2007年2月1日木曜日

スピリチュアルブームに思ふ―見えない存在への思ひ 2007.2.X

無神論は精神の力のしるしである。
しかしある程度までだけである。

by パスカル「パンセ」

無神論、唯物論、最近なら、唯脳論、は
まさに精神の力のしるしだと僕も思いますが
パスカルも言うように、それは、ある程度まで、だとも思います。

死を前にしてニーチェもキルケゴールも役に立たない、とよく言われますが、
全くその通りで、現代日本のポストモダンニーチェイズムの旗手
村上龍さんの作品なども、死を前にしては役に立たないな、と
僕は思ってしまう事があります。
誤解されると困りますが、僕は、村上龍さんの作品を貶めているわけではなくて
村上龍さんの小説は、現世を肯定し、強く生き抜く力を与えてくれますが
死を前にしては、そのメッセージさえも無力だろうな、という意味です。

唯脳論の論客として有名な、解剖学者の養老孟司さんの本に
死の壁、というタイトルの本がありましたが
無神論、唯物論、唯脳論、といった人間の思想的営みにとって
死、は、まさに、壁、となって立ちはだかります。

無神論は精神の力のしるしである。
しかしある程度までだけである。

by パスカル「パンセ」

最近、オーラの泉、というTV番組の影響か(しかし今だテレビの影響は
凄いものがありますね)巷はスピリチュアルブームという事らしいですが
本屋さんに行くと、前世療法、やら、退行催眠やらの本が溢れていたりします。

僕も、福島大学の飯田史彦教授の、生きがいの創造、や
ワイス博士の前世療法、といった本を買ってきて読んでみたのですが
輪廻転生、というものがあるのかなあ、と考えていたところです。
ユング心理学の河合隼雄先生も、アメリカの前世療法について言及していたりして、
最近、輪廻転生、というものが妙に説得力を持って僕にせまってきていました。

以前、僕の秘密の居酒屋のマスターが、生まれ変わりの法則、を
よく話していて、その時僕は失礼ながら、この人はトンデモ本にイカれているな、と
思ってしまったのですが、最近は、それも一つの考え方としてありかなと思うようになりました。
そのマスターは、一昨年に亡くなってしまったのですが
自身の唱える、生まれ変わりの法則、によって、中有を経て
どこかへ転生したのでしょうか。

輪廻転生の小説としては、三島由紀夫の遺作、豊饒の海四部作が
思い出されますが、豊饒の海、は、仏教の唯識論の通り
転生を繰り返した挙句、それも心々ですさかい、という台詞で
虚をつくような結末を迎えます。そういった遺作を書き上げた後
七生報国(七度生まれ変わり皇国のご恩に報いる)の精神で
割腹自殺を遂げた三島由紀夫は、その後、どこかへ転生し
何回目になるかは分かりませんが、皇国のご恩に報いるために
今も活動しているのでしょうか……。(そういえば最近、三島転生、という
タイトルの小説が出版されたようですね、読んでみたいです)

孔子は、怪力乱神を語らず、という現実的な立場を取ったようですが
語らず、というところがミソで、ない、とは言っていないわけであります。
鬼神を敬じて遠ざく……未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん、などとも
孔子は語っていたようで、形而上学的問いには積極的にはくみしていません。

お釈迦様は、死後の世界、地獄、極楽、といった形而上学的問いに対しては
積極的に答えずに沈黙し、無記、という態度をよくとられたようですが
それも一つの答えかもしれません。

20世紀の天才哲学者ウィトゲンシュタインは、純粋言語批判の書ともとれる
論理哲学論、において、言語の限界を語りつくした上で
語りえぬことについては沈黙しなくてはならない、と述べています。

言語、というものは、結局は、外界を切り取る、記号、に過ぎないのであって
自ずと有限性があり、その表現力、表象力に限界があるわけです。
その有限な、記号、である言語をもって、無限の知性、無限の力、を
持つであろう至高の存在を表現する事はできず、そういった問いに対しては
沈黙するしかないのかもしれません。語りえぬことについては沈黙しなくてはならない。

