2004年4月1日木曜日

卵のなかみ200回記念エッセイ 2004.4.1 初出

卵のなかみ、も早いもので200回を超えました。

どういうわけか
広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
ひょんな事から、卵のなかみ、を始める事に
なったわけですが、本当にこのエッセイを
書き始めてよかったなと思います。
毎回分野問わず自由に書かせてもらったおかげで
自分の小説のテーマも、今この国で起こり始めて
いる変化の概要も、だんだんと見えるようになって
きました。

僕がなんとか現代の状況を把握しようとして
書いているこのエッセイの中から
読んでくれるみなさんが、一ヶ所か二ヶ所でも
あ、そうかもしれないな、という部分をひろって
生活に役立ててもらえたら
最高に嬉しいな、と思います。

中には、何を言ってるんだこいつは、という部分も
あるかもしれませんが、全ての人の意見や
感覚が一致するのは基本的に全体主義国家か
タコツボ化した新興宗教団体においてしか成立
しないわけなので、それは健全な精神が
機能している証なのだ、と僕は考えています。
あらかじめ御了承願いたいところであります。
ただ書き手の側としては、なるべく多くの人の
共感を得たいというのは当然のことでありますが……。

時に発作にかられて
GIVE ME A EARTH!
などという、とんでもないMCが入ったりしますが
こちらもあらかじめ御了承願いたいところであります。

気がついたらもう、2004年4月、です。
ここ仙台北山でも、日に日に春を感じられるように
なってまいりました。
春が来た、春が来た、どこに来た。
ここに来た。おお、よく来たな、春。

というわけで春がやってきました。
春と言えば

春は曙
やうやう白くなりゆく山際
少し明かりて
紫だちたる雲の
細くたなびきたる

GIVE ME A EARTH!

卵のなかみ、これからも宜しくお願い致します。



-卵のなかみ200回記念エッセイ-

2004年3月1日月曜日

プロ野球と日本のプロ野球(8)あ、騙された! 2004.3.X 初出

と、ツラツラと8回に渡って
ずいぶんと長いエッセイを書いてきたわけですが
自主トレ、も、俺流、も、勉強、も
死語になるかもしれません、という話なのです。

要は、集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等へと移行し始めている
ということなのですが
僕も含めて多くの日本人は
今までずっと、1940体制以来、60年近く
集団主義に対応するための教育や刷り込みを
受けてきているので
脳内のリストラを行っていくのは
大変なことだな、と思ってしまうのです。
あ、騙された! という意識の人は
かなり多いかと思います。

そんなの分かっているよ、という
懸命なる読者の方もおられるかもしれませんが
何かに騙された、という感覚を
持っている日本人が大半のように
思ってしまいます。

いい大学に入れ、なるべく大きな会社に入れ
真面目にさえやっていれば何とかなるから
一つの会社に長く勤めないと履歴書が汚れる
努力と根性で、みんなと一緒に人並みに
個人的に何かしようなんて考えないで
社会の敷いたレールに乗ってれば
世間様をお騒がせして……etc.

ちょっと前まで、常識、だったこれらの概念が
全て、嘘、に近くなってきています。

僕自身は、大学生の頃に
山一證券が破綻したニュースを見て
あ、騙された、と気がつきました。
高級官僚主導による、護送船団方式、が
限界を迎えた瞬間でした。

当時は、就職活動、というよりも、就社活動、が
常識でしたが、就社活動を間近に控えた僕は
山一證券破綻、というビッグニュースが飛び込み
仙台でも、紱陽シティ銀行、が破綻したりして
あれ、おかしいぞ、と思いました。
そしていわゆる、内定、していた学生達に
内定取り消し、の通知が来たりして
あ、騙された、と感じたわけです。

当時は、終身雇用、の幻想がまだあって
就職活動、というよりも、就社活動、の意識が
ほとんどの人にあったので
一部上場企業の破綻、であるとか
内定した会社が入社前に倒産する、なんていうのは
ちょっと考えられないことでした。
大学も会社も入るまでが勝負、な世界だったので
合格体験記、やら、内定体験記、のような
冊子が高校や大学で配られていたようにも思います。

大学も会社も入るまでが勝負
入ってしまえば後は
俺は~大卒だ、俺は~会社の~部長だ
おお、凄い、という刷り込みをずっと
受けてきたので
あれ、おかしいぞ、と思った人は
同世代にかなり多かったと思います。

そういった意識から脳内のリストラを行い
軌道修正するまで僕自身結構とまどって
しまったので
こうしてウツラウツラと書いているエッセイが
同じ、あ、騙された! という思いを
抱えている方に、少しはお役に立てれば、と思うわけです。

おそらくスポーツ選手だけに限らなくて
これからは多くの人が、俺流、私流、僕流、で
自分のキャリアデザインを行わなくては
ならない社会になるのでしょうが
何事も計画通りに進むものではありませんので
最低限のセーフティーネットは必要だろうなと
思ってしまいます。
でもこれがまた困ったことに、政府にはもう金がないので
セーフティーネットも削られ始めています。

義理・人情であるとか、宗教的ボランティアであるとか
近所のおばさん、が、かつては
無償のセーフティーネット、として機能していたのでしょうが
近代化・都市化・西洋化した現代の日本社会では
そういった無償のセーフティーネットは
なんだか、胡散臭いもの、のように思われてしまいます。
そうなるときっと、NPOの出番、となるのでしょう。
大きな政府から小さな政府への流れは不可避なので
NPO的に市民の自発的活力を
社会の中に取り込んでいくしかないのだろうなと
思ってしまいますが
これまた社会主義的システムの下で
刷り込みが長く行われてきたので
下からの活力、というものが
中々出てこなかったりします。
お上がなんとかしてくれる、という意識も
早く消し去らないといけないように思ってしまいます。

共産主義的な計画経済というのは
やはり基本的に人間を飼い殺すシステムなのだなと
思ってしまいます。
集団主義による結果の平等社会では
個人の自発的努力は必要とされません。
むしろ計画経済の、邪魔、になります。
社会(主義)が敷いたレール、では
市民なり個人の自発的な活力、が
不良、になってしまいます。
まさに悪平等。

ちなみに人類史で共産主義が成功したのは
イスラエルのキブツ、と、戦後の日本経済だけだと
言われたりします。
人類史上、神によって土地を
約束されたのは、日本人とユダヤ人だけのようですが
やはりそういった形而上学的保障の下にしか
共産主義も成功しないことを考えると
北朝鮮が金総書記を、神格化、したり
ソビエト連邦がスターリンを、神格化、していたのも
分かるように思ってしまいます。

でもその、唯一成功した社会主義、と揶揄される
日本経済も、計画経済的システムが行き詰まり
集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会に
変化することを求められています。
果たしてこの大変化に日本社会は
耐えられるのだろうか、と思ってしまいます。
訳の分からない事件、の発生頻度は
一年に一度、三ヶ月に一度
一ヶ月に一度、一週間に一度
三日に一度、と加速しています。

チャップリンならきっと
現代の日本社会の混乱を
ポストモダンタイムス、として
映画に撮ったことでしょう。

というわけで
プロ野球の話はどこへ行ったのだ、という事に
なるわけですが
これぞ、ポストモダンなエッセイ、なので
あります。



-プロ野球と日本のプロ野球(完)-

プロ野球と日本のプロ野球(7)勉強 2004.3.X 初出

勉強、という言葉にも、自主トレ、に似て
勉めて強いる偉い行為、という
ニュアンスがあります。
これはもしかしたら儒教圏の特徴なのかもしれません。

でも僕は最近、社会のアングロサクソン化によって
勉強、という言葉も何だか、その記された文字、と
その意味するところ、が遊離してきているような気が
するのです。
またまた文学的にちょっと気取って言えば
シニフィアン、と、シニフィエ、が遊離しているように
思うのであります。

巷で言われる、ポスト資本主義、知価社会、というものが
本当に訪れたら、知識は最大の資産となるわけで
勉強は、勉めて強いる偉い行為、どころか
会社の損益分岐点を割るかどうかの
生命線になってしまうわけであります。
そうなると

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也

のような感覚で、勉強は、努めて強いる偉い行為
或いは、精神修養のための微笑ましい行為、やら
人格修養、晴耕雨読な仙人思想……といった崇高な
ものではなくて、単に
勉強してない事には、生活の糧を得られなくなって
しまうのではないかと思うのであります。

日本では近代以前、就労人口のほとんど(85%くらい)が
農民、だったのが、20世紀を通して
工場労働者、となりました。
そして日本社会では、農業従事者が
著しく減少しました。

それと同じように、21世紀の日本社会では
知価社会が訪れて、工場労働者、が
知識労働者、へ移行していくだろう、と言うのです。

そんなわけがないだろうと
思われる方もおられるかもしれませんが
中国が、10億、とも、12億、とも言われる人口を
持って、本格的に市場社会に参入し始めたため
ほとんどの工場労働は、中国へ持っていかれて
しまうわけで、これといった付加価値のない
工場労働者のままでは
10億とも12億とも言われる中国人と
まともに職を奪い合う事になってしまうわけです。
はっきり言って勝てるわけがありません。

中国では、かつて日本で、団塊の世代、が
金の卵、と呼ばれて地方の農村から
集団就職で太平洋ベルトコンベアー地帯に
移動していったように、大量の低賃金労働者が
都市部へと職を求めて移動し始めているようです。

ちなみに、先日僕は、メイド・イン・チャイナの
春物シューズを購入してみたのですが
はっきり言って、ものは悪くありませんでした。

一方、中国の農村部の疲弊は酷いものがあるという
話なのですが、これもかつて日本が経験したものと
同じでしょう。

富める者はますます栄え、貧しい者は
ますます貧しくなっていく。
近代化、都市化、資本主義化、というものは
いったい何なのだろう、と思ってしまいます。

こういった社会的矛盾を埋めるべく
農業社会から工業社会へと移行していく過程で
共産主義思想、社会主義思想、が
説得力を持つのかもしれません。

実際中国共産党は、農村部を
支持基盤として誕生したもののようですが
このまま中国の農村部が疲弊し続け
新たに誕生した都市部の中間層や富裕層から
民主化要求などが出てくるようですと
共産党の独裁的手法が限界を迎えるかも
しれません。
ここが中国が経済発展していく中での
最大のグレーゾーンだと言われているようです。

要は農業社会から工業社会へ移行していく際に
共産主義思想というものが
最も魅力的なものに映るのではないかと
いう事であります。
農業社会、というものは
その村々の、共同体、で作業を進めるので
一人一人の社会的連帯感が保てるわけで
アノミー(無連帯、無規範)を防げます。

これが農業社会から工業社会へ移行し始めると
この、共同性、が壊されてしまい
失われた田園共同体意識
疎外感、孤立感、を埋め合わせるべく
われわれは生産手段をブルジョワ層から奪還し
プロレタリアート独裁による政権を築くのだ
労働者よ、団結せよ、労働者よ
今こそ立ち上がる時だ
我々は生産手段をブルジョワ層から……といった
共産主義のメッセージが多くの人をひきつけるのでは
ないかと思うのであります。

実際日本でも、農業社会から工業社会へと
劇的に変貌していった60年代70年代に
共産主義思想が多くの若者達を引き付けたように
思います。
それで人生を棒に振ってしまった人も
多いようですが。

現在の中国では、共産主義思想の下で
生産手段を国有企業としていた
計画経済が立ち行かなくなり
共産党政権下での資本主義化という
人類史上例のない体制に移行し始めています。
WTO加盟やFTA締結、私有財産制の保護など
もう完全に実質は資本主義化しているようです。

中国がこのまま順調に工業化に成功すれば
中国共産党は、経済の成功によって
農村の支持基盤を失う、という形になり
かなり不安定な政権になってしまいます。

そして工業化によって誕生した
都市部の中間層や高所得者層は
権利意識に目覚め
共産党の独裁的手法に民主化要求を
突きつけてくるはずです。

抜け道は、名前だけ共産党で
実質資本主義、というダブルスタンダードを
押し通すことですが
果たしてそれが可能なのか。
中国脅威論、も、中国崩壊論、もありますが
やはりここはかなりのグレーゾーンでしょう。

作家の平野啓一郎さんと瀬戸内寂聴さんが
中国へ旅行した際
中国の若者達が哲学書や文学書を
地べたで座り読みしていたのを見て
衝撃を受けたそうですが
そういった形で中国の民衆が
政治意識に目覚めていくと
中国共産党も立場が危なくなっていくのでは
ないかと思ってしまいます。
要は、独裁的権力者にとって
民衆は無知であってくれた方がよいわけです。

そういった意味では
台湾の直接選挙は要注目で
中国共産党が、今後高まるであろう民主化要求に対して
どういった態度を取るのかの試金石になるように
思います。

と、書いてきたところで、今回の台湾総統選で
候補者が銃撃を受けた、というニュースが
飛び込んでまいりました。
なんとも嫌なタイミングであります。
いったいどうなってしまうのだろう。

と、少々話が逸れてしまいましたが
農業社会から工業社会への移行が成功し
ある程度物的な豊かさを実感できる社会になると
共産主義の魅力は色あせていくものなのではないか
という話なのであります。

で、農業から工業へと産業形態が移行し
さらに工業社会から知価社会へ移行しようとしている
現在の日本社会では、関係者には申し訳ないのですが
労組はこのまま衰退していくのではないかと
思ってしまうわけであります。

たぶん若い人達の多くは
一つの会社に一生勤めようなんて
思っていないだろうし、第一長く勤めたくても
途中で会社が倒産してしまったりします。
会社が倒産してしまったら
組合活動どころではありません。

マルクス的、史的唯物論的に言えば
理念なり法律制度なりの上部構造は
生産手段という下部構造によって決定される、という事に
なるのかもしれませんが
下部構造である、生産手段が
農業から工業へ、さらに知価へと移行していく
ことによって、上部構造にあたる
共産主義という理念が崩壊してしまうのだから
ある意味カール・マルクスは正しかったのかも
しれません。

知価社会においては、生産手段は
経営者ではなく労働者にあります。
ビル・ゲイツ氏は、マイクロソフトから
20人が去れば、会社はたちまち倒産の危機に
陥る、と発言しているようです。

これが、大量生産・大量消費の
20世紀型の工業社会では
会社から20人が去っても
新たに20人採用すれば済むわけです。
まさにチャップリンが、映画、モダンタイムス、において
描いたような、地下鉄の階段を駆け上がる羊達の群れが
やがて職場へと急ぐ人の群れに代わるような世界です。
そして辿り着いた工場内では
人間がベルトコンベアーに飲み込まれてしまいます。

ちなみにチャップリンは、赤、つまり
共産主義者だったのではないかと言われています。
チャップリンのような繊細な人は
農業社会から工業社会へと移行していくことで
失われていく、何か、に耐えられなかったのだと
思います。

でもそれは20世紀の工業社会の悲哀です。
日本社会ではチャップリンの、モダンタイムス、が
ポストモダンタイムス、に移行しつつあります。
チャップリンが描いたような
地下鉄の階段を羊のように駆け上がり
工場内のベルトコンベアーの前で
何時間も同じ作業を行う、という、労働、は
全て中国や東南アジアへ、或いは
FTAを締結しているメキシコ、や、シンガポールへ
外注されてしまいます。
賃金格差を考えたら勝てるわけがありません。

どう考えても、工業社会から知価社会へ移行して
いくしかないわけですが、知価社会においては
決められたことを言われた通りにこなす能力ではなく
自分の脳みそで考えて、クリエイティブに
活動することが求められるわけです。
ですが、これが困ったことに
戦後の日本社会は、中国の高級官僚登用制度
科目による選挙、によって、言われたことを
忠実にこなす脳みそしか育成してきませんでした。

与えられた事を忠実にこなせ、という教育を
受けてきた人間が、突如、自分で考えて
行動しなくてはならない、という世界に放り出されて
気が狂って人を殺したり、包丁を振り回したりしている様子を
チャップリンなら面白おかしく
ポストモダンタイムス、という映画で表現して
くれたかもしれません。
そう、きっと日本社会は
ポストモダンタイムス、に入ってしまったのでしょう。

20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
学校を卒業したら、勉強は終わり、でしたが
知価社会が訪れたら
生涯学習、というのは
人格形成や美徳の一種ではなく
収入を左右する身も蓋もない行為に
なってしまうかもしれません。

そして20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
土地、資本、労働、が
生産の三要素でしたが
21世紀の知価社会においては
知識、資本、時間、になるのではないかと
思ってしまいます。

インターネットはプレイスレス化を起こしている、と
以前サイバーレボリューションのエッセイに書きましたが
実際アメリカでは、IT技術を駆使して
国内企業のコールセンターを
インドに外注してしまう、というビジネスが
盛んになっているようです。

