2003年11月1日土曜日

土地の持つ力(4)仙台北山 2003.11.X 初出

と、ズラズラと、土地の持つ力、について
考察してきてみたわけですが
僕が今住んでいる仙台の北山という土地は
どうなのだろう。

インターネットがどんどん世界のプレイスレス化を
進めて行っても、土地の持つ力、は残る
という事を考えると、僕はやはり
仙台市青葉区北山という土地の力を
マックスまで引き出して書いていくしかないわけです。

要は土地や人間からかけ離れた
客観的文章、なるものは存在しないと
いうことなのだと思ってしまいます。

最近は大手新聞社でも
記者の署名入りの文章が増えてきました。
事実の伝達意外の文章は、基本的に署名入りが
望ましいと僕も思います。
いくら、客観的、に書こうとしても
文章にはどうしても、主観、が入ります。
その、主観、を、バイアス、と言ったりしますが
それが、偏見、や、色眼鏡、にまで至ってしまう事が
あるので、この記事はあくまで~という記者の
主観、によるものですよ、という意味での
署名入り記事は望ましいと思ってしまいます。
そうすれば大新聞の名に隠れて
勝手な記事を書いたりする事ができにくくなる
からです。

ただ、匿名性、或いは、取材源の秘匿、という
原則のもとでしか掲載できない類の事件も
あるとは思います。
記者の身に危険が及ぶような事件もあるでしょうから
全て署名で、とは言いませんが、事実の伝達以外の
文章は、なるべく署名入りが望ましいと
僕は思ってしまいます。

僕の場合は最近、アメリカ政府に対する不信感、という
バイアス、がかかっています。
だからどんな事を書いても、どうしても、反米的、に
なってしまいます。それは自覚していますので
問題はないと思います。
つまり自分の、バイアス、を自覚できていれば
偏見、や、色眼鏡、にまでは至らないと思うのです。
一世代前のフェミニストは、男女差別、という、バイアス、が、
何でもかんでも男女平等じゃなきゃいけないのだ、という、
偏見、色眼鏡、にまで至ってしまっていました。
当時は著しく女性に不利な社会構造だったのだから
それも仕方がなかったのかもしれませんが
男女差別が、偏見、や、色眼鏡、にまで至った時点で
フェミニズムは同性である女性の側からも
相手にされなくなったような気がします。
人間なのだから、自分の育ちや環境で
多少、バイアス、がかかってしまうのは
仕方がないと思いますが、偏見、や、色眼鏡、にまで
至ってはいけないような気がします。
そして、偏見、や、色眼鏡、を持っている人に
限って、それが、偏見、や、色眼鏡、だと
気がついていなかったりします。
偏見、や、色眼鏡、を上手く言い表した

坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い

という諺(ことわざ)があります。
僕は最近、諺(ことわざ)、はすごいと思うのです。
諺は、人間の普遍的な心理を鋭くついているわけです。
そして多くの人がいろんな状況で
その言葉を口づさんできたので、諺、になっているわけです。
僕も、アメリカ政府に対する不信感、が
アメリカ人に対する不信感、にまで
至らないように気をつけなくてはいけません。
つまり、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い、となっては
いけないと思うのであります。
アメリカ人にも素晴らしい人はたくさんいます。

と、少々話が逸れてしまいましたが
ここ仙台市青葉区北山は
やたら神社・仏閣が多い場所です。
国家神道成立以前の、神仏習合、をさぐるなら
これ以上ない場所のような気がします。
たぶん伊達藩政の時代から、北山、は
神仏習合、の土地だったのだと思います。

仁王様も狛犬さんも地蔵様も
釈迦像も、本を読んでいて
気になったら歩いて三分で見に行けるのです。
僕は宗教のことを考えていて
知的障害者の存在に行き着いたのですが
仙台の中心部には、その知的障害者だったと
される仙台四郎さんを、神さま、として祭る
三瀧山不動院もあります。
ここも僕が見たところでは、神仏習合、の名残が
残っています。
明治政府の役人から上手く逃げ延びて
神仏習合、の信仰形態を残している場所は
あまり多くないと思います。
そう考えると、恵まれているな、と思ってしまいます。
それと仙台七夕祭り。
乙女チックな僕は、ベガとアルタイル
織姫と彦星の話がとても気になって
います。これも小説に取り込みたいところです。
たぶん、ベガルタ仙台、の由来は
ベガとアルタイルから来ているのでしょう。
僕は今のところ、仙台市青葉区北山という土地に
完全に感化されているわけです。

沖縄考、にも書きましたが
僕は沖縄の巨大な米軍基地を観て
すぐに、日本はアメリカの基地だ、と
分かりました。
そういった、土地の感化力、は絶対あります。

どういうわけか……広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
2003年5月
なぜか僕は大場理史という器に入り
ここ仙台の北山に住んでいます。
そしてどういうわけか
小説家を目指しています。
そしてまたどういうわけか
今回仙台インターネットマガジンに
連載することになりました。
みなさん宜しくお願い致します。

卵のなかみ、はそこから出発しているわけです。
土地や人間からかけ離れた、客観的文章、なるものは
存在しないような気がする。
♂♀生・性・聖そしてその土地の風土が
文化を決定ずけるのだ、と思ってしまいます。






-土地の持つ力(完)-





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土地の持つ力(3) エルサレム 2003.11.X 初出

世界中で最も、土地の持つ力、がある場所と言えば
これは間違いなく、エルサレム、でしょう。
エルサレム、は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
三つの宗教の聖地となっています。
つまり、ユダヤ教の神殿跡、キリスト教の聖墳墓教会
イスラム教のモスク、が立ち並ぶという
凄い土地です。この土地を巡った血なまぐさい対立の
ニュースを僕達は毎日のように聞かされます。

長い間、というか2000年間、キリスト教国家でも
イスラム教国家でも差別され国土・国家を持たないまま
放浪していたユダヤ人達は、ヒトラーのユダヤ人抹殺計画あたりから
これでは駄目だ、という事で、シオニスム運動、を起こし、
現在のイスラエルを建国したわけですが、このシオニスム運動の、
シオン、は、エルサレムの古名だそうです(村松剛著、ユダヤ人、中公新書) 
遠い昔、ユダヤ人達は、シオン、つまり現在のエルサレムに住んでいた。
だから、シオニズム運動、を起こして
現在の、イスラエル、を建国したわけです。

でも隣接するパレスチナのイスラム系住民にしたら
面白くない。2000年以上前にその土地に住んでいた
からといって国家を建設することが許されるなら
アメリカ合衆国はインディアンのものじゃないか、と
いうのがパレスチナ側の言い分だと思います。

そしてこの、エルサレム、という土地を巡った
血で血を洗う戦いのニュースを
ここ日本でも毎日のように聞かされてしまう。

近代法治国家は、政教分離(政治と宗教の分離)を
大前提として成立しているはずなのに
911以後、不安定になった世界に目を向けてみれば
政治と宗教は、相変わらず密接に結びついているのが現状です。
イスラム世界は、コーランに基づいた、ジハード(聖戦)を
呼びかけていますし、ブッシュ大統領も負けじと
聖書に基づいた、聖戦、を呼びかけています。
政教分離はいったいどこへ行ったのか、と
思ってしまいますが、それが世界の現実なのでしょう。

911以後、アメリカ(キリスト)が、イスラエル(ユダヤ)の肩を
持ちすぎてるんじゃないか、とイスラム世界が
言いたがっているような構図が浮き上がってきました。
この点クリントン大統領は、下半身は暴れん坊でしたが
イスラエルのラビン首相とパレスチナのアラファト議長を
握手させた外交手腕は見事でした。
そしてちゃっかりホワイトハウスの前で
握手している紛争の両当事者の真ん中に立つ姿を
世界に打電し、世界の警察アメリカ合衆国、を印象づけた。見事です。
キリストがユダヤとイスラムを握手させた、ともとれます。

これがブッシュ政権になって
ネオコンサバティブ(新保守主義派)と呼ばれる人達が
政権中枢に入り込み、アメリカ合衆国を内部から壊し始めたわけですが、
ネオコンを誕生させた背景には
クリントン政権時代、IT革命、金融グローバリズムの
恩恵に授かることができなかった、地方の
キリスト教を背景とした共和党保守層の存在が
あると言われています(アメリカは二大政党制で
クリントン氏は民主党、ブッシュ氏は共和党です)
つまりネオコン誕生には、宗教が隠れているわけです。
宗教色を廃した司法・立法・行政が上手く
チェック・アンド・バランス機能を働かせる事で
近代法治国家は成り立っているはずなのです。
そして生活の利害の対立は、政治家の議会行動によって
調整されるはすなのです。なのに911以後、不安定に
なってしまった世界に目を向ければそうなっていない。

アメリカの政権中枢にネオコンを送り込んだと言われる
クリントン政権下で冷や飯を食わされていた
地方のキリスト教を背景とした共和党保守の
人々にとっては、ニューヨークの金融を一手に
握るユダヤ人達の存在は、きっと面白くなかったはずです。
911の当日、ニューヨーク貿易センタービルに
ユダヤ人だけが出勤していなかったらしい、などという
デマが流れましたが、そういったユダヤ人陰謀説は
ヒトラーのユダヤ人抹殺計画への反省もあり
欧米ではタブーとなっているようです。
そういった話を聞くと、なんで欧米人は
そんなにユダヤ人を差別するのだろう、と
思ってしまいますが
日本も例外ではなくて、関東大震災の時は
在日朝鮮人達が暴動を起こすらしい、というデマが
流されたようです。
そのデマで実際犠牲になったのは日本人ではなく
在日朝鮮人の側でした。
現在マスコミは、在日朝鮮人が
北朝鮮に不正送金しているらしいぞ、などという
情報ばかり流して、国民の政府への不満を
北朝鮮や在日朝鮮人への敵意にすりかえようと
していますが、この国のマスコミは関東大震災の頃から
全く進歩していないわけです。
そして悲しい事に、そのデマに乗ってしまって
いる人が僕の回りにも結構多い。

どうしてそうなるか、というと
普段権力の側に立っている人間が、マイノリティ
少数派、を差別している、という負い目を
感じているからなのだと思います。
ふだん酷い扱いをしていたな、という負い目が
あるから、それが混乱時において
自分達が復讐されるのではないか、といった恐怖感に変わる。
国家と個人は違うし、民族と個人は違うのだから
対象を一くくりにして、憎んだり
愛したりするのは、もう止めたほうがいいのでは
ないかと思います。
それはいつか来た道です。
差別の構造は、どの国でも同じなのでしょう。
普遍的なのです。

弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く

ブルーハーツも歌っていたように
それが差別の本質なのだと思います。
欧米でも精神的に自立できている人達は
ユダヤ人、というだけで特定の人を差別したり
しないでしょうし、日本でも精神的に自立できている人達は、
在日朝鮮人、というだけで特定の人を差別したりしないでしょう。
これから考えられる最悪の事態は
社会の敷いたレール、がなくなって
何をしたらいいか分からない、何がしたいか分からない、
となってしまった人達のやり場のない怒りが
メディアの旗振りによって、在日朝鮮人への敵意に
向かっていくことのように思います。
僕は何度も書いていますが、近代国家は必要悪だと
思います。悪だけどないと困るもの。
だって僕達はもう、竪穴式住居、には住めないのだから。
近代国家、朝鮮民主主義人民共和国、を憎んでも
在日朝鮮人、を憎んではいけないと思います。

