2004年3月1日月曜日

プロ野球と日本のプロ野球(8)あ、騙された! 2004.3.X 初出

と、ツラツラと8回に渡って
ずいぶんと長いエッセイを書いてきたわけですが
自主トレ、も、俺流、も、勉強、も
死語になるかもしれません、という話なのです。

要は、集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等へと移行し始めている
ということなのですが
僕も含めて多くの日本人は
今までずっと、1940体制以来、60年近く
集団主義に対応するための教育や刷り込みを
受けてきているので
脳内のリストラを行っていくのは
大変なことだな、と思ってしまうのです。
あ、騙された! という意識の人は
かなり多いかと思います。

そんなの分かっているよ、という
懸命なる読者の方もおられるかもしれませんが
何かに騙された、という感覚を
持っている日本人が大半のように
思ってしまいます。

いい大学に入れ、なるべく大きな会社に入れ
真面目にさえやっていれば何とかなるから
一つの会社に長く勤めないと履歴書が汚れる
努力と根性で、みんなと一緒に人並みに
個人的に何かしようなんて考えないで
社会の敷いたレールに乗ってれば
世間様をお騒がせして……etc.

ちょっと前まで、常識、だったこれらの概念が
全て、嘘、に近くなってきています。

僕自身は、大学生の頃に
山一證券が破綻したニュースを見て
あ、騙された、と気がつきました。
高級官僚主導による、護送船団方式、が
限界を迎えた瞬間でした。

当時は、就職活動、というよりも、就社活動、が
常識でしたが、就社活動を間近に控えた僕は
山一證券破綻、というビッグニュースが飛び込み
仙台でも、紱陽シティ銀行、が破綻したりして
あれ、おかしいぞ、と思いました。
そしていわゆる、内定、していた学生達に
内定取り消し、の通知が来たりして
あ、騙された、と感じたわけです。

当時は、終身雇用、の幻想がまだあって
就職活動、というよりも、就社活動、の意識が
ほとんどの人にあったので
一部上場企業の破綻、であるとか
内定した会社が入社前に倒産する、なんていうのは
ちょっと考えられないことでした。
大学も会社も入るまでが勝負、な世界だったので
合格体験記、やら、内定体験記、のような
冊子が高校や大学で配られていたようにも思います。

大学も会社も入るまでが勝負
入ってしまえば後は
俺は~大卒だ、俺は~会社の~部長だ
おお、凄い、という刷り込みをずっと
受けてきたので
あれ、おかしいぞ、と思った人は
同世代にかなり多かったと思います。

そういった意識から脳内のリストラを行い
軌道修正するまで僕自身結構とまどって
しまったので
こうしてウツラウツラと書いているエッセイが
同じ、あ、騙された! という思いを
抱えている方に、少しはお役に立てれば、と思うわけです。

おそらくスポーツ選手だけに限らなくて
これからは多くの人が、俺流、私流、僕流、で
自分のキャリアデザインを行わなくては
ならない社会になるのでしょうが
何事も計画通りに進むものではありませんので
最低限のセーフティーネットは必要だろうなと
思ってしまいます。
でもこれがまた困ったことに、政府にはもう金がないので
セーフティーネットも削られ始めています。

義理・人情であるとか、宗教的ボランティアであるとか
近所のおばさん、が、かつては
無償のセーフティーネット、として機能していたのでしょうが
近代化・都市化・西洋化した現代の日本社会では
そういった無償のセーフティーネットは
なんだか、胡散臭いもの、のように思われてしまいます。
そうなるときっと、NPOの出番、となるのでしょう。
大きな政府から小さな政府への流れは不可避なので
NPO的に市民の自発的活力を
社会の中に取り込んでいくしかないのだろうなと
思ってしまいますが
これまた社会主義的システムの下で
刷り込みが長く行われてきたので
下からの活力、というものが
中々出てこなかったりします。
お上がなんとかしてくれる、という意識も
早く消し去らないといけないように思ってしまいます。

共産主義的な計画経済というのは
やはり基本的に人間を飼い殺すシステムなのだなと
思ってしまいます。
集団主義による結果の平等社会では
個人の自発的努力は必要とされません。
むしろ計画経済の、邪魔、になります。
社会(主義)が敷いたレール、では
市民なり個人の自発的な活力、が
不良、になってしまいます。
まさに悪平等。

ちなみに人類史で共産主義が成功したのは
イスラエルのキブツ、と、戦後の日本経済だけだと
言われたりします。
人類史上、神によって土地を
約束されたのは、日本人とユダヤ人だけのようですが
やはりそういった形而上学的保障の下にしか
共産主義も成功しないことを考えると
北朝鮮が金総書記を、神格化、したり
ソビエト連邦がスターリンを、神格化、していたのも
分かるように思ってしまいます。

でもその、唯一成功した社会主義、と揶揄される
日本経済も、計画経済的システムが行き詰まり
集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会に
変化することを求められています。
果たしてこの大変化に日本社会は
耐えられるのだろうか、と思ってしまいます。
訳の分からない事件、の発生頻度は
一年に一度、三ヶ月に一度
一ヶ月に一度、一週間に一度
三日に一度、と加速しています。

チャップリンならきっと
現代の日本社会の混乱を
ポストモダンタイムス、として
映画に撮ったことでしょう。

というわけで
プロ野球の話はどこへ行ったのだ、という事に
なるわけですが
これぞ、ポストモダンなエッセイ、なので
あります。



-プロ野球と日本のプロ野球(完)-

プロ野球と日本のプロ野球(7)勉強 2004.3.X 初出

勉強、という言葉にも、自主トレ、に似て
勉めて強いる偉い行為、という
ニュアンスがあります。
これはもしかしたら儒教圏の特徴なのかもしれません。

でも僕は最近、社会のアングロサクソン化によって
勉強、という言葉も何だか、その記された文字、と
その意味するところ、が遊離してきているような気が
するのです。
またまた文学的にちょっと気取って言えば
シニフィアン、と、シニフィエ、が遊離しているように
思うのであります。

巷で言われる、ポスト資本主義、知価社会、というものが
本当に訪れたら、知識は最大の資産となるわけで
勉強は、勉めて強いる偉い行為、どころか
会社の損益分岐点を割るかどうかの
生命線になってしまうわけであります。
そうなると

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也

のような感覚で、勉強は、努めて強いる偉い行為
或いは、精神修養のための微笑ましい行為、やら
人格修養、晴耕雨読な仙人思想……といった崇高な
ものではなくて、単に
勉強してない事には、生活の糧を得られなくなって
しまうのではないかと思うのであります。

日本では近代以前、就労人口のほとんど(85%くらい)が
農民、だったのが、20世紀を通して
工場労働者、となりました。
そして日本社会では、農業従事者が
著しく減少しました。

それと同じように、21世紀の日本社会では
知価社会が訪れて、工場労働者、が
知識労働者、へ移行していくだろう、と言うのです。

そんなわけがないだろうと
思われる方もおられるかもしれませんが
中国が、10億、とも、12億、とも言われる人口を
持って、本格的に市場社会に参入し始めたため
ほとんどの工場労働は、中国へ持っていかれて
しまうわけで、これといった付加価値のない
工場労働者のままでは
10億とも12億とも言われる中国人と
まともに職を奪い合う事になってしまうわけです。
はっきり言って勝てるわけがありません。

中国では、かつて日本で、団塊の世代、が
金の卵、と呼ばれて地方の農村から
集団就職で太平洋ベルトコンベアー地帯に
移動していったように、大量の低賃金労働者が
都市部へと職を求めて移動し始めているようです。

ちなみに、先日僕は、メイド・イン・チャイナの
春物シューズを購入してみたのですが
はっきり言って、ものは悪くありませんでした。

一方、中国の農村部の疲弊は酷いものがあるという
話なのですが、これもかつて日本が経験したものと
同じでしょう。

富める者はますます栄え、貧しい者は
ますます貧しくなっていく。
近代化、都市化、資本主義化、というものは
いったい何なのだろう、と思ってしまいます。

こういった社会的矛盾を埋めるべく
農業社会から工業社会へと移行していく過程で
共産主義思想、社会主義思想、が
説得力を持つのかもしれません。

実際中国共産党は、農村部を
支持基盤として誕生したもののようですが
このまま中国の農村部が疲弊し続け
新たに誕生した都市部の中間層や富裕層から
民主化要求などが出てくるようですと
共産党の独裁的手法が限界を迎えるかも
しれません。
ここが中国が経済発展していく中での
最大のグレーゾーンだと言われているようです。