アメリカの会社に問い合わせの電話を
かけると
インドに繋がって、インド人が応対に
出るわけです。
本当にアメリカ人の中には
合理的に物事を考える人達が多いものだなと
思ってしまいます。
人件費も土地代も劇的に減らせて
しまうわけです。

以前も紹介した
イザヤ・ベンダサン著の、日本人とユダヤ人、の中に
ユダヤ人は長い間、自国通貨を持てなかったため
純経済学的に貨幣を運用できる、とありましたが
合理性、というものは、そういうものなのかも
しれません。
アメリカ経済の強さはユダヤを味方につけた
ところにある、という方もおります。

ユダヤ人の純経済学的強さ。
例えば今後、アジア通貨圏、が築かれる可能性が
出てきたとして、円を廃止するか、と迫られたら
多くの日本人は、NO、と言うと思います。
それは、円、という自国通貨に愛着が
あるからです。
でもユダヤ人は、長い間自国通貨を持たなかったため
純経済学的、に、どのマーケットがよいか
どこの通貨を持てばベストか、とすぐに見れるわけです。
それは、守銭奴、という意味ではなくて
むしろ自国通貨を持たない弱さを補うために
純経済学的に物事を見なければならない
という意味なので、むしろ、守銭奴、の逆です。

ユダヤ人というのは、迫害に次ぐ迫害
放浪による放浪によって
コスモポリタンに生き残る術を身につけて
いったのかな、と思ってしまいます。
そのコスモポリタンな能力は
現代のグローバルな環境で
とても有利になるのではないかと
思ってしまうわけです。

日本でも何年か前に、IT技術を駆使し
東京の会社に問い合わせの電話を
かけると沖縄に繋がる、というシステムを
起ち上げる計画があったようですが
その後はどうなったのだろうと
思ってしまいます。

ちなみに僕が以前派遣で勤めていた
某役所では、コールセンターを外注するために
公社を設立しておりました。
コールセンターを外注するために
公社が一つ増えてしまっているのだから
終わってるな、と思ってしまいます。
後は、そこへ本庁から、天下り、すれば
よいわけです。
官僚制度というのは、放っておくと
どこまでも自己増殖していくものなのだな、と
僕は某役所で学びました。
僕がこうして、官公庁に勤める人にとっては
耳の痛いことをたまに書いておくのも
マクロ経済にとってはよいことなのかも
しれません。

で、僕は、勉強、という言葉に
最近違和感を覚えるだ、という話でした。
勉強、という言葉には、どうしても
三浪して早稲田に入る、とか
8年勉強して司法試験に合格する、というような
刻苦勉励、のような意味がまとわりついています。

でも、知価社会、において求められるのは
そういった形での、勉強、ではないような気がするのです。

ちょっと気取って文学的に言えば
やはり、自主トレ、や、国民のみなさん
といった言葉と同様に、勉強、も
シニフィアン、と、シニフィエ、が
遊離してしまっているのかもしれません。

きっと、政権公約、に対する、マニュフェスト、のような
形での言い換えが、様々な分野で求められて
いるのでしょう。
カタカナ語が増えていくのはよく分かる気がする。



-プロ野球と日本のプロ野球(8)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/820043.html




日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)




プロ野球と日本のプロ野球(6)俺流 2004.3.X 初出

今シーズンから、中日の監督に
就任した落合博光監督は
現役時代、所謂、自主トレ、ばかりして
いるので、俺流、などと呼ばれて
異端視されていました。

三冠王、という結果を残していたから
俺流、も許されていたのでしょうが
やはり1940年体制下の日本社会は
個人が潰されるシステムだったのだな、と
思ってしまいます。

俺流、が、異端視、されなくなるまで
現在の混乱は続くのかもしれません。

日本社会のスタンダードが
どんどんアングロサクソン化して
共産主義の砦、ソビエト連邦が崩壊し
高級官僚主導による護送船団方式が終わり
集団主義による結果の平等から
個人主義による機会の平等へと
社会の基本的な価値観が変わり始めると
自主トレ、も、俺流、も死語になるかもしれません。

でもこれが困った事に
日本人が一丸になって何かに向かう
戦争へ、或いは、経済戦争へ、という
1940体制は、文字通り60年以上続いたわけで
日本社会では、全ての努力が、日本のために
行われなくてはならない、という前提があります。
つまり、多くの人が、自分のために努力する、という事に
慣れていないわけです。
個人的に努力すると、自主トレ、になってしまい
俺流、になってしまいます。

スポーツに限らず、これからは
ほとんどの社会人が、個人的に
キャリアデザインを行って
いわば、俺流、に生きなくては
ならなくなるわけですが
これは大変な事だな、と思ってしまいます。
ちょっと前まで、俺流、は
異端、だったわけです。

最近、社会人の多くから
サラリーマンと呼ばないで
ビジネスマンと呼んでくれ、という声が
上がっているようですが
サラリーマン、より
ビジネスマン、の方が
何となく、俺流、な感じがします。

サラリーマンとビジネスマンの違いは
要は、給料を貰ってから働くのが、サラリーマン、で
働いてから給料を貰うのが、ビジネスマン、のように
思います。
微妙な違いですが、ビジネスマン、は、仕事を作る人、で
あって、サラリーマンは、その発生した仕事によって
サラリーを貰う人、なのでしょう。

ちなみにサラリーの語源は、古代ローマで
兵士に塩を買うためのお金を出したことに
由来するようです。
日本でも、敵に塩を送る、の故事がありますが
人体は塩を切らしたら持ちません。

要は、みんなと一緒、であれ
俺流、であれ、サラリーマン、であれ
ビジネスマン、であれ
ローマの兵士、であれ
いつの時代でも
人間は生存に最低限必要なものを
何とかして得なくてはならないという事なのだと
思います。



-プロ野球と日本のプロ野球(7)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/720043.html

プロ野球と日本のプロ野球(5)日本式 2004.3.X 初出

かつては、日本のスポーツ関係者が
中国へ指導員として招かれたりすると
先生、日本式でやって下さい、などと言われたようです。
日本式、つまり、精神論に基づいて
シゴキ、をやって下さい、という意味です。

僕もバスケットボールに励んでいた頃は
日本式、で、鬼コーチに
殴れたり、蹴られたり、罵倒されたり、と
さんざんな目に遭いました。

僕が中学生くらいまでは
まだ、人権、という意識が浸透していなかったので
スポーツの強豪校で
コーチや監督が選手を殴っている、などというのは
常識中の常識、だったのであります。

人権概念、が少し浸透してきてからは
さすがに、試合会場で殴るのはマズイ、という事に
なってきたのですが
そうなると今度は、ロッカールームで監督が選手を殴る、ように
なってしまい、ハーフタイムを終えると
後半から鼻血を出している選手などもいたものです。
ずいぶん、長閑(のどか)と言えば長閑、雑といえば雑な
時代だったわけです。

僕も、30発以上の張り手と
10発以上の蹴りを入れられた挙句
バスケットボールを投げつけられたり
したことがありましたが
僕は人権侵害を受けたのでしょうか。
たぶん、そうなのかもしれません。
今ならきっとその鬼コーチは、懲戒免職、です。

ただ難しいもので、悲惨な経験も
時の経過と共に
その人のアイデンティティーを構成する一部と
なってしまう、という傾向があったりします。

ああ、野麦峠、という
日本の近代化途上における、女工哀史もの、の代表作を
読んでみたところでは
製糸工場で大変な重労働を強いられた過去を持つ
おばあさん達が、過酷な日々を
甘美な思い出のように話す、とありました。

やはりドップラー効果なのかもしれません。
時の遠近法、パースペクティブ。
遠ざかる日々はより美しく見えるのでしょう。

子供の人権条約、のためか
僕が中学に入った頃から、人権、人権、と騒がれるように
なりましたが、子供の人権、というのは
おそらく、児童虐待、や、児童買春、を防ぐための
ものだったように思います。
当時の日本社会では時期尚早だったのかもしれません。
でも現在は、ちょっと笑えない状況になってきました。
親が子供を死ぬまで殴る、なんていう話も
よく聞くようになってきました。

いったい何なのだろう。
かつては、人権、などという言葉がなくても
日本では安全と水と空気は無料だったのに
必死に頑張って西洋に追いついてみたら
人権、に基づいて公権力が民事に介入しなければ
ならない状況になってしまいました。
それはもしかしたら西洋近代というシステムに
根本的矛盾があるのではないだろうか、と
思ってしまいます。

欧米の猿真似ではなく
日本近代、を打ち出した方がよいのかも
しれませんが、黒い雨、によって
日本近代は壊されてしまいました。

でもやはり、人権、という概念は
大切かもしれません。
暴力は連鎖して、シゴかれた人は
たいていシゴキますし
先輩に苛められた人は
たいてい後輩をイジメます。
それに取り返しのつかないトラウマを
抱えてしまう人もいます。
僕も殴られた経験を思い出すのは
あまり嬉しくないものであります。


-プロ野球と日本のプロ野球(6)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/620043.html




あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)

プロ野球と日本のプロ野球(4)1985年 2004.3.X 初出

前回は、日本の精神性、と、アメリカの合理性、の
話だったわけですが
ただ、かつてアメリカが最も恐れたのは
その、日本の精神性、だったというのは
間違いないと思います。
合理的に物事を考える人間にとって
非合理な、気合、や、叫び、は
恐ろしいものです。

GHQは、戦後、武道における
気合、や、叫び、を禁じたようです。
そして、日本書紀、古事記、といった
日本成立の物語を教育現場から
追放するという、記紀追放、を行い
3S(セックス、スポーツ、スクリーン)政策によって
日本人の精神を軟弱化させようとしたわけです。
完璧だな、と思ってしまいます。

もうほとんどの日本人は
かつての意味での、日本人、ではなくなってしまった
ように思います。
70年代を境に、日本人は~、という主語が
機能しなくなっていったのも
よく分かるような気がします。

三島由紀夫の自衛隊基地での割腹自殺が、1970年。
村上龍さんの米軍基地の街を舞台とした
限りなく透明に近いブルー、が1976年です。
1970年代を境として
小説の舞台が、自衛隊の基地から
米軍基地の街へ移ってしまったわけです。

アメリカの占領政策は、1945年から
約30年後に結実したわけです。
30年を1ゼネレーションと考えると
ドンピシャリです。
見事にやられた、という感じがします。

そして終戦から40年後の、1985年。
ブルーハーツ、がデビューします。

1985、国籍不明の
1985、飛行機が飛んだ
風を砕くのは、銀色のボディー
謎のイニシャルは、誰かの名前

僕達がまだ生まれてなかった
40年前、戦争に負けた
そして、この島は歴史に残った
放射能に汚染された島

そしてブルーハーツのデビューから
さらに20年近く経とうとしています。
そうなると、敗戦から60年近く
つまり、2ゼネレーションが立つわけです。
アメリカ合衆国は、完全に日本を封じ込めて
しまったのだなと思います。

日本はアメリカに溶けてしまった、という
映画監督もいましたし
日本はアメリカ合衆国の51番目の州、とさえいう人も
います。
そして経済システムも
ついにアメリカ型に移行しようとしています。

イギリスやアメリカという
アングロサクソン型の人達は
言わば、支配の天才、で
旧植民地からも意外と好意的に見られていたりします。
アメリカ自体が、かつてイギリスから
独立した国だったりします。
でも、1985、求めちゃいけない、のであります。
甘い口づけは。

黒い雨が降る、死にかけた街で
何をかけようか、ジュークボックスで
1985、今、この空は
神様も住めない
そして、海まで山分けにするのか
誰がつくった物でもないのに

黒い雨、つまり文豪井伏鱒二が、黒い雨、という
小説で描いたところの、一般市民への無差別爆撃
どころか、一つの街を、一瞬の、ピカドン、で
壊滅させてしまうような、非人道的、な事を
しておきながら、全く反省せずに
他国を、ならず者国家、などと非難して
案外平気なのがアメリカ合衆国の特徴かも
しれません。
2004年3月現在、イラクはどうしようもない
状況になってしまったようですが
アメリカ政府は、イラクに自由をもたらした、と
豪語してやみません。

マキャベリ、という思想史に残る政治思想家は
君主論、において

ある国を奪い取る時には、征服者は
とうぜんやるべき加害行為を、決然と
一気呵成に行い、後は蒸し返さない事だ。
そして恩恵を小出しに行う事で
民心を得ていけ。

と教えています。
こういった身も蓋もないワルな支配の仕方を
マキャベリの名にちなんで、マキャベリズム、と
言ったりしますが、アメリカ合衆国、というか
アングロサクソン型の民族は
本質的に、マキャベリスト、なのかもしれません。
日本人というのは、どちらかと言うと
お人好しな民族なのか、マキャベリスト、に
成りきれず、良心の呵責に苛まれて
グズグズモジモジ、としているから
アジア諸国に嫌われてしまうのかな、と
思ってしまいます。
女に張り手を食らわせてから
甘い口付けをする、ジゴロのような男、が
マキャベリ的君主、或いは、覇権国、には
相応しいのかもしれません。でも

1985、求めちゃいけない、のであります。
甘い口付けは。

1985年と言えば、バブル経済へ
つまり、明るさの全体主義、に
まさに突入しようという時代です。
俺たちひょうきん族、という番組では
さんまさんが、1985年の何ですか、という曲と
ともに、ナンですかマン、というネタをやって
いました。
本当に、ナンですか、な年だったわけですが
水面下では、ドル高是正のための、プラザ合意、が
ありました。
このアメリカ経済のために円高ドル安へ誘導しましょう
という、プラザ合意、によって
土地バブル、製造業の海外移転、という
その後の流れができてしまったのかもしれません。

1985、選挙ポスターも
1985、あてにはならない

と、ブルーハーツも、1985、という曲の中で
歌っていました。
本当にバブルの頃は
選挙ポスターなどあてにはなりませんでした。
そういった対米追従の政策決定過程の全てを
革新官僚、の流れを組む
霞ヶ関の高級官僚達が取り仕切っていたわけです。

僕たちを縛り付けて
一人ぼっちにさせようとした
全ての大人に感謝します。
1985年、日本代表ブルーハーツ

と、甲本ヒロトさんは当時叫んでいましたが
僕たちを縛り付けて一人ぼっちにさせようとした
全ての大人、というのは
戦後の日本を動かしてきた
巨大な官僚機構の事だったのかもしれません。

終戦から40年後の、1985年当時
ブルーハーツは日本代表に相応しい
バンドだったように思ってしまいます。



-プロ野球と日本のプロ野球(5)へ続く-
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黒い雨 (新潮文庫)

君主論 (中公クラシックス)


プロ野球と日本のプロ野球(3)合理性と精神性 2004.3.X 初出

と、日米ともに、野球、若しくは、ベースボール、の
開幕シーズンを間近に控え、各選手の
周辺も慌しくなってまいりました、という話題から
例によってややこしい話を展開してしまったわけで
ありますが、日米ともに、野球、若しくは
ベースボール、の開幕を間近に控えて
耳にするようになった
自主トレ、という言葉にも
僕は違和感を感じたのでありました。
自主トレ。

日本では、戦前の軍国主義を引き継いだかのような
体育会、というものがあって
押忍! な世界が、ほんの少し前までありました。
押忍! な世界では、トレーニングは縦社会の下で
集団で行うもの、という前提が
あるので、個人的に行うトレーニングは個別に考えて
自主トレ、という言葉ができたのかもしれません。

体育会、には、シゴキ、という風習もあったりして
全てにおいて年功序列的なシステムとなっていて
一年生はボールを触れない、などという
人権侵害、とも、不合理、とも取れそうな習慣が
まかり通っていました。
ですが体育会ではそれが美徳だったわけです。
国会でも、一年生議員、などという言い方がありますが
派閥の中で、年功序列的にポジションを上げていき
やがて大臣のポストをゲットする、という
システムはある意味、体育会、的です。
体育会、では、そういった風習が
美徳になってしまいます。

そういった慣習が、全く不合理なものか、というと
そうとも言い切れなくて
コートに出てボールに触れる前に
筋力や持久力の土台を作ってから
ボールに触れて技術を覚える、という
合理性、はあったように思います。
国会でも同じかもしれません。

そしてコートに立てるようになった選手には
ボールに触ることへの、飢え、があるから
あっという間に技術が上達します。
それに体育会で仕込まれた、押忍! な上下関係は
年功序列型の社会へ出た時にも役に立ちます。

昔は、体育会出身の学生が、就職、に
というか、就社、に有利だった時代もあったようです。
でも体育会的な、押忍! な上下関係は
終身雇用、や、年功序列型賃金、の社会でだけ有効なので
あって、これからの、実力社会
エイジレス(年齢を問わない)社会、では、邪魔、に
なるかもしれません。
相手の肩書き、つまり、部長、や、課長、といった
ポストによって、言葉や態度を使い分けるような行為は
年功序列型の社会では、美徳、でしたが
これからは、姑息、となるかもしれません。
ここでも価値観の180度の転換があります。

