー元帥が、かつて戦後日本を
統治する上で布いた3S政策のことだった。
3S(セックス、スポーツ、スクリーン)を
振興させれば、きっと日本人は軟弱になって
反抗しなくなるだろう、と当時の進駐軍首脳部は
考えたらしい。

2003年現在、3S政策は見事に結実しているように
思える。
アメリカ人もビックリする程、性風俗産業は盛んだし
不倫も離婚もウナギのぼり
スポーツでリビドーを昇華しつくし
どうでもいい映画や音楽の娯楽にかまけて
深くものを考えることをしない……と書いてきて
気がついた。
それって結構僕にも思い当たるというか当てはまる。
クワッ! ヤラレタ! 僕もマッカサー元帥の
術中にハマッていたのだ~。
その時店主のT氏はニヤリと笑った。

僕は思った。
アメリカ、というか、アメリカ政府というのは
本当に恐ろしいな、と

最近いろいろな人が書いているが
アメリカ政府の政策というのは
二年先、三年先ではなく
三十年先、五十年先の憂いを絶つために
練られているらしいのだ。
つい最近も、アメリカ政府が日本研究家を集め
日本にかつての急進的なナショナリズム復活の兆しはないか
と、調査させたという話もあった。

僕はなんとなく分かってきた。
戦後五十年の日米関係というのは
日本の片思いで
悪い男にブイブイ言わされ
金だけ取られる健気な女、日本、だったのだ。

昭和初期を思わせる傾いた木造の建物。
店主のT氏は、口元に笑みを浮かべながら
季節外れのおでんを煮ている。


ムエスリ 2003.5.X 初出

神様っているんだね。

青葉通りの一角、僕の秘密の喫茶店。
ダイアナ妃も好んで食べたと言われる
スイス料理ムエスリ(ナッツ入りヨーグルト)を
作りながら、カウンター向こうのY子さんはそう答えた。

僕はムエスリを頼んだ格好いい自分に満足しながら
何気に、SARS怖いですね、と聞いてみたのだ。

神様っているんだね。
Y子さんはそう答えた。
そんなセリフが似合う女性は素敵だと僕は思った。
Y子さんはきれいな手の持ち主で、手タレになれる、と
よく言われるらしい。

神様っているんだね。
Y子さんの言う事にも妙なリアリテイ―がある、と僕は
思った。
9.11テロから、アフガニスタン、イラクと戦争は続き
アメリカ政府のネオコンと呼ばれる人達は
次はシリアだ、北朝鮮だ、と物騒な事を考えて
いるらしい。
このタイミングでSARSが出てくるというのは
造物主の怒りに触れたのだ、とも思えてしまう。
第一次大戦の時はペストが流行したという話もある。

神様っているんだね。
気の弱い僕はY子さんのきれいな手の効果もあって
うなずく事しかできなかったのだが
神様っているのだろうか……
SARSと戦争を、造物主の意思に結びつけて考えているのは
人間の脳なのではないだろうか。
知的障害者は神を思う事があるのだろうか。
それは僕の小説のテーマの一つでもあるので
この辺にしておきますが、ほんとSARS怖いです。
知り合いが台湾支社に勤務しているので心配だ、と
言っている友人もいました。

Y子さんがそのきれいな手でムエスリを運んできて
くれた。僕は神に感謝をささげ、ムエスリを食べる。



沖縄考 2003.5.X 初出

内地の人はそういうけどね
本当はそういうもんじゃないんだよ!
タクシーの運転手にいきなり
僕は怒られてしまった。

ゴーヤチャンプル、泡盛、テンプル
シーサー、シーカーサージュース……蒼い海、沖縄!
と完全に観光気分だった僕は
いきなり現実に引き戻されてしまった。
そう、僕は小説の取材のために沖縄にきていたのだった。