やはり、お釈迦様のように、無記、という態度を取るか、孔子のように、怪力乱神を語らず
鬼神を敬じて遠ざく、といった立場を取るしかないのではないか、と思ったりします。

人間の五感の認識力を超えたもの、或いは、言語、という、記号、で
表記しきれないもの、人智を超えた、サムシング・グレイト。
そういった存在は、感じる事、信じる事でしか存在させられないのではないか、と
思ってしまいます。

唯脳論、で、人間は死んだら脳の電気活動が停止してそれで全てが終わりなのか、
前世や来世、死後の意識、魂、霊魂、種子の転生、などはあるのか、
創造主、造物主は存在するのかといった形而上学的論争は、
おそらく、有限な記号である、言語、という道具を使って議論している限り、
永遠に答えは得られないのではないか、と思ってしまいます。
養老孟司さんなら、人間の脳で考えられないことが神秘であって
答えが得られないのは脳ミソの能力が足りないからだ、と言うかもしれません。
言語の限界、脳の認識力の限界。

自然科学の認識もまた、目で見えるもの、耳で聞こえるものといった
有限な感覚器官で得るデータに依存しているわけなので
人間の認識力、人智を超えたものに対しては、アプローチできないのではないか、と
思ったりします。

感じる事、信じる事でしか、スピリチュアルな世界は
存在させられないような気がしますが
そこに危うさもあって、超古代文明の探求と同じで
アカデミックなメスを入れにくいから何とでも言えてしまうという部分があります。
あまり飛躍したした事を言うと、トンデモ度高し、と嘲笑されてしまいそうです。
やはり、ない、とも、ある、とも言わず、お釈迦様のように、無記、としておくのが
賢明なのかもしれません。

答えは、無記。しかし人間は、死を前にして無神論者や唯脳論者でいられるほど
強くはありません。死を前にしては、ニーチェもキルケゴールも
村上龍さんも役には立たないのであります。

無神論は精神の力のしるしである。
しかしある程度までだけである。

by パスカル「パンセ」

僕は、人間の精神力の限界を認め、天と呼ぶか、神と呼ぶか
光の存在と呼ぶか、サムシング・グレイトと呼ぶか
毘盧舎那仏と呼ぶかは別にして、そういった至高の存在の前に
謙虚でありたいと思います。


―スピリチュアルブームに思ふ―見えない存在への思ひ(完)―
パンセ〈1〉 (中公クラシックス)

パンセ〈2〉 (中公クラシックス)

論語〈1〉 (中公クラシックス)

論語〈2〉 (中公クラシックス)

哲学的直観 ほか (中公クラシックス)

道徳と宗教の二つの源泉〈1〉 (中公クラシックス)

道徳と宗教の二つの源泉〈2〉 (中公クラシックス)

論理哲学論 (中公クラシックス)

脳と魂

唯脳論

脳を鍛える (東大講義 人間の現在)

証言・臨死体験

生、死、神秘体験―立花隆対話篇

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

カミとヒトの解剖学

[決定版]生きがいの創造

ワイス博士の前世療法 (瞑想CDブック)

ユングと共時性 (ユング心理学選書)

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)

奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)

暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)

天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門 (NHKライブラリー)

唯識の心理学

唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む

釈迦

中陰の花

霊の研究 人生の探究

心と脳の正体に迫る 成長・進化する意識、遍在する知性

法華経を生きる (幻冬舎文庫)

法華経 久遠の救い (NHKライブラリー)

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡







公共哲学に基づく社会的企業「THE BIG ISSUE JAPAN」の挑戦 2007.2.X

ビッグイシュー、という雑誌をご存知でしょうか。

ビッグイシューは、1991年(世界史的には、ソビエト連邦崩壊
日本史的にはバブル崩壊の年)に、英国ロンドンで始まった
ホームレスの仕事をつくり、自立を応援する雑誌販売プロジェクトです。
日本では、水越洋子編集長の東奔西走の末、2003年9月
(アメリカ同時多発テロから二年後)に創刊されました。