で、そういった社会システムの変化による
価値観の大転換が起きているので
僕は、自主トレ、という言葉に違和感を
感じたのかもしれません。

トレーニングは個人でしておくべきもの
というコンセンサスのある実力主義の社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのでは
ないかと思ったわけです。

自主トレ、には、集団でやるはずの
トレーニングを、自主的に行っている偉い行為
のニュアンスがあるような気がします。

僕はNBA入りを目指して真剣に
バスケットボールに取り組んでいた時期があるので
アメリカの大学バスケなども結構研究したのですが
アメリカでは、チームスポーツといえども
自分で基礎的なトレーニングを行っておくのは当たり前で
チームで集まった時には、連携プレーや作戦の確認など
最小限の事を行う形になっていたように思います。
そういったコンセンサスのある社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのではないかと
思うのです。

どちらがよいか、と一概には言えませんが
アメリカ式では何でも合理的になる傾向があり
日本式では何でも精神論になってしまう傾向がある、と
言えるかもしれません。

メンタルトレーニングの領域へ踏み込んで考えてみれば
何でも精神論へ持っていく日本式も
あながち悪くはないと思ってしまいますが
合理的な考えも捨ててはいけないな、とも
思ってしまいます。

日米関係は、安全保障の分野では
相当歪んでいますが
こと文化の面に限って言えば
面白いようにコラボして
お互いの長所、短所、を理解し
上手く取り込んだ新しい形態へ
向かっているのかもしれません。


-プロ野球と日本のプロ野球(4)へ続く-

http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/4198520043.html

プロ野球と日本のプロ野球(2)日本教の危機 2004.3.X 初出

先日、イザヤ・ベンダサン著(一説には山本七平氏)の
日本人とユダヤ人(角川ソフィア文庫)という本を
読んでいて、ふと気がついた事がありました。

この、日本人とユダヤ人、という本は
似ているようで実は正反対な
日本人とユダヤ人の対比、という視点で
日本、及び、日本人論を展開するという
たいへんユニークな論考です。
1970年代に200万部を売り上げたという
驚異的なベストセラーだったようです。
現代で言えば養老孟司さんの、バカの壁、のような感じ
だったのかもしれません。

で、70年代のベストセラーを読んでいて
何に気がついたのか、と言いますと
そこで展開される、日本人論、における
日本人は~、という主語が
現在では上手く機能していないなという事でした。
つまり、1970年代まではあった
日本人、というものの共通の特徴が
現代では価値観の相対化、多様化、或いは
社会の近代化、西洋化によって
ほとんど成立しなくなっているな、という事に
気がついたのであります。

僕が以前、年配の方と一緒に仕事をしていて
トラブルが起きた時の事ですが
その方はその際、日本人ですから~、という言い訳を
しました。
きっとその方の、日本人ですから~、には
お人好しですから、とか
あまりガツガツと権利を主張して
世間様を騒がせたりしませんから、といった
ニュアンスが含まれていたように思います。

で、先述の、イザヤ・ベンダサン著の
日本人とユダヤ人、では
この、日本人ですから~、の部分を
一つの宗教と見て、日本教、と命名していました。
日本教、においては、人間くささ、や
人間味、が最も重視されるとも。
僕はその、日本教、というのは
神道、のことではないかと思いました。

日本では外来思想が全て、神道化、してしまいます。
仏教は、日本に流入した時点で
天台本覚論、や、本地垂迹説、などによって
神道化、されてしまい
そんなものは本来の仏教ではない、というような
形になってしまいましたし
仏教の後に入ってきた儒教も
神道化されてしまい、中国や朝鮮半島の
人達に言わせれば、そんなのもは儒教ではない、という
形になってしまいました。

神道、は、ユダヤ・キリスト・イスラム的な
意味での、啓典宗教、ではないので
外来思想を時にガブ飲みしてしまう事があります。

日本人の契約概念などもそうですが
欧米における、契約、に比べたらとても人間味があって
契約書に記してない部分は
双方誠意をもって対応する、などとなってしまいます。
いい加減、と言えば、いい加減
人間味がある、といえば、人間味があります。
基本的に人間というものを信用していない事には
成立しない宗教です。日本教。

やはりそういった、日本教、の根底にあるのは
神道、ではないかと思ってしまいます。
啓典、や、戒律、或いは、契約、よりも
人間味、人間臭さ、が重視される。
日本人ですから……人間だもの……。

ちなみに日本が、かつて朝鮮半島で行った最悪の暴政は
朝鮮半島の仏教から戒律を廃してしまい
僧侶達の結婚を認めてしまった点にある、という人もおります。
それはもしかしたら、日本教、の感覚で
朝鮮半島を統治しようとしてしまったからでは
ないかと思ってしまいます。

と、ツラツラと、日本人論、について
書いてきてみたわけですが
70年代のベストセラー、イザヤ・ベンダサン著
日本人とユダヤ人、の中で述べられている
日本人は~、という主語が
2004年3月現在、上手く機能しなくなって
きているのではないか、という事を言いたいわけです。

グローバル化、それに伴う、文明の衝突、という
現代の状況において、日本人ですから~、という
人間味、人間くささ、をベースとした、日本教、も
その危機を迎えているのではないか、と思ったわけであります。

グローバル化、それに伴う、文明の衝突、において
ユダヤ・キリスト・イスラムの摩擦が
激しくなっている海外の情勢を見て
宗教ごときでそんなに熱くならなくても、と
僕も含めた多くの日本教徒は
眉をしかめてしまいますが
日本人の、日本教、も
危機にさらされているのかもしれません。
田中耕一さん、VS、中村教授
松井秀樹選手、VS、中田英寿選手

今回のエッセイは、プロ野球と日本のプロ野球、という
お題で書き始めたので、それに絡めて言えば
長島茂雄さんの、あの何とも憎めないキャラクター
人間味、人間くささ、は
多くの、日本教徒、の心を
捉えてやまないのではないかと思います。

でもその、ミスター、こと
長島茂雄さんが代表するところの
プロ野球、が、日本のプロ野球、になってしまいました。
そして、プロ野球、から
何かが抜けてしまったのだと思います。

その、何か、を失うことを本能的に
恐れた層が、キューちゃん、こと、高橋尚子選手の
アテネ五輪代表落選に対して激怒し
日本陸連に抗議の電話を入れたのかもしれませんが
きっとその抗議の電話を入れた人は
そんなに悪い人ではなくて
敬虔なる、日本教徒、なのかもしれません。

それに対して日本陸連は警察に相談し
警備員を置くことにしたようです。
日本教徒からすれば、ますます人間味のない
許されざる行為です。

長島茂雄さんは、セコムしてますか、と
警備会社のCMに出演しながら
セコムのスイッチを入れていなかったために
不審者に家に入られてしまった、という
人間味、人間くささ、溢れるエピソードで
トラブルの渦中にあってさえも
日本教徒、の心を潤してくれましたが
そういった、日本教徒の生き様、或いは、感性、が
社会のグローバル化、市場化、アングロサクソン化
によって危機にさらされているのかもしれません。
精神に異常をきたす人が続出するのも
何となく分かるような気がしてしまいます。

やはり、文明の衝突、は
神々の闘い、なのだなと思ってしまいます。



-プロ野球と日本のプロ野球(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320043_9.html



関連、

これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(1)~(2)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038.html
戦後日本システム崩壊の前兆(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/1200312.html
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

文明の衝突



プロ野球と日本のプロ野球(1)シニフィアンとシニフィエの遊離 2004.3.X 初出

日米ともに、野球、若しくは、ベースボールの
開幕シーズンを間近に控え、各選手の周辺も慌ただしく
なってまいりました。

メジャーリーグへ挑戦する日本人選手が
増えてから、ニュースキャスターなどが
プロ野球は~、という主語ではなく
日本のプロ野球は~、という主語を
持ってくるようになりました。

野茂英雄投手が海を渡って成功してしまった
1995年以前は、プロ野球は~、という主語だけで
よかったわけです。
それが、2004年3月現在は、日本のプロ野球は~、という
主語を持ってこないと意味が通じなくなってしまいました。
違和感を覚えるのは僕だけではないような気がします。

いわゆる、日本のプロ野球、には
中央集権的な匂いがついているように思ってしまいますが
どうでしょう。

巨人を見ずに飯が食えるか!

というコピーが昔ありましたが
戦後復興期から高度成長期くらいまでは
東京、読売、ジャイアンツ、が
日本人の連帯感を保障する強力なコンテンツと
なっていたのではないかと僕は思います。
大袈裟に言えば、戦前における天皇制の代替物、としてさえ
機能していたのではないかと思ってしまうのです。

巨人、大鵬、卵焼き

であるとか

巨人、阪神、の伝統の一戦

であるとか

天覧試合での長島選手の活躍

であるといった形で
日本人の連帯感、日本の中央集権化を
保障するコンテンツとして
プロ野球、は、上手く機能していたのではないかと
思ってしまうのであります。
僕が子供の頃は、野球ファンは
たいてい、巨人ファン、か、アンチ巨人、で
括られていたようにも思います。

その、日本人の連帯感、或いは、中央集権化、を
保障するコンテンツとしての、プロ野球、が
90年代後半からの大転換期を経て
日本のプロ野球、になってしまったのは
象徴的だなと思ってしまいます。

社会を近代化させるには
同質な文化的背景を持つ
多数の優秀な国民と
中央集権化が不可欠です。
そして日本には、その条件が見事なくらいそろっていて
明治以来、大規模な戦争以外には
たいした挫折を経験することなく
近代化を成功させたわけです。
でも何事によらず、大きな目標達成の後には
ある種の喪失感が伴います。

国家の近代化、や、戦後復興、などの
国家的目標を喪失して久しい現代の日本社会で
ニュースキャスターが、プロ野球は~、という
主語ではなくて、日本のプロ野球は~、という
括弧つきの主語、を持ってくる構図は
象徴的だな、と思うのであります。

復興、や、高度成長、や、近代化、といった
国家的目標喪失と同時に
プロ野球、から、何かが抜けてしまい
日本のプロ野球、になってしまったような
ニュアンスを僕は感じてしまいます。
プロ野球、と、日本のプロ野球。

国民的歌手、であるとか、国民的美少女、という言葉も
だんだんと死語に近くなってきていますが
国家的目標喪失と無縁ではないような気がします。

国民的ヒロイン、キューちゃん、こと
女子マラソンの高橋尚子選手が
アテネ五輪代表から外れたことに激怒して
日本陸連に抗議の電話を入れたりしている人達は
きっと、国民の一体感、連帯感、が失われていく事を
本能的に恐れている層なのだと思います。
誤解されると困りますが
僕はそれが良いとか悪いとか言っているわけでは
ありません。

マスメディアもマスメディアで
なんとか、あの素晴らしい日々
つまり、日本人が一丸になって戦争や
経済戦争へ向かっていた1940年体制の幻想を
取り戻そうとして躍起のようです。
長島監督は脳梗塞で入院してしまいましたが
日本代表の監督は長島茂雄以外にはない、という声も
大きいようで、何としてでもアテネオリンピックは
長島監督で、という、空気、が、世間様、に
形成されようとしています。
一度そういった、空気、が、世間様、に形成されてしまうと
日本社会では言いたいことが言えなくなってしまいます。
このまま行けば、長島監督には、しばらく病気の療養に
専念してもらっては……などと言おうものなら
非国民、扱いされるような、空気、になっていくかも
しれません。

でも実際の社会システムは
完全に変化してしまっていて
若い人達は、漠然としたマジョリティ(多数派)の中で
みんなと一緒にしていても
あまりいい事はないのではないか、と
気がつき始めています。

政治家が、国民のみなさん、と呼び掛ける時も
そうですが、90年代以前と異なり
都市部と地方、高所得者層と低所得者層
若年層と中高年層といった形で
国民、の利害が多様化してしまっているので
政治家の、国民のみなさん、という言葉も
何だか空疎に聞こえてしまいます。

1940年体制下においては、全ての日本人は
たいてい同じライフスタイルである、というのが
常識、だったので、政治家も、不特定多数の
国民、に対してメッセージを発することが
できたわけですが
現在は事情が異なります。

高度成長期、や、バブル、の頃と違って
政策によるパイの分け前は、ゼロサム、になってきているので
例えば、構造改革によって恩恵を受ける層、と
構造改革によって損失を被る層、に
国民、が分かれてしまっているわけです。

国民のために構造改革を、といった形でしか
現在の政治家はメッセージを発することができませんが
道路公団の民営化によって損失を被る、国民、は
猪瀬直樹さんの事務所に脅迫の電話をかけたりします。
構造改革によって全ての、国民、が
一律に、痛みを伴う、わけではないわけです。

僕は基本的に、失うものなど何もない若年層、なので
構造改革、をどんどん進めていってくれた方がよいのですが
官庁絡みの仕事や公共事業によって
生計を立てている層にとっては
ちょっと待ってくれよ、となるはずです。

でも政治家は、国民のみなさんのために
構造改革を、と呼び掛ける
しかないわけです。

そういった構図の中で、民主党が
マニュフェスト、という言葉を持ち出して
きたのも象徴的でした。

漠然とした各政党のスローガンよりも
マニュフェストの数値目標を見れば
その政権によって、自分が恩恵を受ける層なのか
損失を被る層なのかがよく分かるわけです。

東西冷戦下のイデオロギー対立の下では
スローガン、が有権者にとって最も分かりやすいもの
だったのかもしれませんが
近代化を終え、資本主義陣営と共産主義陣営の対立も
終えた現代では、マニュフェストによる数値目標、による方が
有権者もより選択がし易いのかもしれません。

マニュフェスト、ではなくて、政権公約、でも
よいように思ってしまいますが
戦後長らく続いた自民党の一党支配の下で
政権公約、という言葉は
選挙の時だけの、美辞麗句、という意味になって
しまったので、マニュフェスト、という言葉が
必要になったのだと思います。

社会構造の急激な変化によって
そういった書かれた文字の、読み、或いは、発音、と
その、意味、が遊離してしまっている言葉が
大量発生しているように思ってしまいます。
文学的に、ちょっと気取って言えば
シニフィアンとシニフィエが
遊離してしまっている、という事になるのかも
しれません。

このエッセイで何度も書いていますが
現在は、あらゆる分野が過渡期なので
それに対応する、言葉の発明、が求められている
のかもしれません。

何だか変です。
プロ野球、と、日本のプロ野球。


-プロ野球と日本のプロ野球(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/220043.html



関連、

2003年死語辞典(1)~(7)
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/12/150200312003121.html


オリンピック(5)変わる、スポーツの見方 2004.3.X 初出

僕は、シカゴ・ブルズが
デトロイト・ピストンズにどうしても
勝てなくて、マイケル・ジョーダンが
まだ、神様、になっていなかった頃の
NBA、がとても好きでした。

当時、バッド・ボーイズ、と呼ばれていた
デトロイト・ピストンズは
3ガード・ローテーション、という
それまでのセンターやフォワードを
花形とするスタンスでなく
ガードを中心とした戦術で
強くなっていきました。
この時のピストンズのパワーフォワードが
悪童こと、デニス・ロッドマン、だったわけです。
リバウンド、という地味な仕事を
芸術、の領域にまで高めたデニス・ロッドマンの
素養は、デトロイト・ピストンズ時代に
培われたものだと思います。

さらに、ピストンズ、のデイフェンスには
ジョーダンルール、というものがあって
マイケル・ジョーダンにボールが
渡ったら、二人、若しくは、三人で
取り囲んで、膝げりを入れてでも
足を踏んででも、ユニフォームを掴んででも
とりあえず、マイケル・ジョーダンを、つぶす、のです。
この荒っぽいジョーダンルールで
ピストンズは、マイケル・ジョーダンを
完全に封じ込めました。

デトロイトの基幹産業は、自動車産業ですが
80年代後半からジワジワと
日本の自動車産業に押されて
リストラ圧力が加わっていた
当時の多くのデトロイト市民の鬱憤が
バット・ボーイズ、こと
デトロイト・ピストンズのラフなプレイスタイルを
後押ししていたのかもしれません。
やはり、スポーツに、そういった、物語り、が
加わると盛り上がるのだな、と思ってしまいます。

K1、や、プロレス、などは
現在も盛況のようですが
維新軍、や、魔界、といった形での
物語り、の提供を絶えず怠りません。
やはり、アマレス、ではなく、プロレス、なわけです。

翻って最初の話題について考えてみますと
アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事であります。
たぶん感情移入できる、物語り、がないのではないかと
思ってしまいます。
オリンピック発祥の地、という、物語り、はあるはず
なのですが、今一つ盛り上がりに欠けているようであります。
何だか日本の行く末を見るような気がしてしまいます。
どこの国のチームが勝ってもいいし
ビッグイベントがあってもなくてもいいから
とりあえず、自分の生活、という人が増えていくような
気がします。

