2003年7月1日火曜日

お釈迦様の手のひらの上を駆け回っている孫悟空 其の三 西洋近代思想と仏教唯識論 2003.7.X

西洋の近代哲学はその後、フロイトやユングという
学者が、我思う故に我あり、の下には実は
潜在意識や集合的無意識という世界もあるのだ、という
事を発見していきます。
それらはいかにも世紀の大発見として
書かれる場合が多いのですが
仏教の唯識論はずっと昔に
我思う故に我あり、に対応する六識の下には
フロイトの潜在意識に対応する未那識(まなしき)があり、
ユングの集合的無意識に対応する阿頼耶識(あらやしき)があるのだとしています。
それを知り合いの画家さんに話してみたら
人間の心の構造なんて昔からそんなに変わらないんだぜ、と言われてしまいました。
確かにその通りかもしれません。

人間の心の構造なんてお釈迦様の昔からそんなに変わらなくて、
違っているように見えるのは
吹き込まれた情報や、育った環境の違いによるのかも
しれません。それとほんのちょっとのDNAの違い。

世代間のすれ違いも異文化間のすれ違いも
それは吹き込まれた情報や育った環境や
ほんのちょっとのDNAの違いであって、みんな人間なのだから、
心の基本的な構造はそんなに変わらないのかもしれません。

そうなると教育ってやっぱり大切だな、となります。
それとメディアの役割も大切だな、と。

現代の子供達の心が壊れているのなら
それは子供達の心に吹き込まれる情報や
子供達が住んでいる環境が壊れている、という事になります。
それでなければ子供達のDNAがちょっと壊れているとか!?
だって人間の心の構造なんてお釈迦様の昔から
そんなに変わらないのだから。
詩人の相田みつをさんの、人間だもの、は名言です。
ちなみに相田みつをさんは仏法を学んでいたらしい……なんたる事だ。

僕はこのエッセイで何度も仏教の唯識論は凄い、と
書いていますが、別に仏教関係者からマージンを
頂いているとか、突っ込んで仏教の
勉強をしたというわけではありません。
ただ仏教の思想体系というものを
ちょっとかじってみただけでも
そこには近代科学や近代哲学の発見とされるものが
既にあったりして、単純に感嘆してしまうわけです。
なんだそんな昔から知られていたのか、と。
そしてその頂点に立つお釈迦様というお人は
いったい何者だったのだろう、と。

近代というのは産業社会の生産性を
飛躍的に高めて人々の生活を
豊かにしてきたので
どうしても人類史の中で最も素晴らしい
特権的な時代なのだ、と評価されがちですが
本当にそうなのだろうか、と僕は思ってしまうわけです。

僕達はお釈迦様の手のひらの上を
駆け回っている孫悟空に過ぎないのでは
ないだろうか、と。

-お釈迦様の手のひらの上を
 駆け回っている孫悟空-(完)

お釈迦様の手のひらの上を駆け回っている孫悟空 其の二 コギトと六識 2003.7.X 初出

人間が世界を認識する時、最も重要なものは
六識のうち、意識、である。
それを近代的な言い方で表現したのが
デカルトという哲学者の
我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)なのでは
ないか、と最近僕は考えています。
デカルトというのは近代哲学の祖と呼ばれる人で
教科書などにもよく登場します。
我思う故に我あり。
なんだそんなの誰でも言えるじゃないか、何が
偉そうに近代哲学の祖だ、と思ってしまいますが
何が凄いのでしょう。

僕は哲学研究者ではないので
あまり詳しい事は分からないのですが
たぶん、我思う故に我あり、とする事で
個人の責任の主体を明確にしたところが
凄いのでは、と思ったりします。
我思う故に我あり、という個人の主体というものが
確かに存在するのだと仮定しなければ
近代社会は成立しません。
つまり私有財産制も選挙も
契約も成り立たない。
極端な例を出せば、裁判官が
凶悪犯罪者のあなたを死刑にします
と判決を言い渡そうとしても
その凶悪犯罪者の、あなた、が、我思う故に我あり、という主体を
持っていなければ判決を言い渡せないという事。

容疑者が犯行時心神耗弱状態にあった可能性が
あるため刑を科すことができないかもしれません、と
いうニュースが流れて、なんたる事だ、そんなのありか、と
思わされることがありますが
それは、あなたは重大な罪を犯したので死刑です、と
判決を言い渡したくても、わたしは誰、ここは何処、という問いすら成り立たない、〇△◇$☆……という心神耗弱状態の人には、私、とか、あなた、という
個人の主体も存在しないという事になるので、判決を言い渡したくても言い渡せない、ということなのだと思います。
個人の主体を持っていない人には犯行の責任も問えない。
つまり犯行時心神耗弱状態であったため云々という
報道の背後には、デカルトの、我思う故に我あり、という文脈が見え隠れします。
そう考えるとコギトを打ち立てたデカルトは凄いのかもしれません。
やはり近代の祖です。

凄い言葉だ。
我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)

デカルトはあらゆる事象を疑っていって(方法的懐疑)
でも、そう考えたり疑ったりしている私がいる、と
いう事だけは間違いないな、という事で
我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)を
打ち立てたのだそうです。

ちなみに僕は、デカルトのコギトは凄い言葉だぞ、と
言う方に会った事があります。
その方は元ヒッピーで、インドでLSDをキメながら
デカルトのコギトを思ったという異色の方です。

LSDという薬物をキメると、人間の五官の認識力が
狂ってしまうそうです。
具体的には目の前の食べ物が30メートルのオブジェに
見えたり、そこにはいないはずの動物の鳴き声が
聞こえてくるとの事。
それでその方はLSDでトリップして五官の認識力がグチャグチャに
なっている状態で、デカルトの、我思う故に我あり、を思ったそうなのです。
つまり五官の認識力が狂ってしまって世界は
わけが分からなくなっているけれども
その中で、私がものを思っているという事だけは確かだな、と。
我思う故に我あり、これだけは間違いない、と。

僕はその話を聞いたとき
LSDをキメている状態で哲学するなんて
ずいぶん凄い方だなあ、と感心してしまいました。
ある意味その方は近代哲学の祖デカルトと
同じくらい偉いかも、と。でもデカルトはLSDを
使ったわけがないので(LSDは1940年代に発見)
やはりデカルトの方が偉いのだな、とも。

でもでもやっぱりお釈迦様はもっと偉いのだな、と僕は思いました。
つまり近代よりずっと昔に人間の世界認識は
五官に、意、を加えて六識なのだ、としている。
意、というのはつまり、我思う故に我あり、という個人の主体の事だと思います。
それが重要なのだ、とデカルトよりずっと以前にお釈迦様は明らかにしている。

それに今気がついたのですが
意識する
認識する
という漢字の、識、という文字は
仏教の唯識論の、識、からきているのではないでしょうか。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
凄いぞ……お釈迦様。

僕達はあなたの手のひらの上で
駆け回っている孫悟空にすぎないのですか?



其の三 西洋近代思想と仏教唯識論へ続く
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お釈迦様の手のひらの上を駆け回っている孫悟空 其の一 五官と六識 2003.7.X 初出

人間の五官はなんといい加減なものなのだろう、と
思う事があります。
本当に僕達はちゃんと世界を見ているのかな、と。

例えば視覚。
仙台スタジアムでサッカーを見ている時
僕はボールの動きや中心選手の動きに視覚をフォーカスしていて、
ほとんどの場合フォーカスしていない部分は
背景として切り捨てています。
そして切り捨てた部分は記憶に残っていません。
聴覚にしても、街を歩いている時
全ての音を聞いているかと言ったらそんな事はなくて
フォーカスしていない音は切り捨てています。
そしてストリートミュージシャンがギターを弾いて
いたら、数限りなくある音の中から
ギターの音にフォーカスし、聞き取る。

同じ事は嗅覚も
味覚にも
触覚にも
言えるのではないでしょうか。
つまり、フォーカスする、意識する、という事が
大切で、五官が常に世界を正確に認識している
わけではない。
気がつかなかった、という言い方に
端的に現れるように
どんな高級料理を食べていても
どんなに汚いものに触れていても
気がつかなかった、という事
つまり五官をフォーカスしていなかった
という事だけで、その経験の意味性は
半減してしまいます。
言い換えれば
えっ、さっき食べたのそんな高級料理だったの?
えっ、さっき触ってたのそんなに汚いものだったの?
となると、どんな高級料理も汚いものも
意味がないのではないか、という事です。

要は人間にとって五官(眼・耳・鼻・舌・身)が
フォーカスする対象を決定する、意識、が最も大事で
それによって始めて世界を認識できるのだ、という
事だと思うのですが
そう考えると、五官に、意識、を加えて
六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)とした
仏教の唯識論は凄いな、と僕は思うわけです。
仏教はフォーカスする、意、も含めて
やっと世界を認識できるのだ、とする。

考えてみると確かに、五官(眼・耳・鼻・舌・身)は
正常でも、意識が壊れてしまったら
私は誰、ここは何処、のいわゆる
心神耗弱の状態になってしまうわけです。
裁判などで問題になる心神耗弱状態という場合
たぶんもっとひどくて、私は誰、ここは何処、という
問いすら立てることができず、〇△◇$☆……という状態なのだと思います。
僕はそういう○△◇$☆……状態の人と会ったことがありますが
本当に世界をまともに認識できていませんでした。

人間が世界を認識する時、最も重要なものは
六識のうち、意識だ、と言えるかもしれません。



其の二 コギトと六識へ続く
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僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!? 2003.7.X 初出

しばらく前になりますが
福岡の死体遺棄事件でクローズアップされた
新興宗教の女性教祖が
押しかけた報道陣に対し
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と叫んでいる
映像が流れた事がありました。
なんたる事だ、と思われた方も多かったと
思うのですが、僕も、なんたる事だ、と
思った一人でした。

いったい何がどうなって彼女は
私は仏だぞ、と思うように至ったのでしょうか。
今日はその辺を考えてみたいと思います。

精神病理学では
自分が仏である、とか
自分こそがイエスの生まれ変わりである、という妄想を
抱えてしまう症状を、メサイア・コンプレックス(救世主妄想)と
呼んでいるようです。
そして何故か、メサイア・コンプレックスの症状を発生する人の割合は、
日本で突出して多いとの事。
確かに新興宗教が雨後のタケノコのように
次々と出てくるという国は、日本しかないような気がします。
それは日本各地にある神社の造りと関係している
のではないか、と僕は最近睨んでいるのですが
それは今日の本題ではありません。

僕はそういった精神病理学をかじった事があったので
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と押しかけた報道陣に対し
叫んでいる女性教祖を見て
あ、この人はメサイア・コンプレックスにかかって
いるかもしれないな、と思ったわけです。

実は僕もメサイア・コンプレックスを
発症しそうになった事があります。

三年程前の事です。
当時いた会社がずいぶんヒドイ会社で
週100時間労働が何ヶ月も続いていました。
(ちなみに法定は週40時間です)
労働基準監督署に訴えてやろうかな、と
毎日思いつめながらも僕は心身ともにフラフラの状態で
働いていたのですが、ある日ヘロヘロになりながら
電気のついていない一人暮らしのアパートに帰って
ソファーに倒れこんだ時、出てしまったのです。
見てはいけないものが。