で、エルサレム。
この周辺に住んでいる人達は
どんな感覚を持っているのだろう、と
思ってしまいますが、きっと日本に
住んでいる限り絶対その感覚は分からないのでしょう。
自爆テロなんて当たり前。
死体の中に爆弾を仕掛けておいて
死体を処理しにきた敵対勢力を殺す、なんてのもあり。
果ては、大人が敵地に近づくと銃撃されるから
子供達を使って攻撃させる、なんて手口もあるそうです。
そしてその子供達に敵が発砲してきたら
外国人ジャーナリストを使って写真を取らせ
奴らは子供達にまで発砲するという非人道的なことを
行っていますよ、と国際社会に訴える。
凄い場所です。エルサレム。

もう終わってる、という感じがしてしまいますが
このエルサレムを巡って争いを続けている
ユダヤ人とアラブ人というのは、
もとはセム族の流れから派生した同系統の同民族だそうです。

ヤハウェ信仰が起きてから、ユダヤ教、という概念が生まれ、
イエス・キリスト以後、キリスト教、が誕生し
モハメッド以後、イスラム教、が誕生しましたが
もとは、みんなセム系の同民族であるわけです。
そしてユダヤの、ヤハウェ(エホバ)、
キリストの、天なる父、
イスラムの、アラー、は同じ神様だそうです。
そしてそれぞれに、エルサレム、を
聖地とし、世界を巻き込んだ大喧嘩をしている。

セム系の神様も、いい加減頭を抱えているのでは
ないだろうか。
お前らもういい加減にしろよ、と。
ここは、エルサレム、聖地なんだぞ、と。

そのエルサレム、エル・シャロームを
和訳すると、平安の都、となるそうです。
ナクヨ、ウグイス、平安京。

やはり近代法治国家において
政教分離の原則、は大切のような気がします。

エルサレムは間違いなく世界一、土地の持つ力、の
ある場所なのでしょう。



-土地の持つ力(3)エルサレム-



土地の持つ力(4)へ続く
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ユダヤ人―迫害・放浪・建国 (中公新書 (30))

土地の持つ力(2) 巣鴨プリズン 2003.11.X 初出

巣鴨プリズン。

終戦直後、日本のA級戦犯を収容されていたとされる
巣鴨プリズン。
巣鴨プリズン、とは、巣鴨拘置所をGHQが接収し
戦犯、の収容所としたものらしいです。
もちろん現在は存在しないようですが
僕はここにも独特の、土地の持つ力、が
存在したのではないか、と思ってしまいます。
そこに住むだけで感化されてしまうような何か。

終戦後の日本が土建国家として急成長する過程において
頭角を現していった、大物~族議員、であるとか
~界のドン、と呼ばれるような人達のルーツを
たどっていくと、結構、巣鴨プリズン、に
行き着いたりします。

この勢力が国政の舞台に残る限り
公共事業依存型の日本経済、土建国家、は
終わらないのでしょう。
深く調べたわけではないので推測は危険ですが
僕はたぶん、巣鴨プリズン、において、GHQ、と
何か、取引き、があったような気がします。
こうした、陰謀史観、を始めるときりがないのですが
当時の世界情勢においては、アメリカ側に
日本を反共(反共産主義)の防波堤にしたい、という
思惑があっただろうと考えられるので
取引きがなかった、とは言えないような気がするのです。
日米安保を決定づけた昭和の怪物、岸信介首相が
終戦後、共産主義思想に染まっていた優秀な若者達を
転向、させて、革新官僚、として採用したという
話はよく聞きます。
現在のイラクで旧バース党に関わっていた
人物を収容している施設があるとしたら
当然アメリカは、取引き、すると思うのですが
どうでしょう。
だって、イラクで最も優秀なのは
戦犯、とされるその人達なのだから。

なんだか危ない話になってきましたが
今回の衆議院選挙においては、そういった危ない話に
繋がりそうな、族議員、とされる人達が引退も含めて
相当落選したようなので、日本はどうしようもない
土建国家体質、から抜け出せるかもしれません。
民意の勝利です。
民主国家でよかったなと思ってしまいます。
少し未来が見えてくるかもしれません。

そもそも不況を、公共事業による有効需要創出で
乗り切ろうとするいわゆる、ケインズ政策、に基づいた
ニューディール的経済政策は、日本社会において
完全に限界を迎えています。

ケインズ政策、ニューディール政策というのは、
アメリカで1929年に始まった大恐慌を、
時のルーズベルト大統領が
なんとか乗り切ろうとして採用した、
ケインズ、という経済学者の理論のもとで行われた
一連の経済政策のことです。
それまでのアダム・スミスに始まる古典派の経済学では
自由放任(レッセ・フェール)的に、
すべてを市場に任せておいて
後は、神の見えざる手、が市場に働くのを待てばよい、と
されていたのに大恐慌でニッチもサッチもいかなくなってしまった。
そこでケインズという学者が、大規模な公共事業で有効需要を
創出するべきだ、と提唱したわけです。

大規模公共事業を政府が行う、という経済政策は
市場に、神の見えざる手、を見る古典派経済学の
見地からすれば、異端、ですが
ルーズベルト大統領が、ケインズの理論に基づいて
行ったニューディール政策で
実際アメリカ経済は、大恐慌から一旦経済を
持ち直してしまいました。
このルーズベルト大統領は、
日本軍の真珠湾攻撃を察知しながら
戦争の大義名分を得るために
わざと真珠湾で自国部隊を撃たせた、と言われる
あのルーズベルト大統領でもあるのですから
経済政策にしても、外交手腕にしても
好悪の判断は別にして、政治家として
大した玉、だった事は間違いありませんね。

少々話が逸れてしまいましたが
現在の日本社会においては
かつてアメリカ経済の大恐慌を救ったという
その、ケインズ的、ニューディール的
大規模公共事業のアプローチは通用しないだろうという
話なのです。

先日、小室直樹氏の、論理の方法(東洋経済)という本を
読んでいてその辺すっきりしたのですが
まず一点、ケインズ自身が、ケインズ政策、を長く行うと
世の中が、社会主義、になってしまうので、短期で
切り上げること、と警告していたとの事です。
それともう一点、ケインズ政策が効力を発揮するためには
役人が清廉潔白で十分に有能でなければならない、という仮説も
紹介されていました。

この二点に照らし合わせると
現在の日本社会では、もうケインズ的、ニューディール的、
大規模公共事業的アプローチでは立ち行かない、という事なのです。
日本は戦後ずっと、護送船団方式、でやってきていて
唯一成功した社会主義国、などと揶揄されるくらいなのだから、
ある意味、50年間ケインズ政策を採用していたようなものです。
日本は先進国の中で最も開業率・起業率とも低い、と
言われていますが、ケインズ政策を短期で切り上げないと
世の中が、社会主義、になってしまいますよ、という
ケインズ自身が指摘する弊害が既に起き始めているわけです。

また二点目の、ケインズ政策が効力を発揮するためには
役人が清廉潔白で優秀である必要がある、という
仮説においても、戦後あまりにも長い間
官僚にとっておいしい、役人天国、的状況が続き過ぎたので、
清廉潔白で十分に有能、とは思えない役人が増えてしまいました。
官僚が公費を飲み食いに使っているらしい、という
官官接待、が、一頃連日のように報道されていたのは
記憶に新しいところです。
それにもう、赤字国債、が膨大になってしまっているので
大規模な公共事業など撃てるわけがありません。
だからどの道、ケインズ的、ニューディール的
大規模公共事業的アプローチの
土建国家体質、は改めるしかないわけです。
僕は建設業界に知人がいるので
あまりこんな事は書きたくないのですが
マクロで見た場合、それが正解だと言えそうです。

道路公団の藤井総裁が、石原伸晃大臣の
聴聞に対し、大物族議員達のイニシャルを
何個か上げてみせてから、死人が出るぞ、などと
揺さぶりをかけていたニュースが先日報道されていましたが、
あ、なるほどな、と僕はその時思いました。
巣鴨プリズン、で何があったかは別にして
50年近く、土建国家、をやっていれば
そういう癒着・弊害は出てくるのです。
まさに、世の中の社会主義化の弊害
役人が清廉潔白でないことによる弊害が
如実に現れているニュースでした。
なるほどな、というよりも、やっぱりな、という
感じが僕はしました。

それというのも、僕はチョコマカと
フットワーク軽く、あちこちに出入りしているので
ある自治体を舞台とした、大物族議員と
元県警トップと役所を巻き込んだ形での
不正、とは言わないまでも
あまりフェアではない関係、ちょっとおいしい関係、を
知っているような気がするからなのです。
官官癒着の利権があるかも、なんていうのは
この社会で2.3年働いてみれば、誰でも分かります。
この国はもう、役人天国、と化しているのです。
族議員のイニシャルを何個か上げてみせて
揺さぶりをかける、という
道路公団の藤井総裁の行為で国民に明らかになったのは
やっぱりそうか、という確信だけだと思います。

そういった公社・公団・役所の職員となって
上に行けば行くほどおいしい思いができる、というような
社会構造にあって、若者達に対してリスクを負って
ベンチャー企業を起こせ、などと注文するのは
無理だと思ってしまいます。
合理的に考えたら、ほとんどの若者は
公務員試験を受けてみよう、となるはずです。

僕の同世代の人には、大学8年生まで
公務員試験を受けているような人がたくさんいます。
それは公務員がそこまでしても元をとれそうな
おいしい仕事、だからだと思います。
公務員になってもあまりおいしくない、という状況になれば、
それらの若者は何かを始めるかもしれないのに
公務員や公社・公団に、最も経済的インセンティブと
社会的ステイタスがあるから
大学8年まで浪人して公務員試験を受ける、という
ような人が増えてしまうわけです。
給料が安くてもいいから、公(おおやけ)の仕事に
携わって人々の役に立ちたい、という人として
素晴らしい人は、今はNPOを起ち上げるような
気がします。

べんちゃあ・すぴりっと、のエッセイにも書きましたが
公務員試験、に代表される、社会が敷いたレール、に
最も経済的インセンティブと社会的ステイタスがある社会では、
仕事も遊びもそつなくこなし、GWには
ユニバーサルスタジオジャパンに行きます、という
ような人が最も、賢い人、とされてしまいます。
そしてリスクを負って何かを始めようとしている人は
世間知らずのバカな人、とされてしまう。

僕は別に読者の方に無茶を進めているわけでは
なくて、経済的インセンティブのつけ方で
人々の意識が変わってしまうのだから
人間というのは本当に面白いな、と思ってみただけです。

昔、というか奈良時代の話ですが
墾田永年私財法、という革命的な法律が施行された
事がありました。
田畑を開墾すればするだけ、自分の永年私財と
なるのだから、当時の農民のモチベーションは
飛躍的に高まったはずです。

現在求められているのは、奈良時代の
墾田永年私財法にあたるような
社会の敷いたレール、に乗っているよりも
ベンチャーを起こした方が特かも、と思わせるような
法律でしょう。