要は農業社会から工業社会へ移行していく際に
共産主義思想というものが
最も魅力的なものに映るのではないかと
いう事であります。
農業社会、というものは
その村々の、共同体、で作業を進めるので
一人一人の社会的連帯感が保てるわけで
アノミー(無連帯、無規範)を防げます。

これが農業社会から工業社会へ移行し始めると
この、共同性、が壊されてしまい
失われた田園共同体意識
疎外感、孤立感、を埋め合わせるべく
われわれは生産手段をブルジョワ層から奪還し
プロレタリアート独裁による政権を築くのだ
労働者よ、団結せよ、労働者よ
今こそ立ち上がる時だ
我々は生産手段をブルジョワ層から……といった
共産主義のメッセージが多くの人をひきつけるのでは
ないかと思うのであります。

実際日本でも、農業社会から工業社会へと
劇的に変貌していった60年代70年代に
共産主義思想が多くの若者達を引き付けたように
思います。
それで人生を棒に振ってしまった人も
多いようですが。

現在の中国では、共産主義思想の下で
生産手段を国有企業としていた
計画経済が立ち行かなくなり
共産党政権下での資本主義化という
人類史上例のない体制に移行し始めています。
WTO加盟やFTA締結、私有財産制の保護など
もう完全に実質は資本主義化しているようです。

中国がこのまま順調に工業化に成功すれば
中国共産党は、経済の成功によって
農村の支持基盤を失う、という形になり
かなり不安定な政権になってしまいます。

そして工業化によって誕生した
都市部の中間層や高所得者層は
権利意識に目覚め
共産党の独裁的手法に民主化要求を
突きつけてくるはずです。

抜け道は、名前だけ共産党で
実質資本主義、というダブルスタンダードを
押し通すことですが
果たしてそれが可能なのか。
中国脅威論、も、中国崩壊論、もありますが
やはりここはかなりのグレーゾーンでしょう。

作家の平野啓一郎さんと瀬戸内寂聴さんが
中国へ旅行した際
中国の若者達が哲学書や文学書を
地べたで座り読みしていたのを見て
衝撃を受けたそうですが
そういった形で中国の民衆が
政治意識に目覚めていくと
中国共産党も立場が危なくなっていくのでは
ないかと思ってしまいます。
要は、独裁的権力者にとって
民衆は無知であってくれた方がよいわけです。

そういった意味では
台湾の直接選挙は要注目で
中国共産党が、今後高まるであろう民主化要求に対して
どういった態度を取るのかの試金石になるように
思います。

と、書いてきたところで、今回の台湾総統選で
候補者が銃撃を受けた、というニュースが
飛び込んでまいりました。
なんとも嫌なタイミングであります。
いったいどうなってしまうのだろう。

と、少々話が逸れてしまいましたが
農業社会から工業社会への移行が成功し
ある程度物的な豊かさを実感できる社会になると
共産主義の魅力は色あせていくものなのではないか
という話なのであります。

で、農業から工業へと産業形態が移行し
さらに工業社会から知価社会へ移行しようとしている
現在の日本社会では、関係者には申し訳ないのですが
労組はこのまま衰退していくのではないかと
思ってしまうわけであります。

たぶん若い人達の多くは
一つの会社に一生勤めようなんて
思っていないだろうし、第一長く勤めたくても
途中で会社が倒産してしまったりします。
会社が倒産してしまったら
組合活動どころではありません。

マルクス的、史的唯物論的に言えば
理念なり法律制度なりの上部構造は
生産手段という下部構造によって決定される、という事に
なるのかもしれませんが
下部構造である、生産手段が
農業から工業へ、さらに知価へと移行していく
ことによって、上部構造にあたる
共産主義という理念が崩壊してしまうのだから
ある意味カール・マルクスは正しかったのかも
しれません。

知価社会においては、生産手段は
経営者ではなく労働者にあります。
ビル・ゲイツ氏は、マイクロソフトから
20人が去れば、会社はたちまち倒産の危機に
陥る、と発言しているようです。

これが、大量生産・大量消費の
20世紀型の工業社会では
会社から20人が去っても
新たに20人採用すれば済むわけです。
まさにチャップリンが、映画、モダンタイムス、において
描いたような、地下鉄の階段を駆け上がる羊達の群れが
やがて職場へと急ぐ人の群れに代わるような世界です。
そして辿り着いた工場内では
人間がベルトコンベアーに飲み込まれてしまいます。

ちなみにチャップリンは、赤、つまり
共産主義者だったのではないかと言われています。
チャップリンのような繊細な人は
農業社会から工業社会へと移行していくことで
失われていく、何か、に耐えられなかったのだと
思います。

でもそれは20世紀の工業社会の悲哀です。
日本社会ではチャップリンの、モダンタイムス、が
ポストモダンタイムス、に移行しつつあります。
チャップリンが描いたような
地下鉄の階段を羊のように駆け上がり
工場内のベルトコンベアーの前で
何時間も同じ作業を行う、という、労働、は
全て中国や東南アジアへ、或いは
FTAを締結しているメキシコ、や、シンガポールへ
外注されてしまいます。
賃金格差を考えたら勝てるわけがありません。

どう考えても、工業社会から知価社会へ移行して
いくしかないわけですが、知価社会においては
決められたことを言われた通りにこなす能力ではなく
自分の脳みそで考えて、クリエイティブに
活動することが求められるわけです。
ですが、これが困ったことに
戦後の日本社会は、中国の高級官僚登用制度
科目による選挙、によって、言われたことを
忠実にこなす脳みそしか育成してきませんでした。

与えられた事を忠実にこなせ、という教育を
受けてきた人間が、突如、自分で考えて
行動しなくてはならない、という世界に放り出されて
気が狂って人を殺したり、包丁を振り回したりしている様子を
チャップリンなら面白おかしく
ポストモダンタイムス、という映画で表現して
くれたかもしれません。
そう、きっと日本社会は
ポストモダンタイムス、に入ってしまったのでしょう。

20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
学校を卒業したら、勉強は終わり、でしたが
知価社会が訪れたら
生涯学習、というのは
人格形成や美徳の一種ではなく
収入を左右する身も蓋もない行為に
なってしまうかもしれません。

そして20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
土地、資本、労働、が
生産の三要素でしたが
21世紀の知価社会においては
知識、資本、時間、になるのではないかと
思ってしまいます。

インターネットはプレイスレス化を起こしている、と
以前サイバーレボリューションのエッセイに書きましたが
実際アメリカでは、IT技術を駆使して
国内企業のコールセンターを
インドに外注してしまう、というビジネスが
盛んになっているようです。

アメリカの会社に問い合わせの電話を
かけると
インドに繋がって、インド人が応対に
出るわけです。
本当にアメリカ人の中には
合理的に物事を考える人達が多いものだなと
思ってしまいます。
人件費も土地代も劇的に減らせて
しまうわけです。

以前も紹介した
イザヤ・ベンダサン著の、日本人とユダヤ人、の中に
ユダヤ人は長い間、自国通貨を持てなかったため
純経済学的に貨幣を運用できる、とありましたが
合理性、というものは、そういうものなのかも
しれません。
アメリカ経済の強さはユダヤを味方につけた
ところにある、という方もおります。

ユダヤ人の純経済学的強さ。
例えば今後、アジア通貨圏、が築かれる可能性が
出てきたとして、円を廃止するか、と迫られたら
多くの日本人は、NO、と言うと思います。
それは、円、という自国通貨に愛着が
あるからです。
でもユダヤ人は、長い間自国通貨を持たなかったため
純経済学的、に、どのマーケットがよいか
どこの通貨を持てばベストか、とすぐに見れるわけです。
それは、守銭奴、という意味ではなくて
むしろ自国通貨を持たない弱さを補うために
純経済学的に物事を見なければならない
という意味なので、むしろ、守銭奴、の逆です。