なんと、ソフトクリームが部屋中を飛び回って
いたのです。

僕は始め何が起こっているのか理解できませんでした。
ソフトクリームが目の前で空中を旋回しているのです。
どうせネタだろう、と、読者の方は思われるかも
しれませんが、僕は確かにその時
部屋中を飛び回るソフトクリームを見たのです。
これはホントの話です。

そして僕は
やや、ついに来たか
ソフトクリームの神が僕に啓示を下したのだ、と
興奮しました。
僕は、ソフトクリーム教の教祖であるぞ! と。

でも精神病理学的には、その辺りが人間が精神的に
壊れてしまう一歩手前の状態のようです。
空中を旋回するソフトクリームを見ている自分を
客観視できるだけの知識を持っていたので
僕はメサイア・コンプレックスに陥らずに済みましたが
まかり間違えば僕も、TVカメラに向かって
僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!
僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!
と叫んで、人々を困惑させていたかもしれません。
危ないところでした。

伝統的な仏教においては
そういった人間が極限状態に追い込まれた時に
発生する幻覚・幻聴に対しても
厳しい戒めを持っているようです。

いわく、仏に会ったら仏を殺せ。

つまり激しい修行で
仏様や観音様の幻覚・幻聴が生じても
それらに惑わされてはいけない、と。
むしろ、幻覚で仏様が出現したら
その仏様をやりでつき殺せ、と
教えているようです。

人間が精神的、肉体的に追い込まれると
幻覚を生じる、などという事は常識中の常識で
そんな事くらいで自分が特別な人間になったとか
自分が仏になった、などとは思っては
いけないのだそうです。

伝統的な仏教の教えによれば
僕は部屋中を飛び回っているソフトクリームを
見た時、やや、ソフトクリームの神が僕に啓示を
下したのだ、などと興奮せずに
飛び回るソフトクリームを
平然とやりで突き殺さねば
ならなかった事になります。
ソフトクリームに会ったら
ソフトクリームを殺せ! です。

で、最初の話に戻るのですが
押しかけた報道陣に対し
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と
叫んで人々を驚かせた女性教祖も
実は人知れず苦労が重なって
精神的、肉体的に追い込まれた挙句
仏様の幻覚を生じてメサイア・コンプレックスに
陥ってしまった哀れな一女性、と言えるのかも
しれません。あくまで僕も推測ですが。

青森県の恐山というところに
イタコ、と呼ばれる女性霊能者が
たくさんいるそうです。
そしてイタコになる人には不幸な女性が
多いらしいとの事。
昔は目の見えない女性がイタコになっていた
そうです。
そして先輩イタコについて激しい修行を積み
一人前のイタコになる。
その呼び寄せる霊が本物かどうかという問題は
さて置き、そういったプロセスやノウハウを
もっている世界では、メサイア・コンプレックスを
発症し、私は仏だぞ、と飛躍してしまう
人は出てこないような気がします。

伝統的な仏教にしても、青森のイタコにしても
沖縄のユタ・ノロにしても
昔の人はうまい具合に人間のもつ危険な面を処理して
社会に取り込んでいたのだな、と僕は感心してしまいます。
それとそういった知恵をなくしてしまった
近代以降の社会というのは、やはりもろいものなのかな、と、
あやうくソフトクリーム教を始めそうになった僕は思ったりするわけです。

これからも新興宗教が社会と摩擦を起こす、と
いう光景を何度も見せられる事になるのでしょう。

嗚呼、ナムサン、ナムサン……。




僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!?

怪獣考-やはり芥川龍之介は凄い- 2003.7.X 初出

中国と韓国の国境の湖で約20頭の怪獣が
目撃されました、というニュースが最近ありました。
複数の観光客が目撃したそうです。
一部では、ドラゴンではないか、と
盛り上がっています。
ちなみにネス湖のネッシーは嘘だったという話です。
さて今回は本物なのだろうか。
僕はちょっと興味があります。

僕の友人に、UFOを見た、と言って
譲らない人がいるのですが
僕が、嘘だろう、と言うと
ホントだって、一緒にいた友人も
見たんだから、と言い張ります。
一緒にいた友人も見たんだから、という
ところに妙な説得力があります。

怪獣にしてもUFOにしても
そういった怪異なものを複数の人が同時に見ると
いう体験とは何なのだろう。
きっと当事者達にとっては事実なのだろう、と
僕は思います。
だって見たのは自分一人ではないという事なのだから。
でも何か腑に落ちません。
何だろう、何だろう……と考えた僕は
芥川龍之介の、その名も、竜、という短編を思い出しました。

ある法師が、○月○日に湖から竜が昇る、と
ホラを吹いて湖の前に立て札を立ててみたところ
無知で無垢な村の衆がそれを信じてしまい、竜が
昇る、というその日に湖の周りに多くの人が集まって
しまった、という話。そして、竜が昇る、とホラを仕込んだ
当の法師も今さらホラだとも言えなくて
湖の周りの様子を見ていたところ
突然雨が降り始め、神鳴りが落ち、どうしたと
思ったところ、湖から竜が現れ、天空に昇って
いってしまったとの事。そして、竜が昇る、という
ホラを仕込んだ法師もぶったまげたとさ、という話。

芥川自身は駄作だとしていたようですが
僕はそんなことはないのでは、と今思いました。
UFO問題やネッシー問題の本質が
よく表れている普遍的な小説のように思います。
芥川龍之介は大正時代に既に
UFO問題もネッシー問題も
予見していたのではないか、と。
やはり芥川龍之介は凄い、と
僕は思いました。

怪獣、いたりして。


怪獣考-やはり芥川龍之介は凄い-

石の話 2003.7.X 初出

スタンリー・キューブリック監督の映画
2001年宇宙の旅では、人類が種として進化を
迎えるときに必ずモノリスと呼ばれる
黒石版が登場します。
失われたアークとかモーゼの石版とかが
モデルなのでしょうが、本当に西洋人は
そういう話が好きだなあ、と思ってしまいます。
実は僕も相当好きです。

いったい人類にとって石とは何なのだろう。

最近村上春樹さんの新作
海辺のカフカ、を読んだのですが
(大ヒットしているので読まれた方も
多いかと思います)これも石の話です。
狂い始めた世界が、神社で拾ってきた石を
ひっくり返す事で正常に戻り、物語は
完結します。
神社と石、村上春樹さんは何を伝えようと
しているのだろう、と僕は勘ぐってみました。

折口信夫という国学者の、古代研究、という本の中に
石が成長する話について言及している箇所があります。
それによると
拾ってきた石が家に帰り着くまでに
大きくなってしまった話や
祠に祭った石が一晩で大きくなって
祠を突き破ったという話が
数限りなく古代日本にはあったのだそうです。

吉本隆明さん(吉本ばななさんのお父さん)によれば
日本の神社には元々社殿などなくて
石や木を御神体として祭り、そこに鳥居を立てていただけだった、との事。

神社と石、村上春樹さんは何を伝えようと
しているのだろう。

僕自身も神道に興味があって
創立は定かでなく西暦806年に再建された、という
結構な由緒ある神社に行った事があるのですが
その神社で

静かなる
日のさす苔にうずまりて
平たき石は
朝(より?)乾く

という詩が刻まれた石碑を見ました。
これも神社と石です。
黒江太郎という斉藤茂吉と交流のあった
文人が残したものらしいのですが
神社と石、そして苔。
僕は何かに似てるなあ、とその石碑を
目にした時思ったのですが
それは何かと論争の耐えない日本の国歌、君が代、で
した。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで

いったい神社と石というのは日本人にとって
何なのだろう。
そして人類にとって石とは何なのだろう。
神、人、石。

海辺のカフカ、では、神社で拾ってきた石を
ひっくり返すことで世界が正常に戻ります。
村上春樹さんは何を伝えようとしているのだろう。
僕は勘ぐっています。
ある種の石には人間の精神に影響を与える力が
あるという事なのだろうか。
女の人は総じて、この石を持っていると
恋愛運が上がります、とか
あの石を持つと金銭運がつきます、という話が
好きですが、ああいった話もまんざら嘘でもないと
いう事なのだろうか。

新聞などで最近の社会面の事件を見ていると
あまりにも異常で、あまりにも殺伐としていて
僕は近くの神社から石を拾ってきて
ひっくり返せば全てが解決し
世界が正常に戻るのかな、などと妄想してしまいます。
神社と石。
人類と石。
神、人、石。
石って何だ?


-石の話-

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)

古代研究〈2〉祝詞の発生 (中公クラシックス)

古代研究〈3〉国文学の発生 (中公クラシックス)

超戦争論 上

超戦争論 下



八木山動物園(5)猿はシェークスピアを書かない 2003.7.X 初出

人間社会は所詮猿山と変わらぬヒエラルキー構造に過ぎないのか、
そして人類は、猿から分離した単なる一動物種に過ぎないのか、と、
僕は八木山動物園のお猿さんコーナーの前で暗澹たる思いに
打ちひしがれていました。

でも僕はその時ある一つの事に気がついたのです。
猿山には本がない。お猿さんは本を読まないのです。
何を当たり前の事を、と思われるかもしれませんが
お猿さん達が猿山というヒエラルキー構造社会を形成する時、
理念なりイデオロギーなり共同幻想なりを
必要としない、という事に僕は気がついたのです。
つまりお猿さんは、古事記も日本書紀も
マルキシズムもコーランも新約聖書も旧約聖書も
企業約款も企業定款も合衆国憲法も日本国憲法も必要としないのです。
力の強い者が群れをまとめる。
ただそれだけ。
人間と猿や多くの動物達との違いは
きっとそこにあるのだ、と僕は思いました。

人間は猿ではないので
力が強いというだけではヒエラルキー構造を維持できなくて、
理念なりイデオロギーなり共同幻想なりを設定できないと、
その構造はすぐ壊れてしまう。
ここが猿山と人間社会の決定的違いだ、と
思いました。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
絶対にそうだ。

日本の歴史を見てみても、多くの場合
武力統一しただけでは支配者になる事は
できなくて
朝廷によってその正当性を保証してもらうことで
初めてヒエラルキー構造の頂点に立つことを
許されてきたように思います。

最近では世界最強の軍事力を誇る
アメリカ政府が掲げる、正義、というものの
理念が、どうも自国の利権に絡んだウサン臭い
ものらしいという事が明らかになり始め
アメリカ政府が世界の警察官として
君臨する事に嫌悪感を持つ人々が増えてきました。

猿山と人間社会のヒエラルキー構造の最大の違いは
きっとそこにあるのだ。
力が強いというだけではヒエラルキー構造の頂点に
立ち続けることはできなくて
人間がヒエラルキー構造を
形成する時最も大切なのは
その理念なりイデオロギーなり
共同幻想なりを提供する、言葉、なのだと。
言葉なのだ、きっと言葉なのだ。

かつてお猿さんに延々とタイプライターを打たせると
いう実験をした人がいたそうです。
お猿さんに延々とタイプライターを打たせて
そこにシェイクスピアの一節が浮き上がる
確立というのを計算すると、それは限りなく、0、に近く、
それは地球上に人類が誕生する確立と
同じくらい難しい事なのだそうです。
つまり猿はシェークスピアを書かないのです。
ダーウィンの進化論は部分的に的を
得たところがあっても
すぐそれが所詮人類は動物と一緒だ、という
ことにはならないのだと思います。
猿はシェークスピアを書かないし
猿はシェークスピアを読めないし
猿はシェークスピアを必要としていないのです。