村上龍さんが、基地の町でファントムの爆音を毎日
聞いている子供達は、誰が強者か知っている、と書いて
いましたが、沖縄にくると本当にその言葉の意味を
実感します。

英語で放送されるラジオ番組
米軍の払い下げ品をアーミー系ファッションとして
売り出すショップ
ドル表示の中古自動車販売店

そう、強者はアメリカで
日本自体がアメリカの基地になっていたのです。
ちなみに沖縄で基地が占める土地面積の割合は18%です。

そのタクシーの運転手は僕が小説を書いていると言ったら
ますます冗長になり、内地の人は基地返還問題を
ああだこうだ言うけど、あれは借りた貸したの
問題じゃないんだ。戦争の混乱の中で
米軍が沖縄の一番いい土地を無理やりぶん取って
基地を建ててしまったんだ。
内地の人間はそれが分かってない。
分かってくれるのは筑紫哲也さんだけだ、とまくし立てた。

どうして突然、筑紫哲也か、と僕は思ったが
ニュース23でおなじみの筑紫哲也さんは
朝日の沖縄支局にいたことがあるらしく
その運転手の言い方には、ちょっと尊敬のニュアンスが含まれていた。

筑紫さんの出ているニュース23を
ほとんど視ていない上に
話題になっている内地の人間でもあり
さらに気の弱い人間でもある僕は
反論することもできずに聞き役に徹していた。

沖縄では何度か、内地という言葉を聞いた。
アイデンテイテイ―として
本土と沖縄を分けて考えているのだと思った。

沖縄ロック、沖縄料理
沖縄アクターズスクール、沖スロ……
と、何かと輝いているように見える沖縄だが
足元を見れば失業率日本一。
その根底にはある種の哀しみがあるような気がした。

タクシーの運転手に怒られて
小説の取材で沖縄に来ていた事を思い出した僕は
勇気を出して、取材対象である
沖縄に今も残るシャーマニズム
ユタ、ノロ
について聞いてみた。

運転手はますます冗長に
ユタとノロについて語ってくれた。






むかでの一歩 2003.5.X 初出

フォーラス近くの靴下屋二階
むかでや画廊に行ってきた。
目当ては宍戸清孝写真展-カンボジア-

カンボジアの戦争での混乱の中
野外で営業する床屋さん
服自体が足りない中でも、懸命にお洒落をする伊達男
赤ん坊を抱えた母親の、母性に溢れた眼差し
カメラに向かって無垢な笑顔を見せる子供たち
雑踏の中、交通整理をする兵士
森の中を手を組んで歩く少女たち
足を失くし、義足で歩く男……

一言で言って、混乱の中にも
人間の生命力が溢れていました。

父親は父親らしく
母親は母親らしく
男の子は男の子らしく
女の子は女の子らしい
というキャプションもありました。

一緒に写真を観ながら説明してくれた
むかでや画廊主催の奥さん(とても上品な女性の方)が
私達が子供の頃の日本もこうだった、と呟いていました。
戦争で国土が焼け跡になってしまい、進駐軍がやって来て
みんなボロを着て、負傷した帰還兵もいて
でも子供達には生命力が溢れていた。
今日本は物質的にはこんなに豊かになったのに
子供たちは病んでいる……
最後は裸足のゲンの話になりました。

人間と戦争ってなんだろう、と思いました。
ある友人が、火星人が攻めてきたら
きっと地球全体に危機感が広がり
人類は争うことを止め
世界市民ができる、と言っていました。
例によって気の弱い僕は反論できなかったので
ありますが
それは9.11テロでそれまでバラバラだった
アメリカ人が急に一体感を持って
星条旗を掲げだしたり
日本が太平洋戦争へ向かう中で
鬼畜米英と叫んで一体感を
持ったのと同じ構図だと思いました。

つまり人間というのは
共通の敵が現れないとまとまれないのかな、と。
人間ってなんだろう。
戦争ってなんだろう。
トルストイを読みたくなってきた。

一番町にこんな画廊があるのは
素敵な事です。仙台万歳!