ビッグイシューホームページにもありますが
このプロジェクトは、公共哲学に基づく社会的企業
あるいは社会的起業、だと僕は思います。

話は逸れますが、僕は、ここ何年か考え込んでいたのであります。
マルクスとエンゲルスの共産主義思想の下での
生産手段の国有化による計画経済は、ソビエト連邦の74年にわたる
壮大な実験の後に破綻してしまい、先進国は軒並み財政赤字で
(特にアメリカと日本は深刻)大きな政府から小さな政府への流れは不可避。
よってケインズ政策による有効需要創出のための大規模公共事業も、もはや不可能。
アダム・スミス、ハイエク型の新自由主義思想の下
血も涙もない剥き出しの資本主義システムが稼動し始める。
時を同じくして、下部構造にあたる生産手段が、農業、工業、知価、へと移行していき
世界はより速く、より複雑になり、精神面でも経済面でも
人々の生活の安定が失われていく――。

そういった中、各企業が、自社利益最大化のためにレッセ・フェール(自由放任)的に行動すれば
必ず社会的矛盾が生じてくるはずで、その矛盾を放置すれば
世界は、暗黒の中世、に逆戻りしてしまうのではないか、と。
新自由主義の市場原理下では、市場に、神の見えざる手、が働いて、資源の最適配分が
行われるのかもしれませんが、労働市場にも、神の見えざる手、が働いてしまうので
多くの人々の生活が不安定なものとなってしまいます。
(労働市場。嫌な言葉ですね。人間の労働が市場価値で売買される。
人々は自分の市場価値を高めるために四苦八苦。嗚呼、人間疎外。
一昔前のマルキストの嘆きも分かります)

そういった社会状況からもたらされる、痛み、を、自立、自己責任、といった概念だけで
個人へ被せるのはあまりにも酷だし、それでは社会の絆が壊れてしまうのではないか、と
僕は考えていたのです。
実際、最近の自己責任論議では、自己責任、というシニフィアンが
自業自得、というシニフィエに転換してしまっている感さえあります。
社会は、助け合い、互恵の精神、を失くして、殺伐とした空気(ニューマ)に
満たされています。

小泉首相は、痛みを伴う構造改革、とよくアナウンスしていましたが
まさに、その、痛み、を何とかしなくてはいけない時期にきているのではないか、と
最近僕は考えていたのです。
小泉首相が退陣した頃から、格差論議、が盛んになってきましたが
構造改革の、成果、と共に、その、痛み、も顕在化してきたのだと思います。
その点、小泉首相は誠実だったと僕は思います。
始めから、痛みを伴う、構造改革だと言っていたのですから……。
ただ、痛みに耐えてよく頑張った! が、痛みに耐えてよく死んだ! 
になってしまっては、それはもう人間の社会ではないと僕は思います。

痛みは始めのうちだけ、慣れてしまえば大丈夫
そんな事言えるあなたは、ヒットラーにもなれるだろう

byブルーハーツ

閑話休題。
フランシス・フクヤマ氏の、歴史の終焉、ではありませんが
人類のイデオロギー闘争を最終的に勝ち抜いたかに見えた
資本主義・民主主義・近代法、のトリオ・ザ・ファンク。
このトリオ・ザ・ファンクがどうも完璧なものではないらしいという事に、多くの人々が
気がつき始めたように思います。
では、この資本主義・民主主義・近代法のトリオ・ザ・ファンクがもたらす社会の矛盾・痛みを
解決するために何が必要なのか。共産主義でも社会主義でもケインズ政策でもなく……と
僕はここ何年か考え込んでいたのですが、それは、公共哲学に基づく社会的企業
或いは、社会的起業、なのではないか、と考えるに至ったのです。
図示すると以下のようになります(下部構造にあたる生産手段の変化に対応して)