人間の人間たる所以は、言葉、にあるような気がします。
初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。この言は、初めに神と共にあった
という聖書の有名な一説は真実なのではないか、と
僕は八木山動物園のお猿さんコーナーの前で
思いました。

僕は人類が類人猿や猿から決別する時
造物主の強烈な一発があったような気がして
仕方がありません。
造物主の強烈な一発によって
言葉や知性を獲得し、人類は獣の段階を脱した。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
絶対にそうだ。

ブルーハーツが、世界の真ん中で、という曲の中で
歌っていたように
きっと、歴史が始まる前、人は獣だったのだ。

じゃあどうして造物主は
知的障害者という言語や知性の弱い存在を
一定の割合で人間社会に発生するように
設定したのだろう、これは僕の小説のテーマの
一つです。
僕の小説のテーマもだいぶすっきりしてまいりました。
八木山動物園でキリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さんを観てホントに良かったと僕は思いました。

そんなキリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さんを気軽に見に行ける動物園が
身近にあるなんてやっぱり仙台は
素晴らしい街だな、と僕は思います。

小説に限らなくても企画のアイデアや
人間関係のトラブルなどで行き詰まってしまった時
人間社会の中だけでもがいていては見えない視点を
キリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さん達は示してくれる事があります。
しかも思いもしない角度から。

今度の週末はぜひ八木山動物園へ
行ってみましょう。


-八木山動物園-(完)

八木山動物園(4)お猿さんのムフフ 2003.7.X 初出

猿山は中々よくできたヒエラルキー構造社会だな、と
感心しながらお猿さん達を観察していた僕は
お尻が紅くなって腫れ上がっている猿が
結構いるのに気がつきました。
たぶん発情期を迎えたメス猿達です。

僕が八木山動物園で何度か目にしたところでは
お猿さんに限らず多くの動物達は
基本的に立ちバックの体位で性交を行うようです。
人間はお互いを見つめあって性交する体位を、正常位、と呼んでいますが、
基本的に立ちバックという動物界のトレンドの中では、人間の、正常位、と
いう性交方法は、かなり異常な行為なのではないかと思いました。

人間が、正常位、の体位で交わるようになったのは
きっと、二足歩行を始めた事と関係があるのだと思います。
ものの本によると、二足歩行を始めた人類の女性は
次第にセックスアピールをお尻から胸に移していったとの事。
つまりDカップだ、Fカップだと言って大騒ぎしたり
下着メーカーが競って胸を大きく見せるブラの開発に
いそしむ、という現在の風潮の起源は
人類が二足歩行を始めた瞬間にある、と言えます。

発情してお尻を紅く腫れ上がらせているメス猿達を
見ながら、いかに人類は合理的に進化してきたものか
と僕は感心してしまいました。
二足歩行を始めてセックスアピールが
お尻から胸に移ったので向かい合って性交する
ようになった。実に合理的です。
やはりダーウィンの進化論は正しいのだろうか。
つまり人類は地球でサバイバルするために
現在の形に進化しただけで、そこに造物主の
介在する余地などなかったのか、と。


八木山動物園(5)へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/520037_7.html

八木山動物園(3)猿山 2003.7.X 初出

ライオンさんやトラさんにバイバイした僕は
お猿さんのいるコーナーに来ていました。

お猿さん達は猿山を形成していました。
猿山はボス猿さんを頂点とするヒエラルキー構造
を持っているようです。
ちなみにヒエラルキー構造というのは
ピラミッド型の階層社会のことです。

人間社会も様々なヒエラルキー構造によって
成り立っています。
事務総長さんを頂点とする国際連合。
大統領さんを頂点とするアメリカ合衆国。
総理大臣さんを頂点とする近代国家日本。
社長さんやCEOさんを頂点とする株式会社。
知事さんを頂点とする地方自治体。
昔は父親さんを頂点とする家父長制度というものも
ありました。

僕は猿山を観察する事で人間社会に有為な
考察を得られるのではないか、と胸が躍りました。
ヒエラルキーを形成しないと社会を維持できなく
なるのはたぶんお猿さんも人間も一緒です。
チンパンジーと人間の遺伝子は1パーセントしか
違わないという話もあります。

でも多くの人は、猿みたいだ、と言われると
怒ります。虎の如く、や、ライオンのように、という
のは褒め言葉でも、猿のようだ、は
ちょっと侮辱のニュアンスがあります。
人間はなぜ猿に譬えられると怒るのだろう。
それは自分達が猿達と決別し、人間としての道を
歩み始めた太古の記憶が呼び覚まされるからかもしれません。
だから、猿みたいだ、と言われると
あんなずっと昔に決別したダサい連中と
一緒にしてくれるな、と感情的になってしまう。

閑話休題。
猿山を注意深く観察していると
周辺以下の地域で猿同士がばったり出くわした時
ウッ……
ウッ……
という感じでお互いの力量を計り
あ、負けた……
と思った方が自然に道を譲るようです。
それでたまに
ウッ……
ウッ……
で分かり合えないとケンカが始まります。
すると猿山の上の方にいる強そうな
猿がノソノソ出てきて
ウウウッ……
と双方威嚇し、丸く治めて猿山のヒエラルキー構造を回復します。
僕はなんだか自民党の族議員と呼ばれる先生達を
見ているようで、なんとも嫌な気分になってしまいました。
ウウウッ……。

でも猿山の上の方にいる強そうな猿達には
なんとなく威厳がありました。
ゆったりしていて余裕があります。
そして猿山のふもとでは
かわいらしい小猿を母性にあふれた母猿が
見守っていたりします。
僕は猿山というのは中々よくできた
ヒエラルキー構造社会だな、と思いました。


八木山動物園(4)へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/420037_7.html

八木山動物園(2)ボブ・サッチンもライオンさんやトラさんには勝てない 2003.7.X 初出

キリンさんにバイバイした僕は
ライオンさんやトラさんのいるコーナーに
来ました。

僕はとりあえず一番強そうなライオンさんと
睨めっこしてみました。
睨めっこしましょ、笑ったら負けよ、アップップ。

ガオ~ッ。

おっ、さすが百獣の王ライオンさん。
凄い迫力です。
でも先にライオンさんが吠えたので
睨めっこは僕の勝ち。

でも百獣の王を檻に閉じ込めて
観察して楽しめるようにしてしまう
人間の知性というのは本当に凄いな、と
僕は思いました。

たぶん素手でケンカしたら
きっとどんな人間でもライオンさんや
トラさんには勝てないはずです。
最近ボブ・サップさんという人間離れした
格闘家が人気を博していますが
たぶんボブ・サップさんでも
八木山動物園のライオンさんトラさんコーナーに
放り込まれたら死んでしまうような気がします。

猛毒や牙を持たない人間は思考を最大の武器として
地上の王者になった。
誰の言葉か忘れてしまいましたが
言いえて妙です。
猛毒や牙を持たない人間にとって
最大の武器は思考なのかもしれない、などと
考えながら僕はライオンさんやトラさんに
バイバイし、お猿さんのいるコーナーに
向かいました。


八木山動物園(3)へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320037_7.html

八木山動物園(1)キリンさんの首は長い 2003.7.X 初出

八木山動物園についにアフリカ園ができたと
いう事で、僕もさっそく出かけてみました。

これは凄い。

僕はアフリカ園に入った瞬間びっくりして
しまいました。
キリンさんがいたのです。
キリンさんです。
なんと日本の仙台市青葉区で僕はキリンさんを
観てしまったのです。

どうやって運んできたのだろう、と
僕はまず不思議に思いました。
それとキリンさんはどこに住んでいたのだろう、と。

アフリカ園なので、たぶんキリンさんはアフリカに住んでいたのだと思います。
それでキリンさんはとても首が長いので
飛行機は無理なような気がするので
たぶん船で仙台まで来たのだと思います。
長旅お疲れ様でしたキリンさん。

キリンさんは高い木になった木の実を食べていました。
そういう光景を見ると、キリンさんは
高いところにある食物を食べてサバイバルするために
首が長くなってしまったのかな、と思ってしまいます。
つまりダーウィンの適者生存、進化論は正しいのかな、と。

もしかしたら人間も、サバイバルの過程で
二足歩行を始め、道具を使う事を覚え
次第に頭脳が発達し、体毛が薄くなり
言語を発達させ現在の形に至ったのかな、と
思ってしまいます。
つまり人類は地球でサバイバルするために
現在の形に進化しただけで
そこに造物主の介在する余地など
なかったのかな、と。

そんな事を考えながら僕はキリンさんに
バイバイし、ライオンさんトラさんのいる
コーナーに向かいました。


八木山動物園(2)へ続
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220037_7.html

ベクトル 2003.7.X 初出

というわけで先日僕は知り合いの画家さんと
いったいこれからの世界はどうなっていくのだ
ろうと話をしていたのですが
例によっていつの間にやら取っ組み合いの激論に
至ってしまい、双方相譲らぬ激闘の末に
これからの世界のベクトルは重厚長大から軽薄短小に
向かっていくんだな、という点でなんとか合意し
二人で肩を組んで沈む夕陽を指差したのであります。

重厚長大から軽薄短小へ

双方相譲らぬ激闘の末に獲得したこのコピーは
中々時代を捉えたコピーだな、と思います。
広告会社へ売ったら結構な金になるかも? などとも
思ってしまいます。

重厚長大から軽薄短小へ

でも現時点ではこんなコピーがついた商品が
あっても誰も買わないかもしれない、とも。
軽薄短小というとどうしてもネガティブな
ニュアンスがあるし、あの人は軽薄短小な人だね
というのはどことなく馬鹿にしたニュアンスが
あります。重厚長大な人だ、という方が
褒めている気がする。
でもそれは、異邦人と文化催眠、のエッセイでも
書いたように、もしかしたら重厚長大なものの方が
軽薄短小なものより優れている、という
文化催眠にかかっているのかもしれない、と僕は思いました。

まず産業について考えてみると
かつての花形産業だった造船、鉄鋼といった
重厚長大型産業は頭打ち、若しくは衰退へ向かい始め
これからはIT技術、ナノテクノロジーなどの
軽薄短小型の産業が花形になると言われています。
そして造船・鉄鋼のような重厚長大型産業は
発展する程大きくなりますが
IT技術やナノテクノロジーのような
軽薄短小型の産業は逆に発展する程
小さくなっていく。
基幹産業は少なくとも重厚長大から軽薄短小へ
向かっていると言えます。

企業はどうか、と考えてみると
かつては会社は大きければ大きいほど
つまり重厚長大な企業ほどよしとされ
中小企業、零細企業というと、なんとなく吹けば飛ぶ
ような軽薄短小なイメージがありました。
でも最近では大きければ潰れないという神話は
崩壊し始めていますし、世界有数のメガバンクの行員の
ボーナスがゼロだったりします。
何より余りにも重厚長大な企業には、この変化の早い時代にあって
大き過ぎて小回りが効かない、という難点があります。
アメリカでは従業員数19人以下の零細企業群が
全輸出高の50パーセントを占めるように
なってきている、というショッキングなデータもあります。
僕も、大きいことは良いことだ、と教育されてきた
世代なのでちょっと信じられませんが
企業も重厚長大から軽薄短小へ向かっている、と
言えるのかもしれません。