むかでの一歩
宍戸清孝写真展 5/23~5/28 むかでや画廊




es muss sein 運命の声 2003.5.X 初出

ボロロ族にも差別はある。

僕は衝撃を受けた。
ボロロ族にも、生地での差別や
粗野と洗練、富者と貧者の差別が
あるらしいのだ。
つまりボロロ族にも俺は生粋の江戸っ子でい、とか
お里が知れるぜあんた、とか
お前在日だろ、とか
あいつのファッション、ダセエよ、とか
私、オシャレさんよ、とか
俺んちは金持ちのボンボンでい、とか
うちは金がないから、どうせ息子も
大学になんてやれないよ
というのがあるらしいのだ。

レヴィ=ストロースの、悲しき熱帯、に
アラグアヤ河とサンフランシスコ河の
あいだの中部ブラジル台地に住んでいた
原住民、ボロロ族の話が出でいる。
レヴィ=ストロースが観察したところに
よると、ボロロ族の集落においても
集落のそれぞれ東側と西側どちらに
生まれたかで、川上(かわかみ)の者
川下(かわしも)の者と呼んで
区別するらしい。
そこに祖先の氏族の血統のよしあしが
入り、赤い家族、黒い家族とに分けられ
さらに上中下の三つの階層に分けられる。
そして上層階級は上層階級と
中層階級は中層階級と
下層階級は下層階級としか
結婚できないというのだ。
これは立派な門地差別ではないか。
誰かボロロ族に文句を言え、と僕は思った。

ボロロ族においてもシェイクスピアの
ロミオとジュリエット物語があるのだろうか
敵対する上層階級の黒い家族と赤い家族に
生まれてしまった若い男女が恋に落ち
おおロミオ、どうしてあなたは
ロミオなの、ウホホホホ……と。
そう考えるとシェイクスピアの
ロミオとジュリエットはある種
普遍的価値に到達している凄い作品だということが
あらためて分かる。

閑話休題。
またボロロ族においても
狩りや魚を獲ることの腕が良い者、悪い者
運が良いか悪いか
勤勉か怠惰かなどで
生活水準にも差がついてしまうらしい。
レヴィ=ストロースはボロロ族の
小屋の中の家財道具を眺め渡して
それを確認してしる。
ある氏族は豪奢で、ある氏族は惨め、という事が
アラグアヤ河とサンフランシスコ河のあいだの
中部ブラジル台地に住んでいた原住民
ボロロ族にもあったのだ。

僕は自分が間違っていたのかもしれない、と思った。
僕はこの地上のどこかにかつて楽園があって
あらゆる差別がなく、すべてが平等で
誰も傷つくことのない世界があったのだと思っていた。
でもそれは間違いかもしれない、とボロロ族の話で思った。
かつて共産主義革命が夢見たユートピアが挫折したように
地上に楽園など出現しないのかもしれない。
ボロロ族にも差別はあるのだ。

そもそも人間が自分を認識できるのは
他者によってだ。人間は他者との区別、差別
或いは差異によって自己を認識する。
(注 差異……封建時代の領主と農奴との違いは
差異にあらず。それは雲の上の存在。差異とは
それぞれメルセデス・ベンツとカローラに乗る
平等なはずの二人の市民の間に現れるあの感じ)
市民の平等を建前とする近代社会にあっても
人間はみんな差異の中にあって
その中で傷つき、時に勝ち誇り、時に落ち込んで
時に嬉しみ、人格が作られていく。
あらゆる区別、差別、差異のない状態では
人間は自分のアイデンティティーを確立できずに
発狂してしまうだろう。
そして差異が欲望を生み出す。
友達がメルセデスを持っていれば
自分もメルセデスを欲しくなる。
そして市場社会はドライブしていく。