2008年3月までの特例として
資本金1円でも株式会社を設立できる、という
法律が施行されたようですが、墾田永年私財法のラインで考えると、
評価できる法改正のように思ってしまいます。
ちなみに、墾田永年私財法、によって
それ以前の、公地公民、制度は壊れてしまったようです。
現代の官尊民卑から民尊官卑への流れと同じです。

永田町の変人、小泉首相が提唱する、構造改革、と
いうのは、巣鴨プリズン、に繋がる、土建国家、の
権力構造を壊して、墾田永年私財法、を施行します、という
ものかもしれません。
そして、官尊民卑、から、民尊官卑、へ至る。
小泉首相は、自民党をぶっ壊す、とさえ言っています。
族議員に代表される古い自民党は
土建国家の権力構造そのものなのだから
墾田永年私財法、を施行するなら
やはり壊してしまった方がいいと思ってしまいます。
自民党をぶっ壊す、という人が自民党の総裁なのだから
政界再編はもう少し続くかもしれません。

いろんな人がいろんな事を言っているような
気がしますが、僕は今のところ
小泉首相の下で、戦後日本の社会システム
つまり、土建国家、を、一旦解体していくしかないような気がします。
現在は首相や閣僚が代わったからと言って
2,3年で景気が回復する、といった
状況ではないようです。
小泉首相は、向こう3,4年の景気回復はない、と
言っていますが、そういうネガティブな
ことも言ってくれる政治家は
リップサービスばかりの政治家より
信頼できるような気がします。

これまでの自民党の首相は
大丈夫、大丈夫、と国民にリップサービスを
しておいて、実は全然大丈夫じゃない、という人が
多かった。森首相とか。

で、そういった戦後システム、土建国家、の根が
巣鴨プリズン、にあるのではないか、という
話なのです。歴史を変えてしまうような土地の力。
それはインターネットがいくら世界のプレイスレス化を
進めていっても残るような気がします。



-土地の持つ力(2)巣鴨プリズン-



土地の持つ力(3)へ続く

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関連 

  

  卵党総裁演説(1)~(3)
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  転換期を迎えた労働組合(4)
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 論理の方法―社会科学のためのモデル


土地の持つ力(1) 福生 2003.11.X 初出

土地の力。
ある種の土地の力。
これはインターネットがいくら世界のプレイスレス化を
進めていっても残るような気がしてしまいます。

福生。
これは、福生(ふっさ)と読むらしいです。
在日米軍の横田基地がある街です。
ここは村上龍さんのデビュー作、
限りなく透明に近いブルー、のモデルとなった
場所でもあると言われています。
そして最近、卵のなかみ、において
度々登場するブルーハーツという80年代に
一世を風靡したパンクバンドのギタリスト
マーシーこと真島昌利さんも、ここ福生(ふっさ)で
暮らしていたことがあるようです。

知り合いの画家さんの話では、
1960年代、70年代に、この福生(ふっさ)の街で
暮らしていた人達は、商売をするにしても
何をするにしても、とにかくスマートで
アカ抜けていた、との事です。

1960年代、70年代の福生には
いったい何があったのだろう……と
考えてみると、たぶんそこには、日米安保の矛盾や
べトナム反戦運動におけるヒッピー達の
フラワームーブメントであるとか、米兵相手に
演奏される、本物のロック、であるとか
その後の日本の文化状況を決定ずける様々な要素が
凝縮されて存在したのでしょう。

Zilchというバンドのボーカルhideは
神奈川県の横須賀市の出身でしたが
ここも米軍の基地のある街です。
ちなみに小泉首相もhideと同じく
神奈川県横須賀市の出身です。
小泉首相はよく、X-JAPANの曲を
テーマ曲に選びますが、同じ横須賀出身の
hideが、X-JAPANに所属していたのと
無縁ではないような気がします。

こうして見てくると
僕が、おっ、と、反応するのは
政治家にしても、文学者にしても
ミュージシャンにしても
みんな、基地の街に暮らしていた、という共通点があります。
ついでに僕は、沖縄ロックもかなり好きです。

じゃあ基地の街にはいったい何があるのか。
そこには、既に見てきたように、
日米安保の矛盾であるとか
べトナム反戦運動におけるヒッピー達の
フラワームーブメントであるとか
米兵相手に演奏される、本物のロック、であるとかが
むき出しで存在するのでしょう。
そして身近でそういった肉体性を持った、他者、を
見続ける事で、彼らが持ち込む魅力的な文化を吸収する一方で、
じゃあ、日本人として絶対に譲れないものは何なのだろう、とか、
国家って何だろう、とか、人間って何だろう、といった事を
自然に考えるようになるのかもしれません。
そういった作業を繰り返しているうちに
知り合いの画家さんが言っていたように
商売をするにしても、何をするにしても
スマートで、アカ抜けた、存在になっていくのだと
思ってしまいます。

福生(ふっさ)にいた村上龍さんが、
かつて、食、特に、米、に関して面白いことを書いていました。

私達は、アメリカのものを無抵抗に受け入れたが
御飯だけは捨てなかった。
それは米が、日本文化の象徴だからではなく
米がパンよりおいしいからだ
主食が米から小麦に移行してしまった国は
恐らくないと思う。
私達は、おいしいものだけは捨てないのだ。
(村上龍、世紀末を一人歩きするために、講談社)

同じく福生にいた、ブルーハーツのギタリスト
真島昌利さんは、RAW LIFE という
ソロの曲の中で

ド田舎の日本人でも、夜更けには納豆を食う
おっと自慢のTシャツに、醤油がかかっちまったぜ

と歌っていました。
食い物のことなど些細な事だと思われるかも
しれませんが、案外大事で
日本酒考にも書きましたが
その民族の特性は、食物に最も顕著に現れるわけです。
米、納豆、日本酒、は、好むにせよ、嫌悪するにせよ
福生のような基地の街でアメリカ文化を目の当たりにした時
どうしても考えさせられてしまうものなのでしょう。
僕たちはアメリカ人ではないのだから
死ぬまでロックするつもりなら
米・納豆・日本酒、の部分をなんとかしなきゃ
いけないわけです。

以上、福生、のような街に住んでいると
自然とそういった感覚が身につくのだろうなあ、と
いう話でした。

戦後のある時期までの、福生、には
独特の、土地の力、があったのでしょう。
そこに住むだけで自然に感化されてしまう、といった
ある種の土地の力。

そういった、土地の力、は
インターネットがいくら世界のプレイスレス化を
進めていっても残るだろうと思ってしまいます。


-土地の持つ力(1)福生-


土地の持つ力(2)へ続く

https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/11/2200311.html



関連
  

  小説とは何か(4)
https://digifactory-neo.blogspot.com/2012/09/4200310.html


限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1)

世紀末を一人歩きするために (講談社ニューハードカバー)


新嘗祭 2003.11.X 初出

今日は、勤労感謝の日、です。
三連休で笑いが止まらない、という方も
多いかと思います。

勤労感謝の日。
戦後、アメリカ合衆国の、labor thanksgiving day、を
参考にして、11月23日を、勤労感謝の日、としたようですが、
実はこの日は、宮中で行われる
新嘗祭(にいなめさい)の日でもあります。

新嘗祭(にいなめさい)というのは
その年の新穀を神に供えて祭り
神と供に天皇陛下が新穀を食する
つまり、嘗(な)める、日なのです。
だから、新嘗祭(にいなめさい)と言う。

明治の近代化で太陰太陽暦から太陽暦に暦を改めても
戦後アメリカ合衆国の占領を受けても
新嘗祭、を、さり気に、勤労感謝の日、として残してある。
心ある人がいたものだと思います。

日本人は弥生時代から農耕を行ってきたわけです。
日本酒考、にも書きましたが、その民族の特性は
食物に最も顕著に現れます。
つまり食物は民族の精神性にまで影響を与えるわけです。
だから日本人にとって、新嘗祭、は
とても大切だと僕は思います。

こういう事を考えると、経済の自由化交渉の席などで
世界中で農業分野の交渉が滞ってしまうのも理解できます。
食物の中でも特に主食となる穀物は
その国の文化と密接に繋がっているからです。
経済学の、比較優位、の原則に基づいて
日本よりタイの方が米を安く作れるのだから
日本は農業を辞めた方がいいのではないか、という議論では
どうしても済まされない部分があります。
西洋文化をいくら受け入れても
ほとんどの日本人は、ご飯、だけは捨てられないはずです。
僕の周りにも、パン食ではどうも気合が入らない、とか
ナンカレーが毎日ではちょっと、とか
ご飯を食べないと食事をとった気がしない、という
人は多いです。結構若い人にも。
そして、新米、には、今もブランドとしての価値があります。

先日、偽の新米表示が増えているらしい、という
ニュースがありましたが、新米、にブランドとしての
価値があることの証です。
偽グッチが増えているのと同じ心理だと思って
しまいます。

日本では新入社員を、新米、と言ったりしますが
おそらく炭水化物を小麦から採っている文化圏には
新入社員をさす、新米、にあたる言葉はないはずです。
フレッシュマン?
最近は、新米、を、フレッシュマン、と言うように
なりましたね。フレッシャーズフェア、とか。
新米商機、ではだめなのでしょうか。

少々話が逸れてしまいましたが
今日は勤労感謝の日であると同時に
新嘗祭の日でもあるのですよ、という話なのです。

近代の科学教は、ビタミンCの多い食物と
ビタミンAの多い食物の組み合わせが
どうこう、というレベルから
ついに、ビタミン自体をサプリメントで摂る、という
段階にきてしまいましたが
以前も書きましたように
科学は、ものごとの仕組み、を教えてくれても
その意味、は与えてくれません。
でも人類は、高度に発達した脳、や
もの思う心、を与えられています。
科学的に人体によい栄養素を採っているだけでは
心は満たされないような気がします。

あまりに栄養学的に偏った食事もどうかと
思いますが、栄養素ばかり気にして食べていて
そんなに、美味い、のでしょうか。
ビタミンCはストレスから人体を守ってくれるから
ビタミンCのタブレットを採る、と言う前に
そのストレスの対象をどうにかして
取り除くのが先ではないかと思うのですが
現代では、ビタミンCのタブレット、が
先に来てしまうのです。
それは昔の人が、ここの神社のお守りは学業にいい、とか、
ここの神社のお守りは交通安全にいい、と思っていたのと
同じ心理ではないかと思ってしまいます。
まさに科学教。

太陽の恵み、と、農家のみなさん、に感謝して
ふっくら炊けた新米を食べてみる。新嘗祭。
とてもいいではないか。新嘗祭。
せめて今日だけは、ビタミンの話、は忘れましょう。
今日は、新嘗祭、の日です。

♂♀生・性・聖、そしてその土地の風土が
文化を決定づけるような気がする。


-新嘗祭-







全てが趣味的になる 2003.11.X 初出

かつて村上龍さんが

日本社会では全てが趣味的になる

という趣旨の発言をされていたことがありましたが
僕はその言葉の意味するところがよくつかめませんでした。
読者の問題意識なり知識なりがある程度蓄積されて
こないと、その言葉の意味するところが
分からなかったりする事があります。