じゃあ文化の面ではどうだろう、と
考えてみると
かつては文学やクラシック音楽といった
重厚長大な文化がメインカルチャーだったのに
現在ではアニメやポップミュージックという
軽薄短小な文化がメインカルチャーに
なっています(誤解されると困りますが、それは
アニメやポップミュージックが下らないという
意味での軽薄短小ではありませんのであしからず)
文学やクラシック音楽といった重厚長大型の
文化は、発展する程重々しくなっていきますが
アニメやポップミュージックの軽薄短小型の文化は
発展する程軽々しく、つまりポップになっていきます。

もしかしたら宇宙がインフレーション期から
デフレーション期にでも入ったかのように
98~2002年を境にして、あらゆる分野の
ベクトルが重厚長大から軽薄短小へ
向かい始めたのかもしれないね、という事で
僕はなんとか知り合いの画家さんと合意し
二人で肩を組んで沈む夕陽を指差したのであります。

重厚長大から軽薄短小へというコピーで
くくりきれない分野でも
ベクトルの方向が逆になった
分野は非常に多いような気がします。

詰め込み教育からゆとり教育へ
年功序列からエイジレスへ
ジェネラリストからスペシャリストへ
農耕民型社会から狩猟民型社会へ
集団主義から個人主義へ
大きな政府から小さな政府へ
東京一極集中から地方分権へ
官尊民卑から民尊官卑へ
企業による顧客の囲い込みから
顧客による企業の選別へ……etc.
もしかしたら、今まで親や教師や偉い人達に
教えられてきた事、見てきた事や聞いた事
今まで覚えたこと全部の逆をやれば
成功できる時代なのかな、などと
僕は知り合いの画家さんと肩を組んで
沈む夕陽を指差しながら思ったのであります。


-ベクトル-

千と千尋の神隠しとトンネル体験 2003.7.X 初出

宮崎駿監督の千と千尋の神隠しが
大ヒットしてアカデミー賞も受賞して
しまったという事で、僕もミーイズムを
発揮して観てみたのですが
うん、やっぱり凄いと思ってしまいました。

千と千尋の神隠しというアニメは
中産階級の核家族というどこでもありそうな
家族が、夫の転勤?で山間地をドライブして
いるシーンから始まります。
そしてちょっと車を停めたところに
古びたトンネルがあり、そこをくぐっていくところから
物語が始まります。
トンネルを抜けるとそこは異次元空間で
主人公の千尋が八百万の神に混じって
様々な経験を積んで、ちょっぴり大人に
なってからもう一度トンネルをくぐり抜けて
現実の世界に戻ってくる。
いわゆる中世日本で多く語り継がれた
神隠し譚の現代版です。

トンネルを抜けるとそこに別世界がある。

恐ろしや、川端康成のエッセイにも書きましたが
僕は、トンネルを抜けるとそこに別世界がある、と
いうのは、誕生や死に対して誰もが深層意識にもっているイメージの原型を
刺激するような気がするのです。
つまり、国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった、という一文と
千尋がトンネルをくぐりぬけるとそこに
八百万の神の世界があった、というのは
同じ構図で、どちらも母親の胎内から
産道のトンネルをくぐり抜けてこの世に生を受ける
人の誕生と、トンネルを抜けて花畑や天使のいる世界に
出て行く臨死体験のイメージが思い起こされる
なあ、と。

そしてどんなに政治体制が違っても
生活習慣が違っても、卵から産まれたり
する人類はいないわけなので
川端康成の、雪国、や
宮崎駿監督の、千と千尋の神隠し、は
外国でも広く受け入れられ
高く評価されるのではないか、と
勘ぐってみたわけです。

もちろん、雪国、も、千と千尋の神隠し、も
オリエンタルなものに対する西洋人の
興味を満足させる内容だ、という要素も
あるかもしれません。
でもトンネル体験は人種を超えています。
だって卵から産まれる人類はいないのだから。
うん、きっとそうだ。
たぶんそうだ。
絶対にそうだ。

人類のイメージの原型としてのトンネル体験。

母親の胎内から産道というトンネルを
くぐってこの世にくる。
そして暗いトンネルをくぐって
花畑があり天使やご先祖様のいるあの世へ行く。
人の誕生と死に共通するトンネル体験。
きっとそこには何かあるのだ。

人工授精で代理出産するにしても
ラエリアン・ムーブメントの
クローン人間にしても
女性の胎内を借りて
トンネルをくぐってこなければ
人間は誕生できません。

逆に臨死体験においても
トンネルの先に別世界があるというのは
全世界共通であるらしく
生前の信条により花畑や光の世界に
いるのがイエスだったり、ご先祖様だったり
閻魔様だったりするだけで
基本的なパターンは変わらないとの事。

卵から産まれる人類はいないので
みんなトンネルをくぐってこの世に
来たのだ。そしてトンネルをくぐって
またどこかにに行く。

どこから来てどこへ行くかは分からない。
なのに来てしまった。
どっかに行かなければならないはずなのに
どこへ行ったらいいのか分からない。
人に聞いても教えてくれない。
なのに、もの思う脳や心は与えられている。
人類とは全く困った存在だ。
それを仏教では
独生独死独去独来という格好いい言葉で
表現しています。

暴走族はいろんな漢字を戦闘服に
刺繍し、トラック野郎はいろんな漢字の
コピーを車体にペイントしていますが
仏教の、独生独死独去独来、には
ちょっとかなわないのではないでしょうか。
はっきり言って格好よすぎる。
それとも、独生独死独去独来、を格好いいと
思ってしまう僕の感性に問題があるのでしょうか。
人生とは、独生独死独去独来、で
人と人との間を人間(じんかん)と言う。

僕はちょっと分かってきたような気がします。
人間はトンネルをくぐって
独生独死独去独来な世界にデビューし
そこで、すったもんだがあった後
なんだかよく分からないまま
またトンネルをくぐってどっかに行く。

人生五十年、下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり。
ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか(敦盛)

うーん全くその通り。
それはどんな時代どんな場所でも変わらない
人類普遍の姿なのだ、と。

そんな人類普遍の姿を思わせるトンネル体験を
さりげに冒頭とラストに織り込んで
千と千尋の神隠しを大ヒットさせ
さらにアカデミー賞までゲットしてしまう。
恐るべし、宮崎駿監督。
恐るべし、川端康成。
リスペクトお釈迦様。


-千と千尋の神隠しとトンネル体験-
雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)


グローバルリテラシー Think globally,Write locally 2003.7.X

僕の行きつけのスーパーでも
中国語や英語が飛び交うように
なってしまいました。
一番町の地下駐輪場には
中国語の案内板も出ています。

この前喫茶店で原稿を書いていたら
隣の学生風の若い男性が
日韓辞典片手にハングルで
書かれた文書を読んでいました。

何を言いたいのかというと
グローバル化は掛け声だけでなく
現実のものになってしまった
という事を言いたいわけです。
かつて人種のるつぼと言えば
ニューヨークの事でしたが
ある意味世界中がニューヨーク化
しているのかもしれません。

90年代以前はあらゆるメディアも
出版物も、国内の日本人は
みんな一緒だ、という前提の下に
編集されていたように思います。
そして外国人といえば
主に英語圏の白人の事を指していたようにも
思います。

僕もそうした文化状況で精神を形成して
きたので、これはエラいことになったな、と
最近思っています。
僕も含めて多くの日本人は、身近に
言語や文化の違う人がいる、という状況に
慣れていないので、こういった文化のごった煮
状況からある種の共通のルールを生み出して
いくにはあと10年はかかるのかな、と思って
しまいます。

このエッセイで何度も書いているような気がしますが
現在は過渡期で、ありとあらゆる分野がカオス状態に
あるので、僕は2010~2013年まではこの混乱が
続くのだ、と覚悟を決めてとりあえずの安定を
確保しています。
混乱しているのだ、と状況を認識できていれば
狂わずにすむような気します。

キン肉マン。
どうして突然キン肉マンか、と思われるかもしれ
ませんが、人種のるつぼの中で生きていく
グローバルリテラシーを考える上で
キン肉マンは結構重要な漫画だなと
今思ったわけです。
キン肉マンという漫画の中では、テリーマンと
いうアメリカの白人をステレオタイプ化した
キャラクター
ブロッケンマンというドイツのナチスを
ステレオ化したキャラクター
ラーメンマン(すごい名前ですね)という
中国のカンフーの使い手をステレオタイプ化した
キャラクターが出てきます。
ロビンマスクやミート君というキャラクターも
いました。
それは当時の日本の文化状況の中では
結構笑える漫画でしたが
国内の日本人はみんな一緒だ、という前提の
下にしか成り立たない漫画でもあるように
思います。
キン肉マンがヨーロッパに輸出された時
ブロッケンマンがナチスを連想させるという事で
物議をかもしたそうです。
ラーメンマンの額には、中、の文字が
入っていたような気もしますが
中国人が見たらちょっとがっかりするような
気がします。

昔、日本が誇る松田優作という俳優がいて
(探偵物語がリバイバルされてご存知の
方も多いかと思いますが)その松田優作が
ブラック・レインというハリウッド映画に
出演した時、なぜか日本が舞台のシーンで
大勢の人が道路いっぱいに自転車に乗って通勤していて
あ、この監督は中国と日本を取り違えている、と
日本人観客はがっかりしたそうです。

キン肉マンにしてブラック・レインにしても
そうですが、そういった異文化の
すれ違いというのは、結構重要な問題で
それは小説を書く上でも大事なことで
ちょっとした描写で、あ、この作者は分かっていないな、と思われるのが
とても怖いわけです。

表現に限らず、近所のスーパーで
中国語や英語が飛び交うようになってくると
日常的に異文化への想像力を持たなくては
ならなくなります。

僕が個人的に海外に行った時
フジヤマ、ゲイシャと言われても困りますし
韓国に行っていきなり侵略戦争云々、と
吹っかけられても困ります。
それと一緒で、これだけ日常的に
言語も文化も異なる人達と接する機会が
増えてきたら、異文化への想像力を
磨いておかないといけないな、と思って
いるわけです。

僕はこのエッセイで何度もアメリカ政府の
悪口を書いていますが
アメリカ人の悪口は書いていないつもりです。
それは僕が外国に行った時、日本人であるというだけで
不利益を被りたくないからです。

僕は政府というのは
近代国家にあってどの国の人も
背負わなくてはならない必要悪なのだ、と
考えているので、政府とその統治下に住む人々を
一緒くたに批判する方法は取りたくありません。
近代国家は必要悪だと思っています。
悪だけどないと困るもの。
その国が偏狭なナショナリズムに染まるとき
必ずマイノリティに属する人々が犠牲になるのは
歴史が証明しています。
ナチス下のユダヤ人しかり、戦後日本の
在日韓国人しかり。
僕はそういうのが怖いですし、とても嫌です。
僕が海外にいる時
反日運動が起きて、日本人であるというだけで
ものを投げつけられたりしても困ります。

でもどういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
僕は大場理史という器に入り
日本の仙台市青葉区北山に住んで
小説家を目指しています。
その事がさしているのは
いやが応でも僕は近代国家日本を
背負わされているということ。

だから偏狭なナショナリズムを警戒しながらも
日本の小説を書くしかない。

Think globally,Act locally
グローバルに考え、ローカルに行動する、という
のは時代の必然のような気がしますが
物書きも
Think globally,Write locally
にならないといけないのかな、などと
最近思っています。

グローバルリテラシー
Think globally,Write locally

どうして人を殺してはいけないの? 2003.7.X 初出

どうして人を殺していけないの?
と子供に聞かれて大人がそれに上手く答える
事ができなくて困ってしまう、という
構図が出てきました。

間違った引用だったら
申し訳ないのですが(文責は僕にあります)
大江健三郎さんは
そういった問いが出ること自体が
間違いだ
村上龍さんは
人を殺していいという事になったら
自分が殺されても文句は言えないという
事になる、だから駄目だ
と発言されていたように思います。
駄目だから駄目だ、という人もいるし
生命は尊いから駄目だ、という人もいます。

どうして人を殺してはいけないのだろう。

僕自身は債権の取立てをしていた人
つまり借金取りをしていた事がある人に
会って話をした事があるのですが
その人は一度追い込みすぎて
一家心中をさせてしまった事が
あると言っていました。
その人は直接刃物で人を刺したりしていなくても
間接的に人を殺したと言えるのかも
しれません。
その人は何年か経った今も
寝つきが悪い、と言っていました。
そして何とも言えない暗さがありました。
よく漫画などで青ざめた表情を描く時
額に縦線を引いたりしますが
そんな感じです。
笑っている時も青ざめているのです。
だから人は殺さない方がいいよ、と
言えるかもしれません。

どうして人を殺してはいけないの? 