ユダヤ人というのは、迫害に次ぐ迫害
放浪による放浪によって
コスモポリタンに生き残る術を身につけて
いったのかな、と思ってしまいます。
そのコスモポリタンな能力は
現代のグローバルな環境で
とても有利になるのではないかと
思ってしまうわけです。

日本でも何年か前に、IT技術を駆使し
東京の会社に問い合わせの電話を
かけると沖縄に繋がる、というシステムを
起ち上げる計画があったようですが
その後はどうなったのだろうと
思ってしまいます。

ちなみに僕が以前派遣で勤めていた
某役所では、コールセンターを外注するために
公社を設立しておりました。
コールセンターを外注するために
公社が一つ増えてしまっているのだから
終わってるな、と思ってしまいます。
後は、そこへ本庁から、天下り、すれば
よいわけです。
官僚制度というのは、放っておくと
どこまでも自己増殖していくものなのだな、と
僕は某役所で学びました。
僕がこうして、官公庁に勤める人にとっては
耳の痛いことをたまに書いておくのも
マクロ経済にとってはよいことなのかも
しれません。

で、僕は、勉強、という言葉に
最近違和感を覚えるだ、という話でした。
勉強、という言葉には、どうしても
三浪して早稲田に入る、とか
8年勉強して司法試験に合格する、というような
刻苦勉励、のような意味がまとわりついています。

でも、知価社会、において求められるのは
そういった形での、勉強、ではないような気がするのです。

ちょっと気取って文学的に言えば
やはり、自主トレ、や、国民のみなさん
といった言葉と同様に、勉強、も
シニフィアン、と、シニフィエ、が
遊離してしまっているのかもしれません。

きっと、政権公約、に対する、マニュフェスト、のような
形での言い換えが、様々な分野で求められて
いるのでしょう。
カタカナ語が増えていくのはよく分かる気がする。



-プロ野球と日本のプロ野球(8)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/820043.html




日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)




プロ野球と日本のプロ野球(6)俺流 2004.3.X 初出

今シーズンから、中日の監督に
就任した落合博光監督は
現役時代、所謂、自主トレ、ばかりして
いるので、俺流、などと呼ばれて
異端視されていました。

三冠王、という結果を残していたから
俺流、も許されていたのでしょうが
やはり1940年体制下の日本社会は
個人が潰されるシステムだったのだな、と
思ってしまいます。

俺流、が、異端視、されなくなるまで
現在の混乱は続くのかもしれません。

日本社会のスタンダードが
どんどんアングロサクソン化して
共産主義の砦、ソビエト連邦が崩壊し
高級官僚主導による護送船団方式が終わり
集団主義による結果の平等から
個人主義による機会の平等へと
社会の基本的な価値観が変わり始めると
自主トレ、も、俺流、も死語になるかもしれません。

でもこれが困った事に
日本人が一丸になって何かに向かう
戦争へ、或いは、経済戦争へ、という
1940体制は、文字通り60年以上続いたわけで
日本社会では、全ての努力が、日本のために
行われなくてはならない、という前提があります。
つまり、多くの人が、自分のために努力する、という事に
慣れていないわけです。
個人的に努力すると、自主トレ、になってしまい
俺流、になってしまいます。

スポーツに限らず、これからは
ほとんどの社会人が、個人的に
キャリアデザインを行って
いわば、俺流、に生きなくては
ならなくなるわけですが
これは大変な事だな、と思ってしまいます。
ちょっと前まで、俺流、は
異端、だったわけです。

最近、社会人の多くから
サラリーマンと呼ばないで
ビジネスマンと呼んでくれ、という声が
上がっているようですが
サラリーマン、より
ビジネスマン、の方が
何となく、俺流、な感じがします。

サラリーマンとビジネスマンの違いは
要は、給料を貰ってから働くのが、サラリーマン、で
働いてから給料を貰うのが、ビジネスマン、のように
思います。
微妙な違いですが、ビジネスマン、は、仕事を作る人、で
あって、サラリーマンは、その発生した仕事によって
サラリーを貰う人、なのでしょう。

ちなみにサラリーの語源は、古代ローマで
兵士に塩を買うためのお金を出したことに
由来するようです。
日本でも、敵に塩を送る、の故事がありますが
人体は塩を切らしたら持ちません。

要は、みんなと一緒、であれ
俺流、であれ、サラリーマン、であれ
ビジネスマン、であれ
ローマの兵士、であれ
いつの時代でも
人間は生存に最低限必要なものを
何とかして得なくてはならないという事なのだと
思います。



-プロ野球と日本のプロ野球(7)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/720043.html

プロ野球と日本のプロ野球(5)日本式 2004.3.X 初出

かつては、日本のスポーツ関係者が
中国へ指導員として招かれたりすると
先生、日本式でやって下さい、などと言われたようです。
日本式、つまり、精神論に基づいて
シゴキ、をやって下さい、という意味です。

僕もバスケットボールに励んでいた頃は
日本式、で、鬼コーチに
殴れたり、蹴られたり、罵倒されたり、と
さんざんな目に遭いました。

僕が中学生くらいまでは
まだ、人権、という意識が浸透していなかったので
スポーツの強豪校で
コーチや監督が選手を殴っている、などというのは
常識中の常識、だったのであります。

人権概念、が少し浸透してきてからは
さすがに、試合会場で殴るのはマズイ、という事に
なってきたのですが
そうなると今度は、ロッカールームで監督が選手を殴る、ように
なってしまい、ハーフタイムを終えると
後半から鼻血を出している選手などもいたものです。
ずいぶん、長閑(のどか)と言えば長閑、雑といえば雑な
時代だったわけです。

僕も、30発以上の張り手と
10発以上の蹴りを入れられた挙句
バスケットボールを投げつけられたり
したことがありましたが
僕は人権侵害を受けたのでしょうか。
たぶん、そうなのかもしれません。
今ならきっとその鬼コーチは、懲戒免職、です。

ただ難しいもので、悲惨な経験も
時の経過と共に
その人のアイデンティティーを構成する一部と
なってしまう、という傾向があったりします。

ああ、野麦峠、という
日本の近代化途上における、女工哀史もの、の代表作を
読んでみたところでは
製糸工場で大変な重労働を強いられた過去を持つ
おばあさん達が、過酷な日々を
甘美な思い出のように話す、とありました。

やはりドップラー効果なのかもしれません。
時の遠近法、パースペクティブ。
遠ざかる日々はより美しく見えるのでしょう。

子供の人権条約、のためか
僕が中学に入った頃から、人権、人権、と騒がれるように
なりましたが、子供の人権、というのは
おそらく、児童虐待、や、児童買春、を防ぐための
ものだったように思います。
当時の日本社会では時期尚早だったのかもしれません。
でも現在は、ちょっと笑えない状況になってきました。
親が子供を死ぬまで殴る、なんていう話も
よく聞くようになってきました。

いったい何なのだろう。
かつては、人権、などという言葉がなくても
日本では安全と水と空気は無料だったのに
必死に頑張って西洋に追いついてみたら
人権、に基づいて公権力が民事に介入しなければ
ならない状況になってしまいました。
それはもしかしたら西洋近代というシステムに
根本的矛盾があるのではないだろうか、と
思ってしまいます。

欧米の猿真似ではなく
日本近代、を打ち出した方がよいのかも
しれませんが、黒い雨、によって
日本近代は壊されてしまいました。

でもやはり、人権、という概念は
大切かもしれません。
暴力は連鎖して、シゴかれた人は
たいていシゴキますし
先輩に苛められた人は
たいてい後輩をイジメます。
それに取り返しのつかないトラウマを
抱えてしまう人もいます。
僕も殴られた経験を思い出すのは
あまり嬉しくないものであります。


-プロ野球と日本のプロ野球(6)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/620043.html




あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)