日本社会では全てが趣味的になる。

僕は、最近この言葉の意味が分かったような気がするのです。
僕も時々書いてしまうのですが
政治好き、とか、宗教好き、といった場合の
~好き、の部分を指して、村上龍さんは
全てが趣味的になる、と指摘されていたのでは
ないかと思い至ったのであります。

具体的に言えば、政治の話は人々の生活に
密接に結びついてくる話なので
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、といった
趣味嗜好の、~が好き、とは性質が異なる話なのです。

でも日本社会では、そういった人々の生活に
密接に絡んでくる、政治、に関する話題も
政治好き、という一つの趣味嗜好のジャンルに
なってしまいます。
本来誰もが関心を持たなければならないような
公共的な話題まで、~好き、という
単なる趣味嗜好の対象として扱われてしまう。
僕は外国の事情はよく分かりませんが
日本社会では確かにそうです。
全てが趣味的になってしまいます。

何故そうなってしまったのかと考えると
官僚主導による愚民化政策、護送船団方式、が
あまりにも長く続いてしまったために
多くの日本人に、お上(おかみ)がなんとかしてくれる、という
意識ができてしまったからではないかと思ってしまいます。

同世代の人に政治の話をしたりすると
そんなこと私たちが考えることじゃないよ、と
一蹴されてしまったりします。
そんな事私たちが考えることじゃないよ、という
意識の人が多くなってしまったので
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、というのと
同じレベルで、政治の話も、政治好き、という
趣味的な話題、となってしまっていたのかもしれません。
政治好きの若者、というと、なんだか他者性を
全く持てていない人達が集まって、内輪で盛り上がって
いるマニアやオタクの世界に思えてしまいます。

でも政治の話というのは本来
その人の世界観なり、信条なり、生活の利害なりが絡んでくる
センシティブな性質の話題なので、釣りが好き、とか、
キャンプが好き、とか、ホラー映画が好き、とか、
アイドルが好き、という趣味嗜好的な話題とは異なるはずなのです。

政治や宗教の話題は、ある種の場においては
タブーとなったりします。
結婚式や公共的なパーティーなどの席で
あまり込み入った政治の話や宗教の話を持ち出す人は
おかしいと思われるはずです。
そういった場においては、やはり
釣りが好き、とか、キャンプが好き、とか
ホラー映画が好き、とか、アイドルが好き、といった
趣味嗜好の話題が適切だと思ってしまいます。
モームスのメンバーで誰が一番好きか、という話題で
決定的に嫌悪な関係になる、という事はないと思います。
でも政治や宗教の話題は、下手したら
晴れの結婚式やパーティーの雰囲気を壊してしまうことがあります。

なんだか同じことばかり書くようですが
政治や宗教の話題というのは
趣味嗜好的、な話題ではないわけです。
なのに日本社会では、政治好き、とか、宗教好き、と
いった、趣味的な話題、とされてしまう。
まさに日本社会では全てが趣味的になる。

その原因は既に見てきたような
そんなこと私たちが考えることじゃないよ、という
お上意識の強い人が多い事に加えて
今までほとんどの日本人が、明らかにイスラム教徒だ、とか、
明らかにキリスト教徒だ、という、本質的な他者、と接する機会が
あまりなかったからではないかと思ってしまいます。

僕は日本人の知り合いの結婚式に参加した時
イカレタ中国人、をネタにした余興をしている
グループを見掛けましたが、たぶんこれからは
そういう事ができにくくなっていくと思います。
先日、中国の大学に留学していた日本人学生らによる余興が、
現地中国人学生の怒りをかってデモにまでいたった、という
ニュースがありましたが、今までの日本の感覚で行くと
そうなってしまうような気がします。
笑っていいとも、などの番組で
タモリさんの、ちょっとイカレタ中国人ネタ、などを見て
笑いながら育った世代の人には、中国人が何故そんなに怒るのか
理解できないような気がします。
ただ先日の現地中国人学生によるデモのニュースには
どうも中国当局が一枚絡んでいるのではないか、などと
いう話もあるので、なんとも言えないところですが。

右がかった人達には、なんでそんなに中国人の肩をもつのか、と
言われそうですが、僕は中国人の話をしているのではなくて、
本質的な他者、の話をしているのです。
官僚主導による、護送船団方式、の下での
一億総中流社会、では、明らかに政治信条が異なる、とか、
明らかに違う宗教を持っている、という
本質的な他者、と出会う機会はほとんどありませんでした。
みんなと一緒に人並みに、していればそれでよかったわけです。

でもグローバル化が凄い勢いで進んでいて
人や情報の交流が、かつてとは考えられないくらい
劇的に増えてきています。
仙台でも中国語や英語が飛び交うようになりました。
明らかに違う宗教を持っている、とか
明らかに自分達とは異なる信条を持っているだろう、という人達と
身近に暮らしていかなければならないわけです。
それに長引く不況で、かつてとは考えられないくらい
サバイバルの条件が厳しくなってきています。
目に見える形で生活にリスクが生じてこれば
よほど鈍い人でない限り、政治、に目を向けるでしょう。

そうなると、かつて村上龍さんが指摘したような
日本社会では全てが趣味的になる
(政治や宗教といった話題さえも)という文化潮流は
過去のものになっていくかもしれません。




-全てが趣味的になる-

想像力を摩滅させるもの(6)オケツ丸出しの現代社会 2003.11.X 初出

日本社会は前回見てきたような、キリスト教的意味での
倫理観は持っていなかったものの、礼儀作法、という
世界に誇れる文化があったような気がします。
たぶん日本人は、長い年月をかけて
自らのうちの、獣性・卑らしさ、つまり、ディオニュソス性、を
覆い隠す手段として、礼儀作法、を発展させてきたのではないかと
思ってしまいます。
その出発点はやはり、自らのうちの、獣性・卑しさ、に対する、
想像力、なのではないか、と。

礼儀正しい人、というのは
心のきれいな人、ではなくて
自らの持つ、卑しさ、を自覚できている人
なのではないかと思ってしまいます。
心のきれいな人、卑しさ、獣性を
全く持たない人は、成人男女には
おそらく一人もいないのではないかと思います。
たぶん、自らの持つ、獣性、卑しさ、を
自覚できている人と、自覚できていない人が
いるだけなのだと思ってしまいます。
自分で、聖人だ、などと名乗ってみせる人の
胡散臭さは、きっとその辺にあるのでしょう。

キリスト教の、キレイゴト、とも取れる
倫理観の下には、ギリシャの悦楽淫蕩の神
ディオニュソス、が隠れているのではないか、という
前回のニーチェの言葉からの推論に照らして考えれば
かつての日本人の礼儀正しさの下にも
やはり、ディオニュソス的な、逸楽淫蕩性、が
隠れていたような気がします。

洋の東西を問わず、人間であれば誰だって
時に血のしたたるサーロインステーキに
かぶりつきたくなる時もあるだろうし
アクロバチックな体位でセックスしたく
なる夜もあるでしょう。
それにどんな高尚な哲学を唱えてみたところで
定期的にふんばって糞(クソ)をしないと
全ての人間は死んでしまうのです。

その点では聖人偉人とて例外ではないでしょう。
キリスト教徒の方は面白くないかも
しれませんが、僕は、イエス・キリストも
たぶん糞をしたと思います。
仏教徒の方は面白くないかもしれませんが
やはりお釈迦様も糞をしたのではないかと
僕は思います。

そうだよ、そうだよ。
人間なんてしょせんみんな糞袋だよ。
しょせん糞袋なんだから
うまいもん食って
じゃんじゃん稼いで
バコバコセックスすればいいじゃないか
と、開き直ってオケツ丸出しになってしまったのが
現代社会であって
結果は見ての通りのように思います。

つまり、礼儀作法も戒めも捨てて
人間の持つ、獣性、ディオニュソス性、を
野放しにしてしまうと
社会は壊れてしまうのではないか、という事です。
昔の、想像力、ある聖人偉人達は
みんなそれを知っていたのではないかと思うわけです。
近代科学がどんどん明らかにしてしまっているように
人間の真実の姿、などは、もしかしたら
たいして綺麗なものではないのかもしれません。

戦後の日本社会は
有史以来初めて、と言っていいくらいの
基地を経由し、肉体性を持ったリアルな異文化として
アメリカ文化、というものと対面したため
それまでの礼儀作法を始めとした
日本社会の嘘っぱちの仮面を
剥ぎ取って見せるのが
文化の潮流、だったような気がします。
嘘っぱちの仮面を剥ぎ取ってみせる、
本音を言ってみせる、というのが、芸、となって
いたような気がします。
北野武さんなどは、そういった文化潮流の中で
どんどん社会の仮面を剥ぎ取ってみせて人気を博し
スターダムになっていった人のように思えますが
北野武さんは、想像力、のある方なので
たぶん今頃、ちょっと壊しすぎたかな、と
罪の意識を感じているかもしれません。
現代では誰もが、本音、を隠さなくなったので
本音を言って見せても、芸、にはならなかったりします。

これからはむしろそういった、破壊、のアプローチよりも、
建設、の時代ではないかと思ってしまいます。
僕は最近、建設的意見、や、正論、を吐いている人を見ると、
なんだか、過激、なことを言っているように感じてしまうのです。

親を大切に思いなさい!
人を殺してはいけません!

なんだか、過激、に、聞こえませんか。

でも、建設、の時代になるのでは、と言っても
昔の、礼儀作法、を復活させるという
方向ではないような気がします。
礼儀作法の、てにおは、というのは
結果に過ぎません。
てにおは、にこだわりすぎた礼儀作法は
礼儀正しすぎてかえって相手に対して失礼な
慇懃無礼、というものです。
なんだか同じことばかり書いているような気がしますが
倫理や礼儀作法の根底にあるのは、きっと
人間のどうしようもない造り、に対する
想像力、なのでしょう。

こんな時、こんなことしたら
相手はどう思うか、

相手は今、何を欲しているのか

今こんなことをするのは
もしかしたら恥ずかしいことなのではないのか

そういった、想像力、が
倫理や礼儀作法を生み出すのではないかと思います。
想像力、を働かせて、どうしようもない造り、を持った
人間の行動を、なんとか品のある行動にしようと
繰り返してきた事が、いつか、礼儀作法、と
なっていくのでしょう。だから、てにおは、は変わっていって当然です。
でも根底にある、想像力、がなくなったらもう終わりでしょう。

村上春樹さんの最新作、海辺のカフカ、では
何度も、想像力、というキーワードが
出ていましたが
絶対的真理などどこにもないこの世界で
獣性、をうちにかかえた人間が
独善に陥いることなく、愚行を減らしていくためには
想像力、をキープしていくしか
ないのではないかと思ってしまいます。
海辺のカフカ、では、日本社会が戦後五十年かけて
なくしたものは、想像力、なのだ、とさえ取れそうな
くらい、想像力、というキーワードが何度も出てきます。
そして村上春樹さんは、海辺のカフカ、の中で
マッカーサー元帥の話題にちょっと触れてみせてから
神社の石をひっくり返してみせて物語を完結させました。
海辺のカフカ、についてはまたいずれまた書きたいと思います。