何故そういった問いが子供達から発せられる
ようになったのか。
それは日本社会が完全に近代化を終えた事とも
関係しているような気がします。
ゲセルシャフトとゲマインシャフトの
エッセイでも書きましたが
近代化は、暖かい共同社会(ゲマインシャフト)を
法律や契約などのクールな社会(ゲセルシャフト)に
置き換えていきます。
つまりその民族なり地域社会なりが何気に持っていた
倫理観、暗黙のルール、をどんどん法律や契約に
置き換えていきます。
その流れが行き着くところまで行き着いてしまって
どうして人を殺していけないの? と聞かれて
法律で決められているからだ
或いは、警察に捕まるからだ、としか答えられなく
なってしまったのかもしれません。

僕は法律学はあまり詳しくないのですが
法学の世界では、実定法と自然法という
区別があるそうです。
実定法は実際に定められている法で
自然法は人間社会であれば永久不変に
どの時代でもどんな場所でも適用される法との事。
つまり、実定法<自然法、という関係になります。
どうして人を殺してはいけないの? と
いう問いが出てきたと言うことは
もしかしたら自然法の部分が壊れてしまって
何から何まで実定法で縛らばければならなく
なってしまったという事かもしれません。

1969年に開催された平和と音楽の祭典
ウッドストックという伝説のロックフェスティバルが
あります。
その時は30万人、40万人と言われる人々が
平和裏にキャンプ生活を送ったのに
30年後のウッドストック99では、放火や喧嘩、強盗と
最悪の混乱に見舞われたそうです。
自然法が壊れてきているのは世界的な
現象なのかもしれません。
でもそれはとても寂しい事です。
あらゆる場所に警察官や警備員をおかなければ
ならない程人々は堕落してしまったのでしょうか。

どうして人を殺してはいけないの?
僕は今、その問いに対する答えを
考えています。


関連、

秘密結社の合言葉 ゲセルシャフトとゲマインシャフトⅠ~Ⅴ
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_7088.html

文系人間による数学講座(5)円周率 π 2003.7.X 初出

ゆとり教育の導入で円周率3.14が、3、に
なりますというニュースが報道されて
そんな事ではこの国は知的に滅びてしまうのでは
ないか、と多くの学識経験者が口角泡を飛ばしていた
時期がありましたが
ほとんどの人にとっては、そういえば円周率なんて
あったねえ、と思い出したくらいでは
ないでしょうか。

中学・高校とも偏差値25で
五段階評価オール2だった僕は
偏差値教育もゆとり教育も
勝手にしてくれ、という感じです。
でも円周率に関してはちょっと譲れないものがあります。

円周率3.141592……これは僕の想像力を
非常に刺激するのです。
円周率は3.141592……と、みんながどこまで
言えるか暗記力を競うことでも分かるように
どこまでも続いていきます。循環していく循環数です。
スーパーコンピューターに計算させたら
一兆二千億桁まで行ったとかいかないとかの
話もありましたが
文系人間である僕にとっては
そんな事はどうでもよくて
要は円を支配するキーとなる数字が
循環数であるという事が気になって仕方がないのです。

半径×半径×π=円の面積
だったと思うのですが
πが正確な値を取れないと
いう事は、円の面積は正確には求められない。
球体の体積もまた正確には求められないという事なのではないでしょうか。
半径×半径×半径×π×4/3が球体の体積で
いいのでしょうか(今ネットで調べました)
ここまでくると文系人間の僕は
頭が痛くなってきますが
要は球体の体積も正確には求められない。
つまり球体である地球の体積も理念上は求められないことになります。

近代以前の哲学者達にとって(近代以前は全ての学者は
哲学者だったらしい)円や球体というのは
きっと月や太陽を思わせる神秘的なものだったと
思います。地球が丸いと分かったのは
正史ではガリレオ・ガリレイからでしょうか。

で、円周率の哲学者と言えば
ピュタゴラスの定理で有名な
ピュタゴラスです。
ピュタゴラスは数学者、哲学者であると
同時に、ピュタゴラス教団の開祖でもあり
デルフォイにいたガイアの子である大蛇、ピュトンを信奉していました。
ピュトン、つまりπです。

ガイア(地球)の子である大蛇(π)を信奉する。

僕はここが気になって仕方がないのです。
球体の体積を支配しているのは円周率、π。
それで球体であるガイア(地球)の子が大蛇ピュトン(π)。

僕は小説を書くために蛇に関する資料を
結構収集したのですが(小説を書こうと
言うのはやはり業深い行為ですね)
以下、何個が列挙してみたいと思います。

聖書、創世記においては
主なる神が造られた野の生き物のうちで
最も賢いのは蛇であった、とします。
そして蛇にそそのかされたイブが
食べていけないとされる木の実を食べることで
人類は堕落した、と。
逆にグノーシス派(キリスト教異端派? )は
人類を無知の状態に置こうとする
暴君的な神の意思に対して
人類に知恵という光をもたらしたという理由で
エデンの園の蛇を礼賛しています。
さらにグノーシス派は蛇とイエスを同一視していて
蛇はメシアであるとします。

一部のキリスト教徒達は
蛇はイエスの父であり
処女マリアのベッドを襲って
救世主を懐胎させたと信じていたそうです。

魔術パピルス写本によれば
蛇は世界の支配者
大いなる蛇
神々の指導者
神の中の神

ヴェーダによれば
蛇は天地創造の時
子宮の深淵をかき回した男根神であるという。

ヤハウェ信仰(ユダヤ教のあれするな、これするなという
おっかない唯一絶対神信仰)が起こるずっと以前に
パレスチナでは、蛇が崇拝されていた。

ユダヤ教の祭司族であるレビ族は
大いなる蛇の息子達、の意味。
すなわちLeviathan
うごめく者の息子達の意味。

世界各地に多く残るドラゴン伝説は
これは巨大な蛇のことであると
考えられる。

以上、僕が小説を書くために集めた
蛇に関する資料です。
ピュタゴラス教団の、π=蛇、であるという事を
照らし合わせるとこうなります。

円周率π=蛇=ピュトン=ドラゴン=世界の指導者
=イエスの父=天地創造のきっかけ=神々の指導者
=神の中の神

文系人間の僕は、それは地球という球体が蛇(π)に
よって支配されている、という事ではないかと思ったのです。
これはえらい事ではないでしょうか。

今回の文系人間による数学講座シリーズで
大活躍しているアインシュタイン博士は
地球の自転が北極、南極の氷に
遠心力を加え、それが地殻変動を引き起こす可能性について考えていたそうです。
地殻変動が起こるとどうなるか
大陸が移動するのだから
大地震が起きて津波が起きる。
こりゃ大変だ。
で、大陸が動いてしまうほど遠心力が
激しくなれば、地球の自転だけでなく
地球の公転も狂い始める。
地球は自転しながら太陽の周りを
公転しているので、公転が狂い出せば
万有引力の法則にもとずいて
太陽や月の引力が地球に住む人々の
生活を壊し、気候も変えてしまう。

グレゴリオ暦などやめてしまえ、の
エッセイにも書きましたが
人類の営みなど
太陽系に異変が起これば
すぐ崩壊してしまうものです。

で、その地球の球体としての
動きを支配しているもの
これが、神秘的循環数、π、ピュトン、蛇、ドラゴン……なのでは
ないかなあ、などと僕は
ゆとり教育の導入で円周率3.14が、3、に
なりますというニュースを見て思ったわけです。

エデンの園でイブをそそのかした
蛇であるとか、世界各国のドラゴン伝説であるとかは
象徴に過ぎなくて
蛇やドラゴンというのは
球体としての地球を支配している
円周率πのことではないのかな、と。

ここまでくるとグラハム・ハンコック氏の
神々の指紋、シリーズのようにトンデモ話だ
と思われるかもしれませんが
小説家を目指すのであれば
トンデモパワーも鍛えておいて損はない、と思うので
突っ走ってみます。

世界中の洪水伝説の中に出てくる
伝説の大蛇、ヤーランガー、というのがいるのですが
これも実は円周率のことではないかと
思ったりします。
たいていそのヤーランガーという大蛇は
虹と関係するとされているのですが
虹は雨上がりの大空にサイケデリックな半円を作ります。
サイケデリックな半円。
つまりこれも半円なのでπがからんでくるはずです。
ヤーランガー(π)が、天空を駆け巡る時
地球は大変動に巻き込まれる。
それは、球体である地球は神秘的循環数、π、に
支配されているということではないか、と。

インディージョーンズの映画で有名な
失われたアーク、聖杯伝説がありますが
前述のグラハム・ハンコック氏の
神々の指紋シリーズを読んでいくと
欧米人は結構本気で聖杯やアークを探しているらしい
という事がわかります。
ナチスドイツは最終兵器としてのアークを
探して歩いたと言われています。

で、そのアークを探していたと言われる
テンプル騎士団という伝説の部隊が
世界史に登場しますが
そのテンプル騎士団のドンである、ベルナール氏は
神とは何か、という問いに対し
神とは、長さであり、幅であり、高さであり、深さである、と答えています。


というわけで文系人間による数学講座
5回ほど曲解と妄想も交えて
やってきたわけですが
いったい世界とは何だろう、宇宙とは
何だろう、人間とは何だろう、と
少年のようにピュアなハートを持ったまま
大人になってしまった僕は思うのであります。

きっと数学者は世界は数字でできていると
言うだろうし、脳科学者は脳でできていると
言うだろうし、仏教の唯識論では
心でできていると言う。
文系人間による数学講座、最終回は円周率、π、の
話でした。

と終わろうとしたところで僕はふと
πと言えば、ブルーハーツのキューティーパイだ!
と思い出してしまいました。
ちなみにブルーハーツというのは
80年代に一世を風靡したロックバンドです。
ブルーハーツのキューティーパイという曲は
3.141592、ああ、6535、キューティーパイ……と
なんと円周率44桁まで歌い続けるという
格好いい曲なのです。
僕は今まで格好いいけど変な曲だな、と思って
いたのですが
もしかして作詞の真島昌利さんは
地球を支配する神秘的循環数πのことを歌い上げて
いたのではないか、と想像して
僕は今ブルーハーツが怖くなりました。

円周率を44桁まで歌い上げるキューティーパイ。
英和辞典を引いてみると
キューティーには、かわいい、という意味の
他に、巧妙な策略、(敵の裏をかく)抜け目のない人、などの意味もあります。

キューティーパイ。
敵の裏をかく抜け目のない神秘的循環数、π。
キューティーパイ。
抜け目のない蛇。
π。

畏るべし、ブルーハーツ。


文系人間による数学講座(5)
円周率 π

神々の指紋 (上) (小学館文庫)

神々の指紋 (下) (小学館文庫)

文系人間による数学講座(4)二進法 2003.7.X 初出

コンピュータは二進法の原理で動いているとの事です。
つまりこのサイトも画面もそうなのでしょうか?