そういった中で、日本を応援しろ
日本人選手を応援しろ、と、強制、はできません。
それでは全体主義国家、北朝鮮、と同じです。

アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていない。
それを、寂しい、ととるか
成熟、ととるかは、その人の価値観次第でしょう。

スポーツ新聞などは
冷戦期型のスポーツ報道の需要に答えるための
メディアのように思いますが
喫茶店などでスポーツ新聞を広げていたり
するのは、たいてい50代以降の男性ばかりのようです。

スポーツ新聞の見出しは、扇情的に
不特定多数の、国民、に訴えかけるような
感動的なストーリー、を演出していますが
そんな事はどうでもよい、という、国民
若しくは、個人、が増えてきているような
気がします。

だからといって、スポーツ報道、の需要が
なくなるというわけではなくて
スポーツの見方、が変わるのだと思います。
僕はNBA入りを目指して真剣にバスケットボールに
取り組んでいた時期があるので
選手の背後に、隠された壮絶な物語り、であるとか
資本主義陣営と共産主義陣営の対立、であるとか
西洋型近代先進国家の仲間入り、であるとかの
物語り、がなくても、バスケットボールのゲームを
十分楽しんで見れると思うのです。

田伏勇太選手が、日の丸を背負って
NBAに挑戦する、というストーリーがなくても
田伏勇太選手が、いいパスを出したり
巧みなドリブルを見せたりしたら
上手いな、早いな、と楽しんで見れると思うのです。
戦術面においても、これは、ディレイド・オフェンスだな、とか
ダブルチームできたな、といった具合に
楽しんで見れると思うのであります。

やはり女の直感は当たるのかもしれません。
東西冷戦が終わり
1940年体制やら
一億総中流社会やら
明治以来の画一的中央集権化やら
高級官僚主導による護送船団方式やらが
次々と終焉を迎え
中田とイチローは格好いいけど
松井は格好悪い、という時代が
来てしまうのかもしれません。

日本のスポーツ新聞の記者達と
中田英寿選手やイチロー選手の
取材を巡る対立、は
そういった社会構造の変化を
象徴して余りあると思ってしまいます。



-オリンピック(完)-



関連、

  石の話
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/07/20037.html


オリンピック(4)資本主義陣営の勝利 2004.3.X 初出

現在、国際スポーツ大会、を
最も、国威発揚、の舞台としたがっているのは
北朝鮮、ですが、たぶん閉じられた近代国家同士の代表が
国を背負っての代理戦争としてスポーツで争う時
最もそのイベントが盛り上がるのだと思います。

最近の北朝鮮は、国際スポーツ大会に
美女軍団、を送りこむなど
手口を巧妙化・邪道化させてきていますが
もう限界のような気がしてしまいます。

美女軍団を観てみようかな、と思う人は多くても
その競技自体は関係者以外の興味を
ひかないような気がしてしまいます。

でも男というのは、実に、古今東西単純なもので
どんな高尚な哲学を唱えていても
美女には弱かったりします。
韓国の男性陣は、北朝鮮の美女軍団にポーッとなってしまい
拉致問題も核開発疑惑も一瞬忘れてしまったようで
あります。

造物主は、どうして人間をこんな、造り、に
してしまったのだろうと思ってしまいます。
歴史上、美人を死刑にした裁判官はいない、とも
言われます。
もちろん俗説でしょうが、一面の真理をついて
います。
そうなると、女性は、人格を磨いたり
教養を身につけたりするよりも
美容整形で、美人、になった方がよいのかな、とも
思ってしまいます。
美容整形で、美人、になっても
それによって周りの男性の扱いが変わってきたら
自信もついてきて、本当に、美人、になってしまうかも
しれません。
何なのだろう、人間というのは。

閑話休題。
ソビエト崩壊前の、オリンピック、は
本当に面白かったし、盛り上がったように
思います。

みんな自分の国の代表に自己を投影し
勝てば本気で喜び
負ければ本気で悔しがっていたように思います。
そういった応援の仕方は
長野オリンピックのジャンプで見せた
原田さんの、涙、で終わったような
気がしてしまいます。

僕がほとんどテレビを見ないせいかもしれませんが
イチロー選手の父親チチローです、のような形で
出てくる人を、最近あまり見ないような気がします。

松井秀樹選手などは、その辺、自分に与えられた
社会的役割に自覚的なようで
日本に帰った時も、実家や同級生を
大切にしてますよ、という姿を
アピールしているようですが
偉いな、と思ってしまいます。

年配の方々の中には、大相撲の若の花が
引退後アメフトに挑戦したのを見て
日本の恥だ、とまで怒っている方もおりました。
その手のタイプの方々は、きっと
サッカーの中田英寿選手や
スピードスケートの清水宏保選手を
嫌っていると思います。
もうこの、世代間ギャップ、は
どうにもならないものがあるな、と思って
しまいます。埋めようがありません。

じゃあお前はどうなんだ、と言われると
困るのですが、僕は基本的に
見てるだけ、です。
僕は基本的に、傍観者、です。
見てるだけ。

一応NBA入りを目指してかつて
バスケットボールに真剣に励んでいた僕としては
NBAのオールスター、所謂、ドリームチーム、が
オリンピックに出場したり
コカ・コーラがスポンサーについたりして
オリンピックの商業化が過激になっていった時点で
オリンピックは終わったのではないか、と
思ってしまいます。

オリンピックの、理念、どうこうよりも
開催による経済波及効果はいくら、なんて
話が先にきてしまいます。
やはり東西冷戦は、資本主義陣営の
完全勝利に終わったのだな、と思ってしまいます。

だったら始めから、商業主義、と妥協している
NBAを見た方がよいのではないか、と僕は
思ってしまいます。


-オリンピック(5)変わる、スポーツの見方、へ続く-
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オリンピック(3)冷戦の終了 2004.3.X 初出

少々話が逸れてしまいましたが
スポーツにおいて最高のパフォーマンスを
出すための方法は
日の丸を背負う、という手段だけではないのですよ、という
話なのです。

いや、日の丸を背負った方が力が出る、という
選手がいるならそれでもよいかと思いますが
日の丸を強制されたら絶対に力を出せない、という
タイプの選手もいるかと思います。

そういった意味では、イチロー選手が
国民栄誉賞を辞退したのは象徴的でした。
時代が時代なら、非国民、扱いされて
いたことでしょう。
サッカーの日本代表の選手達に対しても
時々、君が代をきちんと歌え、という
圧力が加わったりするようです。

でも、楽しんできます、とインタビューで答えられる
選手達の精神状態は、メンタルトレーニングの
理論に照らして考えると、そんなに悪いものでは
ないかもしれません。

ただ、国民が一体になって国家の近代化に
取り組んでいた時期に青春時代を
送った世代の方々には、そういった
スポーツ選手達の姿は、面白くない、と写るはずです。

スポーツ選手にしても、国家の近代化のために
日の丸を背負って、こんなに苦労して
こんなにすごい練習をして
血の汗を流して、涙を拭いて
ついにメダルを獲得したんだよ
さあ、みんなも頑張って西洋に追いつき
追い越そう、オウ! 田舎のじっちゃん
ばっちゃん、見てるかい……という姿勢を
見せてほしいのだと思います。

そういった需要が、まだ年配の方々に残っているので
高度成長期を思わせるボーズ頭の素朴なイメージで
保守層に取り入ろうとする若手タレントが
出てきたりします。

でも若い世代の人達に話を聞くと
あの作られた、素朴さ、が
なんとも鼻につく、そうであります。

現代の、高校球児、にしても
10中、8、9は、テレビの前で、作って、いると思います。
少なくとも僕なら、作り、ます。

もうテレビはどうしようもないな、と
最近つくづく思います。
出る側、も、見る側、も
撮る側、も、みんな嘘だと思ってやっているわけです。

今時テレビなど真面目に見ているのは
田舎のおじいさん、おばあさん
くらいではないか、とまで書いたら
テレビ関係者に怒られてしまうだろうか……。

でもそれは、一面では悪いことではなくて
激動の昭和を命がけで生き抜いた
おじいさん、や、おばあさん、達が見ている
テレビの前では、やはり、高校球児、や
坊主頭の素朴な若手タレント、がいてくれた方が
よいのではないか、と思ってしまいます。
ある種の、優しさ、としてです。

マラソンの高橋尚子選手の隣りで
時々、小出監督が、飲んだくれ、て
インタビューに答えたりしていますが
そういった姿は、年配の方々には
ウケ、ても、若い世代は
ヒク、のではないでしょうか。

公的なメディアに、作らない自分の姿、を
出されると、若い世代は
何だか、下半身、や、恥部、を見せられたような気がして
ヒク、ような気がしてしまいます。
北野武さんが、深夜放送で
下半身を出す、のは
芸、なのでよいと思うのですが
小出監督の、飲んだくれ、は、下半身そのもの、のように
見えてしまうような気がします。

でも、年配の方々は、飾らない人間らしい姿、を
見たがるのだと思います。
だから、小出監督は、保守層には
結構人気があります。
そこでまず、テレビの映像に対する
世代間の認識ギャップが出ているように思ってしまいます。

もしかしたら、小出監督は相当なワルで
その辺の事情を全て計算の上で
飲んだくれ、を演じているのかもしれません。

話があちこち飛んでばかりですが
要は、東西冷戦下における
西側諸国、東側諸国、の国威発揚
代理戦争の舞台としての
オリンピック、国際スポーツ大会は
その歴史的役割を終えたのだな、という事だと思います。


-オリンピック(4)資本主義陣営の勝利、へ続く-

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オリンピック(2)精霊の王 2004.3.X 初出

いつの頃からか、国際大会に出場する選手達は
楽しんできます、とインタビューで
答えるようになりました。

国費で楽しんできますとは何事か
これだから今の若い人達は、と
年配の方の中には怒りを覚える方も
多いかもしれませんが
メンタルトレーニングの理論の中には
プレッシャーを楽しめる精神状態に
至った時、その選手は最大のパフォーマンスを
発揮できる、という考え方もあるようなので
あながちインタビューで
楽しんできます、と答える選手達が
悪いとは言えないと思ってしまいます。

僕がバスケットボールの大会に出場した時も
最高の結果を出せたのは
怒りや不安、ビビり、といったネガティブな
精神状態を通り越し
チャレンジするんだ、という、挑戦、の段階を経て
無心の境地、に至った時だったように
思います。

斬りむすぶ、太刀の先こそ地獄なれ
たんだ踏み込め、先は極楽 

そういった精神段階に至ると
バスケットボールが、止まって見える、わけです。
その段階に至れば
目を瞑っていても、シュートを外しませんし
コートのどの辺りに、どの選手がいて
次にどこへ動いていくのか、というのも
手に取るように分かるようになるわけです。

そういった精神状態を仏教的に表現すれば
阿頼耶識(アラヤシキ)が
異常に活性化された状態、という事になるかと
思います。
俗に言う、第7感、とか、第8感、とか
女の直感、とか呼ばれる人智を超えた
サムシング・グレイト、と繋がっている状態
です。

スポーツ解説者などは、そういった精神状態にある
選手を、奴はゾーンに入っている、と
表現したりします。

野球選手なども、所謂、ゾーンに入り
絶好調、の段階に至ると
140キロのスピードボールでも、止まって見えて
その、縫い目が見える、とさえ言われています。

ちなみにバスケットコートには
確か、ビッグ・モー? と呼ばれる
コートの神様、が住んでいると言われて
いたように思います。
この、コートの神様、を味方につければ
バスケットコートを完全に支配できるわけです。

NBAのマイケル・ジョーダンは、最盛期
完全にゲームを支配する、神様、の如くプレイして
いましたが
きっと、バスケットコートの神様
ビッグ・モー、を味方につけたのだと
思います。

フロイトの潜在意識の理論を
発展的に継承しようとした
カール・グスタフ・ユングは
人間の無意識の奥底には
高い洞察、を表す、老賢者、が住んでいる、と
指摘していた事があります。
(河出書房新社、人間と象徴、下巻、70ページ)

僕は、バスケットコートに住むと言われる
ビッグ・モー、という神様も
ユングの言う、深層意識下の
老賢者、のようなものではないかと
思ってしまいます。

中沢新一さんという、現代日本で
おそらく最も元気のある学者先生が
最新作、精霊の王、という著作において
神社で行われる、申楽、を通して
所謂、ゾーン、に入る、翁、について
書いていました。

帯に、日本人の精神史をくつがえす!
と過激なメッセージがありましたが
あながち大袈裟な表現ではないと思って
しまいます。
時代が時代なら、発禁本、です。
この本は、多くの日本人、特に、東北人、にとって
精神史をくつがえされるかのような
衝撃の書、となるかと思います。

神社の、石、についても
かなり踏み込んで書いてありました。

あまりに衝撃的な本なので
紹介してよいのかな、と
躊躇してしまいますが
これは凄い本です。

精霊の王 中沢新一 講談社




-オリンピック(3)冷戦の終了、へ続く-
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精霊の王

人間と象徴 上巻―無意識の世界

人間と象徴 下巻―無意識の世界

マンガユング「心の深層」の構造―全生涯とその分析心理学 (Kodansha sophia books)




オリンピック(1)ナショナリズム 2004.3.1 初出

アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事です。
ギリシャはオリンピック発祥の地でもあるはずなのに
どうしたことか、と思ってしまいますが
アテネオリンピックの開催国ギリシャでは
全くオリンピックが盛り上がっていないらしい、との
事であります。

2008年の北京オリンピックは
きっと開催国中国が、異常に盛り上がるだろうと
思います。
もちろん、西洋型近代先進国家の仲間入り、の
宣言イベントとしてです。
それは、東京オリンピック、や、大阪万国博覧会、で
かつて日本中が異常に盛り上がったのと
パラレルだと思います。

ちなみにサッカーワールドカップの日韓共催時に
異常に盛り上がっている韓国の人達を
テレビで見ていた僕の知人は
うるさい人達だな、と呟いていました。

それは韓国のサッカーチームのサポーターが
うるさい、のではなく
その背後にある、異常に高揚したナショナリズム、を
うるさい、と、僕の知人は感じたのだと思います。

昔、日本が西洋に追いつき追い越せと
ナショナリズムを高揚させながら
国家の近代化に取り組んでいた時期には
オリンピックに出場する選手達は
日の丸を背負っていた、と思いますが
そういった姿は、きっと
西洋先進国の人々にとって
うるさかった、のではないかと思います。

円谷幸吉、というマラソン選手が
そういった日の丸を背負った
異常なプレッシャーの中で走り続け
最後は自殺へ追い込まれた、という
凄いエピソードも残っていますし
鬼の大松、に導かれ、東洋の魔女、とまで
恐れられた日本の女子バレーの
すさまじい練習ぶり、すさまじいシゴキぶりに
日本は女を虐待する国か、と
当時の西洋人が驚いたという話もあります。

年配の方々の中には、前畑頑張れ、などと
言われると、涙腺が緩んでしまう、という方も
多いかと思います。

でもそんな、日の丸を背負った
悲壮な決意のスポーツドラマ、を
いつの頃からか聞かなくなりました。



-オリンピック(2)精霊の王、へ続く-
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2004年2月1日日曜日

ヤバいの逆転(6)宇宙人の時代 2004.2.X 初出

以上見てきたような社会構造の変化で
どんどん日本人の一体感が
壊れていってしまった時、最終的に
日本人の社会的連帯感を保証するものは何か、と言えば
これは、神社、ではないかと僕は考えていますが
それはまた別の機会に。

本当は趣味のジャンルが違うから話が通じない
というのは嘘であって、どんなジャンルであっても
極めていけば同じところへ辿り着き
重なる部分が出てくるものなのですが
これまた日本文化の特質なのかもしれませんが
どんなジャンルであれ
タコツボ化、オタク化して行って
最終的には外部の人には
全く分からないものになってしまう、という
傾向があったりします。
不必要に難解な用語を振り回してみたり
業界でしか通用しない、隠語、を無数に
生み出していきます。
そして、業界語、隠語、を共有する事で
一体感が生まれ、世間様、が発生するので
世間好きの日本人にとっては
気持ちがよいのかもしれません。

そういったタコツボ化をできるだけ
排除し、そのジャンルに全く興味のない
他者、第三者、に対して
自分のやっている事を
分かりやすく説明できる
コミュニケーションスキルが
現在求められているのかもしれませんが
みんな一緒だよね、と
対象を一括りにしてしか
コミュニケーションできない
普通の日本人、達には
何を言っても通じないような気がしてしまいます。

さて、ヤバい、のは
普通の日本人、か、宇宙人、か。



-ヤバいの逆転(完)-







関連、
 
   
  現代の欲望の総体は何処へ
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ヤバいの逆転(5)素敵な男性は合コン来ないよね 2004.2.X 初出

とにかく戦後日本システムの下では自明だった事が
あらゆる分野で、物凄いスピードで
変化を迫られているので
僕はこれからの日本社会では
恋愛の定型も変化していき
その可能性も狭まっていくのではないかと思って
しまいます。

先進国型の自由恋愛の場合は
たいていちょっと気取ったお店で
ちょっと気取ったお酒を飲みながら
なんとか男女の共通の話題を探り当て
親和欲求を満たしつつ

この男は浮気に走らずいつでも一緒にいてくれて
確実に毎月の家賃7万円を払ってくれるのだろうか……

とか

この女は一回セックスしたら
すぐに結婚の話を持ち出すタイプなのではないだろうか……

とか

この男は一見誠実そうに見えて
実は相当な女たらしなのではないかしらん……

とか

この女は口では、料理が得意なの、などと言って
家庭的なところをアピールしてはいるが
いざ子供ができたら実家に子供を預けて
遊びまくるタイプなのではないだろうか……

などとお互いの胸中を詮索しながら
次第にドツボにハマっていき
共依存の痴情のもつれの末に
ブスッ! と刃傷沙汰に及んだりします。

でも現代の日本社会では
男のような女
女のような男
という組み合わせが増えてしまったので
上記のようなステレオタイプな恋愛関係は
むしろ稀少になっていき、ギャグ、に
近くなっていくかもしれません。

ちなみに、このまま男が弱くなり女が強くなる状況が
あと10年以上続けば
女みたい、の意味するところは、猛々しい、になり
男みたい、の意味するところは、イジイジ
クヨクヨ、グズグズ、モジモジ……になっていくかも
しれません。

あんた男みたいに、グズグズ、モジモジしてないで
女みたいにシャキッとしないさいよ!