と、長々と6回に渡って
想像力を摩滅させるもの、をキーワードに
書いてきましたが、人類の、想像力、が
摩滅してきているのは間違いないような気がします。
相手の、痛み、に対する、想像力、があれば
そこまで残酷にはなれないだろう、と思う事件事故が
最近非常に多いです。
そして権力の側も、治安の悪化に対しては、警察官の増員、
裁判件数の増加に対しては、弁護士の増員、と
すべてが対症療法的になってきていて
これもまた、想像力、があまり感じられなかったりします。
それでは、警察国家、へ一直線ですし、税金が増えるばかりです。
根底にあるのは、人心の荒廃、人の劣化
つまり、想像力の摩滅、ではないかと思ってしまいます。

人は城、人は石垣、人は堀、情は見方、仇は敵なり

戦国の名将、武田信玄の言葉です。
立派な城壁よりも、人、が大切だ、という信玄の
教えなのでしょう。実際武田氏は強かった。
日本が半世紀前、敗戦で国土が焼け跡になってしまっても、
奇跡の戦後復興を果たし、高度成長を経て
近代先進国家の仲間入りを果たせたのは
焼け跡にあっても、人、が、劣化していなかったから
ではないでしょうか。
まさに、人は城、人は石垣、人は堀、なのだな
と思ってしまいます。

ひるがえって現代は、どこの官庁も企業も学校も病院も
建物(城)だけは非常に立派ですが
そこに勤めている、人、はどうなのだろう、と
疑問に思ってしまいます。
人は城、人は石垣、人は堀、なのです。

訳の分からない事件ばかりが起きる
現代日本社会でありますが
僕は、想像力、をなんとかキープし
石垣、くらいにはなりたいな、と思うわけです。






-想像力を摩滅させるもの(完)-




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想像力を摩滅させるもの(5)ツァラトゥストラ的世界観 2003.11.X 初出

マリリン・マンソンVSニーチェのエッセイにも
書きましたが、ニーチェという哲学者は
19世紀のキリスト教社会にあって
神の死亡、を宣言し、徹底的にキリスト教と
戦って、最後は発狂した後
10年以上ベッドの上でノタ打ち回って
死んでしまった、という凄い人です。
そのニーチェは、発狂の寸前

第七天の歌を歌え、
ディオニソス=十字架に架けられた者

という謎の署名のある手紙を
友人に送っていたそうです。
まず、詩、として美しく、且つ、力強い一文だな、と
思ってしまいます。でも意味が全くつかめませんね。

第七天の歌を歌え。

これは、キリスト教世界の、神、を、完璧に近い形で
表現した、ダンテ、神曲、に出てくる
7段階の天国のうち、最も、神、に近いとされる天国
第七天国、のことでしょう。
だから、第七天の歌を歌え、というのは
至高の天国の歌を歌え、とか
神の歌を歌え、のような意味ととっていいような
気がします。あくまで大場訳ですが……。
(大長編小説であるダンテの神曲を
読み通すほど時間がない、という方で
それでも興味がある、という方は
永井豪さんという漫画家が、
見事に漫画化する事に成功した
漫画、ダンテ神曲、をお勧めします。
講談社漫画文庫から出ています。
2時間もあれば読めます)

では

ディオニュソス=十字架に架けられた者

の部分はどうか、となるわけですが
ディオニュソス、というのは
ギリシャ悲劇、バッコスの信女、に出てくる
悦楽淫蕩の神、ディオニュソス、のことであると考えられます。
つまり、ディオニュソス、とは、人間の持っている
悦楽淫蕩性のことをさしていると取ってよいかと思います。
そしてニーチェは、悦楽淫蕩神、ディオニュソス、が
イコール、十字架に架けられた者、であると
している。

十字架に架けられた者

これは間違いなくイエス・キリストのことでしょう。
となるとニーチェは、悦楽淫蕩性こそが、イエスの本質だ、と
言っているようにさえとれます。
これはキリスト教徒の方にとっては
ちょっと解せない、教祖を侮辱するような内容です。
やはり、ニーチェはキリスト教の敵だ、となってしまうのでしょうか。
人類の悦楽淫蕩の罪、を、イエスが一人背負って
十字架に架けられたのだ、ととれば
ある意味、原罪思想に基づいた、一般的な
聖書解釈となるのでしょうが
キリスト教と徹底的に戦っていたニーチェの
思想とは相容れません。
ニーチェは、ツァラトゥストラ、という著作において
原罪も天国も隣人愛も否定してみせたのです。
そのニーチェが発狂の寸前に

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

と書き残した。
これは本当に謎です。
第七天の歌を歌え、の部分などは
神を賛美しているようにさえ思えます。

僕はニーチェが最後に言いたかったのは
こうではなかったかと思う。
イエス・キリストは、実は悦楽淫蕩(ディオニュソス)な人間で、
悦楽淫蕩(ディオニュソス)の恐ろしさを
誰よりも知り尽くした人間だったからこそ
食欲・好色・金銭欲、といった
どうしようもない人間の子汚さ(ディオニュソス)を
自分の中に充分に抱えていたからこそ
そのアンチテーゼとして
人間の悦楽淫蕩性(ディオニュソス)を戒めるような

姦淫するな

であるとか

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ

であるとか

隣人を愛せ

といった、凡人には、無茶言うなよ、とも
思えるような教えを述べたのだ。
おお、イエスよ、十字架に架けられた者よ
あんたホントに大したもんだぜ。
2000年近く人類騙したけど
あんたの嘘は完璧だった。
参ったぜ、イエス……というのが
ニーチェの最後の言葉の意味ではないかと思います。
天国を否定し、地上の悦楽を肯定し
神にすがらせる教えは
社会的弱者の心理へのつけこみだ、と
次々と社会教会の嘘を暴いていったニーチェが
発狂の直前になって、実はイエスはそんな人間の
欺瞞性・悦楽淫蕩性など全てお見通しで
だからこそ、それに蓋をするような
教えを垂れていたのではないか、と思い至ったのでは
ないかと思います。
お釈迦様の手の平の上を駆け回る孫悟空、の喩えのようですが
ニーチェは一生をかけてキリスト教と戦い続けたのに
実はイエス・キリストの手の平の上を
駆け回っていただけだった、と気がついてしまったのでは
ないだろうかと思う。

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

これはニーチェのイエス・キリストに対する
敗北宣言ではないか、とさえ僕は思います。
ツァラトゥストラ、において
天国を否定し
地上の悦楽を肯定し
神の死亡を宣言してみせたニーチェが
最後は、第七天の歌を歌え、
つまり、至高の天国の歌を歌え、という
境地に至った。そして発狂した。
梅毒が脳に上がったせいだ、という話もありますが
ニーチェはプライドの高い人だったので
たぶん自分がそれまで築き上げてきた
ツァラトゥストラな世界観、が
壊れてしまうことに耐えられなかったのではないかと思う。

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

この詩的に美しく、且つ、力強くて
また謎めいているニーチェの最後の言葉は
一生をかけてキリスト教と戦い続けたニーチェの
イエスに対する敗北宣言なのではないか、と
いう話をまずしてきたわけですが
僕が今回言いたいのは、ニーチェが発見した!? ように、
キリスト教的価値観は、偽善的、とさえ思える文明を築き上げますが、
その根底にはギリシャの悦楽淫蕩の神、ディオニュソス、が
隠れているのではないか、という事です。
キリスト教の、偽善的、つまり、人間の現実を無視した
キレイゴト、とさえ取れそうな倫理観の高さは
人間のどうしようもない悦楽淫蕩性、ディオニュソス性に対する、
イエスの、想像力、からきているのではないかという事を言いたいわけです。

そしてニーチェの出た、19世紀後半あたりから
キリスト教世界においても、あまり、人間の悦楽淫蕩性、を
隠さなくなってきたような気がするなあ、という話なのです。
それはニーチェの、ツァラトゥストラ、に見られる
力への意思、地上の悦楽の肯定、食欲、性欲、金銭欲、の肯定、
天国の否定、超人思想、というメッセージが溢れてきたからではないかと
思うわけです。
つまりツァラトゥストラな世界観が溢れている。
ちなみにナチスドイツは、ニーチェの、ツァラトゥストラ、を
担いでいたと言われています。

現代はグローバルに情報が行きかうので
西洋世界の事情も他人事ではありません。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と
評していた思想家がいたのは記憶に
新しいところです。

でも僕は、ツァラトゥストラ、を書いたニーチェは
発狂の寸前になって、イエス・キリストに敗北し
天国を肯定したのではないか、と思うわけです。
それがニーチェの最後の言葉

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

の意味ではないかと思うわけです。




-想像力を摩滅させるもの(6)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/11/6200311.html

想像力を摩滅させるもの(4)アダルトビデオ 2003.11.X 初出

こうして書いてきてみると
人類の、想像力、を摩滅させるものは
映画やゲーム、テレビやCM、といった
広義の意味での、映像、なのではないかと
思えてきます。

20世紀は、映像の世紀、と呼ばれますが
よく考えると、19世紀には、映像、が
なかったわけですね。
人々が、映像、によって世界を知るように
なったのは、きっとフィルムや
テレビカメラの発達によってでしょう。
僕は自分が活字に関わろうとしているから
映像、を批判しているわけではなくて
どうヒイキ目に見ても、映像、は
人々の、想像力、を奪っているような気がします。

じゃあ19世紀以前の人々は
そんなに、想像力、があったのだろうか、と考えると
たぶん、あった、のだと思ってしまいます。
中世のキリスト教世界では、魔女狩り、という
恐ろしい私刑が行われていたようですが
ある人を、魔女だ、とまで思い込めるのは
想像力、によるものとしか考えられません。
そういう面では、20世紀に発達した、映像、は
無知による悲劇、を防ぐ役割を果たしている面も
あるように思います。知る権利は大切です。
北朝鮮の体制を崩すには
経済制裁を行ったりするよりも
韓国のTV映像を送り込んだ方が
いいのではないか、という人さえいます。

でも概して映像は楽です。
想像力、をあまり必要としません。
見たまんま、です。

見たまんまの映像、といえば
アダルトビデオ、俗に言う、エロビデオ、は
そのものずばり、です。
見たまんま、やってます、という感じです。

アダルトビデオ登場以前の
日活ロマンポルノ、などはまだ
本番シーンに持っていく前に
どうやって観客を興奮させようか、とか
どうやって本番してるように見せようか、という
工夫もあったのでしょうが
アダルトビデオ、はそのまんま
やってます、という感じです。
やっちゃってるので、想像力云々の話が
入りこむ余地がありません。

そしてその、やっちゃってる、アダルトビデオは
登場以来その内容が年々過激になるばかりで
成人男性である僕が観ても
何だか陰鬱な気分になってくるようなものが
増えていくばかりです。
現代はインターネットでアダルトビデオの
映像を簡単にダウンロードできてしまうので
こんなものを中学生くらいから観ている少年達は、
大人になったらいったいどんなセックスを
するようになるのだろう、と、老婆心ながら
心配になってきます。