プロ野球と日本のプロ野球(4)1985年 2004.3.X 初出

前回は、日本の精神性、と、アメリカの合理性、の
話だったわけですが
ただ、かつてアメリカが最も恐れたのは
その、日本の精神性、だったというのは
間違いないと思います。
合理的に物事を考える人間にとって
非合理な、気合、や、叫び、は
恐ろしいものです。

GHQは、戦後、武道における
気合、や、叫び、を禁じたようです。
そして、日本書紀、古事記、といった
日本成立の物語を教育現場から
追放するという、記紀追放、を行い
3S(セックス、スポーツ、スクリーン)政策によって
日本人の精神を軟弱化させようとしたわけです。
完璧だな、と思ってしまいます。

もうほとんどの日本人は
かつての意味での、日本人、ではなくなってしまった
ように思います。
70年代を境に、日本人は~、という主語が
機能しなくなっていったのも
よく分かるような気がします。

三島由紀夫の自衛隊基地での割腹自殺が、1970年。
村上龍さんの米軍基地の街を舞台とした
限りなく透明に近いブルー、が1976年です。
1970年代を境として
小説の舞台が、自衛隊の基地から
米軍基地の街へ移ってしまったわけです。

アメリカの占領政策は、1945年から
約30年後に結実したわけです。
30年を1ゼネレーションと考えると
ドンピシャリです。
見事にやられた、という感じがします。

そして終戦から40年後の、1985年。
ブルーハーツ、がデビューします。

1985、国籍不明の
1985、飛行機が飛んだ
風を砕くのは、銀色のボディー
謎のイニシャルは、誰かの名前

僕達がまだ生まれてなかった
40年前、戦争に負けた
そして、この島は歴史に残った
放射能に汚染された島

そしてブルーハーツのデビューから
さらに20年近く経とうとしています。
そうなると、敗戦から60年近く
つまり、2ゼネレーションが立つわけです。
アメリカ合衆国は、完全に日本を封じ込めて
しまったのだなと思います。

日本はアメリカに溶けてしまった、という
映画監督もいましたし
日本はアメリカ合衆国の51番目の州、とさえいう人も
います。
そして経済システムも
ついにアメリカ型に移行しようとしています。

イギリスやアメリカという
アングロサクソン型の人達は
言わば、支配の天才、で
旧植民地からも意外と好意的に見られていたりします。
アメリカ自体が、かつてイギリスから
独立した国だったりします。
でも、1985、求めちゃいけない、のであります。
甘い口づけは。

黒い雨が降る、死にかけた街で
何をかけようか、ジュークボックスで
1985、今、この空は
神様も住めない
そして、海まで山分けにするのか
誰がつくった物でもないのに

黒い雨、つまり文豪井伏鱒二が、黒い雨、という
小説で描いたところの、一般市民への無差別爆撃
どころか、一つの街を、一瞬の、ピカドン、で
壊滅させてしまうような、非人道的、な事を
しておきながら、全く反省せずに
他国を、ならず者国家、などと非難して
案外平気なのがアメリカ合衆国の特徴かも
しれません。
2004年3月現在、イラクはどうしようもない
状況になってしまったようですが
アメリカ政府は、イラクに自由をもたらした、と
豪語してやみません。

マキャベリ、という思想史に残る政治思想家は
君主論、において

ある国を奪い取る時には、征服者は
とうぜんやるべき加害行為を、決然と
一気呵成に行い、後は蒸し返さない事だ。
そして恩恵を小出しに行う事で
民心を得ていけ。

と教えています。
こういった身も蓋もないワルな支配の仕方を
マキャベリの名にちなんで、マキャベリズム、と
言ったりしますが、アメリカ合衆国、というか
アングロサクソン型の民族は
本質的に、マキャベリスト、なのかもしれません。
日本人というのは、どちらかと言うと
お人好しな民族なのか、マキャベリスト、に
成りきれず、良心の呵責に苛まれて
グズグズモジモジ、としているから
アジア諸国に嫌われてしまうのかな、と
思ってしまいます。
女に張り手を食らわせてから
甘い口付けをする、ジゴロのような男、が
マキャベリ的君主、或いは、覇権国、には
相応しいのかもしれません。でも

1985、求めちゃいけない、のであります。
甘い口付けは。

1985年と言えば、バブル経済へ
つまり、明るさの全体主義、に
まさに突入しようという時代です。
俺たちひょうきん族、という番組では
さんまさんが、1985年の何ですか、という曲と
ともに、ナンですかマン、というネタをやって
いました。
本当に、ナンですか、な年だったわけですが
水面下では、ドル高是正のための、プラザ合意、が
ありました。
このアメリカ経済のために円高ドル安へ誘導しましょう
という、プラザ合意、によって
土地バブル、製造業の海外移転、という
その後の流れができてしまったのかもしれません。

1985、選挙ポスターも
1985、あてにはならない

と、ブルーハーツも、1985、という曲の中で
歌っていました。
本当にバブルの頃は
選挙ポスターなどあてにはなりませんでした。
そういった対米追従の政策決定過程の全てを
革新官僚、の流れを組む
霞ヶ関の高級官僚達が取り仕切っていたわけです。

僕たちを縛り付けて
一人ぼっちにさせようとした
全ての大人に感謝します。
1985年、日本代表ブルーハーツ

と、甲本ヒロトさんは当時叫んでいましたが
僕たちを縛り付けて一人ぼっちにさせようとした
全ての大人、というのは
戦後の日本を動かしてきた
巨大な官僚機構の事だったのかもしれません。

終戦から40年後の、1985年当時
ブルーハーツは日本代表に相応しい
バンドだったように思ってしまいます。



-プロ野球と日本のプロ野球(5)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/520043.html
黒い雨 (新潮文庫)

君主論 (中公クラシックス)


プロ野球と日本のプロ野球(3)合理性と精神性 2004.3.X 初出

と、日米ともに、野球、若しくは、ベースボール、の
開幕シーズンを間近に控え、各選手の
周辺も慌しくなってまいりました、という話題から
例によってややこしい話を展開してしまったわけで
ありますが、日米ともに、野球、若しくは
ベースボール、の開幕を間近に控えて
耳にするようになった
自主トレ、という言葉にも
僕は違和感を感じたのでありました。
自主トレ。

日本では、戦前の軍国主義を引き継いだかのような
体育会、というものがあって
押忍! な世界が、ほんの少し前までありました。
押忍! な世界では、トレーニングは縦社会の下で
集団で行うもの、という前提が
あるので、個人的に行うトレーニングは個別に考えて
自主トレ、という言葉ができたのかもしれません。

体育会、には、シゴキ、という風習もあったりして
全てにおいて年功序列的なシステムとなっていて
一年生はボールを触れない、などという
人権侵害、とも、不合理、とも取れそうな習慣が
まかり通っていました。
ですが体育会ではそれが美徳だったわけです。
国会でも、一年生議員、などという言い方がありますが
派閥の中で、年功序列的にポジションを上げていき
やがて大臣のポストをゲットする、という
システムはある意味、体育会、的です。
体育会、では、そういった風習が
美徳になってしまいます。

そういった慣習が、全く不合理なものか、というと
そうとも言い切れなくて
コートに出てボールに触れる前に
筋力や持久力の土台を作ってから
ボールに触れて技術を覚える、という
合理性、はあったように思います。
国会でも同じかもしれません。

そしてコートに立てるようになった選手には
ボールに触ることへの、飢え、があるから
あっという間に技術が上達します。
それに体育会で仕込まれた、押忍! な上下関係は
年功序列型の社会へ出た時にも役に立ちます。

昔は、体育会出身の学生が、就職、に
というか、就社、に有利だった時代もあったようです。
でも体育会的な、押忍! な上下関係は
終身雇用、や、年功序列型賃金、の社会でだけ有効なので
あって、これからの、実力社会
エイジレス(年齢を問わない)社会、では、邪魔、に
なるかもしれません。
相手の肩書き、つまり、部長、や、課長、といった
ポストによって、言葉や態度を使い分けるような行為は
年功序列型の社会では、美徳、でしたが
これからは、姑息、となるかもしれません。
ここでも価値観の180度の転換があります。

