2003年11月1日土曜日

全てが趣味的になる 2003.11.X 初出

かつて村上龍さんが

日本社会では全てが趣味的になる

という趣旨の発言をされていたことがありましたが
僕はその言葉の意味するところがよくつかめませんでした。
読者の問題意識なり知識なりがある程度蓄積されて
こないと、その言葉の意味するところが
分からなかったりする事があります。

日本社会では全てが趣味的になる。

僕は、最近この言葉の意味が分かったような気がするのです。
僕も時々書いてしまうのですが
政治好き、とか、宗教好き、といった場合の
~好き、の部分を指して、村上龍さんは
全てが趣味的になる、と指摘されていたのでは
ないかと思い至ったのであります。

具体的に言えば、政治の話は人々の生活に
密接に結びついてくる話なので
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、といった
趣味嗜好の、~が好き、とは性質が異なる話なのです。

でも日本社会では、そういった人々の生活に
密接に絡んでくる、政治、に関する話題も
政治好き、という一つの趣味嗜好のジャンルに
なってしまいます。
本来誰もが関心を持たなければならないような
公共的な話題まで、~好き、という
単なる趣味嗜好の対象として扱われてしまう。
僕は外国の事情はよく分かりませんが
日本社会では確かにそうです。
全てが趣味的になってしまいます。

何故そうなってしまったのかと考えると
官僚主導による愚民化政策、護送船団方式、が
あまりにも長く続いてしまったために
多くの日本人に、お上(おかみ)がなんとかしてくれる、という
意識ができてしまったからではないかと思ってしまいます。

同世代の人に政治の話をしたりすると
そんなこと私たちが考えることじゃないよ、と
一蹴されてしまったりします。
そんな事私たちが考えることじゃないよ、という
意識の人が多くなってしまったので
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、というのと
同じレベルで、政治の話も、政治好き、という
趣味的な話題、となってしまっていたのかもしれません。
政治好きの若者、というと、なんだか他者性を
全く持てていない人達が集まって、内輪で盛り上がって
いるマニアやオタクの世界に思えてしまいます。

でも政治の話というのは本来
その人の世界観なり、信条なり、生活の利害なりが絡んでくる
センシティブな性質の話題なので、釣りが好き、とか、
キャンプが好き、とか、ホラー映画が好き、とか、
アイドルが好き、という趣味嗜好的な話題とは異なるはずなのです。

政治や宗教の話題は、ある種の場においては
タブーとなったりします。
結婚式や公共的なパーティーなどの席で
あまり込み入った政治の話や宗教の話を持ち出す人は
おかしいと思われるはずです。
そういった場においては、やはり
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、といった
趣味嗜好の話題が適切だと思ってしまいます。
モームスのメンバーで誰が一番好きか、という話題で
決定的に嫌悪な関係になる、という事はないと思います。
でも政治や宗教の話題は、下手したら
晴れの結婚式やパーティーの雰囲気を壊してしまうことがあります。

なんだか同じことばかり書くようですが
政治や宗教の話題というのは
趣味嗜好的、な話題ではないわけです。
なのに日本社会では、政治好き、とか、宗教好き、と
いった、趣味的な話題、とされてしまう。
まさに日本社会では全てが趣味的になる。

その原因は既に見てきたような
そんなこと私たちが考えることじゃないよ、という
お上意識の強い人が多い事に加えて
今までほとんどの日本人が、明らかにイスラム教徒だ、とか、
明らかにキリスト教徒だ、という、本質的な他者、と接する機会が
あまりなかったからではないかと思ってしまいます。

僕は日本人の知り合いの結婚式に参加した時
イカレタ中国人、をネタにした余興をしている
グループを見掛けましたが、たぶんこれからは
そういう事ができにくくなっていくと思います。
先日、中国の大学に留学していた日本人学生らによる余興が、
現地中国人学生の怒りをかってデモにまでいたった、という
ニュースがありましたが、今までの日本の感覚で行くと
そうなってしまうような気がします。
笑っていいとも、などの番組で
タモリさんの、ちょっとイカレタ中国人ネタ、などを見て
笑いながら育った世代の人には、中国人が何故そんなに怒るのか
理解できないような気がします。
ただ先日の現地中国人学生によるデモのニュースには
どうも中国当局が一枚絡んでいるのではないか、などと
いう話もあるので、なんとも言えないところですが。

右がかった人達には、なんでそんなに中国人の肩をもつのか、と
言われそうですが、僕は中国人の話をしているのではなくて、
本質的な他者、の話をしているのです。
官僚主導による、護送船団方式、の下での
一億総中流社会、では、明らかに政治信条が異なる、とか、
明らかに違う宗教を持っている、という
本質的な他者、と出会う機会はほとんどありませんでした。
みんなと一緒に人並みに、していればそれでよかったわけです。

でもグローバル化が凄い勢いで進んでいて
人や情報の交流が、かつてとは考えられないくらい
劇的に増えてきています。
仙台でも中国語や英語が飛び交うようになりました。
明らかに違う宗教を持っている、とか
明らかに自分達とは異なる信条を持っているだろう、という人達と
身近に暮らしていかなければならないわけです。
それに長引く不況で、かつてとは考えられないくらい
サバイバルの条件が厳しくなってきています。
目に見える形で生活にリスクが生じてこれば
よほど鈍い人でない限り、政治、に目を向けるでしょう。

そうなると、かつて村上龍さんが指摘したような
日本社会では全てが趣味的になる
(政治や宗教といった話題さえも)という文化潮流は
過去のものになっていくかもしれません。




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