僕は小学校の低学年の頃に、アダルトビデオ、なるものを
偶然見てしまったことがあったのですが
その時は気持ちが悪くなってしまったのを覚えています。
やはり子供にとって、アダルト情報、と呼ばれるものは
有害なのだと思ってしまいます。
子供がアダルトビデオを見ると、気持ちが悪くなる。
気持ちが悪くなる、つまりそれは、自然の摂理、なのです。
なのに現代では、アダルトビデオ、に限らず
エロ本はコンビニの明るい店内に堂々と置いてあるわ
家のポストにはアダルトグッズのチラシが
入っているわ、と、アダルト情報が溢れて
しまっています。
子供達にとってそういった情報は
気持ちが悪くなる、もののはずなのですが
どうして野放しになってしまっているのでしょう。
やはりマッカーサー元帥の、3S(セックス、スポーツ
スクリーン)政策で、日本人の、想像力、が
摩滅してしまったのだろうか、などと思ってしまいます。
アダルトビデオが出てきたのは確か
帝王こと、村西とおる監督が出てきた
1980年代くらいだったように思いますが
やはり80年代が日本文化が壊れる分岐点だったのかな
と思ってしまいます。

もちろんアダルトビデオが全て、悪、という
ことではないように思いますが
アダルトビデオが、性的なものに対する、想像力、を
摩滅させてしまっているのは間違いないでしょう。
ポルノ小説を、想像力、を働かせて読むより
アダルトビデオを観た方がずっと簡単に
性的興奮を得られるはずです。
そしてハリウッド映画やゲームやテレビと
同じで、想像力、を必要としない楽な行動を
繰り返していると、次第にその、想像力、が
摩滅していくのだと思ってしまいます。

その結果、多くの人の性的なものに対する、想像力、が
摩滅してきたので、ただ若い男女がセックスしているだけの映像では
金が取れなくなってきたのでしょう。
この場合も経済学における、限界効用逓減の法則、や
心理学における、マズローの欲求段階説、が
有効だったりするので、人間というのは全く困った造りをしているな、と
思ってしまいます。
限界効用逓減(ていげん)の法則、は、一杯目のビールは旨いが
二杯目以降はそんなに旨くはない、というものですが、
これがアダルトビデオにも適用されてしまうわけです。
つまり、もうただの若い男女のセックスは見飽きた、と
初期のアダルトビデオの限界効用が逓減し始めると
次は三人でセックスしている映像が見たい
四人でセックスしている映像が見たい……
痴漢・盗撮ものが観たい……強姦ものが観たい、と
いう需要が増えていって、アダルトビデオの内容が
年々過激化していく、という事になるわけです。

そして現在のアダルトビデオは、犯罪もの、と
呼べそうなものがほとんどになってしまった。
それらの、犯罪もの、も、あくまで、契約、に基づいた
企画、なのでしょうが
そういう映像ばかり観ていると、次第に
性的な犯罪にあった女性の、痛み、に対する
想像力、すら摩滅していくのではないか、と
思ってしまいます。
最近の日本社会では、セックス絡みの犯罪が
非常に増えているような気がしますが
アダルトビデオの、犯罪もの、が
その一因になっているのは間違いないような
気がします。

マルキ・ド・サド侯爵の、ソドムの百二十日、という
小説では、現在のアダルトビデオも真っ青の
すさまじい性行為が延々と繰り広げられています。
ちなみに、最近愛好者が増えたといわれる
SMプレイの、S、サディズム、は
サディスト、こと、サド侯爵、からきているようです。
ソドムの百二十日、というタイトルは
旧約聖書の世界で、堕落・淫蕩を繰り返し
神の怒りに触れて滅ぼされた、ソドムとゴモラの町、からきているのは
間違いないでしょう。

その、ソドムの百二十日、という小説においては
ちょっとここには書けないような
逸脱した性行為が、これでもか、これでもか、と
延々と繰り広げられていますが
そういった中で、人間の、獣性、を解放して
しまったらどうなってしまうのか
それを抑止するキリスト教の倫理観とは何か
やはりあまりに逸脱した性行為は
法律で取り締まるべきなのだろうか、といった
哲学的命題が発生してきます。
マルキ・ド・サド侯爵は
哲学的なことを考えろ、とは一行も
書いていませんが、余りに逸脱し過ぎた
性行為を延々と読まされると
どうしても、いろんな事を
考えてしまいます。
ソドムの百二十日、は、徹底的に逸脱した
性行為を描くことで、逆に倫理にいたって
しまっているのです。
万有引力の支配するこの地球上で
これ以上逸脱した性行為は不可能、という
究極のレベルに至っています。

でも現在のアダルトビデオのほとんどには
そういった思想性もなく
単に過激なだけ。

昔、阿部定事件という有名な事件があって、
その定(さだ)という情の濃い女性は
惚れた男のイチモツをチョン切ってしまった
そうです。
これは昭和初期に実際にあった事件なのですが
その阿部定事件をモデルとした映画などを
観ていると、うーん、と唸って
2.3日考え込まされてしまいます。

女性は怖いな

とか

あんまり女性をナメてると
手痛いしっぺ返しをくうのかな

とか

阿部定のような女性が
日本人女性の二十五%くらいになったら
きっとセクハラはなくなるだろうな

とか、色々と考えさせられます。
間違っても性的興奮は覚えません。

そういった阿部定の映画や
ソドムの百二十日、といった
小説を読んだりするのは
想像力、が要求されるので
非常に疲れます。
でもそういった疲れる作業によってしか
想像力、はキープできないのでは
ないかと思ったりします。

重苦しい映画を観たり
小説を読んだりするのは
とてもくたびれます。
わざわざ金払ってまで
重苦しい気分になりたくない、というのが
多くの人の本音でしょう。
僕だってそうです。
でも、想像力、を摩滅させるような
メディアに囲まれた現代社会にあって
人間にとって大切な、想像力、を
キープしていくためには
そういった、くたびれる作業、を
繰り返していくしかないような気が
します。

ソドムとゴモラ化してきたこの国が
滅びてしまわないことを祈ります。





-想像力の摩滅(5)へ続く-
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想像力を摩滅させるもの(3)TVの映像 2003.11.X 初出

僕が以前仙台駅前のある定食家さんで
ニラレバ定食を食べていた時でした。
急にサイレンが鳴り出して
消防車が何台も店の前を走り抜けていったのでありました。
なんだ、なんだ、と外が急に騒がしくなってきたので
僕は急いでニラレバ定食を食べて終えて
店の外へ出てみたのでありましたが
それは、火事、だったのです。

火が出ていたのは8階建てくらいのビルで
ハシゴ車から消防士がビルの中を
覗いていたりして大変なことに
なっていました。
ビルの周りには野次馬さん達が
瞬く間に集まってきました。
僕がニラレバ定食を食べていた定食屋さんの
レジ番さんも出てきました。
3日連続だよ、とレジ番さんは呟きました。
三日連続……放火なのだろうか、と
僕は思いました。
それにしても凄い野次馬の数です。

きっと火の出ているビルの当事者や
消防士さん達にとっては大変な
災難であって、できたら野次馬さん達には
帰ってもらった方が助かるのでしょうが
みなさん中々帰りません。
人間の、野次馬根性、というのは何なのだろう、と
僕はその時思いました。

僕が野次馬さん達の表情をチラチラと観察して
みたところでは、みなさんたいへん生き生きとした表情を
浮かべておりました。花火でも見るかのような、
極上のエンターテイメント映画でも見るかのような、表情でした。
本当は素知らぬ顔して通り過ぎてくれた方が
当事者にとっては助かるのでしょうが
みなさん喜悦の表情を浮かべたまま中々帰らないのです。
むしろ、もっと燃えて欲しい、と願っているようにも見えました。
そんな野次馬さん達の喜悦の表情を
消防車の赤色灯が、紅く照らし出しておりました。
それはとても、業深い光景、でした。

火事とケンカは江戸の華、という言葉も
聞いた事がありますし
他人の不幸は蜜の味、という言葉もあります。
何なのでしょう。
人間の野次馬根性というものは。
火事もケンカもハプニングも、他人の不幸も
自分の身には火の粉が降り掛かってこない、という前提があれば、
みんな極上のエンターテイメント映画でも
見るように、気悦の表情で楽しんでしまう。

きっと人間はそうできてしまっているのだと思います。
人間の造り、が、もともと野次馬を発生させるようにできている。
僕自身もしばらく火事の現場から帰りませんでした。
もちろんその火事で、僕に損害が及ぶわけでは
ありませんし、僕がそこにいたからといって
何ができるというわけでもない。
でももう少し観ていたい、と思ってしまった。
僕の中にも、野次馬根性、があるわけです。

たぶん、人間の造り、は
そうできてしまっているのだと思います。
人間の造り、がそうなってしまっているのだから
野次馬根性に訴えかけるワイドショーや
ゴシップ記事がなくなる事はないのかもしれません。

というわけで僕は、仙台駅前で火事の現場に
居合わせてみて、人間のどうしようもない
野次馬根性、を垣間見てしまったわけでありますが
そういった火事や事故などの
他人の不幸を楽しむ際の前提条件としては
たぶん、自分の身には火の粉が降り掛からない、という点が
最も重要なのだなという事にも気がつきました。
たぶん野次馬さん達のほとんどは、自分の身に火の粉が
降り掛かりそうになったら、一目散に逃げ去っていくはずです。
僕も仙台駅前で火事を見ていて
ハシゴ車が自分の側に倒れてきたりしたら
一目散に逃げ帰ったと思います。
野次馬さん達は、自分の身には火の粉が降りかからない、と思っているから、
喜悦の表情で他人の不幸を見ていられるわけです。

そういった構図というのは
たぶん人間である限り避けられない業なのだな、と思ってしまいます。
本当に人間というものは、どうしようもない造り、を
しているのだな、と思ってしまいます。
自分の身に火の粉が降りかかるかも、とか
当事者はジロジロ見られて迷惑しているだろうな、という、想像力、を、
人類の98パーセントが持つようになれば、ワイドショーやゴシップ記事が
なくなるのかも、と思ってしまいますが、たぶんそういう事は絶対に
ないと思うので、ワイドショー的なものや
ゴシップ記事的なものは形を変えて永遠に
再生産され続けるような気がしてしまいます。

大宅壮一さんという方が以前
テレビの普及を評して、一億総白痴化(註)、と評したそうですが、
もしかしたら、一億総野次馬化、がテレビではないか、と僕は今思いました。
テレビを見ている人達は基本的にどんな災害を映像で見ていても
自分の身には火の粉がかかるものではない、という事を知っています。
つまりテレビは全ての人を野次馬にしてしまうわけです。
一億総野次馬化、がテレビなのかもしれない。

そしてテレビで毎日世界中の大事件の、野次馬、になっていると、
だんだん人間の、想像力、が、摩滅していってしまうような気がします。
ベトナム戦争の時は、世界中の人々が、想像力、を働かせて
心を痛めて反戦運動を起こしたのに
湾岸戦争では戦争が、TVゲームのようだ、と評されるようになり
今回の911テロでは、ハリウッド映画のようだ、とさえ
言われるようになってしまいました。
そしてアフガン、イラクの戦争では
200人死にました、300人死にました、と言われても
あまりピンとこない人が増えてしまった。
僕だって偉そうな事は言えなくて
このエッセイで、アメリカ政府のネオコンの悪口を
たまに書くほかは、たいした行動を起こしていません。