だが差異の中でこそ
何クソ一発当ててやろうと人は思うし
そこに活力が生まれる時もある。
背の高い人、背の低い人
美人な子、ブスな子
スリムな子、デブな子
色男、ブ男
髪フサフサ、禿げ頭
金持ち、貧乏人
洗練された都市住民、田舎っぺ
高学歴、低学歴
そういった差異が欲望を生み
エネルギーが生まれ社会は動いていく。

つまりみんなが自由に平等に自己実現した
ユートピアなんて存在しないし
あったとしても
そこにあるのは墓場の平和だけで
何も面白い事などないのだ。
第一、自由は不自由を前提としているし
平等は不平等を前提としている。
自己実現は奴隷状態を前提としているのだ。

自由を求める闘いの中にある時
私は最も自由感を感じた、言ったのは
サルトルだったと思う。
ノーベル文学賞を辞退した
ど偉いサルトル先生も悟ったように
自由を求めて闘って
自由を実現すれば虚しくなるのが人間なのだ。

人間が存在する限り差異は再生産され続ける。
その時代その時代でとんでもない貧乏くじを
引いてしまった人は造物主に文句を
言うしかないのかもしれない。

ボロロ族にも差別がある。
その事がさしているのは
きっと過去現在未来において
人間が社会を作れば必ず差別が
生じるという事なのだろう。

言葉狩りなどで、表面的には
差別はいけません、とすまして
いる現代だが
あからさまな差別は息を潜めても
差異はむしろ現代に生きるすべての人に
押しつけられている。

TVCMは
禿げは駄目です
デブは駄目です
ブスは駄目です
今時こうじゃなきゃ駄目です
と差異を人々に押し付けてくる。
そしてコンプレックスに基づいた欲望を
生じさせ、金を取る。
批判能力の育っていない子供達は
学校で禿げやデブを差別するようになり
自分に自信を持てない少女達は
過食症、拒食症に陥る。
みんな差異に振り回されギスギスしている。

言葉狩りというのもおかしい。
上は下、美は醜と対応している。
言語表現はすべて概念の相対化によって
成立しているのだ。
でなければ何も表現できない。
美人と書いた時点で
ブスが発生している。
で、ブスが傷つく。
背の高い人、と書いた時点で
背の低い人が発生している。
で、背の低い人が傷つく。
という事になったら
おそらく何も書けなくなる。
言葉狩りを極めていけば
きっとみんな黙して自殺してしまうしかないだろう。

そもそも僕たちは生きているだけで
誰かを傷付けているのだ。
就職したら失業者をどこかで
傷付けているだろうし
結婚したらどこかで
結婚できなかった人を
傷付けているのだ。

だが、しつこいようだが
ボロロ族にも差別はあるのだ。
差別は人間の業なのだ。
そう思えた時
僕は諦観と安らぎと
ほんのちょっとの希望の入り混じった複雑な感情に
とらわれた。
それは勇気に近いものだった。
差別は過去現在未来どこにいってもある。
それでも人間を肯定する。
人類を肯定する。
人生を肯定する。
その感情をベートーベンなら
きっとこう言うだろう
es muss sein ! 運命の声!

-es muss sein 運命の声(完)-


悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)






吐き出された煙は溜め息と同じ長さ 2003.5.X 初出

ショックだった。
フセイン政権崩壊の様子は本当にショック
だった。
僕はフセインを支持していたというわけではないが
フセイン政権崩壊の様子は本当にショックだった。

当たり前の事ですが、近代国家というのは
自明に存在するものではなくて
人間がある土地に集まり、代表が現れ、組織ができ
ルールができ、暴力装置を一元的に管理することで
成立し、そしてそれは永続するものではなく
外部から侵略があれば、或いは状況が変われば
簡単に壊れてしまうものなのだ、という当たり前の
姿を見せられた気がして僕はショックだったのです。
博物館の展示物が盗まれたり、官舎から
物資を略奪したり、それまで支配層だった人間を
殴りつけたり……僕は哀しくなりました。