僕は初めて、二進法、という概念を知った時
不思議な感覚に捉われました。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10というのは
ずっと僕の中では自明の事だったのに
0,1,10,11,100,101,111,1000……と進んで
いく二進法という世界があるなんて、と。

当たり前だと思っていたことが
当たり前ではない、と気付かされる瞬間には
不思議な感覚が伴います。
あれ? とか え? という感じです。
でもそういう瞬間は悪くないです。

コンピュータの動きを支える二進法。
これはライプニッツという哲学者が始めて考えついたものらしいです。
では、ライプニッツは何を下に二進法を思いついたのか
となると、これがなんと古代中国の易経からなのです。

人類最古の占い、古代中国の易経。
当たるも八卦、当たらぬも八卦の易経です。
八かける八は六十四となりすが
それで易経はDNAの塩基配列64パターンを
暗示しているのではないか、という方もおります。
易経のシンボルは大極図、陰陽ですが
陰陽二つによってすべて成り立つ世界観がある。
それでライプニッツは
二進法を思いついたのでは、と僕は想像します。

僕が、不思議な感覚にとらわれたのは
現代のハイテクコンピュータの素が
古代の中国にあったという事なのです。
そういう意味でも僕は二十世紀末に始まった
コンピュータ文化に非常に興味を持っています。

これからどうなっていくのだろう。
突如として現れた大八大陸。
サイバー空間。
グローバルブレイン。
インターネット。


文系人間による数学講座(4)
二進法


-文系人間による数学講座(5)、へ続く-

https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/07/520037.html

文系人間による数学講座(3)大統一理論 2003.7.X 初出

というわけで
アインシュタイン博士の相対性理論は
仏教の唯識論の正しさとイエス・キリストの偉大さ
を証明することになってしまったわけです。ホントかい。

でも実はアインシュタイン博士の
相対性理論も完璧とは言いがたいらしいのです。
素粒子などの極小・ミクロの世界では
相対性理論は通用しないということを
デンマークのボーア教授らが
量子力学で証明してしまいした。

最近ノーベル物理学賞を受賞した日本が誇る小柴教授の
研究対象は、地下望遠鏡カミオカンテによる
素粒子ニュートリノの観測だったように思いますが
量子力学はそういった電子、陽子、光の粒子、素粒子などの極小・ミクロの法則を
探るものらしいです。
となると小柴教授は物理学における世界最先端の
研究に貢献した、という事になります。
やはりノーベル物理学賞ものです。
凄いぞ、小柴教授!

閑話休題。
ニュートリノという素粒子は
もうほんとに極小・ミクロな物質? で
僕たちが日常使う意味での、物、を
通過してしまうらしいとの事です。
つまり素粒子は車や建物を通過してしまう。

文系人間である僕は
素粒子レベルで考えれば
透明人間や幽霊も成立するのかな、などと
想像してみました。

今、あなたの後ろに
素粒子になった透明人間の僕や
素粒子になったおじいちゃんや
おばあちゃんの霊がいるかもしれない。
ひゅ~ドロドロドロ……。

で、その電子や陽子や光の粒子や素粒子を
対象とする量子力学は
相対性理論ではカバーできないとの事なのです。
じゃあ素粒子などはどういう法則で活動しているのか
というと
これがなんと法則がないのです。
法則がないというのが法則なのです。

僕は科学というのは基本的に
ある対象を繰り返し観察する事で
そこにある種の法則を見出すもの、と
理解していたのですが
量子力学はなんと、法則がないという法則、を採用したのです。
これは大事件です。
これに対しアインシュタイン博士は
神はサイコロ遊びをしないはずだ、と
ブーたれています。
でも法則がないのだから仕方ないでしょう博士。

さらに量子力学においては
観測者問題、というものがあって
これは、人間が観測する事で素粒子は
動きを変えてしまう、というものです。
人間が観測すると動きが変わるのです、物質が。
ますます素粒子は透明人間や幽霊のようだな、と
僕は思いました。

今、あなたの後ろに
素粒子になった透明人間の僕や
素粒子になったおじいちゃんや
おばあちゃんの霊がいるかもしれない。
ひゅ~ドロドロドロ……。

で、埴谷雄高の、死霊、という小説に
限りなく造物主に近い視点を持つ、虚体、という
概念が登場するのですが
もし造物主というものが存在し
造物主の意思が働く余地が地球上にあるとしたら
それは素粒子の部分ではないか、と
僕は最近考えているのです。
それと人間が寝ている時に見る、夢、の部分です。
何故か?
それは素粒子と夢は重力の支配を受けないからです。
もっと言えば素粒子と夢は
ニュートンの万有引力の法則から自由だからです。
造物主は地球を万有引力の法則によって
支配されるように設計した、が
人間どもが感謝を忘れて勝手なことを始めると
地球が壊れてしまうので
素粒子と、人間が寝ている時に見る、夢、の
部分に自分が関与できる部分を残した。

夢のお告げ、という言い伝えは
昔から数限りなくありますし
僕の知り合いのおばあちゃんは
親戚が死ぬ前日に、必ずその人の夢を見るそうです。

文系人間の妄想は止まることを知りません。

止まる事を知らない文系人間の妄想は
物理学の大統一理論に向かいます。

文系人間による妄想なので
理系の方は笑って流してもらいたいのですが
ずばり、物理学の大統一理論は
心理学も含まれたものになるような
気がします。

量子力学においては
観測者問題、つまり観測者の意思が
物質の動きに影響を与えるわけです。
人間の意思が物質に影響を与える。

となると
呪われた土地、であるとか
自殺の名所、と呼ばれるところは
迷信などではなく、それは科学的に見て悪いところなのだ、と
言えるかもしれません。
さらに
呪いのワラ人形、なども
実に科学的な人の蹴落とし方だ、とも言えます。

逆に、病気の快方を願って織られる千羽鶴や
神社に掲げる願いを書いた絵馬も
迷信ではなく科学的に見た願望の達成の仕方だ、とも。

瀬戸内寂聴先生が同時多発テロやアフガニスタンの戦争に心を痛めて
断食に入られた、という行為も
尼僧の世間知らずな行為、ではなく
科学的に平和に貢献しているのだ、と言えるかもしれません。

祈りは、無駄ではないのだ!

妄想は止まることを知りません。

ずばり物理学の大統一理論は
モノとチカラとココロの統合だと僕は思います。
その理論が完成すれば
こんな可能性が出てきます。
モノとチカラを統合させたアインシュタイン博士の
相対性理論が、物質の深層に閉じ込められた
エネルギーを開放する原子爆弾を生み出したように
モノとチカラとココロを統合させた大統一理論は
人間の心の深層にあるエネルギーを開放する
念子爆弾、略して、念爆を生み出す!
文豪ゲーテも書いています。
自然の核心は
人間ではその心にあるのではないでしょうか、と。
なんかえらい話になってきたな。

大統一理論が完成し
念爆が発明されたら
人類は新たな段階を迎えることでしょう。
祈りは無駄ではないという事
人を呪えば穴二つという諺が
真実であることも明らかになるでしょう。
どう思うか、というのは万有引力の法則の下では
さして重要なことではないかもしれませんが
量子力学まで踏み込んで考えてみると
結構重要なことだ、となります。

仏教では人と人との間のことを人間(じんかん)と言います。
イエス・キリストは、実に神の国はあなたがたの間にあるのだ、と語っています。
これはもしかして同じことを言っているのではないか、と僕は今思いました。
ついでに孔子の説く、仁、の文字は
人、と、二、の文字で成り立ちます。

汝の敵を愛しなさい、というのは科学的にも真実なのだろうか?
でもハイパー資本主義下のこの激しい競争社会で
どうやって敵を愛せばよいのだ。
敵と愛は両立するのか。
そんな事してたらこっちが死んでしまうぞ。

どうすればいい、どうすればいい……と考えまくった僕は
でーん、これだ、とひらめいたのです。
川中島の合戦で有名な上杉謙信と武田信玄の関係に
答えがあります。
あっちこっち話を飛ばしたあげく
なんで日本の戦国時代まで話が及ぶのだ、と
思われるかもしれませんが、今回は大統一理論に
とりくんでいるので許して下さい。

盆地の武田信玄が塩の欠乏に苦しんでいた時
敵対関係にある越後の上杉謙信が大量の塩を送ってやった、という
有名な我が国戦国美談、敵に塩を送る、があります。
これが、汝の敵を愛せ、の答えだと僕は思ったのです。
そして上杉謙信はなんと、仏教の毘沙門天を熱心に信仰していた。
そして戦国時代において敵と愛を両立させた。

物理学の大統一理論を完成させた? 僕は
またしてもお釈迦様とイエス・キリストは
人類史上傑出した聖人なのだなと思いました。


文系人間による数学講座(3)
大統一理論


-文系人間による数学講座(4)、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/420037.html


死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)



文系人間による数学講座(2)相対性理論 2003.7.X 初出

前回のエッセイでは、0、ジーニャの
話をさせていただきました。
理解していただけましたでしょうか。

僕も何となく理解はできるようになったのですが
頭で理解するのと
体得する、というのは
また別なものであって
やはりそれを体得したお釈迦様は凄い人だな、と
思います。

で、文系人間による数学講座は
二回目を迎えたわけですが
理系の世界のスーパースターと言えば
なんといってもアインシュタイン博士でしょう。
あのヘアースタイルは誰にも真似できない。
マイク・タイソンのプロモーターである
ドン・キング氏も爆発ヘアーですが
アインシュタイン博士はそれに先立つ事50年以上
ビートルズやセックス・ピストルズがデビューする
はるか以前にご自身のパンキッシュなスタイルを確立
されていた。凄い人です。

と前口上が長くなってしまいましたが
相対性理論とご自身のパンキッシュなスタイルで有名な
アインシュタイン博士は、なんと
ヒンズー教と仏教の唯識論に興味をもたれて
いたらしいのです。そしてヒンズー教、仏教ともインド起源です。
前回の、0、ジーニャ、の話でも
そうでしたが、いったい古代のインドには
何があったのだろう、と僕は不思議でたまらないのです。
現代でも様々な分野のアーティストが
インドの洗礼を受けて世界観を変容させたり
しています。
三島由紀夫しかり、長渕剛さんしかり
ビートルズしかり、アップルコンピュータの
スティーブ・ジョブスしかり……インドには何があるのだ?