これはちょっとヤバい事なのではないか、と
僕は自戒も含めて思ってしまいます。
人類の、想像力、が、どんどん摩滅していってしまって
そのうち、原子爆弾が落ちました、500万人死にました
あら大変でしたね、じゃ、ちょっとコンビニ行ってくるわ、
なんてことになるのでは、と思ってしまいます。

テレビの映像で、一億総野次馬化、の流れに
飲み込まれずに自分の、想像力、をキープして
おくには、活字を読む、というのは案外有効のように
思ってしまいます。
特に小説は、読者が、想像力、を働かせてくれないと
成立しません。
読者が、想像力、を発揮しなければならないので
小説を読むのは、テレビを見るよりも
ずっと大変です。疲れます。
でも、想像力、を働かせるのは
本来大変なことのはずなのです。
その大変な作業を繰り返している人は
実際の人生で大変なことに出会った時
想像力、を働かせて、上手く対処できるのでは
ないか、と思ったりします。




-想像力を摩滅させるもの(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/4200311_8.html



・註、知的障害者をさした、白痴、という言葉は
   現代では差別語にあたるかもしれませんが
   一億総白痴、という用語は
   言葉として定着してしまった感があるので
   そのままの形で使用しています。
   僕自身は、人類の中で唯一罪のない存在は
   知的障害者だ、と考えているので
   差別の意図は全くありません。

想像力を摩滅させるもの(2)半可な科学的知識 2003.11.X 初出

脳科学の分野では、人間、特に成人男性が
戦いや争いに勝つと、テストステロン、という
ホルモンが脳内に分泌されて性欲が高まる、という事が
明らかにされてきているようです。
そういう話を聞くと、人間というのは
まったく困った造りをしているな、と
思ってしまいます。
テストステロン、に限って考えてみれば
成人男性は、繁殖のために戦いや争いに勝つことを
宿命づけられているわけです。
まことに人間は困った造りをしているな、と
思わせられます。

成人男性とテストステロンの関係を簡単に言えば
落ち目の職場にいる旦那さんは
夜の性生活もご無沙汰になるし
仕事のできる旦那さんは、外に愛人を作って
中々家に帰ってこなくなる、という事になります。
確かにそういう傾向はあるような気がしますが
どうでしょう。

成人男性は、戦いや争いに勝つと
テストステロンが脳内に放出されて性欲が高まる。

女性は面白くないかもしれませんが
こと、テストステロン、だけに限って考えれば
英雄色を好む、という諺は、真実かもしれません。

成人男性の、男らしさ、は、テストステロン、から
きている。これに対して、成人女性の、女らしさ、は
エストロゲン、からきているとされているようです。
なんだかこうして書いてみると
実に味もそっけもない話ですが
以前にも書きましたが
科学は、物事の仕組み、を与えてくれても
その意味、は与えてくれません。
科学的に人間を見ていくと
どうしても、味もそっけもない話、になってしまうのです。

成人男性は脳内の、テストステロン、を高めるために
すぐに争いたがる。
なんでも、勝った、負けた、で判断してしまいがちなのは、
やはり男性の側でしょう。
そして戦いや争いに勝ったり
景気がよくなったりすると、すぐに成人男性は
外に女を作り始めたりする。
テストステロンの仕業だ、と言われればそれまでなのでしょう。
逆に成人女性は、どんなに論理的に生きようとしても
エストロゲン、によって、どうしても、女、になって
しまう部分がある。
性同一障害のような方を除けば
確かにそういった傾向はあるような気がします。

科学がそういった、人間のどうしようもない造り、を
どんどん明らかにしてしまっているので
その仕組みを逆手にとった安易な作りの映画や
ゲームやTVCMが溢れていますが
そういった、品のない、情報が
人心の荒廃、に一役買っているのは
間違いないような気がします。

そう、品がない、のです。
僕は、人間のどうしようもない造り、に
対して訴えかける情報は、基本的に
品がない、と思ってしまいます。
本当は誰だって本音を言えば
もっと食いたいし
もっとやりたいし
もっと欲しい、はずなのです。
そういったメッセージに対して
人間はどうしても反応してしまう。
でもそれを肯定して全面に押し出す事は
品がない、事なのではないかと思うわけです。

成人男性は、戦いや争いに勝つことで
脳内から、テストステロン、が放出されて性欲が高まる。
だから成人男性は、繁殖のために、戦いや争いに
勝ち続けるべきだ、というテーゼは
確かに一面の真理ではあるでしょう。
でもそういった成人男性の、科学的な真実の姿、を
肯定して生きるのは、品がない、のではないかと
思うわけです。
品がない。
つまり、洗練、されていないと思うのです。

♂♀生・性・聖、のエッセイにも書きましたが
人間の造り、なんていうのは
たぶん5000年の昔から
たいして変わりがないはずなのです。
それを、ソクラテスなりプラトンなり
孔子やイエスや仏陀といった
様々な聖人偉人が現れて
どうしようもない造り、を持った存在である
人間の生き方を、洗練、させてきたのだと思うのです。

争いや戦いに勝った成人男性が
脳内に、テストステロン、が大量に放出されて
次は女だ、となった時に
いやちょっと待てよ、イエスや仏陀は
確かこんな事を言っていたな、あんな事を
言っていたな、ソクラテスの一説に
こんなのがあったな、となるのが人間らしく
洗練された、品のある生き方、なのではないかと
思うのですが、どうなのでしょう。
そしてきっと、そういった時に働くのは
たぶん、想像力、なのではないかと思うわけです。

見事戦いや争いに勝利し
脳内に大量に放出された、テストステロン、によって
女、女、と、ギラついている獣のような自分の姿を
もしかして品のない行動なのではないだろうか、と
捉える感覚は、きっと、想像力、なのだと思うわけです。
知性、とも違うような気がします。
偏差値ではもちろんない。
たぶん、想像力、なのです。

人類は5000年の年月をかけて、想像力、を働かせ
獣の段階から生き方を、洗練、させてきたのに
近代の科学教は、その、洗練、を
どんどん剥ぎ取っていきます。
成人男性は、戦いや争いに勝つことで
脳内から、テストステロン、が放出されて性欲が高まる。
だから成人男性は、繁殖のために、戦いや争いに
勝ち続けるべきだ、というテーゼは
確かに一面の真理ではあります。
全くその通り。
落ち目の職場にいる旦那さんは
夜の性生活もご無沙汰になるし
仕事のできる旦那さんは
外に愛人を作って中々家に帰ってこなくなる。
確かにそういう傾向はあります。
テストステロン、の言うとおり。
全くその通りです。
でも、科学的にこうなんだよ、と言って開き直るのは
品がない、のではないかと僕は思うわけです。

最近うちの旦那がさあ、景気よすぎて
テストステロンの出がよくなったものだから
愛人のところに入り浸って帰ってこないのよ。

おお、ちょっとテストステロン出てきたから
女買ってくるわ。

そういう会話は、品がない、と思ってしまいますが
最近の世の中はそうなってきています。
人類は獣の段階に戻ってしまったのかな、とさえ
思えてきます。
たぶん人類の、想像力、が摩滅しているのでしょう。

おお、ちょっとテストステロン出てきたから
女買ってくるわ。

そういった会話からは、間違っても、ドラマ、は生まれません。
半可な科学的知識は、想像力、を摩滅させるような気がします。



-想像力を摩滅させるもの(3)へ続く-
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想像力を摩滅させるもの(1)ハリウッド映画 2003.11.X 初出

ハリウッドのアクション映画では
主人公以外はみんな死んでもいいのだ、とばかりに
どんどんエキストラが死んでいきます。
僕はその殺されるその他大勢の人達にも
それぞれ家族や恋人がいるのではないのか、などと
余計な心配してしまうのでありますが
それは、無粋な観賞の仕方、なのかもしれません。

観客が感情移入しているキャラクターが
どんどん敵を殺していくと
カタルシスを感じてしまう、というのは
きっと人間の性(さが)なのでしょう。
日本の時代劇などでも、悪い奴らが
どんどん切られていくシーンは中々爽快だったりします。
でもほんのちょっとだけ
あっ、今倒れた悪役の一人にも
奥さんや子供や、幸福な少年時代があったのかな、と
想像力が発生する余地があってもよいような
気もします。

アクションムービーでなくても
バイオハザードのようなゲームで
モンスターを次々と倒していくときも
結構爽快だったりします。
人間というものはどうしようもないもので
そういった、攻撃性、を
誰もが自らのうちに抱えてしまっているものなのでしょう。
そして時に、攻撃、や、暴力、に
爽快感を感じてしまったりする。
だから日常の鬱憤を晴らしてくれる
娯楽、としてのアクションムービーには
それなりの存在意義があるのでしょう。
でも僕はやはり、あ、今倒れた悪役の一人にも
奥さんや子供や、幸福な少年時代があったのでは……と
想像力、が発生する余地がほしいと思う。

ある映画監督が以前、ハリウッド映画には痛みがない、と
発言されていましたが、ハリウッドの痛快アクションムービーには
まさに痛快すぎて、人が死ぬ事に対する痛みが全くないのです。
痛みに対する、想像力、が働く余地すらもありません。
むしろ人が死ぬ事に、快、が感じられるように作られています。
それはある意味、洗練、なのかもしれませんが
人が死ぬことに対する、痛み、を感じさせないように
プロットなり映像を、洗練、させていくのは
あまり好ましくないような気がします。
水戸黄門、くらいがギリギリのような気がする。

911テロが、ハリウッド映画のようだ、と
評されていたのは、記憶に新しいところです。
ハリウッド映画には、痛みがない。
痛み、に対する、想像力、が発生する余地もありません。
そしてその、ハリウッド映画、を大量に観て育った僕は
911テロの映像を見た時やはり、ハリウッド映画のようだ、と
思ってしまいました。
つまりその、痛み、を、想像、することができなかった。
僕の、想像力、は、かなり摩滅していたわけです。
それはたぶん、ハリウッド映画、をたくさん観て
育ったことと無縁ではないような気がします。
ハリウッド映画には痛みがない。
痛み、に対する、想像力、が発生する余地もないのです。


-想像力を摩滅させるもの(2)へ続く-
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7%理論(4)コミュニケーションの危機 2003.11.X 初出

先日のニュースで
日本シリーズのTV視聴率が
九州と関西で40%超! という
非常に苦しい記事がありました。

九州と関西で、と区切っているところが
非常に苦しいわけです。
ほんのちょっと前までは
九州と関西で、と区切る必要はなかったわけです。
視聴率40%超! とやれば

どうだ、日本人の半分近くが見たんだぞ、
どうだ、凄いだろ
おらおら、これを見ないと、非国民、扱いされちゃうぞ
このネタは絶対外せないよ
視聴率40%超!