北山に住む小説家の卵が何故イラクのフセイン政権
崩壊を見て哀しんでいるのだ、と笑われるかも
しれませんが、それはきっと人類普遍の姿であるから
哀しくなったのだと思います。

普遍的であるということは、近代国家日本も
例外ではないという事だからです。
現在日本は存亡の危機で、明治維新や戦後よりも
大きな変化の中にある、という人もいますが
その事自体については僕は明治維新や戦後の時
この世にいなかったのでどうとも言えません。
でも国、たんに現在の日本政府だけでなく
日本という国土に住む人々が危機に瀕している
のは確かです。
北山に住む小説家の卵にはそういった想像力が
あるので、遠く海の向こうの政権崩壊をみて
哀しくなったのでしょう。

僕は愛飲する煙草を一本取り出し火を点けてみた。
静かに息を吐き出してみる。

吐き出された煙は溜め息と同じ長さだった。







もう男なんていらない 2003.5.X 初出

レズです。いや僕がじゃなくて。
先日テレビを観ていたら
モスクワ出身のレズデュオ、タトゥが紹介されて
いました。ヨーロッパに衝撃を与えているとの事です。
ちょっと前のコギャルのようなファッションなのですが
レズです。ネコとタチです。もう開き直ってます。

最近は女ばかりが元気で、男は若い男も中年のおじさんも
みんな元気がないとか、男の精子が減っているという報告が
世界中から集まっているとかで、どうも世界的に
男受難の時代なのかな、とも考えていたのですが
ここまできたか、という感じです。
もう男なんか必要ありません、と言われているような気が
しました。

クローン技術や体外受精など、人間の誕生や性という根本的な
部分が人為的に操作できる時代になってきているので
有史以来の男の役割とか女の役割、父権とか母性とかいうものが
見直しを迫られているように思います。
これだけ近代化が社会の隅々までいたると
もう男が女よりも優れているのは、重いものを持つ、という事だけです。

江戸時代や平安時代には当然のことながら
アメリカに留学してMBA(経営学修士)を取得し
流暢な英語を駆使して、キャリアを積んでいる、という
女性は存在しなかったはずです。
そういった女性にとっては、つまらない男と結婚する
くらいなら精子バンクで優秀な精子をもらって人工授精
した方がいい、となってしまうような気がします。
僕の周りにも、結婚はしたくないけど子供は欲しいという
女性は結構います。

さらに男女雇用機会均等法や仙台でも大きな話題であった
共学化の流れもあり、いつの間にか意識の上でも
女が女性になってしまったように思います。
もちろん男も男性に。

昔は、というか僕が子供の頃は、男らしいとか、女みたいとか
男だろうとか、女のくせにとか、男じゃないかとか、男のくせにとか
女々しいとか、男気とか、男勝りとか……まあいろんな言い方が
ありました。
ランドセルも男は黒、女は赤、男は技術科を学んで女は家庭科を学ぶ。
そういった中で自然に、俺は男だからこういう時はこうしなきゃいけないのだ
私は女だからこういう時はこうしなきゃいけないのね、と
教育というかマインドコントロールされていたように思います。

一言で言えば、かつては男性優位社会で
責任も権利も経済力もすべて男が握っていました。
女は黙ってついてくるだけ。

そういった社会がもう完全に過去のものに
なってしまって、男女とも責任も権利も経済力も
分担していくという時代になると
かつての男性優位社会で無条件に威張っていられた
男達は元気がなくなっていくのだろうと思います。
元来男は弱いもので、社会的に条件付けてあげないと
力を発揮できない存在のように思うのですが
その社会はもう男である事を必要としていません。