インドに行ったことがある、という人を
僕は二人ほど知っていますが
一人は、人生観が変わった、と言い
もう一人は、汚いだけだった、と言いました。
うーん……インドには何があるのだ。
ちなみにインドで発祥した仏教は
その後外部へ伝播していき、現在のインドは
ほとんどヒンズー教徒が占めているらしい、との事。

アインシュタイン博士なぜ
ヒンズー教と仏教の唯識論に興味をもたれたのでしょう。
それはきっとあの有名な相対性理論と
関係があるからだ、と僕は思うのですが
アインシュタイン博士の相対性理論を理解できるのは
地球上に10人しかいない、などと
まことしやかに言われることがあります。
そう言われると僕自身が理解できているのか
不安になったりしますが、地球上に10人しか理解できる
人がいないのならば、僕が間違った事を書いても
それが間違っていると分かるのも
地球上に10人しかいない、という事になるので
図々しく書いてみたいと思います。
まず前回も登場した仏教の概念から。

色即是空
空即是色
一切空

直訳すれば

色、即ち、是れ、空
空、即ち、是れ、色
一切は、空

というところでしょうか。
僕はきっとこの概念が、アインシュタイン博士の
感性を刺激したと思うのです。
ちなみに、色、とはエッチのことではなくて
物質界、目で見える世界の事です。
つまり
物質界、目に見える世界は、これ空であり
空とは、これまた物質界、目に見える世界の事である。
そして世界の一切全ては空である。
だいぶすっきりしてまいりました。
これを物理学に置き換えてみます。

有る(物質界)は、無い(空)
無い(空)は、有る(物質界)
そして世界の一切すべては、無い(空)である。

前回のエッセイで使った数式
空=0、無=0、空≠無も参照すると
空≠無なので、仏教の唯識論を単純に物理学に置き換えると若干の矛盾が
出てしまいますが
これ以上踏み込むと脳が爆発して
アインシュタイン博士のようなヘアースタイルに
なってしまうかもしれないので、ここでは踏み込みません。
ただ、仏教の唯識論にしても物理学にしても
世界の仕組みを認識しようと努力する、という点では
アプローチ方が異なるだけで
実は同じ試みなのだ、と感じてもらえれたらと思います。

有る(物質界)は、無い(空)
無い(空)は、有る(物質界)
そして世界の一切全ては、無い(空)である。

この世界では
有が無になったり
無が有になったりする事があるのだ、という事。
なにやらお化け話のようですが
これを物理学的に言えば
物質とエネルギーが実は同じものなのだ、となるのではないでしょうか。
物質はエネルギーになるし
エネルギーは物質になりえる。
つまり、モノとチカラは本質的に同じもの。

アインシュタイン博士の相対性理論をもとに作られたと
言われる原子爆弾、ゲンバク、は
爆発のエネルギーを生んだ分だけ
必ず反応物質の重量が減る、と言われます。
つまりモノがチカラとなって巨大なエネルギーを
生み出しているわけです。

無から有が生じたり
有が無になったり、と
これはアインシュタイン以前の
ニュートンの万有引力が支配していた時代には
考えられないことでした。

ではアインシュタイン以前の物理学は
どう世界を認識していたのか。
これは有名なニュートンの万有引力の法則によって
すべて説明されていたわけで
物質界はすべて万有引力の法則による、と
されていました。
つまり世界は

色即是色
色即是色
一切色

だったわけです。

で、アインシュタインの何が凄いか、と言えば
それまで

色即是色
色即是色
一切色

だった物理学界に

色即是空
空即是色
一切空

の理論を持ち込んだところが凄い、という事なのだと
思います。
原爆を生み出してしまった事を抜きにすれば
このこと自体は凄いことで
科学がお釈迦様の悟りへ一歩近づいた、と
いうことになります。

ただ、現代心理学考、のエッセイにも
書きましたが、知識が明らかにされる事が
すべて賞賛されるべきか、といえばそうではなくて
知識は単に世界の仕組み人間の仕組みを教えるだけで
その使い方を教えたりはしません。
アインシュタイン博士の特殊相対性理論
一般相対性理論は、同時に原子爆弾も生み出して
しまいました。
ノーベルが発明したダイナマイトと一緒で
知識は飛躍的に生産性を高めると同時に
飛躍的に破壊性も高めます。

要は知識を扱う側の人間の意識が問題になってくるの
でしょうが、知識を扱う側の人間に最も必要な資質とは
何か、となると、それは、愛だ、となります。
愛と言えばお釈迦様より
イエス・キリストの出番となります。

やはりお釈迦様とイエス・キリストは
人類史上傑出した聖人なのだと思います。


文系人間による数学講座(2)
相対性理論


-文系人間による数学講座(3)、へ続くー
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/07/320037.html

文系人間による数学講座(1) 0 ジーニャ 2003.7.X 初出

0という数字は不思議な数字です。

まず両手にコブシを作ってみます。
そこで石がそこに一つあれば
人差し指を上げてⅠ。
石がそこに二つあれば
人差し指と中指を上げてⅡ。
石がそこに三つあれば
人差し指と中指と薬指を上げてⅢ。
石がそこに四つあれば
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅣ。
石がそこに五つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅤ。
石がそこに六つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指を上げてⅥ。
石がそこに七つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指を上げてⅦ。
石がそこに八つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指を上げてⅧ。
石がそこに九つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅨ。
石がそこに十あれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅩ。 

ここまではなんとなく理解できます。
幼児に1~10までの数字を教える時も
こうやって教えればよいわけです。
でも何もない状態、そこに石が一つもない状態、0、を
教える時、どうやって幼児に説明すればよいのでしょう。
そこに石が一つもないなら
石が0個という言い方は変です。
そこに石が一つもないのなら
石という概念も存在していないことになります。
つまり石が0個ではなく、それは単に0です。

少年はよく、何で? 何で? と聞いて
大人を困らせますが、その、何で? を
真面目に考えていくと、結構重要な問題に行き着いたり
します。
で、少年のようにピュアなハートを持ったまま
大人になってしまった僕は
この問題を真面目に考えてみたのです。

そこに何もない状態、0、を
最初に発見したのは誰か、となると
これはどうやら古代のインド人らしいのです。
何の本で読んだか忘れてしまいましたが
現代人が当たり前のように使っている
数字、0、は、古代インドのサンスクリッド語で
始めて登場したものらしいのです。

サンスクリッド語の、0 。
ジーニャとかシーニャと発音するらしいです。
ではジーニャとはどういう意味か、というと
それが、空、という意味らしいのです。
インドは仏教発祥の地ですが
仏教の概念とも関係しているのかな、と思ったら
やっぱりそうで
色即是空の、空
空即是色の、空
一切空の、空が
サンスクリッド語の、0、ジーニャに
あたるらしいのです。

僕は何もない状態、0、と
最初に説明してしまいましたが
ジーニャは正確には、何もない状態、ではなくて
数式化してみると
空=0
無=0
でも、空≠無、らしいのです。

A=B
C=B
ならば
A=C
のはずですよね。

なのに
空=0
無=0
空≠無
なのです。

なんだ、それ。
論理破綻をきたしているぞ。

というわけで、空、サンスクリッド語の、0、ジーニャは
論理を超えた哲学的、形而上学的、宗教的概念でも
あるわけです。凄い数字だ、0、ジーニャ。

仏教の唯識論においては
最終的に一切は、空、であるとします。
一切空が解脱であり
ニルバーナであり、涅槃です。
そしてお釈迦様の悟りの境地を
おもいっきり単純化して数式化すれば
空=0
無=0
空≠無
0、ジーニャ
となるのかもしれません。

空=0
無=0
空≠無
は論理破綻をきたした数式ですが
この関係を体得できたら
その人は悟っている、と言えるのかも
しれません。


文系人間による数学講座(1)
0 ジーニャ


-文系人間による数学講座(2)、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220037.html

仙台フォーラム 2003.7.X 初出

前回は黒澤映画を30本通しで観る企画の
話だったのですが
考えてみればレンタルビデオ店が
なかった時代には
そんな企画も成り立たなかったわけで
レンタルビデオ店の存在は大きいです。

昔は封切られて興行が終わってしまえば
後はどんな名画でも
それこそ名画座のようなところでしか
観れなかった。
それがビデオやDVDのおかげで
いつでも古い映画が観れる。

黒澤体験以来、僕は古い映画にどっぷりはまって
しまって、レンタルビデオ店を利用して小津安次郎とか
チャップリンとかヘプバーンのローマの休日とかを
次々観ていきました。若いっていいですね。

そういった昔の映画にはほんのりとした品があります。
おそらくそれは価値観の相対化が今ほど激しくなくて
人間の倫理観に信頼がおかれていたため、なのだと
思います。
それに作り手が観客を信頼しているので
まわりくどい説明がない。
それで一つ一つのカットに
メッセージが凝縮された形で
つまっているので、観た後に自分の中の文化のメモリーが
グワッと上昇した気持ちになる。

それは結構重要な事で
現代のように人々の価値観が相対化してしまって
人間の倫理観などたかが知れたものだ、と
みんな諦めの入ったペシミズムに染まって
いる時代には、ピュアでハートフルな作品、というのは
世間知らずなお子様作品、となってしまいます。
それに作り手が観客を信頼できない時代なので
派手なアクションシーンや
暴力やセックスを使ってハラハラさせないと
二時間、三時間引っ張れなくなってしまっている。
人間が面白いと感じる感覚は変わらないかも、と書いた
前回のエッセイと矛盾してますが
僕はもうそういった脂ぎったサーロインステーキの
ような現代映画に食傷気味だったのです。

それで脂ぎったサーロインステーキでなく
滋味に肥えてかつ消化によい懐石料理のような
モノクロ映画を映画館で観てみたいな、と
思っていたら、これができてしまったのです。
なんと僕の家の近所に。仙台フォーラムが。

青葉区木町通りにある
仙台フォーラム。
ここで上映される映画のセレクトは
ほんと渋くかつツボを心得たもので
僕はあまりにもツボにはまるので
会員になってしまいました。
ちなみに会員になると
なんと1000円で映画が観れます。
僕はあまりにも嬉しくて
仙台フォーラムで一日に三本映画を
観たことがあります。阿保ですね。

それで多くの批評家が映画史上ナンバーワンに
あげる、幻の名画、天井桟敷の人々、を
僕は観てしまったのです。
仙台フォーラムで、家の近所の映画館で。
仙台は本当に素晴らしい街だ。

天井桟敷の人々、これはぜったい観ておいて損はないです。
映画とは何か、芸術とは何か、というメッセージが
まわりくどい説明なしに描写されていて
男とは何か、女とは何か、結婚とは何か、恋愛とは何か
都市とは何か、犯罪とは何か、権力とは何か、
酒とは何か……etc.つまり近代社会に生きる
人間の営みが全てそこにある、と書いて
くると何か難解な映画なのかな、と思われるかもしれませんが、
そういったテーマがスタイリッシュに描かれていて、
人間ってちょっと哀しいけどプリティーだな、と思わせられます。
プリティーだな、と。
ドイツ軍政下のパリで取られた映画なのですが
占領されている時にこんな映画を撮ってしまうのだから
フランス人ってのはやっぱりプリティーだな、と僕は思ってしまいました。
ついで仙台フォーラムもプリティーだな、と。
ついでに仙台フォーラムのある仙台もプリティーだな、と思いました。

郊外型の大型映画館が出来てから
学生の頃通っていた中心部の映画館がどんどん
なくなっていって僕的はちょっと寂しいのですが
仙台フォーラムはそういった流れとはまた
ちょっと違ったものがあります。
仙台で活動しているいろいろな団体の
フライヤーとかパンフとかが置かれたりしていて
地域の文化活動の交流地点にもなっているようです。
そういうパンフを観ているだけでも楽しいですし
かつての、名画座、とかにありがちな
ハードコアな雰囲気もないので
デートスポットとしても使えるかもしれません。

みなさん今度の週末はぜひ、仙台フォーラムへ。

黒澤映画を30本ぶっ通しで観る企画を成功させた僕は、ダーウィンの進化論に思いを馳せた 2003.