ちょっと笑えないものがあります。

少々話が逸れてしまいましたが
これからの時代の、恋愛の定型、が変化していくの
ではないかしらん、という話なのであります。

まず旧来の日本社会では、同世代の青年男女の
ライフスタイルはたいてい同じ、だったので
王様、ゲーム! 的な、合コン、で出会い
二次会のカラオケの途中から
気にいった男女が抜け出す、という
恋愛、がメインだったような気がしますが
ここまでメディアも趣味もライフスタイルも
多様化すると、合コン、カラオケ、というパターンは
もう成立しないのではないかと思ってしまいます。

ちなみに僕は、ある合コンでご臨席賜った
女性の方に、素敵な男性は合コン来ないよね、と
呟かれて、グサッ、ときたことがあります。
何も合コンの席で、合コンに来ている男性である
僕に向かって、素敵な男性は合コン来ないよね、と
単刀直入に呟かなくてもよいのではないか、と思って
しまったのでありますが
世の男性諸君よ

素敵な男性は合コン来ないよね

だそうであります。

柳田国男の、明治大正史、世相篇(中公クラシックス)の
250ページに

・ 何時の世の中でも青春の男女が迷わず、また
過たなかった時代というものはあるわけがない。
いっさいの判断を長者に委ねる者は格別、
すこしでも自分の思慮と感情とを働かせようとすれば、
ぜひとも何らかの修練方法と、指導の機関とが
必要であった。
幸いに村に若連中・娘連中と称するやや干渉に
過ぎたる批評者の群れがあったおかげに、
われわれの自由婚姻は幸いにして
多くの似合いの女夫(めおと)を作り得たのである。

とありました。

要は、いつの時代も、青春の男女が色恋で間違いを
犯さなかった時代はないのだから
親の、いいなずけ、ではなく
自由な恋愛をして結婚するのならば
それなりの、恋愛教育、や、恋愛訓練、や
恋愛技術、が必要なのだよ、という
事なのだと思います。
明治大正史、に書いてある事が、現在も有効だったり
するので、古典というのはやはり読んでみるべきだな、と
思ってしまいます。
現在、子供達にどこまで性の知識を与えるか、という
議論がなされているようでありますが
明治・大正、の時代と
さして状況は変わらないのだな、と
思ってしまいます。

ちなみに柳田国男の、明治大正史、には
処女会、なるものも紹介されておりました。
さすがに、童貞会、は見当たりませんでしたが
中々よいです。処女会。

僕は別に、民俗学の大家、柳田国男先生を
冷やかしているというわけではなくて
処女会、というネーミングに見られるように
かつての日本社会では、女性の貞操観念、が
自然に信じられていたのだな、という事を
言いたいわけであります。

時は移い、再び現代へ-。
明治以来の画一的中央集権化が終わり
価値観が多様化し始め、収入にも格差が生じ
ある世代の青年男女は、たいてい同じライフスタイルである
という条件下での、常識、がどんどん壊れていけば
合コン、は成立しなくなっていくかもしれません。
合コン、も死語になるのかもしれません。

合コン、は、言い換えれば、集団お見合い、です。
こう書いたからといって、僕は、合コン、を
否定しているというわけではありません。
柳田国男が、明治大正史、において
書ききったように
いつの時代も、青春時代の男女が
色恋で間違いを犯さなかった時代はないのであります。
お見合い、も、合コン、も
自由恋愛の中で、一組の夫婦を誕生させるための
一つの方法だと僕は思います。
ただ、その個人の恋愛技術を補ってくれるはずの
合コン、の場が、社会構造の変化によって
成立しなくなっていくのは大変な事だな、と
思うわけであります。

ここまで考察してくると
素敵な男性は合コン来ないよね、と僕が
とある女性に合コンの最中に呟かれて、グサッ、と
きたのもよく分かります。
素敵な男性、つまり
集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会へ移行しようと
している現代社会において
ビジョンを持ち、何とかしようと努力している男性は
合コン(集団お見合い)の場には来ないよね、という意味
なのだと思います。

合コンで、受けるネタ、を探している暇があれば
素敵な男性は、英単語の一つでも覚えてしまうのでは
ないでしょうか。

最近居酒屋に出入りしたりしても
かつてのような、大所帯での合コン、を
あまり目撃しなくなったような気がしますが、どうでしょう。
2対2、か、3対3、か、4対2、くらいまではあっても
4対4以上は見かけなくなったような気がします。

若い人達は分からないかもしれませんが
ねるとん紅鯨団、というカップリング番組が
テレビで放送されていた頃は
あちこちの居酒屋で、15対17、とか
23対18、という物凄い大所帯の、合コン、が
見受けられたものです。

僕の感覚では、おそらくかつて、合コン、に
群がっていた層が、現在、出会い系サイト、に
集まっているような気がします。
一日中ケータイで、出会い系サイト、のメールを
チェックして、セックスしたとかしないとか
自慢話ばかりしている若い男性と職場で
一緒になったことがありますが
僕はあまり、羨ましい、とは思いませんでした。
そこまですれば、確かにセックスさせてくれる女性に
たまにあたるかもしれませんが……。

先述のとある女性の言葉を借りて言えば
素敵な男性は、出会い系サイト、にも
合コン、にも、来ない、という事に
なるのかもしれません。

でもこれまた先述の柳田国男が言うように
いつの時代も、青春の男女が色恋で間違いを
犯さなかった時代はないのだから
自由恋愛をするのなら、男女が上手くマッチングする
場所なり、機関の提供は必要だと思ってしまいます。
そうなると、結婚相談所の盛況、となってしまうの
でしょうか。

僕は、見合い、というのは、第三者が
当事者の、信用、を見込んで申し出るものなのだから
中々合理的なシステムなのではないかと
思ってしまうのですが
現代では、恋愛結婚じゃなきゃ格好悪い、という
常識、ができてしまったので
みんなとりあえず、恋愛、の形を取ろうとします。

でも歴史を紐解けば、むしろ、恋愛、というのは
非日常的で、且つ、貴族的なものであって
とんでもないテンションの高さ、と
とんでもない金と時間の労力、と、時には
命の危険、まで要求されうるものなので
あります。

現代の若い男女は、とても恋愛をイージーに
考えて、合コンや出会い系で簡単に知り合い
簡単にセックスして
簡単に刺したり、簡単に刺されたり
簡単に警察に訴えられたり
簡単に仕事を失くしたりしているようであります。
その辺は僕も、偉そうな事は言えませんが……。

今回は、僕が恋愛に対してちょっと奥手であるためか
動揺してあっち行ったりこっち来たりして
とりとめのない話になってしまいましたが
要は、現代はありとあらゆる分野が
過渡期なので、もうしばらく恋愛に関しても
訳の分からない事件、は続くだろうという話なので
あります。



-ヤバいの逆転(6)宇宙人の時代、へ続く-
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明治大正史 世相篇 (中公クラシックス)

ヤバいの逆転(4)脳天気だ 2004.2.X 初出

これから日本社会でのコミュニケーションは
どんどん難しくなっていくと思います。
僕は子供の頃、イギリス人は世間話で
天気の話しかしないそうだ、なんていう話を聞いて
ずいぶんイギリス人は寂しい人達だな、と
思ったものでありますが
日本社会もだんだんそうなっていくのかもしれません。
価値観がどんどん多様化し、ライフスタイルも
趣味も収入も細分化していけば
とりあえずの共通の話題は、天気の話、くらいしか
なくなります。

営業職をしている知人に話を聞いても
最近はまずは、天気の話、だそうです。
5年くらい前までは、巨人戦の話、とか
今年の紅白は、とか、日本人共通の話題、が
結構あったのでしょうが
サッカーしか見ない、とか、洋楽しか聴かない、と堂々と
主張する人が増えてしまったので
とりあえず得意先に営業に出かけた時
天気の話、から始めるしかないわけです。

「今日はいい天気ですね」

「ええ、そうですね」

「今日は凄い雪ですね」

「ええ、そうですね」

これは大変な事だなと思ってしまいます。

いい天気だ
いい天気だ
いい天気だ
ノウテン気だ

いい天気の午後には
ノーテン気で笑おう

ブルーハーツの、脳天気、という曲の一節で
あります。


-ヤバいの逆転(5)素敵な男性は合コン来ないよね、へ続く-
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ヤバいの逆転(3)一身独立して一国独立す 2004.2.X 初出

社会的連帯感はもちろん大切ですが
尊重すべき独立した人格をもった一人一人が
連帯感をつくりあげていくべきであって
まず連帯ありきでは、全体主義国家、になってしまいます。

実際戦後の日本社会は、唯一成功した社会主義国、と
揶揄されるほど連帯感だけは強かったような気がします。
それが現在壊れ始めていて、精神に異常をきたす人が
増えているように思ってしまいます。

これが意外な事に、明治・大正には
健全な実力社会、があったようなのです。
明治のオピニオンリーダー、福沢諭吉は
一身独立して一国独立す、と唱えましたが
現在求められているのは
一身独立して一国独立す、という
健全な明治精神、ではないかと思ってしまいます。

日露戦争あたりまでの日本社会は
案外まともだった、と主張する方は多いものですが
いったいこの国は、どこでどう道を誤って
しまったのだろう、と思ってしまいます。
一身独立して一国独立す、どころか
精神的・経済的に自立しようとすると
みんなと一緒になろうとしない
宇宙人、となってしまいます。

たぶん、他者性、宇宙人性、は
これから日本社会での
コミュニケーションを考える上で
結構重要な概念になると思います。

今までは、社会の敷いたレール、に乗って
みんな一緒だよね、とやっていた人達が
みんなと一緒になろうとしない人達を
ヤバい人、として排除していましたが
これからは、社会のレールに乗ったままで
他者性を獲得できていない人達が
逆に、話の通じない、ヤバい人、という事に
なるような気がするのですがどうでしょう。
価値観の180度の転換が起きているような気がします。

村上龍さんは、社会の敷いたレール、に乗っている人達の
特徴として、対象を一括りにする、という点を
上げています。
つまり、サラリーマンは、OLは
学生は、関西の人は、女子高生は
団塊の世代の人達は、といった形で
対象を、一括り、にするのだというのです。
確かにそういった、あるカテゴリー、に
属する人達の共通項は、昔に比べて
かなり少なくなってきています。

僕も、女子高生は、とか、団塊の世代の人達は
と、時々書いてしまうのですが
じゃあ他に適切な言葉があるのか、と言ったら
これが、ない、わけです。
これは大変な事だなと思ってしまいます。
話通じねえよ、と日本中で悲鳴が上がっているような
気がしてしまいます。

みんな一緒だよね、という形でしか
コミュニケーションできない
普通の日本人、による悲劇が頻発して
いるような気がしてなりません。
言葉の発明が求められているような気が
してしまいます。

ちなみに、春闘賃上げ交渉、は
春季労使交渉、になったようです。

春闘賃上げ交渉、という言葉には
闘い、を思わせる、激しい労使対立、であるとか
経営側に要求を突きつける事で
給料は、右肩上がり、にずっと上昇していくのだ
というニュアンスが含まれていますが
春季労使交渉、には
闘い、や、右肩上がり、のニュアンスが
ありません。

中々上手いネーミングだな、と思ってしまいます。
誰が考えたのだろう……。



-ヤバいの逆転(4)脳天気だ、へ続く-
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学問のすすめほか (中公クラシックス)

ヤバいの逆転(2)ミュータント 2004.2.X 初出

前回見てきたような、自分を通そうとすると
精神的にも経済的にも著しく不利益を被るような
社会システムにあっては、普通であること、が
最良の、サバイバル術、処世術、となります。

そうなると、ちょっとした、差異、が
イジメの対象、となってしまいます。
どこの国の学校でも、上級生による下級生に対する
ちょっとしたイジメ、はあるかと思いますが
日本の学校ほど、イジメ、が
陰湿で、悲惨なところはないのではないかと
思ってしまいます。

運動会で手を繋いでゴールさせる、という表の
徹底した平等教育の裏では
ちょっとした差異による
一生精神的に立ち直れなくなるような
陰湿で悲惨なイジメ、が行われているわけです。

平等を是とする教育政策で
逆に、イジメ、が深刻化してしまっているのではないかと
さえ思ってしまいます。

僕は海外経験のある日本人とは
コミュニケーションが比較的取りやすいのですが
それは何故だろう、とずっと不思議に思って
いたのですが、おそらく、他者性、にあるのではないかと
最近思い始めました。

海外で周りが外人だらけ、おまけに、世間様もない、という
経験をした人は、知らず知らず、他者性、を獲得している
のではないかと思ってしまうのです。

他者性のある人は、みんな一緒だよね、から
コミュニケーションをスタートするのでなく
あなたと私は、お互い尊重すべき独立した人格を持った
存在ですよね、というところから話を始めるので
日本社会では宇宙人である僕も
海外経験者とは話が通じるのだと
最近思うようになったのです。
それはきっと、他者性、なのだと思います。
宇宙人性、と言ってもよいかもしれません。

それくらい日本社会では
他者性、を持てている人が少ないわけです。
僕は他者性を持てている人に遭遇すると
まるでミュータントにでも会ったかのように
ビクッ、としてしまうのです。
あっ! 話通じる……


-ヤバいの逆転(3)一身独立して一国独立す、へ続く-
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ヤバいの逆転(1)泳げたいやき君 2004.2.X 初出

今までの日本社会では、みんな一緒だよね、という
世間様の強制力が非常に強かったので
他者性、を獲得するのがとても困難でした。

他者性、というのは、要するに
私とあなたはお互い尊重すべき人格を
持った存在ですよね、という事を認める事なのでは
ないかと思うのですが
一億総中流社会の下では、みんな一緒、でなくては
いけなかったので
あらゆる分野で、人並み、である事を強制され
小学校の運動会で手を繋いでゴールさせる
という、悪平等、の段階にまで至っていました。

そういった世界では、他者性、は持てないだろうし
育たないだろう、と思ってしまいます。
そして常に、多数派、マジョリティ、の側につくのが
最良の、処世術、となってしまいます。
悪平等、の学校を出て、今度は社会に出てみると
これがまた、派閥、学閥、の論理が支配するシステムに
なっていたりして
権力者に取り入る、金魚の糞、のような人物ばかりが
出世してしまいます。

毎日、毎日、僕らは鉄板の
上で焼かれて嫌になっちゃうよ
ある朝、僕は店のおじさんと
喧嘩して海に逃げ込んだのさ

始めて泳いだ海の底
とっても気持ちがいいもんだ
お腹のアンコは重いけど
海は広いぜ、心は弾む Yh!