で、そういった社会システムの変化による
価値観の大転換が起きているので
僕は、自主トレ、という言葉に違和感を
感じたのかもしれません。

トレーニングは個人でしておくべきもの
というコンセンサスのある実力主義の社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのでは
ないかと思ったわけです。

自主トレ、には、集団でやるはずの
トレーニングを、自主的に行っている偉い行為
のニュアンスがあるような気がします。

僕はNBA入りを目指して真剣に
バスケットボールに取り組んでいた時期があるので
アメリカの大学バスケなども結構研究したのですが
アメリカでは、チームスポーツといえども
自分で基礎的なトレーニングを行っておくのは当たり前で
チームで集まった時には、連携プレーや作戦の確認など
最小限の事を行う形になっていたように思います。
そういったコンセンサスのある社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのではないかと
思うのです。

どちらがよいか、と一概には言えませんが
アメリカ式では何でも合理的になる傾向があり
日本式では何でも精神論になってしまう傾向がある、と
言えるかもしれません。

メンタルトレーニングの領域へ踏み込んで考えてみれば
何でも精神論へ持っていく日本式も
あながち悪くはないと思ってしまいますが
合理的な考えも捨ててはいけないな、とも
思ってしまいます。

日米関係は、安全保障の分野では
相当歪んでいますが
こと文化の面に限って言えば
面白いようにコラボして
お互いの長所、短所、を理解し
上手く取り込んだ新しい形態へ
向かっているのかもしれません。


-プロ野球と日本のプロ野球(4)へ続く-

http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/4198520043.html

プロ野球と日本のプロ野球(2)日本教の危機 2004.3.X 初出

先日、イザヤ・ベンダサン著(一説には山本七平氏)の
日本人とユダヤ人(角川ソフィア文庫)という本を
読んでいて、ふと気がついた事がありました。

この、日本人とユダヤ人、という本は
似ているようで実は正反対な
日本人とユダヤ人の対比、という視点で
日本、及び、日本人論を展開するという
たいへんユニークな論考です。
1970年代に200万部を売り上げたという
驚異的なベストセラーだったようです。
現代で言えば養老孟司さんの、バカの壁、のような感じ
だったのかもしれません。

で、70年代のベストセラーを読んでいて
何に気がついたのか、と言いますと
そこで展開される、日本人論、における
日本人は~、という主語が
現在では上手く機能していないなという事でした。
つまり、1970年代まではあった
日本人、というものの共通の特徴が
現代では価値観の相対化、多様化、或いは
社会の近代化、西洋化によって
ほとんど成立しなくなっているな、という事に
気がついたのであります。

僕が以前、年配の方と一緒に仕事をしていて
トラブルが起きた時の事ですが
その方はその際、日本人ですから~、という言い訳を
しました。
きっとその方の、日本人ですから~、には
お人好しですから、とか
あまりガツガツと権利を主張して
世間様を騒がせたりしませんから、といった
ニュアンスが含まれていたように思います。

で、先述の、イザヤ・ベンダサン著の
日本人とユダヤ人、では
この、日本人ですから~、の部分を
一つの宗教と見て、日本教、と命名していました。
日本教、においては、人間くささ、や
人間味、が最も重視されるとも。
僕はその、日本教、というのは
神道、のことではないかと思いました。

日本では外来思想が全て、神道化、してしまいます。
仏教は、日本に流入した時点で
天台本覚論、や、本地垂迹説、などによって
神道化、されてしまい
そんなものは本来の仏教ではない、というような
形になってしまいましたし
仏教の後に入ってきた儒教も
神道化されてしまい、中国や朝鮮半島の
人達に言わせれば、そんなのもは儒教ではない、という
形になってしまいました。

神道、は、ユダヤ・キリスト・イスラム的な
意味での、啓典宗教、ではないので
外来思想を時にガブ飲みしてしまう事があります。

日本人の契約概念などもそうですが
欧米における、契約、に比べたらとても人間味があって
契約書に記してない部分は
双方誠意をもって対応する、などとなってしまいます。
いい加減、と言えば、いい加減
人間味がある、といえば、人間味があります。
基本的に人間というものを信用していない事には
成立しない宗教です。日本教。

やはりそういった、日本教、の根底にあるのは
神道、ではないかと思ってしまいます。
啓典、や、戒律、或いは、契約、よりも
人間味、人間臭さ、が重視される。
日本人ですから……人間だもの……。

ちなみに日本が、かつて朝鮮半島で行った最悪の暴政は
朝鮮半島の仏教から戒律を廃してしまい
僧侶達の結婚を認めてしまった点にある、という人もおります。
それはもしかしたら、日本教、の感覚で
朝鮮半島を統治しようとしてしまったからでは
ないかと思ってしまいます。

と、ツラツラと、日本人論、について
書いてきてみたわけですが
70年代のベストセラー、イザヤ・ベンダサン著
日本人とユダヤ人、の中で述べられている
日本人は~、という主語が
2004年3月現在、上手く機能しなくなって
きているのではないか、という事を言いたいわけです。

グローバル化、それに伴う、文明の衝突、という
現代の状況において、日本人ですから~、という
人間味、人間くささ、をベースとした、日本教、も
その危機を迎えているのではないか、と思ったわけであります。

グローバル化、それに伴う、文明の衝突、において
ユダヤ・キリスト・イスラムの摩擦が
激しくなっている海外の情勢を見て
宗教ごときでそんなに熱くならなくても、と
僕も含めた多くの日本教徒は
眉をしかめてしまいますが
日本人の、日本教、も
危機にさらされているのかもしれません。
田中耕一さん、VS、中村教授
松井秀樹選手、VS、中田英寿選手

今回のエッセイは、プロ野球と日本のプロ野球、という
お題で書き始めたので、それに絡めて言えば
長島茂雄さんの、あの何とも憎めないキャラクター
人間味、人間くささ、は
多くの、日本教徒、の心を
捉えてやまないのではないかと思います。

でもその、ミスター、こと
長島茂雄さんが代表するところの
プロ野球、が、日本のプロ野球、になってしまいました。
そして、プロ野球、から
何かが抜けてしまったのだと思います。

その、何か、を失うことを本能的に
恐れた層が、キューちゃん、こと、高橋尚子選手の
アテネ五輪代表落選に対して激怒し
日本陸連に抗議の電話を入れたのかもしれませんが
きっとその抗議の電話を入れた人は
そんなに悪い人ではなくて
敬虔なる、日本教徒、なのかもしれません。

それに対して日本陸連は警察に相談し
警備員を置くことにしたようです。
日本教徒からすれば、ますます人間味のない
許されざる行為です。

長島茂雄さんは、セコムしてますか、と
警備会社のCMに出演しながら
セコムのスイッチを入れていなかったために
不審者に家に入られてしまった、という
人間味、人間くささ、溢れるエピソードで
トラブルの渦中にあってさえも
日本教徒、の心を潤してくれましたが
そういった、日本教徒の生き様、或いは、感性、が
社会のグローバル化、市場化、アングロサクソン化
によって危機にさらされているのかもしれません。
精神に異常をきたす人が続出するのも
何となく分かるような気がしてしまいます。

やはり、文明の衝突、は
神々の闘い、なのだなと思ってしまいます。



-プロ野球と日本のプロ野球(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320043_9.html



関連、

これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(1)~(2)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038.html
戦後日本システム崩壊の前兆(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/1200312.html
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

文明の衝突



プロ野球と日本のプロ野球(1)シニフィアンとシニフィエの遊離 2004.3.X 初出

日米ともに、野球、若しくは、ベースボールの
開幕シーズンを間近に控え、各選手の周辺も慌ただしく
なってまいりました。

メジャーリーグへ挑戦する日本人選手が
増えてから、ニュースキャスターなどが
プロ野球は~、という主語ではなく
日本のプロ野球は~、という主語を
持ってくるようになりました。

野茂英雄投手が海を渡って成功してしまった
1995年以前は、プロ野球は~、という主語だけで
よかったわけです。
それが、2004年3月現在は、日本のプロ野球は~、という
主語を持ってこないと意味が通じなくなってしまいました。
違和感を覚えるのは僕だけではないような気がします。

いわゆる、日本のプロ野球、には
中央集権的な匂いがついているように思ってしまいますが
どうでしょう。

巨人を見ずに飯が食えるか!