もう男なんていらない。





ぜいたくな悩み 2003.5.X 初出

モノだらけだ。
足の踏み場もないとはこのことか
と、僕は思った。

先日、とある友人宅へお邪魔したところ
部屋中モノだらけで歩く隙間もない状態で
本人は、流行の、片付けられない症候群、だよ
などと頭を掻いていました。

どうしてモノを捨てられない人が
増えているのだろう。
かつて、捨てる技術、という本が
ベストセラーになったような記憶もあるし。

戦後から高度成長期にかけては
大量生産、大量消費の時代だったと言われます。
焼け跡から復興へと向かう過程で
とにかく物資がなく
つくればつくるだけモノが売れた時代が
あったのだそうです。
経済学で言うところの、セイの法則(供給が需要をつくる)が
機能していたのでしょう。
そういう時代は、モノが資産だったわけですね。
モノを大切にしましょう、という標語もありました。
モノを大切にしましょう、と教えられた人達が
片付けられない症候群に陥っているような
気がします。
不要なモノでも、何かの役に立つ気がして捨てられなく
なっているのではないでしょうか。

バブル崩壊が誰の目にも明らかになった
98~2002年(本当は91年に終わっていたらしい)
様々な面で社会に理解できない
事件が起こり始めたころ
モノが豊かになったわりには心が貧しくなった
と、年配の方はよくボヤいていました。
モノが豊かになる事が豊かさの指標だった時代に
精神を形成した人達には、確かにそう見えた
のでしょうが、有名なマズローの欲求段階説によれば
人間の欲求は、ピラミッド状に形成されていて
ある欲求が満たされると、今度は次の段階の欲求を
志向していくものらしいのです(ちなみにピラミッドの
頂上は自己超越です)経済学でいう限界効用逓減の法則と似てますね、一杯目のビールは旨いが、二杯目はそんなに旨くない……
僕はマズローの見方に賛成で、モノが溢れている現在
モノが豊かになって心が貧しくなった、訳ではなく
単にモノは溢れているので、多くの人の欲求段階が
上がり、悩みの質が変化しているのだと思います。

ぜいたくな悩みってやつですね。

~ぜいたくな悩み(完)~


「捨てる!」技術 (宝島社新書)






日本酒考 2003.5.X 初出

日本に殺られる、と思った。
このままでは殺られてしまう。
ヤラれてしまう。ヤラれてしまう。
このままでは日本に殺られてしまう。

僕は最近、日本酒を非常に警戒している。
それは次の日に米麹の匂いが残るとか
記憶を失くすことが多いという事だけでは
ないような気がする。
僕の周りにも日本酒警戒派は多い。
ワインやビールはワイワイガヤガヤと飲んでいても
あの、独特の形状を持つトックリとオチョコが
コトリ、とテーブルの端に置かれた刹那
座は、ある種の緊張に包まれる。

何故だ、何故だ。
僕は考えた。それは日本酒が、純粋なる日本精神を呼び覚ます
からではないかと。
三島由紀夫が書ききったように
純粋なる日本精神とは
大いなる大義のために腹を切る
という行為に、象徴的に現れる。
また三島はこうも書いている。
純粋なる日本精神は、社会が近代化していく中で
次第に下層階級や地方の人々にしか
見出せなくなっていくだろう、とも。
2003年現在、三島の予言は的中している。
今時、ハラキリなどと言い出す人には
なるべく近づきたくない、というのが
多くの人の実感ではないでしょうか。

だが長い時間をかけてつくられてきた民族性は
そう簡単に消せるものではない。
時に意外な、時に危険な形で
それは顔を出す。日本酒を舐めながら、BGMでド演歌が流れ出し
情や情けをを持ち出されたら、僕はきっと
そのまま突っ込んでいってしまいたくなるだろう。

僕はそれを非常に警戒しているのだ、と今分かった。

純粋なる日本精神を呼び覚ます、魔法の水。それが日本酒だ。

その民族の持つ特性は、食物に顕著に現れる。だから
外国へ行ったら、出されたものはゴキブリでも食べろ。
と、ある人類学者は言った。
日本の民族性は米、納豆、日本酒に現れるのだろうか。
そう考えるとやはり日本人は農耕民族なのかな、とも。
現在進められている社会の市場化、グローバル化と
いうのは、要するにアングロサクソン化のことだと僕は
考えているのですが
要は、農耕民をやめて狩猟民になれ、という要請が
社会にあふれているような気がします。