社会の敷いたレール、に乗って
金魚の糞、のようにして
イエスマンでいる事が
最良の、処世術、である社会では
泳げたいやき君、のような曲が大ヒットします。

店のおじさんと喧嘩して
海に逃げ込んだりせずに
毎日毎日鉄板の上で嫌になるまで
焼かれるのが、最良の、処世術、となる社会では
自立、は、タブー、となり
自立しようとして海に逃げ込んだ、たいやき君、の
壮絶な最後に自分を投影し、号泣するサラリーマンが
増えるわけです。

そして、金魚の糞、つまり、イエス、サー、と
言い続けるのが、最良の、処世術、となる社会では
ヨイショ、の上手い人が大量発生してしまいます。

この戦後の日本社会の独特のロジックを利用し
対象を徹底的に、ヨイショ、する事で
逆に対象をおとしめる、ホメ殺し、という
人類史上例のない街宣活動戦術を編み出した
政治団体もありました。

竹下先生はすごい!
竹下先生はえらい!

と、徹底的に、竹下先生、を、ヨイショ、しまくる事で
逆に、竹下先生、をおとしめているわけです。

竹下先生はすごい!

と、ヨイショ、しているのだから
脅迫、でも、名誉毀損、でもないわけです。
政治に関心のない人たちには
竹下先生を褒め上げている親衛隊のようにさえ
思えてしまいます。

竹下先生はすごい!

ここでは、ヨイショ、の意味するところの
文脈を日本社会が共有していることを
前提とした、情報の発信者と受信者の
共犯行為が形成されています。

土井健郎さんが指摘した
甘えの構造、を逆手にとって利用したかのような
文学的な高等戦術です。

竹下先生はすごい!

一億総中流社会が終わり
競争社会が訪れ、日本社会全体が共有する
文脈がどんどん減っていけば
次第に、甘えの構造、は崩壊し
ホメ殺し、も、駄洒落、も
成立しなくなっていくような気がして
しまいます。
そして、金魚の糞、では生き残れなくなって
いきそうです。
泳げたいやき君、のようなヒット曲も
もう出てこないでしょう。

毎日毎日、鉄板の上で焼かれて嫌になっている
サラリーマンはまだよい方で
店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込む前に
ある朝、突然、海に追い出されてしまう
時代状況になってきています。



-ヤバいの逆転(2)ミュータント、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220042_9.html



「甘え」の構造 [増補普及版]

高等教育ネットワーク・仙台(4)偏差値3万光年説 2004.2.X 初出

バーチャル政党卵党の総裁である僕も
永田町の騒ぎが波及して、学歴詐称疑惑が
持ち上がってはまずいな、と思い立ち
先日、高校時代の通知表を取り出してみたのでありますが
これがまた30点以下の、いわゆる、赤点、の
オンパレードでありまして、自分でも
よくこれで大学に入れたな、と驚いてしまいました。

ちなみに当時NBA入りを目指して
真剣にバスケットボールに励んでいた僕は
この通知表の、赤点、のせいで
危うくバスケの大会に、出場停止、にされそうに
なった事がありました。
その時の、追試、は
なんとか、カンニング、で乗り切ったのでありますが
それにしても、これはもの凄い通知表です。

学歴詐称疑惑、が持ち上がっても
卵党総裁は大丈夫のようであります。
間違いなく僕の高校時代の全国偏差値は
25、です。

268人中、267位、という驚異的学年順位も
掲載されておりました。
上には上がいるものです。
僕は高校在学中、ひそかに
学年で一番の落ちこぼれは、この僕様だ、フフフ……と
自負していたのでありますが
上にもう一人いたわけです。
どこの世界にも上には上がいるものであります。
ちなみに268人目は誰だったのだろう……。

古典、10点!
現代文、2点!

という凄い数字もありました。

高校時代に現代文、2点、の人間でも
こうして現代文でエッセイを書いていられるのだから
世界中で公権力によって、落ちこぼれ、の烙印を
押されて憂鬱になってるみなさん
元気を出して下さい。

あなたの本当の偏差値は、3万光年です。

偏差値25だの、偏差値50だの
偏差値75だのと、公権力が押し付けてくる
下らない地上的尺度などで
自信を失い卑屈になっている必要など
サラサラないのであります。

あなたの本当の偏差値は、3万光年です。

僕の本当の偏差値は、3万5千光年くらいかもしれません。
偏差値25、というのは、あくまで宇宙から来た僕が
バレないように世を忍ぶための、仮の姿、なのであります。

地上的な公権力が貼り付ける
偏差値、などというものは
適当に相手をしてやってから
笑ってやればよいのであります。

ハンマーが振り落とされる
僕たちの頭の上に
ハンマーが振り落とされる
世界中いたるところで

ブルーハーツの、ハンマー、という曲の
一節であります。

公権力が世界中で
ハンマーを振り落とす事によって
もたらされる、48億の個人的な憂鬱。
地球がその重みに、耐えかねてきしんでいます。

安っぽいメッキなら
すぐに剥がれてしまうのです。

空っぽの言葉なら
もう僕は聞き飽きました。

学歴詐称だ、偏差値75だ
旧帝大だ、都立大だ、ハーヴァード大だ
東大だ、早稲大だ、風呂代だ、電話代だなどと
どうでもいい事たくさん抱えて
下らない事でビビることはないのであります。
今夜僕は叫んでやる、王様は裸じゃないか。
今夜僕は叫んでやる、王様は裸じゃないか。

たぶん僕の本当の偏差値は
3万5千光年くらいだと思います。
たぶんあなたの本当の偏差値は
3万光年くらいでしょう。
つまり僕の偏差値は
あなたの偏差値より
5千光年分くらい上だよ
と言っているのですよ、フフフ……。

ハンマーが振り落とされる
僕たちの頭の上に
ハンマーが振り落とされる
世界中いたるところで

というわけで、高等教育ネットワーク・仙台、の紹介を
するフリをしながら、またしても自己紹介を
してしまったのでありますが
仙台市教育委員会のみなさんも
やっと本気で、大学改革、に
乗り出したようなのですよ、という話なのです。
まあ公権力のやる事なので
たいした事はないと思いますが
適当に相手してから
笑ってやって下さい。

先生、僕の教科書に
誰か墨をこぼしちゃった

先生、三角定規じゃ
図れないものがあります

公権力のラウドスピーカー
福田康夫官房長官は
議員先生方の、学歴詐称疑惑、を取り上げて
ウソは泥棒の始まり、と
切り捨てたようでありますが
これだから公権力のラウドスピーカーは
オケツの穴が小さいな、と思ってしまいます。
嘘は泥棒の始まり、ではありません。
嘘は、小説の始まりです。

GIVE ME A EARTH!




-高等教育ネットワーク・仙台(完)-



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どうして人を殺してはいけないの?
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百日裁判(5)オレオレ詐欺
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高等教育ネットワーク・仙台(3)建学の精神 2004.2.X 初出

~大卒だ、という健全な、ホコリ、は
あってもよいと僕は思うのですが
たいていの場合、それは、~大卒だ、という
醜悪な、オゴリ、になりがちです。

筒井康隆さんの、文学部唯野教授(岩波書店)という
本を読んでみると
タコツボ化した大学内で行われている
教授達による下らない見栄の張り合い
まさに、今大学で偉い事をしている人達、の醜態が
文学論を交えながら、これでもか、これでもか、と
見事に描かれています。
やはり教授会という世間様に
長く取り込まれていると
人間は腐って行くのだな、と思ってしまいます。
一日に一度は窓を開けて空気の入れ替えを行うように
定期的に花瓶の水を入れ替えるように
大学の教授会というものも
もっと水々しく風通しのよいものに
しなくてはならないのだな、と思ってしまいます。

国立大のいくつかが、帝国大、だった頃は
きっと学生も教授も
国を背負って学んでいたので
教授は偉かった、でしょうし、学生達も
地域社会などで尊敬されていたのだと思います。
ここ、学都仙台、においても
かつて東北大が帝国大だった頃は
お国のために学ぶ学生さん達を
地元で大切にしましょう、という
美風があったようであります。

でももう帝国主義の時代は終わりました。
つまりエリートが大衆を引っ張って
国家の近代化に取り組む、という時代は
終わったわけです。
そういった事情もあってか
現在仙台の地元の人の多くは、東北大を
トンペイ、と呼んでいるようです。
トンペイ、にはどうも尊敬のニュアンスは
感じられないような気がしてしまいますがどうでしょう。
むしろ、東南西北白発中……リーチ一発、裏ドラ付き
といった、マージャン牌、を連想させます。
トンペイの学生は確かにマージャンが
強かったように思います。
こういった形で、対象を一括り、にしては
いけないのでしょうが
確かにトンペイに通っていた僕の知人は
寮内でマージャンに明け暮れて留年を繰り返し
現在大学8年目を迎えているようであります。

何だか話が逸れてしまいましたが
要は明治以来の画一的中央集権化のための
エリート養成期間としての大学は
その歴史的役割を終えたのだと思うのであります。

でも名のあるブランド大学の教授達は
エリート意識、を捨てられずに
都立大学教授、であるとか
文学部唯野教授、であるとかの
肩書き、を手放したくなくて
大学改革、に抵抗しているのだと
思ってしまいます。
道路公団ではありませんが
ここにも、抵抗勢力、がいるようです。

本当のエリート、選ばれし少数者、であるならば
どこの大学の教壇に立っても
学生を唸らせる講義ができるはずだと
僕は思うのでありますが
ホコリ、ではなく、オゴリ、ばかり育ててきたから
有名大学教授、の、肩書き、を
捨てられないのだと思ってしまいます。

ノブレス・オブリッジ
貴族には貴族の義務がある

先憂後楽
先ず世を憂い、後に世を楽しむ

といった健全な意味でのエリート意識ならば
大歓迎なのですが、どうも現在の大学教授達の
動きは単なる、抵抗勢力、のように見えてしまいます。

選ばれた人とは、他人よりも自分を優れていると
思い込んでいる、気取り屋、ではなく
たとえ、自分に課した高度の要求を果たせなくても
常に、他人よりも自分に厳しい要求を課し続ける人である。

スペインの哲学者、オルテガ、の言葉であります。
オルテガは、大衆の反逆、という本で
一躍有名になったようですが
気の弱い大衆の一人でもある僕が
名著、大衆の反逆、を畏れ多くも
ちょいと読んでみたところでは
たいして難しい事は書いてありませんでした。

でもオルテガは一応思想史に残る偉い人のようなので
オルテガによる、エリート、選ばれし少数者、の定義を
借りて言えば

学問によって、真・善・美、を明らかにするために
たとえ、自分に課した高度の要求を果たせなくても
常に、他人よりも自分に厳しい要求を
課し続ける人が、選ばれし少数者
エリート教授、なのであって
都立大学教授、などという、肩書き、ブランド、を
守るために汲々とし、他人よりも自分を優れていると
思いたがっている、気取り屋、は
選ばれし少数者、エリート教授、などでは
ないのであります。

天は人の上に人を造らず
人の下に人を造らず

慶応義塾の創始者
福沢諭吉の、学問のすすめ、の冒頭の一文です。

僕の知り合いの英語教師も

Teacher IS Student
Student IS Teacher

と述べていました。

学問によって、真・善・美、を明らかにするのが
本来の大学の目的であって、都立大学教授、などという
肩書きで世間様から尊敬されたい、などというのは
本末転倒でしょう。
大学教授は、まず学問をすればよいのであって
尊敬は学問の後についてくるもののはずです。

幕末の志士達を育てた吉田松陰は
幕府によって捕らえられた後も
刑死するまで獄中で講義を行い続けました。
そうなると吉田松陰の肩書きは
都立大学教授、ではなく
犯罪者、となってしまうわけですが
吉田松陰は、現在も多くの心ある人々に
愛されております。
それは吉田松陰が、都立大学教授、などという
肩書きなど気にせずに
学問を行い続けたからでしょう。
もっとも当時は、都立大学、などはなかったと
思いますが、吉田松陰のその魂・ソウル・スピリッツを
学ぶのは悪くないと思うのです。
維新の成功を見ることなく
種だけ撒いて短い生涯を終えた吉田松陰は
まさに、ノブレス・オブリッジ
高貴なる者の義務、を全うしたのだと思います。

80年代に一世を風靡した
ブルーハーツというパンクバンドも

学校もジュクもいらない
真実を握りしめたい

と歌っていました。

人が学問をするために大学ができたのであって
大学のために学問ができたわけではないのです。

現在あらゆる学校の現場で失われているのは
建学の精神、なのではないかと思ってしまいます。

東大卒の朝日の記者には気をつけろ、という格言が
業界にあるそうです。
受験頭、と、エリート意識、だけを持った
ヤバい奴、という意味だそうです。

永田町は、議員先生方の、学歴詐称疑惑、で
大変賑わっているようであります。
いったん疑い出したら切りがないもので
あいつもでは、こいつもでは
と大変な事になっているようであります。

公立学校の先生達が、大手予備校に
生徒達の合否情報を提供し
金品を受け取っていた、というニュースも
先日ありました。

学歴社会の弊害、ここに極めり、であります。

誰かのルールはいらない
誰かのモラルはいらない
学校もジュクもいらない
真実を握りしめたい

こうして書いてきてみると
僕の建学の精神は
ブルーハーツにあるのかもしれません。
いつか卵大学ができたら
きっと校歌はブルーハーツの曲に
なるでしょう。



-高等教育ネットワーク・仙台(4)偏差値3万光年説、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/420042_8.html
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

大衆の反逆 (中公クラシックス)


講孟余話 ほか (中公クラシックス)

学問のすすめほか (中公クラシックス)


高等教育ネットワーク・仙台(2)モグリ 2004.2.X 初出

東京都の都立大学改革の話題を
最近よく耳にしますが
他大学との単位交換制度やら
教授の定年制廃止やら
学長に西澤潤一氏を迎えるやらと
大変思い切った方針を打ち出しているようであります。

そういった都の方針に対し
都立大側の教授達が相当噛み付いたようで
ありますが、マッチョな石原慎太郎都知事によって

今の大学には誰も満足していない。
文句を言うのは、今大学で
偉い事をしている人だけだ。

と、一喝されてしまったようであります。

気の弱い僕もマッチョな石原都知事に倣って
言ってみたいものであります。

今の大学には誰も満足していない。
文句を言うのは、今大学で
偉い事をしている人だけだ。

翻って、高等教育ネットワーク・仙台、について
考えてみますと、講座を受講しても
単位、にはならないようですが
生涯学習、という事で
市民が学びたい時に学べる、という
とりあえずの環境はできたわけで
その事自体は大変な進歩ではないかと思ってしまいます。

それに、各大学の垣根を越えて、というのが
非常によいなと思ってしまいます。
僕が学生の頃は、入学した大学の
講座しか受講する事ができず
他大学の講座を受講するためには
いわゆる、モグリ、をしなければなりませんでした。
ただ、モグリ、には、モグリ、のよさがありまして
スパイゾルゲや007の主人公にでも
なったような、何とも言えない卑猥さ
後ろめたさの中で、こっそり学ぶ、というのは
中々悪くないものでした。
昔から、真理泥棒と花泥棒は
大目に見ろよ、とよく言います。

ただ50歳を超えて尚、放送大学に通っているという
向学心旺盛な知人に話を聞いてみたところでは
高等教育ネットワーク・仙台、の講座は
ガラガラだった、そうであります。

教育委員会がやることなので
最初はそんなものだとは思いますが
こういった試みを繰り返していけば
次第に、帝国主義時代の、旧帝大、を中心とした
ヒエラルキー(階層)型の学歴社会の下で
形成された、ブランド大意識、エリート意識、が
世間様から解消されて行くのではないか、と
思ってしまいます。

それに少子化で、受験戦争、は
もうすぐ自然消滅するようです。
~大卒だから偉い、という錯誤が
世間様から早くなくなってくれたら
よいなと思ってしまいます。

百日裁判(5)オレオレ詐欺、のエッセイにも
書きましたが、詐欺師は相手の先入観の
逆をついてくるのです。
詐欺師にとって、世間様、の
先入観や偏見ほどおいしいものはありません。
学歴に過剰な思い入れのある社会では
学歴詐称、を行う人が続出します。
現在の永田町の先生方の、学歴詐称騒ぎ、を
見ればそれは明らかです。
議員先生の学歴詐称、の、共犯、は
学歴に過剰な思い入れを抱く、世間様です。
永田町から、学歴詐称、を失くすには
世間様、に、学歴なんかどうでもよい、という
空気を形成していく事だと思います。





-高等教育ネットワーク・仙台(3)建学の精神、へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2004/02/320042_1.html

高等教育ネットワーク・仙台(1)ボイコット 2004.2.X 初出

先日僕は、50歳を越えて尚、放送大学へ
通っているという向学心旺盛な知人から
高等教育ネットワーク・仙台、なるものを
ご紹介頂いたのでありました。

高等教育ネットワーク・仙台

ふむふむ、と、頂いたパンフレットに
目を通してみたところ
仙台市内の短大・大学などの教育機関が
各大学の垣根を越えて、一般市民や
職業人を対象とした講座を開く、というものでした。
中々よいではないか。