というコピーが昔ありましたが
戦後復興期から高度成長期くらいまでは
東京、読売、ジャイアンツ、が
日本人の連帯感を保障する強力なコンテンツと
なっていたのではないかと僕は思います。
大袈裟に言えば、戦前における天皇制の代替物、としてさえ
機能していたのではないかと思ってしまうのです。

巨人、大鵬、卵焼き

であるとか

巨人、阪神、の伝統の一戦

であるとか

天覧試合での長島選手の活躍

であるといった形で
日本人の連帯感、日本の中央集権化を
保障するコンテンツとして
プロ野球、は、上手く機能していたのではないかと
思ってしまうのであります。
僕が子供の頃は、野球ファンは
たいてい、巨人ファン、か、アンチ巨人、で
括られていたようにも思います。

その、日本人の連帯感、或いは、中央集権化、を
保障するコンテンツとしての、プロ野球、が
90年代後半からの大転換期を経て
日本のプロ野球、になってしまったのは
象徴的だなと思ってしまいます。

社会を近代化させるには
同質な文化的背景を持つ
多数の優秀な国民と
中央集権化が不可欠です。
そして日本には、その条件が見事なくらいそろっていて
明治以来、大規模な戦争以外には
たいした挫折を経験することなく
近代化を成功させたわけです。
でも何事によらず、大きな目標達成の後には
ある種の喪失感が伴います。

国家の近代化、や、戦後復興、などの
国家的目標を喪失して久しい現代の日本社会で
ニュースキャスターが、プロ野球は~、という
主語ではなくて、日本のプロ野球は~、という
括弧つきの主語、を持ってくる構図は
象徴的だな、と思うのであります。

復興、や、高度成長、や、近代化、といった
国家的目標喪失と同時に
プロ野球、から、何かが抜けてしまい
日本のプロ野球、になってしまったような
ニュアンスを僕は感じてしまいます。
プロ野球、と、日本のプロ野球。

国民的歌手、であるとか、国民的美少女、という言葉も
だんだんと死語に近くなってきていますが
国家的目標喪失と無縁ではないような気がします。

国民的ヒロイン、キューちゃん、こと
女子マラソンの高橋尚子選手が
アテネ五輪代表から外れたことに激怒して
日本陸連に抗議の電話を入れたりしている人達は
きっと、国民の一体感、連帯感、が失われていく事を
本能的に恐れている層なのだと思います。
誤解されると困りますが
僕はそれが良いとか悪いとか言っているわけでは
ありません。

マスメディアもマスメディアで
なんとか、あの素晴らしい日々
つまり、日本人が一丸になって戦争や
経済戦争へ向かっていた1940年体制の幻想を
取り戻そうとして躍起のようです。
長島監督は脳梗塞で入院してしまいましたが
日本代表の監督は長島茂雄以外にはない、という声も
大きいようで、何としてでもアテネオリンピックは
長島監督で、という、空気、が、世間様、に
形成されようとしています。
一度そういった、空気、が、世間様、に形成されてしまうと
日本社会では言いたいことが言えなくなってしまいます。
このまま行けば、長島監督には、しばらく病気の療養に
専念してもらっては……などと言おうものなら
非国民、扱いされるような、空気、になっていくかも
しれません。

でも実際の社会システムは
完全に変化してしまっていて
若い人達は、漠然としたマジョリティ(多数派)の中で
みんなと一緒にしていても
あまりいい事はないのではないか、と
気がつき始めています。

政治家が、国民のみなさん、と呼び掛ける時も
そうですが、90年代以前と異なり
都市部と地方、高所得者層と低所得者層
若年層と中高年層といった形で
国民、の利害が多様化してしまっているので
政治家の、国民のみなさん、という言葉も
何だか空疎に聞こえてしまいます。

1940年体制下においては、全ての日本人は
たいてい同じライフスタイルである、というのが
常識、だったので、政治家も、不特定多数の
国民、に対してメッセージを発することが
できたわけですが
現在は事情が異なります。

高度成長期、や、バブル、の頃と違って
政策によるパイの分け前は、ゼロサム、になってきているので
例えば、構造改革によって恩恵を受ける層、と
構造改革によって損失を被る層、に
国民、が分かれてしまっているわけです。

国民のために構造改革を、といった形でしか
現在の政治家はメッセージを発することができませんが
道路公団の民営化によって損失を被る、国民、は
猪瀬直樹さんの事務所に脅迫の電話をかけたりします。
構造改革によって全ての、国民、が
一律に、痛みを伴う、わけではないわけです。

僕は基本的に、失うものなど何もない若年層、なので
構造改革、をどんどん進めていってくれた方がよいのですが
官庁絡みの仕事や公共事業によって
生計を立てている層にとっては
ちょっと待ってくれよ、となるはずです。

でも政治家は、国民のみなさんのために
構造改革を、と呼び掛ける
しかないわけです。

そういった構図の中で、民主党が
マニュフェスト、という言葉を持ち出して
きたのも象徴的でした。

漠然とした各政党のスローガンよりも
マニュフェストの数値目標を見れば
その政権によって、自分が恩恵を受ける層なのか
損失を被る層なのかがよく分かるわけです。

東西冷戦下のイデオロギー対立の下では
スローガン、が有権者にとって最も分かりやすいもの
だったのかもしれませんが
近代化を終え、資本主義陣営と共産主義陣営の対立も
終えた現代では、マニュフェストによる数値目標、による方が
有権者もより選択がし易いのかもしれません。

マニュフェスト、ではなくて、政権公約、でも
よいように思ってしまいますが
戦後長らく続いた自民党の一党支配の下で
政権公約、という言葉は
選挙の時だけの、美辞麗句、という意味になって
しまったので、マニュフェスト、という言葉が
必要になったのだと思います。

社会構造の急激な変化によって
そういった書かれた文字の、読み、或いは、発音、と
その、意味、が遊離してしまっている言葉が
大量発生しているように思ってしまいます。
文学的に、ちょっと気取って言えば
シニフィアンとシニフィエが
遊離してしまっている、という事になるのかも
しれません。

このエッセイで何度も書いていますが
現在は、あらゆる分野が過渡期なので
それに対応する、言葉の発明、が求められている
のかもしれません。

何だか変です。
プロ野球、と、日本のプロ野球。


-プロ野球と日本のプロ野球(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/220043.html



関連、

2003年死語辞典(1)~(7)
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/12/150200312003121.html


オリンピック(5)変わる、スポーツの見方 2004.3.X 初出

僕は、シカゴ・ブルズが
デトロイト・ピストンズにどうしても
勝てなくて、マイケル・ジョーダンが
まだ、神様、になっていなかった頃の
NBA、がとても好きでした。

当時、バッド・ボーイズ、と呼ばれていた
デトロイト・ピストンズは
3ガード・ローテーション、という
それまでのセンターやフォワードを
花形とするスタンスでなく
ガードを中心とした戦術で
強くなっていきました。
この時のピストンズのパワーフォワードが
悪童こと、デニス・ロッドマン、だったわけです。
リバウンド、という地味な仕事を
芸術、の領域にまで高めたデニス・ロッドマンの
素養は、デトロイト・ピストンズ時代に
培われたものだと思います。

さらに、ピストンズ、のデイフェンスには
ジョーダンルール、というものがあって
マイケル・ジョーダンにボールが
渡ったら、二人、若しくは、三人で
取り囲んで、膝げりを入れてでも
足を踏んででも、ユニフォームを掴んででも
とりあえず、マイケル・ジョーダンを、つぶす、のです。
この荒っぽいジョーダンルールで
ピストンズは、マイケル・ジョーダンを
完全に封じ込めました。