農業――→工業――→知価
    ↑      ↑
  共産主義   公共哲学に基づく社会的企業

民間部門の人間が、公共的視野に立って社会的矛盾を発見し
又、解決しながら利益を上げていくという、公共哲学に基づく社会的企業。
資本主義システムの中で、資本主義の矛盾を解決していく、社会的企業、或いは
社会的起業、が必要なのではないか、と僕は考えるように至ったのです。
仙台インターネットマガジン代表の佐藤研一朗氏が、現在、アメリカのロチェスターで
起ち上げようとしている、世界で一番大きな写真展、ROMAプロジェクトもその一つだと思いますし
何より、ビッグイシュー、こそは、まさに、公共哲学に基づく社会的企業だと思ったのであります。

僕は、昨年六月に、仙台市青葉区五橋の福祉プラザビルで行われた
ビッグイシュー編集長の水越洋子さんのトークライブに参加してみたのですが
水越さんのお話を聞いていてそれを確信しました。
これぞ、今最も必要とされている、公共哲学に基づく社会的企業だ、と。
そういった意味でも、僕は、公共哲学に基づく社会的企業
「THE BIG ISSUE JAPAN」の挑戦を
全面的に応援したいと思うのであります。

で、この公共哲学に基づく社会的企業であるビッグイシューの
ベンダー(販売員)さん達は、基本的にホームレス状態の方々です。
そういったシステム上、僕もそうでしたが、ほとんどの人は
ビッグイシューを初めてベンダーさんから購入する際
恵まれない人への寄付や救済のような気持ちで購入してしまうと思います。
ですがそれは、ベンダーさん達への失礼な態度だと、すぐに気づかされると思います。

ベンダーさんからストリート雑誌、ビッグイシュー、を購入し
誌面に目を通してすぐに気がつくのは、ビッグイシューのその誌面の充実ぶり
圧倒的クオリティーの高さです。
ファッションやらグルメやら旅行やらのカタログ化した既存の商業誌にはない
イシュー、まさに、ビッグイシュー、が目白押しなのです。
説教臭くない形で読者に、イシュー、つまり、課題や論点を示し
新たな視点を提供してくれます。自然な形で知的好奇心も満たしてくれます。
こういった若者向けの媒体が、90年代にあれば
僕の学生時代ももっと充実したものになったのにな、と
現在の若者達をちょっと羨ましく思ってしまいます。

マクルーハンではありませんが、まさに、メディアはメッセージ
メディアがマッサージ、で、ストリート雑誌、ビッグイシューというメディアを通じて
マジョリティで、かつ、マイノリティの
ナショナルでありインターナショナルのメッセージを何回と受け取っていると
自分の中で何かが変わってくるのが分かります。
日本の既存のテレビや雑誌に日々触れていては錆び付いてしまう、感性、を
ビッグイシュー、というメディアは守ってくれるのです。
それは、失くしてはいけない、少年の声、のようなものです。
ビッグイシューを読み続けることで、人は優しくなれます。

ビッグイシューが社会に定着すれば、日本と世界は変わると思います。
僕は、公共哲学に基づく社会的企業
「THE BIG ISSUE JAPAN」の挑戦を応援したいと思います。
「THE BIG ISSUE JAPAN」をよろしく。


○仙台のビッグイシュー販売場所

パピナ名掛丁入口/サンモール一番町マクドナルド付近/一番町入口141ビル前――etc.

・ベンダー(販売員)さんが用事や休憩などで売り場を離れている事もありますので
 予めご了承下さい。基本的に一冊200円での販売となります。


―公共哲学に基づく社会的企業「THE BIG ISSUE JAPAN」の挑戦(完)―


関連URL

ビッグイシュー日本版
http://www.bigissue.jp/   

「NPO法人 仙台夜まわりグループ」
http://www.yomawari.net/