高等教育ネットワーク・仙台

最近僕は、やっと、大学改革、が
本格的に動き始めたのだな、と
実感しているのであります。
でも同時に、ちょっと遅かったな、という思いも
あります。
この国では毎度の事ながら
あらゆる病理が吹き出して
もの凄い数の人と
もの凄い額の金の被害を出し
もうこれではダメだ、滅んでしまう、という段階まで
追い込まれないと、改革、が始まりません。
事前に手を打つ、という事ができない民族性なのかも
しれません。

例に漏れず、大学改革、という問題も
僕が大学に入る頃から叫ばれていたのであります。
つまり10年近く前から叫ばれていたのです。
でも僕の大学在学中に、改革、は全く行われず
僕は、大学というのは何と下らないところなのだ、と
大学で学んだだけで大学を卒業してしまったのでした。

あまりに下らないので
僕はカチンときて
カチンときた僕は
卒業単位を全部取得していたものの
卒業式をボイコットしたのを覚えています。
そういえばその大学の、卒業証書、も
何処かへ行ってしまいました。
僕が大学で学んだのは
大学って下らないところだな、という事でした。

その世界一下らない日本の大学が
やっと改革に向けて動き出したのだな、と思うと
隔世の感があります。



-高等教育ネットワーク・仙台(2)モグリ、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220042_2186.html

痴情のもつれ(2)ドップラー効果 2004.2.X 初出

「僕は、君のこれからの事も考えて
そろそろ二人の関係を見直す時が
来たんじゃないかと思うんだ」

「何それ? 」

「いやだから、君のこれからの事も考えてさ
そろそろ二人の関係を……」

「何、何、何言ってるの?
それってわたしと別れたいってこと? 」

「いや、そうじゃなくて」

「あなた……他に好きな人ができたんでしょ? 」

「何言ってるんだよ、そんな事言ってないじゃないか」

「ううん、きっとそう、顔にそう書いてあるわ
わたしはあなたの事は何でも分かるのよ
他に好きな人ができたんなら、はっきりそう言えば
いいじゃないの……なのに、こんなところに
呼び出したりして」

「おい、何を言ってるんだよ、そんな事言って
ないじゃないか」

「おかしいとは思ってたんだ、前は毎晩電話して
くれたのに、最近では週に一度だけ……
他に好きな人ができたんならできたって
はっきり言いなさいよ! 」

「おい、落ち着けよ、みんなが見てるじゃないか」

「誰が見てたっていいじゃない
それで……今度のお相手はどこの誰なの? 」

「おい、落ち着けってば」

「ううん、やっぱりそうなんだ……この前言ってた
新人の女の子でしょ? 」

「そんなこと言ってないじゃないか」

「分かりました、別れましょ……あなたの部屋の合鍵
ここに置いておくからね、じゃあね、わたしもう帰るから」

「おい、ちょっと待てって、ちょっと待ちなよ」

「じゃあね」


バタン!!


「待ってくれよ、待ってくれよ、待ってくれよ
待ってくれよ、待ってくれよ、待ってくれよ
待ってくれよ、待ってくれよ……」


ドップラー効果……遠ざかる女は、より美しく見える。
                           大場 理史



-痴情のもつれ(2)ドップラー効果(完)-



芸術論集 文学のプロポ (中公クラシックス)

痴情のもつれ(1)動物的法則 2004.2.X 初出

「僕は、君のこれからの事も考えて
そろそろ二人の関係を見直す時が
来たんじゃないかと思うんだ」

「何それ? 」

「いやだから、君のこれからの事も考えてさ
そろそろ二人の関係を……」

「何、何、何言ってるの?
それってわたしと別れたいってこと? 」

「いや、そうじゃなくて」

「あなた……他に好きな人ができたんでしょ? 」

「何言ってるんだよ、そんな事言ってないじゃないか」

「ううん、きっとそう、顔にそう書いてあるわ
わたしはあなたの事は何でも分かるのよ
他に好きな人ができたんなら、はっきりそう言えば
いいじゃないの……なのに、こんなところに
呼び出したりして」

「おい、何を言ってるんだよ、そんな事言って
ないじゃないか」

「おかしいとは思ってたんだ、前は毎晩電話して
くれたのに、最近では週に一度だけ……
他に好きな人ができたんならできたって
はっきり言いなさいよ! 」

「おい、落ち着けよ、みんなが見てるじゃないか」

「誰が見てたっていいじゃない
それで……今度のお相手はどこの誰なの? 」

「おい、落ち着けってば」

「あなたにとって、わたしっていったい何なの? 
今までの事は全部遊びだったとでも言うの? 」

「おい、落ち着けよ、落ち着けってば、おい」

「殺してやる……」

「……」

「殺してやる、殺してやる」

「おい、待てって、おい」

「殺してやる、殺してやる、殺してやる……」


ブスッ!!


「クワッ」



動物的法則……恋愛は、究極において動物的法則に支配されるものだから、自由な恋愛の危険は、自由な戦争の危険よりも、おそらくいっそう目立ちやすい。 アラン



-痴情のもつれ(1)動物的法則(完)-


痴情のもつれ(2)
https://digifactory-neo.blogspot.com/2004/02/220042.html

メルマガ創刊記念 百日裁判(8)窮鼠猫を噛む 2004.2.X 初出

今回の衆議院選挙宮城一区二区で
当選した今野東議員と同二区の
鎌田さゆり議員(ともに民主)の
選挙違反事件では
NTT労組の2被告人と電気連合幹部の
1被告人が逮捕されて起訴されてしまったようです。

僕は仙台高等裁判所に百日裁判を
見にきたら本物の今野東議員や
鎌田さゆり議員を見れるのかな、と
楽しみにしていたのですが
どうやら勘違いだったようです。
今回は、両議員を応援していた労組の
幹部が公職選挙法違反で逮捕されてしまったよう
なのです。

そして、いつの頃からかできた、連座制、という
法律のために、彼らが有罪となれば
両議員も連座して、失職、となるようなので
あります。

となるとやはり、この、百日裁判、は
重要なわけであります。

でも、連座制、というのは
中々よい法律だな、と思ってしまいます。
昔の地方選挙などというのは
本当にのどかなものだったらしく
有権者を集めて酒を飲ませたり
ものを食わせたり金を配ったりという事が
当たり前のように行われていたようです。
有権者の方も有権者の方で
あそこの先生の食い物は旨かった、だの
どこそこの先生が出してくれた酒は
旨かった、だの、あそこの議員先生の包む金は
少ない、だのと当たり前のように話して
いたようなのです。のどかな時代だったわけですね。

候補者の方も候補者の方で
一念発起して選挙に打って出てみたはいいが
選挙で金を使い果たして
土地と家を失くした、なんて話も
ゴロゴロあったようです。
古き良き時代があったわけです。

もしかしたら近代化途上にあってこそ
人間の全ての悦びと哀しみが
あるのかもしれません。

でも社会が完全に近代化してしまった現代では
候補者も有権者も、そんな、おおらかさ、は
もうありません。
何かに怯えて、戦々恐々、としているような気が
してしまいます。

僕は実は、国会の壇上からコップの水を
ぶちまけて、ご退場、となってしまった
松波健四郎議員の大ファンなのであります。

別にコップの水をぶちまけたからと言って
人が死ぬわけでもないのだから
たまに撒いてやった方がよいのでは
ないでしょうか。

そもそも地球上に、水、H2O、があったから
地球上に生命が誕生したわけです。

卵党総裁である僕としては
ぜひ松浪健四郎議員を幹事長に迎えたいところで
あります。
記者会見は水だらけです。
流行語大賞ばかり作って
挙句の果てに世界中で迷惑されている
大手マスコミの記者さん達には海水パンツを
履いて記者会見に臨んでもらいます。
松浪幹事長がいくらでも
水をかけてあげます。

閑話休題。
今回の宮城一区二区の百日裁判は
労組の電話作戦、というどちらかと言えば
ささいな、件で逮捕者が出るという
どうも解せない内容です。

社民の辻本議員の逮捕も
どちらかといえば、消された、という
タイミングでした。

最近も某労組の裏金作りが発覚した
というニュースがありました。

これらの背後にあるのは
労組潰し、ではないか、と
僕は見ています。
転換期を迎えた労働組合、のエッセイにも
書きましたが、現在の労働組合は
全く機能していません。

僕が以前勤めていた会社にも
組合らしきものがありましたが
典型的な、御用組合、で
親善会費、のような名目で
全社員の給料から2000円くらい
抜き取っておきながら
社員には何も還元されず
本社の幹部が飲み食いに使う、というものでした。

これがまたヤ○ザな会社で
社長以下、取締役、役員とも
全員が親族で占められるという
コテコテの同族企業でありまして
役員の名簿に一度も見たことのない人の
名前があると思ったら
それは社長の愛人だから黙っていなさい、などという
話になってしまうのでありました。

こんな会社なので脱税で社長が
逮捕されてしまったので
国税局に追徴金を払うために
僕ら社員の給料が減らされてしまったのでした。

おまけに脱税したのがバレると
入札停止になるから
取引先には黙っていなさい、などと指示されて
しまうのです。
そして僕の仕事はなくなってしまいました。
その間、御用組合、は、何もしてくれませんでした。

そんな事があったので、僕は、労働組合、というものが
あまり信用できないのであります。

それとこれまた僕が以前派遣で働いていた
某役所では、組合の書記長がメルセデス・ベンツを
乗り回している、という典型的な、労働貴族、も
見ました。
ちなみにこの役所の労働組合には
民主党の超大物議員がご挨拶にこられておりましたので
今回の宮城一区二区の選挙違反事件の背後に
もし、労組潰し、の流れがあるのならば
次は僕が以前派遣で働いていた、某役所、の
労働組合が危ないと思います。
なんと言っても書記長がメルセデス・ベンツを
乗り回す典型的な、労働貴族様、です。
叩けばいくらでもホコリが出ます。

そして今回の百日裁判の主役でもある
NTT労組ですが、NTT自体がこれまた
巨大なヤ○ザ企業でありまして
ISDN回線を守るために
外部から依頼のあったADSL回線の
開通工事を組織的に遅らせていた、という話は
以前も紹介致しました。

僕もいい感じで壊れてまいりましたが
いったいこの国は、どこまで壊れていって
しまうのでしょう。

僕の周りにもNTTに出入りしている
知人が何人かおります。
やはりNTTは大きな企業であるわけです。
僕がNTTに出入りしている知人に
ちょいと話を聞いてみたところでは
やはり、選挙期間中、NTT労組は
民主党候補への投票を呼びかけていたようです。
知人の一人は、あの人達が逮捕されたんだね、と
感慨深げに話しておりました。
身近にそういった話を聞くと
やはり、リアル、です。

ちなみにNTTでは全社員が毎朝
ラジオ体操をするようです。
若い人達は分からないかもしれませんが
僕が子供の頃は、朝6時くらいに
叩き起こされて、近所の広場などで
ラジオから流れる掛け声に合わせて
体操をさせられたものです。
これを、ラジオ体操、と言うのです。
そしてラジオ体操を終えると
近所のオジサンがラジオ体操カードに
スタンプを押してくれたのです。
これが報償システムとなっていて
子供達はスタンプが増えるのが
嬉しくて毎朝ラジオ体操に出かける、という形に
なっていました。
最近テーマパークなどで見られる
スタンプラリー、のようなものを
イメージしてもらえたらよいかと思います。
子供や主婦は、こういうものに
弱いものです。

その、ラジオ体操、というのは
どちらかというと旧社会に属するものでは
ないか、と僕は思うのです。
つまり日本人が一丸になって何かに向かう
戦争へ、或いは経済戦争へ、という
1940年体制に属するのが
ラジオ体操、ではないかと思うのです。
そして、ラジオ体操、同様、激しい労使対立、という
ものも、1940年体制に属するものではないか、と
僕は思います。
そして1940年体制は、もう完全に終わろうとしています。
でもNTTではまだ毎朝、ラジオ体操、をして
激しい労使対立、をやろうとしているわけです。

2003年死語辞典、のエッセイにも
書きましたが、もう、春闘賃上げ交渉、は
完全に死語でしょう。
日経連の奥田会長も、春闘はもう死語だ、と
発言していました。
その奥田会長の発言に対して
連合の笹森会長が、あのバカ野郎が、と
言い返したらしいなどという話もあって
中々面白くなってきたのでありますが
若い世代の人達にとっては
奥田会長も笹森会長も
勝手にケンカしててくれ、という感じでは
ないでしょうか。
多くの若い人達にとっては
既得権益層同士のケンカ、にしか見えないような
気がしてしまいます。

犬猿の仲、というよりも
トムとジェリーのようです。
ほとんど、茶番、です。
もちろん日経連の奥田会長がトムで
連合の笹森会長がジェリーであります。
トム、トムトム、ニャーゴ
ジェリー、ジェリー、ジェリー、チュウ
猫が鼠に噛み付いた
あべこべだ、猫叩き
鼠だって、生き物さ
猫だって、生き物さ
トムとジェリー
仲良くケンカしな

窮鼠猫を噛む


というわけで、メルマガ創刊が嬉しくて
あまり張り切って色んな事を
書き過ぎたのではないか、と
少々心配ではありますが
悪い夢でも見たと思って忘れてやって下さい。




-メルマガ創刊記念
 百日裁判(完)-



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メルマガ創刊記念 百日裁判(7)水彩画 2004.2.X 初出

ルイ・ヴィトンの紙袋に裁判資料を入れた
弁護士さんを囲んでいる
大手メディアの記者さん達の輪に
ユニクロのリュックを背負って紛れ込んで
聞き耳を立てていても
どうにもならないな、と思った僕は
裁判所内をしばらく散策してみる事に
してみたのでした。

まず法廷のあるフロアを観てみたところ
廊下の天井が非常に高いな、という事に気が
つきました。
天井が高い空間にいると人間は
解放的な気分になるように
思うのですがどうでしょう。
そして天井が高い廊下から
天井の低い法廷内へ入る事で
厳格な気分、になれるような気がします。
これが逆で、天井の低い廊下から
天井の高い法廷へ入っていったら
人間は法廷内で解放的な気分になって
しまうと思ってしまいます。そうでもないかな。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

川端康成の、雪国、の冒頭の一文です。
ちょっと書けません。

裁判所内の天井の高い廊下を抜けると
そこは、法廷であった。
蛍光灯の明かりが白くなった。

ダメですね。
やはり川端康成は文章が上手いと思います。

公共機関の建物は、法令で
天井の高さが決められていたように
思いますが、それなりの根拠は
あるのだと思います。
閉所恐怖症、という人は
狭いところにいると
気が狂いそうになるようです。

おそらく、裁判を行うには
裁判を行うのに適した空間、というものが
あるのだと思います。
そして裁判官は法廷内で、黒い法衣、を
身にまとう事で始めて
私心を捨てた、法の番人、となれるのでしょう。

色や形、長さや幅や高さや深さには
きっと訳があるのだと思います。

法隆寺は木造建築としては世界最古で
1300年以上倒れていない、という凄い建物です。
一節には、総ヒノキ造りだからだ、という話も
あります。ヒノキは、切り出した後も
何百年かは強度が高まっていくのだそうです。
それにプラスして僕は
神社や寺院の建築を担う、宮大工、達の
技術力があると思ってしまいます。
ギリシャ神殿には、Φ(ファイ)、の法則が
観られると聞いた事があります。
宮大工達は、完璧な建築物を造ろうとすることで
宗教的境地に到達してしまうのでは
ないかと思ってしまいます。
ちなみにイエス・キリストは、大工の子、でした。
神とは長さであり幅であり高さであり深さである、という
人もいます。この宇宙、地球、人類の法則、仏法。

三島由紀夫はその遺作となった
豊饒の海、四部作において
徹底的に仏教の唯識論を極めようとしていた
わけでありますが
この宇宙、地球、人類の法則、設定に
限りなく近づいてしまったのか
執筆当時、周囲に、飛行機は落ちるからね、と真顔で語って
気味悪がられていたようです。

僕も子供の頃から、高所恐怖症で
ずっと飛行機に乗るのが嫌でした。
でも一度勇気を振り絞って
飛行機に乗って札幌まで行ってみてからは
面白くなってきて、半年もおかずに
沖縄まで飛んで行きました。
何を言いたいのか、と言いますと
札幌に行くために飛行機に乗るのでなく
飛行機に乗るために札幌に行ったりしている僕は
やはり三島由紀夫には遠く及ばないのだな、という事です。

と、また余計な事を考えながら裁判所内を
ウロチョロしてみたところ
廊下の壁にある但し書きが目につきました。
法廷内の禁止事項、として
ヘルメットを持ち込まない
ハチマキをしない
拡声器を使用しない……etc.と、ありました。
そんな人は今時いないと思いますが
そう書いてあるという事は
昔はそういう人がいたのでしょう。