デトロイトの基幹産業は、自動車産業ですが
80年代後半からジワジワと
日本の自動車産業に押されて
リストラ圧力が加わっていた
当時の多くのデトロイト市民の鬱憤が
バット・ボーイズ、こと
デトロイト・ピストンズのラフなプレイスタイルを
後押ししていたのかもしれません。
やはり、スポーツに、そういった、物語り、が
加わると盛り上がるのだな、と思ってしまいます。

K1、や、プロレス、などは
現在も盛況のようですが
維新軍、や、魔界、といった形での
物語り、の提供を絶えず怠りません。
やはり、アマレス、ではなく、プロレス、なわけです。

翻って最初の話題について考えてみますと
アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事であります。
たぶん感情移入できる、物語り、がないのではないかと
思ってしまいます。
オリンピック発祥の地、という、物語り、はあるはず
なのですが、今一つ盛り上がりに欠けているようであります。
何だか日本の行く末を見るような気がしてしまいます。
どこの国のチームが勝ってもいいし
ビッグイベントがあってもなくてもいいから
とりあえず、自分の生活、という人が増えていくような
気がします。

そういった中で、日本を応援しろ
日本人選手を応援しろ、と、強制、はできません。
それでは全体主義国家、北朝鮮、と同じです。

アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていない。
それを、寂しい、ととるか
成熟、ととるかは、その人の価値観次第でしょう。

スポーツ新聞などは
冷戦期型のスポーツ報道の需要に答えるための
メディアのように思いますが
喫茶店などでスポーツ新聞を広げていたり
するのは、たいてい50代以降の男性ばかりのようです。

スポーツ新聞の見出しは、扇情的に
不特定多数の、国民、に訴えかけるような
感動的なストーリー、を演出していますが
そんな事はどうでもよい、という、国民
若しくは、個人、が増えてきているような
気がします。

だからといって、スポーツ報道、の需要が
なくなるというわけではなくて
スポーツの見方、が変わるのだと思います。
僕はNBA入りを目指して真剣にバスケットボールに
取り組んでいた時期があるので
選手の背後に、隠された壮絶な物語り、であるとか
資本主義陣営と共産主義陣営の対立、であるとか
西洋型近代先進国家の仲間入り、であるとかの
物語り、がなくても、バスケットボールのゲームを
十分楽しんで見れると思うのです。

田伏勇太選手が、日の丸を背負って
NBAに挑戦する、というストーリーがなくても
田伏勇太選手が、いいパスを出したり
巧みなドリブルを見せたりしたら
上手いな、早いな、と楽しんで見れると思うのです。
戦術面においても、これは、ディレイド・オフェンスだな、とか
ダブルチームできたな、といった具合に
楽しんで見れると思うのであります。

やはり女の直感は当たるのかもしれません。
東西冷戦が終わり
1940年体制やら
一億総中流社会やら
明治以来の画一的中央集権化やら
高級官僚主導による護送船団方式やらが
次々と終焉を迎え
中田とイチローは格好いいけど
松井は格好悪い、という時代が
来てしまうのかもしれません。

日本のスポーツ新聞の記者達と
中田英寿選手やイチロー選手の
取材を巡る対立、は
そういった社会構造の変化を
象徴して余りあると思ってしまいます。



-オリンピック(完)-



関連、

  石の話
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/07/20037.html


オリンピック(4)資本主義陣営の勝利 2004.3.X 初出

現在、国際スポーツ大会、を
最も、国威発揚、の舞台としたがっているのは
北朝鮮、ですが、たぶん閉じられた近代国家同士の代表が
国を背負っての代理戦争としてスポーツで争う時
最もそのイベントが盛り上がるのだと思います。

最近の北朝鮮は、国際スポーツ大会に
美女軍団、を送りこむなど
手口を巧妙化・邪道化させてきていますが
もう限界のような気がしてしまいます。

美女軍団を観てみようかな、と思う人は多くても
その競技自体は関係者以外の興味を
ひかないような気がしてしまいます。

でも男というのは、実に、古今東西単純なもので
どんな高尚な哲学を唱えていても
美女には弱かったりします。
韓国の男性陣は、北朝鮮の美女軍団にポーッとなってしまい
拉致問題も核開発疑惑も一瞬忘れてしまったようで
あります。

造物主は、どうして人間をこんな、造り、に
してしまったのだろうと思ってしまいます。
歴史上、美人を死刑にした裁判官はいない、とも
言われます。
もちろん俗説でしょうが、一面の真理をついて
います。
そうなると、女性は、人格を磨いたり
教養を身につけたりするよりも
美容整形で、美人、になった方がよいのかな、とも
思ってしまいます。
美容整形で、美人、になっても
それによって周りの男性の扱いが変わってきたら
自信もついてきて、本当に、美人、になってしまうかも
しれません。
何なのだろう、人間というのは。

閑話休題。
ソビエト崩壊前の、オリンピック、は
本当に面白かったし、盛り上がったように
思います。

みんな自分の国の代表に自己を投影し
勝てば本気で喜び
負ければ本気で悔しがっていたように思います。
そういった応援の仕方は
長野オリンピックのジャンプで見せた
原田さんの、涙、で終わったような
気がしてしまいます。

僕がほとんどテレビを見ないせいかもしれませんが
イチロー選手の父親チチローです、のような形で
出てくる人を、最近あまり見ないような気がします。

松井秀樹選手などは、その辺、自分に与えられた
社会的役割に自覚的なようで
日本に帰った時も、実家や同級生を
大切にしてますよ、という姿を
アピールしているようですが
偉いな、と思ってしまいます。

年配の方々の中には、大相撲の若の花が
引退後アメフトに挑戦したのを見て
日本の恥だ、とまで怒っている方もおりました。
その手のタイプの方々は、きっと
サッカーの中田英寿選手や
スピードスケートの清水宏保選手を
嫌っていると思います。
もうこの、世代間ギャップ、は
どうにもならないものがあるな、と思って
しまいます。埋めようがありません。

じゃあお前はどうなんだ、と言われると
困るのですが、僕は基本的に
見てるだけ、です。
僕は基本的に、傍観者、です。
見てるだけ。

一応NBA入りを目指してかつて
バスケットボールに真剣に励んでいた僕としては
NBAのオールスター、所謂、ドリームチーム、が
オリンピックに出場したり
コカ・コーラがスポンサーについたりして
オリンピックの商業化が過激になっていった時点で
オリンピックは終わったのではないか、と
思ってしまいます。

オリンピックの、理念、どうこうよりも
開催による経済波及効果はいくら、なんて
話が先にきてしまいます。
やはり東西冷戦は、資本主義陣営の
完全勝利に終わったのだな、と思ってしまいます。

だったら始めから、商業主義、と妥協している
NBAを見た方がよいのではないか、と僕は
思ってしまいます。


-オリンピック(5)変わる、スポーツの見方、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/520043.html

オリンピック(3)冷戦の終了 2004.3.X 初出

少々話が逸れてしまいましたが
スポーツにおいて最高のパフォーマンスを
出すための方法は
日の丸を背負う、という手段だけではないのですよ、という
話なのです。

いや、日の丸を背負った方が力が出る、という
選手がいるならそれでもよいかと思いますが
日の丸を強制されたら絶対に力を出せない、という
タイプの選手もいるかと思います。

そういった意味では、イチロー選手が
国民栄誉賞を辞退したのは象徴的でした。
時代が時代なら、非国民、扱いされて
いたことでしょう。
サッカーの日本代表の選手達に対しても
時々、君が代をきちんと歌え、という
圧力が加わったりするようです。

でも、楽しんできます、とインタビューで答えられる
選手達の精神状態は、メンタルトレーニングの
理論に照らして考えると、そんなに悪いものでは
ないかもしれません。

ただ、国民が一体になって国家の近代化に
取り組んでいた時期に青春時代を
送った世代の方々には、そういった
スポーツ選手達の姿は、面白くない、と写るはずです。

スポーツ選手にしても、国家の近代化のために
日の丸を背負って、こんなに苦労して
こんなにすごい練習をして
血の汗を流して、涙を拭いて
ついにメダルを獲得したんだよ
さあ、みんなも頑張って西洋に追いつき
追い越そう、オウ! 田舎のじっちゃん
ばっちゃん、見てるかい……という姿勢を
見せてほしいのだと思います。