そういった中で納豆を食べて日本酒でキマって
めぐる季節に対応しているだけでは生き残れなく
なってきたのかな、とも。

ボジョレヌーボー解禁! などと
聞くと、女の子でも誘ってみんなで素敵な時間を
持とうかな、という気分になりますが
日本酒はそうはいかない。何か真剣な話になりそうだ。

ハラキリとか,桜の散る姿に感動を覚えてしまう
自分の中のどうしようもない純粋なる日本精神を
呼び覚ます日本酒。
これからの時代に対応しようと努力している自分が
壊されそうで、僕は日本酒が怖い。


女の直感 2003.5.1 初出  

というわけで、中田とイチローと松井、誰を支持するか
でその人のスタンスが分かる、という話が激論へ至ったのであります。
気の弱い僕はあまり発言できなかったので
以下僕の意見。

かつて1940年体制と呼ばれるものが日本にはありまして
これは日本が太平洋戦争へと向かう中で
国民を総動員するために取られた体制だったようです。
その名残りが源泉徴収制度などに見られます。
つまり国家がサラリーマンというカテゴリーから効率的に
金を徴収するのに便利だったのです。
ちなみに税金が自動的に給料から天引きされるため
日本人はタックスペイヤーとしての
自覚が中々もてないとも言われていました。

日本人がみんな一丸になって何かに向かう
戦争、或いは経済戦争へ。
それが1940年体制と呼ばれるものです。

そういった中でみんなと一緒じゃなきゃいけないとか
出る杭は打つとかいう強制力が社会に出来てしまったのでは
ないかと考えられるのですが
そういった雰囲気を当然のこととして生きてきた人達は
巨人の四番である松井が日本を代表して大リーグへ
挑戦する、というストーリーに酔って涙してしまうのでしょう。
石川県の実家の映像を観て心暖まったり……。

松井を支持する人は1940年体制の匂いがしない
中田のような人間を見るとプンプンしてしまうようです。
単に個人として努力してイタリア語も覚えて生活も楽しんでますよ
別に日本人のために頑張っているわけじゃないよ、という姿を
見せられると、お前なんか応援しねえよ、となってしまうようです。
これからの日本および世界の変化を考えると実は
それが日本のためになっているような気もしますが。

で、イチロー。サムライのように、或いは修行僧のように
たんたんと野球に取り組み結果を出す。
子供たちのサインにも答える。メジャーリーグが求めるクリーンな
成功者の模範という気がします。
アメリカは所得格差が激しく人種も様々。そういった中で
NBAやメジャーリーグ、或いはハリウッドがアメリカンドリームを
提供し続けないと社会が成り立たないのでしょうが
日本もこれからそういったジャパニーズドリームを設定できないと
子供達はどんどん腐っていってしまうように思います。

どうやら1940年体制は終わるらしい。
一億総中流社会の中で、みんながおらが村のスターを応援する
という時代が終わってしまうらしい。
いい大学、いい企業、出世コースというのも復活しないらしい。

次の時代のスタンダードがどういうものになるか分からないが
とりあえず1940年体制はもう終わる。

最後にとある女性の意見。
イチローと中田はかっこいいけど、松井はかっこわるい。

女の直感って当たる。




卵のなかみ 大場理史 2003年05月01日 初出

どういうわけか……
広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
2003年5月
なぜか僕は大場理史という器に入り
ここ仙台の北山に住んでいます。
そしてどういうわけか小説家を目指しています。
そしてまたどういうわけか
今回仙台インターネットマガジンへ
連載することになりました。
みなさん宜しくお願い致します。


プロフィール 

大場 理史 Satoshi Ohba 
北山に住む小説家の卵。
趣味は、晴れた日のバイク乗り。
愛車はYAMAHAビラーゴXV250