でもその気持ちは分からなくもありません。
僕も公的資金が某銀行に投入された時は
カチンときたものでした。カチンときた僕は
スピーカーも街宣者も持っていなかったので
とりあえずヘルメットを被って
愛車のビラーゴXV250のアクセルを吹かせながら
某銀行に文句を言いに出かけたものでした。

そんなこともあったなあ、と、取り戻せない過去、を
思い出してセンチになっていた僕は
フロアの片隅で水彩画を描いている青年が
目につきました。

エッセイを書くために裁判所に来ている僕も
中々の変人ですが、水彩画を描くために
裁判所に来ているこの青年も中々の変人だな、と
同類の匂いを感じ取った僕は
ちょっと声を掛けてみようと近づいて行ってみたのでした。

描いている絵をそっと背後から盗み見したところでは
どうやら人物画のようでした。

人もまばらな裁判所のフロアの片隅で
水彩の人物画を描いている青年。
僕は見てはいけないものを
見てしまったのでしょうか。
なんだこの青年は幻覚でも生じているのかも
しれないな、と思いました。
だとしたら心苦しいところではありますが
民事裁判にかけてやって禁治産宣告でも
受けさせた方が両親や親戚のためにも
なるのではないだろうか……などと考えながら
気の弱い僕は勇気を振り絞って声を
かけてみたのです。

何をお描きになっているんですか、と僕。

無言で水彩画を描き続ける青年。

たぶん、その刹那、僕は完全にその青年から
無視されたのだと思いました。
ひどい、そりゃあ、ひどい、嗚呼、ひどい。

これはもしかしたら新聞などでよく見かける
被告人の水彩画ではないか、と僕は思いました。
たぶんそうだ、きっとそうだ、絶対にそうだ。

法廷内は撮影が禁止されているので
こうして被告人の水彩画を描いて
新聞社に売りつけたりしながら
画家を目指す、というライフスタイルも
成立するのだな、と僕は思いました。

法律にはいくらでも抜け道があるものだし
世の中には本当に色んな仕事があるのだな、と
僕は学びました。



註、・Φ(ファイ)の法則

b 対 a+b = a 対 b

が成立する時

a = 1
b = 1.618

となる。

つまり

1.618 対 2.618 = 1 対 1.618

この、1 対 1.618 の比を
黄金比Φ(ファイ)と言う。

数霊術的な、幻想、として片付ける者が
多い一方、黄金比の長方形は美しいとされる。
バッハのフーガ二単調の七つの間奏曲
ヴォズネセンスキーの詩、ゴヤ
ピタゴラス学派の象徴、五ボウ星形
などに、黄金比Φ(ファイ)が見られる。
指の関節比にも、1 対 1.618 の比が
見られる。




-メルマガ創刊記念
 百日裁判(8)窮鼠猫を噛む、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/820042.html

メルマガ創刊記念 百日裁判(6)ルイ・ヴィトン 2004.2.X 初出

何だか話が逸れてばかりでありますが
僕は宮城一区二区の選挙違反事件の
初公判を見るために仙台高等裁判所へ
来たのですが、傍聴券が取れなかったので
裁判所内のロビーをウロチョロしていたの
ですよ、という話なのです。

しばらくロビーをウロチョロとしていると
百日裁判関係の弁護士と思われる方が
ロビーに現れ、記者室から大手メディアの
記者さん達がド~ッと出てきて
ワ~ッと取り囲んで
バ~ッと質問を浴びせかけ始めました。

これは卵のなかみの僕も
遅れをとってはならない、とばかりに
記者の群れにとことこと近づいていきました。

ちなみに、この弁護士さんは
裁判資料を、ルイ・ヴィトンの紙袋に
入れておられました。
法曹関係者もお洒落になったものです。
20年くらい前ならば
裁判資料は風呂敷包みに入れておくのが
定番だったはずです。

何を言いたいのか、と言いますと
80年代に始まったDCブランドブームは
仙台高等裁判所にまで及んでいたのだな、という事です。
そして80年代のバブルの時期には
国民に一律に繁栄のパイの分け前が
あったので、みんなが一緒に、ブランド品を
持てましたが、現在の状況では
経済的格差が広がってきているので
ルイ・ヴィトンやエルメスや
シャネルやグッチを当たり前のように
持てる層と、ユニクロのバックしか
持てない層に、二極分化、が始まっているという
事なのです。ここで間違えてならないのは
経済的格差、イコール、人格的格差、ではないという
事です。

で、ユニクロのリュックを背負った僕は
ルイ・ヴィトンの紙袋に裁判資料を
入れた弁護士さんを囲む大手メディアの
記者さん達の輪に紛れ込み、聞き耳を立てていたのですが

一区と二区では性質が違う

とか

電話作戦が

とか

バイトが

とか

労組が

とか

契約が

とか

記憶が

とか

ぼうちんが(冒頭陳述の略か!?)

とかの単語が飛び交っておりました。

僕も記者クラブに所属しているフリをして
何か質問してみようかと思い至ったのでありますが
法の裁きの舞台である仙台高等裁判所の
ロビーで、あんまり勝手な事ばかりしてると
今度は僕自身が逮捕されて裁判に
かけられてしまうかもしれないな、と怖くなってきたので
大手メディアの記者さん達の輪に混じって
聞き耳を立てておくだけにしました。

でもやはり、傍聴券を取れなかったのは
痛かったな、と僕は思いました。



-メルマガ創刊記念
百日裁判(7)水彩画、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/720042.html

メルマガ創刊記念 百日裁判(5)オレオレ詐欺 2004.2.X 初出

と、僕は、仙台高等裁判所の記者室に
出たり入ったりしている大手メディアの
記者さん達を観察しながら
ツラツラと毎度世界をお騒がせしております
日本のマスコミの現状について考察してきた
のでありますが
だんだんと飽きてきたので
今度はケータイの電波が届くかどうか
確認する素振りを見せながら
各大手テレビクルーのスタッフさんの群れに
近づいていったのでありました。

テレビという媒体は、出演者達は
たいてい華やかな人が多いものですが
裏方さん達は、ルックスも
表情もあまりパッとされない方が多いものです。
あまりに人間的な
あまりに人間的な世界であります。

僕がケータイの電波が届くかどうか
チェックする素振りを見せながら
彼らの会話に聞き耳を立てていたところ

生(なま)にする?

光にする?

という所謂、ギョーカイ語、が耳に
入りました。

生(なま)にする?

光にする?

一体何の事なのでしょう。

生(なま)にする?

光にする?

僕が想像してみたところでは
たぶん夕方近くなってきて
だんだんと暗くなってきたので
光、つまり、ライトで照らして撮影するか
生(なま)、つまり、ライトを使わずに
撮影するか、の打ち合わせをしていたのでは
ないか、という事です。

生(なま)にする?

光にする?

僕がケータイの電波が届くかどうか
確認する素振りを見せながら
聞き耳を立てていたところでは
光、になったようです。

何を言いたいのか、と言いますと
TVの映像というのは
基本的に作られたものなのですよ、という話なのです。

TVを観ている大衆は
ある人物の発言内容のうち
だいたい5~10パーセントくらいしか
興味がないと言われます。
あとは声や表情が45パーセント
服装やスタイルが45パーセントくらいだそうです。

これに僕の自説を加えれば
背景、の要素もあるような気がします。
つまりパソコンの画面で言えば
壁紙、の部分です。

中田英寿選手は、記者会見の際
たいてい背景(壁紙)にヨーロッパの
近代美術などを持ってきます。

そういった映像を日本人がテレビで
観ていると、なんだか中田英寿選手と
ヨーロッパの近代美術がタブって見えてしまい
中田選手が、威厳のある人物、に見えてしまいます。
これは、中田英寿選手の背後に映し出されている
ヨーロッパの近代美術、という、壁紙、の力でしょう。

運転免許証では、たいていの人が
犯罪者、のような顔に見えてしまいますが
それは、証明写真、の背後にくる、壁紙、が
無機質なものだからではないでしょうか。

僕はテレビは観るのは嫌いですが
出るのは案外と好きなものですから
一度、小説家の卵、という事で
テレビに出演した事があります。

その時は、声や表情の45パーセント
服装やスタイルの45パーセントで
自分をアピールしてみたのですが
やはり効果的でした。

僕の発言に、テロップ、も付けられましたが
はっきりいって、本当に
発言内容などは5~10パーセントくらいしか
意味がありませんでした。
視聴者もスタジオのコメンテーター達も
僕の声や表情、服装やスタイルにばかり
目がいってしまって、話の内容などは
どうでもよい、という感じでした。

それというのも、僕はあまりにも
いい男な上に、カメラさん達の
撮影テクニックの効果もあいまって
芸能人のようにテレビに映し出されてしまったのです。

このテレビ番組出演時に
僕は自説でもある、壁紙、の効果も
試してみたのですが
これもかなり利きました。

たいてい小説家がテレビに出演する時は
それっぽく見せるために背景に
本がびっしりつまった本棚、という、壁紙、を
持ってきますが
僕はここで逆をついて
テレビカメラが部屋に来る前に
本を全部押入れに隠しておいたのです。
これは本当に効果的でした。

その時の映像は下記サイトに
アップしてありますので
興味のある方はぜひ、ご覧になって下さい。
映像の、嘘、を見抜く
メディアリテラシーを考える上で
結構重要な教材になるかと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=1dmHTIkUF2g
https://www.youtube.com/watch?v=FP01O2yCELM
http://www-user.interq.or.jp/gotaka/papara/pp.htm 



こういった映像の持つ力を考察してくると
やはり映像を意識して
ボディビルで鍛え上げた肉体と
脳の松果体の部分に、日の丸、があり
黒字で、七生報国(七度生まれ変わり
皇国のご恩に報いる)と書かれた
白いハチマキ姿で自衛隊基地で
アジ演説を行い、割腹自殺を遂げた
三島由紀夫という作家の凄さに恐れいります。

当時を知る人に話を聞いてみると
難しいことはよく分からないけど
格好よかった、そうです。

三島由紀夫は命に代えて
当時の大衆に、何か、を残したわけです。

難しいことはよく分からないけど
格好よかった。

テレビの情報などは以上見てきたように
95パーセントが、嘘、なわけでありますが
格好いい映像、を作るのは
とても大切だと僕は思います。

フセイン大統領は、あなぐらで捕まった後
ボサボサの頭で米軍の医師から
口の中をこじ開けられている映像を
世界中に打電されてカリスマ性を失くしてしまいました。
今後アメリカ合衆国が北朝鮮を
崩壊させようとしたら
金総書記もきっと同じ運命をたどることでしょう。
いったいアメリカ政府は金総書記に
どんな、恥ずかしい姿、をさせるのでしょう。

要は、格好いい映像というのは大切なのですよ、という
話なのです。

僕が、小説家の卵、として取り上げられた番組を
観てくれた方の多くも、格好よかった、と
言ってくれます。
もちろんそれは作られた、格好よさ、です。
実際の僕は、映像では表現仕切れないくらい
格好よくて、ドブネズミみたいに
テレビにも写真にも偵察衛星にも
写らない格好よさ、があるのです。

もう一度書きますが
ここに格好いい僕の映像があります。
https://www.youtube.com/watch?v=1dmHTIkUF2g
https://www.youtube.com/watch?v=FP01O2yCELM
http://www-user.interq.or.jp/gotaka/papara/pp.htm 



僕はこの番組で、壁紙効果、を試したかったのと
もう一つ、本とコンピュータ、の関係についても
探ってみたかったのです。
ビル・ゲイツ氏は、あと20年で紙の本はなくなる、と
過激な発言をしていますが
僕も、紙の本は減る事はあっても
増える事はないのではないか、と思ってしまいます。
出版業界は、7年連続売り上げ減、だとの事です。
そこには、活字離れ、とか、ブックオフ、に代表される
新古書店ブーム、という要素もあるでしょうが
インターネット上に使える情報が増えてきている、というのも
大きいでしょう。
ビル・ゲイツ氏の、あと20年で紙の本はなくなる、という
予言は、あながち大袈裟なものではないような気がします。

実際、卵のなかみ、は、連載150回を超えていて
プリントアウトした原稿を積み重ねると
結構な場所を取りますが
サイバー空間では、メガ、ギガ、テラ、ペタの
世界になってしまうので
ネット上にどんどん原稿を上げても
部屋が散らかったりしないのです。

こういったプロセスを繰り返していけば
作家のテレビ出演時の、壁紙、は本棚。
研究者のテレビ出演時の、壁紙、は本棚。
大学教授のテレビ出演時の、壁紙、は本棚。
という今までのテレビ業界の
ステレオタイプな絵の作り方は
崩れていくのではないかと思うのです。

そうなるとビル・ゲイツ氏の予言するように
20年後には紙の本はかなり減っていて
作家の部屋も僕がテレビに出演した時の
ようなものになるかもしれません。

僕は限りなく詐欺に近い行為を
公共の電波を使用して行ったわけでありますが
思うところあっての、詐欺、でありますので
関係者の方々は予めご了承下さい。

僕がTVに出演した頃は
世間様に、まだバブルの余韻が残っていて
文学青年、などというと
キモい、とか、ダサい、と言われるような
雰囲気が残っていたので
後に続く若い人達のためにも
そういったイメージを壊しておきたかったのです。
それに、押入れに本を隠していた、と書けば
詐欺、ですが、押入れに本を片付けておいた、と書けば
詐欺、ではありません。

実際この時の僕のテレビ出演は
思わぬ副産物を生み出しまして
学生時代に、小説家の卵、大場理史、を
テレビで観た、という方が
中央文壇の新人賞を見事受賞し
小説家、となられました。
きっと僕の格好よさに魅せられたのだと
思います。
ただここで問題なのは
学生時代に、小説家の卵、大場理史、を
テレビで見た、という方が
もう小説家になったのに
僕がまだ、小説家の卵、のままだと
いう事です。

なんだか相当脱線してしまいましたが
僕がテレビ出演で試したかった事は
① 僕が格好いいという事
② 僕がとてもいい男であり、ナイスガイであり
且つ、イケメンであるという事
③ 映像はその性質上、人を欺くメディアであるという事
④ 20年後の作家の書斎の可能性
もしくは、20年後の一人暮らしの若者の部屋

この四つです。
そして僕がこの時のテレビ出演時に
一番困ったのは、僕の格好よさに見とれているばかりで
誰一人として、僕の部屋にテレビがない、という事に
気がついていないという事なのです。
本は押入れに隠しておいたのですが
テレビは本当にないのです。
そして部屋の中心に、パソコン、が
置いてあるだけ。
この事の意味する事の恐ろしさに気がついたのは
僕の部屋に取材に来てくれた方、ただ一人だけでした。
この部屋TVないですね? と青ざめた表情で
驚きの声を上げていました。
僕が、ないんですよ、と答えると
そのテレビ局のスタッフさんは
テレビがなくても生きていけますよね、と
寂しそうに答えていました。
きっと自分の仕事を否定されたような気がして
しまったのでしょう。
僕はこの人を身方につけました。
別に、買収した、というわけではありませんが。

こうして書いてみると
バレなかった一度目の詐欺ほど
詐欺師を勇気づけるものはないのだな、と思ってしまいます。

主イエス・キリストは、2000年人類を騙しました。
ブルーハーツも、せめて100年はバレない
たいした嘘をつく、と歌っていました。

そして僕はブルーハーツに騙されて
こんな大人になってしまいました。
でも後悔はしていません。
むしろ、騙されてよかったな、という気分です。
きっと、結婚詐欺、にあった女性も
こんな気持ちになるのだと思います。
騙されたけど、あの甘い月日の思い出は本物だったのよ、と。

なんだか最近は、オレオレ詐欺、などと言って
騙した方も、騙された方も
その話を聞かされた方も陰鬱な気分になるような
詐欺が横行しているようです。
詐欺師もスケールが小さくなったものです。
才能はあるのだから、心に愛を持って
世界のてっぺんに辿り着くような
アイデアたっぷり、やり方ばっちりで
強烈なインパクト第一印象で
みんな幸せになっちゃうような
志の高い大嘘、をかまして欲しいものであります。

面白いことを考えて
みんなを楽しくさせたいな

ブルーハーツの、ながれもの、という曲の一節であります。
でも、ながれものには惚れてはならぬ、のです。

走り続けよう情けはいらぬ
ながれものには惚れてはならぬ
戦う時には武器などいらぬ
愛する時には言葉はいらぬ

どうだ友達よ
目を覚ませ
地球はグルグル回るんだ
恋人達よ、抱き合って
何があっても離れるな




-メルマガ創刊記念
 百日裁判(6)ルイ・ヴィトン、へ続く-
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