そういった需要が、まだ年配の方々に残っているので
高度成長期を思わせるボーズ頭の素朴なイメージで
保守層に取り入ろうとする若手タレントが
出てきたりします。

でも若い世代の人達に話を聞くと
あの作られた、素朴さ、が
なんとも鼻につく、そうであります。

現代の、高校球児、にしても
10中、8、9は、テレビの前で、作って、いると思います。
少なくとも僕なら、作り、ます。

もうテレビはどうしようもないな、と
最近つくづく思います。
出る側、も、見る側、も
撮る側、も、みんな嘘だと思ってやっているわけです。

今時テレビなど真面目に見ているのは
田舎のおじいさん、おばあさん
くらいではないか、とまで書いたら
テレビ関係者に怒られてしまうだろうか……。

でもそれは、一面では悪いことではなくて
激動の昭和を命がけで生き抜いた
おじいさん、や、おばあさん、達が見ている
テレビの前では、やはり、高校球児、や
坊主頭の素朴な若手タレント、がいてくれた方が
よいのではないか、と思ってしまいます。
ある種の、優しさ、としてです。

マラソンの高橋尚子選手の隣りで
時々、小出監督が、飲んだくれ、て
インタビューに答えたりしていますが
そういった姿は、年配の方々には
ウケ、ても、若い世代は
ヒク、のではないでしょうか。

公的なメディアに、作らない自分の姿、を
出されると、若い世代は
何だか、下半身、や、恥部、を見せられたような気がして
ヒク、ような気がしてしまいます。
北野武さんが、深夜放送で
下半身を出す、のは
芸、なのでよいと思うのですが
小出監督の、飲んだくれ、は、下半身そのもの、のように
見えてしまうような気がします。

でも、年配の方々は、飾らない人間らしい姿、を
見たがるのだと思います。
だから、小出監督は、保守層には
結構人気があります。
そこでまず、テレビの映像に対する
世代間の認識ギャップが出ているように思ってしまいます。

もしかしたら、小出監督は相当なワルで
その辺の事情を全て計算の上で
飲んだくれ、を演じているのかもしれません。

話があちこち飛んでばかりですが
要は、東西冷戦下における
西側諸国、東側諸国、の国威発揚
代理戦争の舞台としての
オリンピック、国際スポーツ大会は
その歴史的役割を終えたのだな、という事だと思います。


-オリンピック(4)資本主義陣営の勝利、へ続く-

http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/420043.html

オリンピック(2)精霊の王 2004.3.X 初出

いつの頃からか、国際大会に出場する選手達は
楽しんできます、とインタビューで
答えるようになりました。

国費で楽しんできますとは何事か
これだから今の若い人達は、と
年配の方の中には怒りを覚える方も
多いかもしれませんが
メンタルトレーニングの理論の中には
プレッシャーを楽しめる精神状態に
至った時、その選手は最大のパフォーマンスを
発揮できる、という考え方もあるようなので
あながちインタビューで
楽しんできます、と答える選手達が
悪いとは言えないと思ってしまいます。

僕がバスケットボールの大会に出場した時も
最高の結果を出せたのは
怒りや不安、ビビり、といったネガティブな
精神状態を通り越し
チャレンジするんだ、という、挑戦、の段階を経て
無心の境地、に至った時だったように
思います。

斬りむすぶ、太刀の先こそ地獄なれ
たんだ踏み込め、先は極楽 

そういった精神段階に至ると
バスケットボールが、止まって見える、わけです。
その段階に至れば
目を瞑っていても、シュートを外しませんし
コートのどの辺りに、どの選手がいて
次にどこへ動いていくのか、というのも
手に取るように分かるようになるわけです。

そういった精神状態を仏教的に表現すれば
阿頼耶識(アラヤシキ)が
異常に活性化された状態、という事になるかと
思います。
俗に言う、第7感、とか、第8感、とか
女の直感、とか呼ばれる人智を超えた
サムシング・グレイト、と繋がっている状態
です。

スポーツ解説者などは、そういった精神状態にある
選手を、奴はゾーンに入っている、と
表現したりします。

野球選手なども、所謂、ゾーンに入り
絶好調、の段階に至ると
140キロのスピードボールでも、止まって見えて
その、縫い目が見える、とさえ言われています。

ちなみにバスケットコートには
確か、ビッグ・モー? と呼ばれる
コートの神様、が住んでいると言われて
いたように思います。
この、コートの神様、を味方につければ
バスケットコートを完全に支配できるわけです。

NBAのマイケル・ジョーダンは、最盛期
完全にゲームを支配する、神様、の如くプレイして
いましたが
きっと、バスケットコートの神様
ビッグ・モー、を味方につけたのだと
思います。

フロイトの潜在意識の理論を
発展的に継承しようとした
カール・グスタフ・ユングは
人間の無意識の奥底には
高い洞察、を表す、老賢者、が住んでいる、と
指摘していた事があります。
(河出書房新社、人間と象徴、下巻、70ページ)

僕は、バスケットコートに住むと言われる
ビッグ・モー、という神様も
ユングの言う、深層意識下の
老賢者、のようなものではないかと
思ってしまいます。

中沢新一さんという、現代日本で
おそらく最も元気のある学者先生が
最新作、精霊の王、という著作において
神社で行われる、申楽、を通して
所謂、ゾーン、に入る、翁、について
書いていました。

帯に、日本人の精神史をくつがえす!
と過激なメッセージがありましたが
あながち大袈裟な表現ではないと思って
しまいます。
時代が時代なら、発禁本、です。
この本は、多くの日本人、特に、東北人、にとって
精神史をくつがえされるかのような
衝撃の書、となるかと思います。

神社の、石、についても
かなり踏み込んで書いてありました。

あまりに衝撃的な本なので
紹介してよいのかな、と
躊躇してしまいますが
これは凄い本です。

精霊の王 中沢新一 講談社




-オリンピック(3)冷戦の終了、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320043.html

精霊の王

人間と象徴 上巻―無意識の世界

人間と象徴 下巻―無意識の世界

マンガユング「心の深層」の構造―全生涯とその分析心理学 (Kodansha sophia books)




オリンピック(1)ナショナリズム 2004.3.1 初出

アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事です。
ギリシャはオリンピック発祥の地でもあるはずなのに
どうしたことか、と思ってしまいますが
アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事であります。

2008年の北京オリンピックは
きっと開催国中国が、異常に盛り上がるだろうと
思います。
もちろん、西洋型近代先進国家の仲間入り、の
宣言イベントとしてです。
それは、東京オリンピック、や、大阪万国博覧会、で
かつて日本中が異常に盛り上がったのと
パラレルだと思います。

ちなみにサッカーワールドカップの日韓共催時に
異常に盛り上がっている韓国の人達を
テレビで見ていた僕の知人は
うるさい人達だな、と呟いていました。

それは韓国のサッカーチームのサポーターが
うるさい、のではなく
その背後にある、異常に高揚したナショナリズム、を
うるさい、と、僕の知人は感じたのだと思います。

昔、日本が西洋に追いつき追い越せと
ナショナリズムを高揚させながら
国家の近代化に取り組んでいた時期には
オリンピックに出場する選手達は
日の丸を背負っていた、と思いますが
そういった姿は、きっと
西洋先進国の人々にとって
うるさかった、のではないかと思います。

円谷幸吉、というマラソン選手が
そういった日の丸を背負った
異常なプレッシャーの中で走り続け
最後は自殺へ追い込まれた、という
凄いエピソードも残っていますし
鬼の大松、に導かれ、東洋の魔女、とまで
恐れられた日本の女子バレーの
すさまじい練習ぶり、すさまじいシゴキぶりに
日本は女を虐待する国か、と
当時の西洋人が驚いたという話もあります。

年配の方々の中には、前畑頑張れ、などと
言われると、涙腺が緩んでしまう、という方も
多いかと思います。

でもそんな、日の丸を背負った
悲壮な決意のスポーツドラマ、を
いつの頃からか聞かなくなりました。



-オリンピック(2)精霊の王、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/220043_1.html