と、できたわけです。

でも、九州と関西で40%超、と区切っているという事は
四国と東北では15パーセントかもしれません。
北海道では、10パーセントを切っているかも
しれません。となると、仙台に住んでいる僕としては
別に見なくていいのかな、となってしまいます。

もう、日本人全て、を相手にした
マス・マーケティングは成立しないだろうし
黄金の7%理論も通用しないだろうし
90年代のようなメガヒットも出てこないのでしょう。
最近何度か、このエッセイで書いていますが
これはやはり、明治以来の画一的中央集権化の
流れの終焉、なのかもしれません。
これは大変な事です。

何が大変か、と言えば
日本人の基本的なコミュニケーション方法が
変わってしまうからです。

僕が学生の頃は、若者達の新しいスポーツ!
スノーボード! 今一番イケてるスノーボード!
というメガヒットが仕掛けられていたので
スノーボードが、新し物好きの若者達のまず7%にまで
普及し、当時僕の交友関係にあった
13~14人の友人達の中にも
スキー派よりもボード派が増え始め
そろそろデカいのが来るな……あ、やばい、と
思った僕は、急いで友人から
中古のスノーボードを譲ってもらい
夏油(げとう)高原スキー場や
泉が岳に出かけて、今一番イケてる若者、してたのですが、
そういったコミュニケーションが
成立しなくなっていくのです。

僕はボードを覚えたおかげで、学生時代
バイト先で初対面の同世代の人に会っても
この前行ったボードの話、を持ち出す事で
とりあえずの円滑なコミュニケーションを
計ることができましたが
7%理論の崩壊、メガヒットの終焉で
そういったコミュニケーションが成立しなく
なっていくのです。
これは大変なことです。

今これが流行ですよ、とか
今もっともこれがイケてますよ、という
情報は、明らかに減り始めています。
既に見てきたように、7%理論の崩壊で
もうメガヒットは出てきそうにありません。

お父さんのためのワイドショー講座、で
ワイドショーネタを仕入れて
J―POPのランキングからカラオケで使えそうな
曲を覚えおいて、今時こうだよね、俺たちみんな
普通の日本人だもんね、こんなんも知らないのは
やばいよね、といった形で一体感を確認する、という
コミュニケーションがこれから成立しにくく
なっていくのです。
これは大変なことです。
誤解されると困りますが、僕はそういった
コミュニケーションが、人として劣っている、とか
下らない、と高をくくっているわけではありません。
僕はカラオケは好きではありませんが、かなり上手いです。
ボードもそんなに好きではありませんが
それなりに上手いのです。
ただそういったコミュニケーションが通用しない場面が
どんどん増えていくことは大変なことだな、という事を
言いたいわけです。

こういった7%理論崩壊後の世界で
発狂することなく、自分のアイデンティーを
確立していくためには、きっと、個人的趣味、を
持たなければならないのだと思うのですが
これが悩ましいことに、ほとんどの日本人は
1940年体制以来、60年以上集団主義で
やってきているので、
個人的趣味、を持とうとすると
マジョリティ(多数派)の側から
オタク、とか、マニア、と馬鹿にされるのではないか
という不安感を抱えていたりします。

そういったコミュニケーションの不全感に堪えられず
もっとみんなで盛り上がれるような
分かりやすい物語を提供してほしい、という層が増えていけばきっと、
ファシズム、全体主義、が生まれるのでしょう。
でもこれまた悩ましい事に、権力の側が、大手メディアを使って、
ファシズム、全体主義、に持って行こうとしても、
その大手メディアを支える7%理論が通用しなくなってきているのです。
テレビがない時代には、五人組、と呼ばれる
隣近所の監視装置を利用して権力の側が全体主義に
持っていこうとしたようですが、現在は隣近所も崩壊しています。
僕は隣りに誰が住んでいるのか知りません。
一つファシズムの方法として考えられるのは
公権力がインターネットの言論空間に介入することですが、
困ったことに、インターネットは、
WWW(ワールドワイドウェブ)なのです。
つまり国境を越えて世界中の人が見ているわけです。
自由で民主的な国家であるはずの日本政府が
インターネット上の言論空間に介入することは
できないのです。

僕はマスメディアの振りまく情報から
うまい事逃げ回って生き延びてきたので
いいのですが、みんな一緒だよね、でしか
コミュニケーションできなくなってしまった人達は
大変なストレスを抱えているはずです。
そのやり場のないストレスが
訳の分からない事件となって
頻発しているような気がします。

そういった事件を目にして
パソコンやデジタル機器のせいで
最近の若者達のコミュニケーション能力が
落ちている、と嘆く年配の方もいますが 
別の視点として、インターネットやデジタル機器で
大手メディアの7%理論が崩壊してしまって
みんな一緒だよね、と確認できるネタが
どんどん減ってきているので
昔よりずっとコミュニケーションが難しくなって
きている、とも捉える事ができるのではないかと
思ったりします。
むしろ、昨日の巨人がさ、といった形でしか
コミュニケーションできない年配の方々の方が
総じてコミュニケーション能力は低いのではないか、と
さえ僕は思ったりします。
それにあと10年もすれば、最近の若い人達は、とか
年配の方々は、という形でのコミュニケーションも
若い人達や年配の方々が多様化していくだろうと
考えられるので、成立しなくなっていくのでしょう。
世代論もそのうち意味をなさなくなるでしょう。
これはコミュニケーションの危機です。
日本中で、話通じねえよ、という悲鳴が
上がっているような気がします。

これからはおそらく、ワイドショーネタや
日本シリーズや、スノーボードや、カラオケなどで
一緒だよね、と確認しならがらコミュニケーションを
始めるのではなく、あなたと私は、お互い尊重すべき
人格を持った存在ですよね、私は~が好きですが
あなたは何が好きですか、といった大変遠まわしな
コミュニケーションになっていくのだと思います。

私とあなたは、お互い尊重すべき人格を持った
存在ですよね、私は~が好きですけど
あなたは何が好きですか、といった形の
コミュニケーションは、みんな一緒だよね、といった
ところから始まるコミュニケーションよりも
非常に疲れますが、それ以外にないような気がします。

だってもう、黄金の7%理論、は
通用しないのですから。



-7%理論(完)-



 


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7%理論(3)マス・マーケティングの危機 2003.11.X 初出

今では日本人の必須となってしまった感すらある
パーソナルコンピュータ、PC、いわゆる
パソコンも、ほんの5.6年前までは
オタク趣味、とされるような雰囲気が
残っていました。

パソコンやデジタル機器は、
格好いい、セクシーだ、という雰囲気になったのは
パソコンやデジタル機器のTVCMに
木村拓也さんや藤原紀香さん
或いは、サッカーの中田英寿選手であるとか
高倉健さんなどが出演するようになってからです。

それはおそらく広告会社の努力によって
パソコンやデジタル機器が
まず全消費者のうち7%にまで普及し(この層を
昔は、新し物好き、と言っていたような気がします)
それに伴って、その、新し物好き、が手にしている
パソコンやデジタル機器を
それぞれの交友関係にある13~14人の
人々が目にして、おっ、と思ったので
パソコンやデジタル機器は
日本人の91~98パーセントが知っている
或いは、持っている、メガヒット商品、と
なったのだと思います。
今では、パソコンやデジタル機器を
オタク趣味、という人はいないでしょう。

と、この辺までは、戦後日本の繁栄を
支えてきた大量生産・大量消費のもとでの
マス・マーケティングの方程式
黄金の7%理論でカバーできたのですが
その後大変なことが起きてしまったのです。

インターネットに接続された
パソコンやデジタル機器は
個人ベースでの情報発信を可能にして
しまったので、メガヒットを作り出す
大手にとってはおいしい、黄金の7%理論、の構造が
壊れてしまったのです。

つまり、情報の発信源を支配して
消費者を囲い込んでおいた上で
新し物好きの7%にまず持たせ
その口コミで91~98%の人が知るような
メガヒット商品に持っていく、という手法が
通じなくなってしまったのです。

僕の感覚では、ここ2、3年
メガヒット、が全く登場していないような
気がしますがどうでしょう。
(あ、ハリーポッター、がありましたね
次は、卵のなかみ、です、フフフ……)

そしてインターネットは加入者が
増えれば増えるほど、価値観の多様化、を
進めていきます。
たぶん、マス・マーケティング、は
もう復活しないような気がします。

自分で自分の首を絞めるような商品を
大手企業や広告会社は、黄金の7%理論を
用いて普及させてしまったわけです。



-7%理論(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/4200311.html

7%理論(2)TVCM  2003.11.X 初出

マス・マーケティングには
こういった7%理論以外にも
いろんな複雑怪奇なシステムや
金になる話が潜んでいるので
テレビ番組のCM枠には
とんでもない額のお金が集まることになるわけです。
そうなると、TV番組の制作サイドとしては
青少年に与える悪影響など全く考えずに
視聴率が取れそうな番組ばかり作る、という事に
なります。

最近も、某テレビ局の職員が
視聴率サンプル世帯に現金を配って
視聴率を買収していた、なんてニュースが
ありましたが、
一件買収するのに、100万円以上の金が
動いていたとの事です。凄いですね。
僕もTV視聴率モニターになって
100万円ゲットしたいぜ! と思ってしまうような
信じられない額ですが
何百万円払って視聴率を何パーセントか
買収したとしても、それが後に
何千万円となって跳ね返ってくる仕組みが
あるのだから買う人が出てくるのも当然ですね。

黄金の7%理論が待っているのです。
広告掲載企業は、なんとか全消費者の
7%にまで商品を普及させるべく
視聴率の高い番組を追い回しています。
番組の趣旨に賛同して、という企業は
きっと少数派でしょう。

見事全消費者のうち7%にまで
商品を普及させる事に成功し
なんと91~98%の消費者が知っている
或いは、持っている、という、メガヒット商品、を
生み出せれば、何百万円や数千万円の広告代など
全く惜しくないわけです。



-7%理論(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/3200311.html

7%理論(1)黄金の7%理論 2003.11.1 初出

7%理論。

かつて、博○堂、や、電○、といった
広告会社が花形産業で
いわゆる、マス・マーケティングが機能していた頃、
どこで聞いたか忘れてしまいましたが
7%理論というものがありました。

7%理論。
つまり、その商品を全消費者のうち
7パーセントにまで普及させることに
成功すれば、あとは爆発的なメガヒットまで
もうすぐだ、というやつです。

消費者が100人いたとして
どうしてそのうち7人が
メガヒットを生み出す分岐点なのか。
その計算はこうです。

一人の人間の交友関係は
だいたい13~14人。
読者のみなさんも、自分に置き換えて
考えてもらいたいのですが
俺、友達が少ないんだ、という
寂しい人でも、最近社会問題化している
ひきこもり状態でもなければ
日常的につきあいのある人が
10人くらいはいるはずです。
逆に、私、友達がとても多いのよ、という
いわゆる、顔の広い人、でも
日常的につきあいのある人は
せいぜい20人くらいでしょう。

となると、消費者一人あたりの
交友関係は、平均すると
13~14人というあたりに落ち着くらしいのです。

で、7パーセント理論が出てくるわけですが
消費者100人のうち、7人がその商品を
持っていれば、その7人の交友関係にある
13~14人の人も、間接的にその商品の存在を
知ることになります。つまり(ちょっと算数)

7×13=91
7×14=98

で、ご名答。
全消費者100人のうち
7人にまでその商品を普及させれば
その交友関係にある13~14人の人達にも
その商品の存在が知れ渡るので
行く行くは、91~98%の消費者が知っている
メガヒット誕生、となるわけです。

その分岐点が、7%。
7%理論。



-7%理論(2)へ続く-
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