木、切って来い。
木、切ってきました、監督。
うーん、やっぱりあった方がいいな。

黒澤明監督は、そんなエピソードが
似合って、かつ許せる映画監督の一人です。
日本人離れした大陸的な豪快さを持った人で
体もかなり大きかったらしいです。
映画に関しては本当に完璧主義者で
黒澤監督が撮るとお金がかかり過ぎるから、と
いうので製作の引き受け先を探すのに
苦労したとかの話もあります。

昔は映画に限らず、様々な分野で
世界で認められても国内では評価が低いと
いうことが多かった気がしますが
黒澤監督も例にもれず、カンヌ国際映画祭で
グランプリを獲得した時も国内での評価は
低かったという話です。
グローバル化が進んだ最近ではそういった事も
なくなってきましたが、そういった面でも
黒澤明監督は30年くらい早かったのかもしれません。

僕自身も黒澤監督をリアルタイムで知る世代では
ありませんが、学生時代にレンタルビデオ店を
うろついていた時に何を思ったか突然
黒澤映画を30本ぶっ通しで観る、という企画を
思いついて実行してしまったのです。
若いという事は素晴らしい事です。
それが僕の黒澤体験でした。

僕はアメリカ文化万歳な風潮の中で
育ってきた世代だったので
子供の頃はハリウッド映画ばかり
観ていたような気がします。
おまけに日本映画は終わった、などと言われる
くらい衰退していた時期でもあったので
昔のモノクロの日本映画なんて
どうせつまらないんだろうな、という先入観が
まずありました。
ですがレンタルビデオ店でひらめいた
黒澤映画を30本ぶっ通しで観る、企画は
そういった先入観を木っ端微塵に粉砕してしまいました。

黒澤映画は、はっきり言ってハリウッド映画より
ずっと面白いし、テーマも深い。
何で日本のモノクロ映画がこんなに面白いのか、と
考えて不思議な感覚にとらわれたのですが
よく考えてみればここ50年くらいで
人類が種として進化したわけではないので
カメラや器材が進歩したりとか
画像がカラーとかハイビジョン化したとかがあっても
人間が、面白い、と感じる感覚はそんなに変わらない
のかも、などと思いました。

黒澤映画にはよく三船敏郎という役者が登場するのですが、
素人目に何かが違う、と思わせるものがあります。
何が違うのだろう、と考えてみると
よく分からないのですが
凄いのです。
どこが凄いのか……。
凄い。
どこがどう凄いのか。
凄い。
だからどこがどのように凄いのか。
凄い、という感じなのです。
谷崎潤一郎氏が、藝談というエッセイの中で
舞台の場数を踏んだ名優の藝は
映画で見てもネバリ強く脳裡に刻み込まれて
全体の筋は忘れながら、或る一場面の表情とか
動作とかが数年の後に至るまで思い出される、と
書いていましたが、まさに言いえて妙です。
三船敏郎の演技は、その演技自体が脳裡に刻み込まれて
ストーリーは忘れてしまった後でも
仕草や表情が思い浮かびます。

いやあ日本映画はこんなに凄いのか、と
黒澤映画を30本ぶっ通しで観た後に僕は思いました。 
アメリカの文化戦略に見事にハメられて
ハリウッド映画ばかり観ていた子供の頃の自分が哀れに
思えてくるほどの、黒澤体験、でした。

それでその後いろいろと調べていってみると
ジョージ・ルーカスなんかも実は黒澤映画に影響を
受けていたらしく
スターウォーズの最初のシーンで、二人?のロボットが歩いていくシーンは
黒澤映画の、隠し砦の三悪人、からもらった、との事。
さらに、七人の侍、は、荒野の七人、に
用心棒、は、ラストマンスタンディング、にと
それぞれリメイクされていると。

黒澤映画を30本ぶっ通しで観る企画を成功させた僕は
新しければ新しいほどいい、というのは
ダーウィンの進化論以来身についてしまった
人類の悪いくせで、新しくても古くても
変わらない部分は変わらないのだな、と
つくづく思いました。

卵党総裁演説 其の三 僕はここに卵党の結党を宣言致します 2003.7.X 初出

というわけでありまして
本当に最近は政治家先生にしても
大学の先生にしても
大企業の重役さんにしても
見ていてカチンとくることが多くなるばかりなので
あります。

次世代に莫大な借金を残したとしても
彼らは逃げ切ることができるのでよいのでしょうが
今の若い者はなっとらん、とか
元気がない、だとか言って
ますます窮地に陥っている若者達を
追い詰めるような事だけは
慎んでもらいたいものであります。

カチンときた僕は
ここに若者の若者による若者のための
バーチャル政党を結成する事にしたのであります。
サイバー空間のバーチャル政党。
その名もなんと、卵党。

新党卵にしようか、卵新党にしようか
結構悩んだのですが、卵党にしてみました。
それでここに卵党の結党を宣言致します。

そしてなんと僕は、卵党初代総裁……。
フフフ……


-卵党総裁演説(完)-

卵党総裁演説 其の二 構造改革は何故必要になったのか 2003.7.X 初出

というわけでありまして
そもそも何で構造改革という事になったのかという事を
考えてみますと、内外の政治・経済状況の激変もあるのでしょうが、
一番の理由は政府が実はとんでもない額の借金をしていてニッチもサッチも
いかなくなってしまった、というところにあるのではないでしょうか。
そういった兆候はだいぶ前から出ていたのに
何で誰も手を打たなかったのだろう、と思うと
僕は不思議な気がします。

80年代のバブル経済の繁栄の記憶が
日本人の感性をにぶらせてしまったのだろうか、とも思います。
失敗は成功のもと、とはよく言われますが
成功もまた失敗のもとである、という一面の真理を思い知らされます。

僕が学生の頃(95~99年)に既に
赤字国債を発行し過ぎているが
景気回復のために今年も赤字国債を発行する、といった
記事がよく新聞に出ていました。
僕はその赤字なんとかという国の借金は
誰がいつどうやって返すのだろう、と
不思議に思っていたのですが
当時は大学の先生もほとんどが
日本はアジアの盟主なんだ、的ノリの人が多かったので
僕もアジアの盟主ならまあなんとかなるんだろう、と
思って思考停止してしまい、遊びふけっていたのを覚えています。
でもこうして五年、六年経ってみたら本当に
ニッチもサッチもいかない状況になってしまっていた。

一応母校の名誉のために記しておきますと
僕が通っていた仙台市内の某四大にも
5人に1人か或いは10人に1人くらいは優秀な教員が
いて(どこの大学でもそんなものだと思います)そういった優秀な方々は
98年以前から既に、日本はファシズム前夜だ、とか、保険会社がつぶれる時代が
くる、と発言していました。
当時の僕は今以上に世間知らずで、リスクの計算を
商売にしている保険会社が潰れるわけがないじゃないか
この人達は何を言ってるんだろう、これだから
大学の象牙の塔に閉じこもっている先生達は、専門バカと呼ばれるんだ、と
思ったものです。
でもどうやらバカは僕の方だったようです。
そういった優秀な先生がたまにいるので、大学というのは存在意義があるのだな、と
思ったりします。

閑話休題。
でも総じて僕は、痛みを伴う構造改革にまでこの国が
追い込まれてしまった経緯を見ていて
政治家や大学の先生ばかりにまかせておいたら
いつかこっちがエライ目にあってしまうな、と痛感して
いるのであります。


卵党総裁演説 其の三へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037_9590.html


卵党総裁演説 其の一 構造改革とは 2003.7.X 初出

小泉政権が誕生した頃から
構造改革、構造改革、と叫ばれるようになり
酒の構造改革じゃ、などというTVCMまで
飛び出したわりには、構造改革って何の事? と
聞かれると、具体的には何の事だかよく分からない、と
いうおかしな状況がしばらく続いていました。

何やら流行語大賞的なノリであらゆるメディアが
構造改革、構造改革、と騒ぎ、みんなよく分からない
まま、変わらなきゃいけないんだ、という
プレッシャーだけを感じていたような気がします。

自分がどう変わればよいのか分からないし
構造改革が達成されたらどういった社会に
なるのか、というイメージがもてないから
とりあえず若者達はみんな髪を染めている
ようだし、オジサンもちょっとだけ茶髪にして
みようかな、という雰囲気でした(でした、と断定して
よいのだろうか……)

それに比べると戦後の国民所得倍増計画とか
日本列島改造論、なんていうのは
とても分かりやすいものだったように思います。
国民所得倍増計画、日本列島改造論。
こうして戦後や高度成長期のスローガンを
書いてみると、本当に社会主義国の計画経済下で
作成される五ヵ年計画のようです。
やっぱり日本は唯一成功した社会主義国だったのかな
などとも思えてきます。
構造改革というスローガンもきっと
そういった戦後や高度成長期のスローガンのノリで
伝えられるのでイメージがつかめなかったのだ、と
今分かりました。

構造改革というのはむしろ国民所得倍増計画とか
日本列島改造論といった、かつての日本人全員に訴えて
日本人全員に利益をもたらす、というような
スローガンとは全く逆方向のものだ、と
考えた方がよいのかもしれません。
つまり、唯一成功した社会主義国、と揶揄されつつも
なんとか50年間やってきた戦後日本の
構造を壊します。もう日本人全員に訴えて
日本人全員に利益をもたらす政策は
行いません、というのが構造改革だ、と。

戦後の日本が実質社会主義国だった、という
ことに異論がある方もおられると思いますが
とりあえず状況を理解するために
仮にそうであったとしてみます。
すると構造改革というのは
戦後体制を壊してこれから日本は本当の意味で
資本主義国になるので
もう中央政府は貧困層や過疎地への富の再配分を
行いませんし、市場のバトルで負けた人は死んで下さい、
という事なのだ、という事になります。
そう捉えてみると今様々な分野で起こっている事が
イメージしやすくなると思うのですがどうでしょうか。

三方一両損? などのよくわからない言葉に
惑わされているうちに
医療費の自己負担比率が上がってしまったし
地方の自立などという掛け声で
地方自治体への交付金や助成金が減らされようと
している。
民間でできる事は民間でという事で
公的機関の仕事も削られ始めている。
それでいつの間にか何でも自己責任ということに
なってしまって年金や雇用保険も削られはじめた。
つい最近はフリーターに対する
雇用対策を立てたが予算がつかなかったので
実効性がありません、などという笑い話の
ような本当の話があった。
(対策を立てるだけなら僕でもできるぞ)

上記のような最近の中央政府の一連の動きに共通して
いるのは、これからの日本は本当の意味で資本主義国に
なるので、もう政府は貧困層や過疎地に富の再配分を
行いませんし、市場のバトルで負けた人は死んで下さい、
というメッセージなのではないだろうか。

構造改革とは、これからの日本は本当の意味で資本主義国になるので、
もう政府は貧困層や過疎地に富の再配分を行いませんし、
市場のバトルで負けた人は死んで下さい、ということ?

僕も唯一成功した社会主義国下で
みんな平等じゃなきゃいけません、という教育を受けてきた世代なので、
最近この国で起こり始めていることを見ていてなんか変だな、とは
思っていたのですが、まさか驚異的支持率を誇る小泉政権が掲げる
構造改革というスローガンの正体が、これから日本は本当の意味で
資本主義国になるので、もう中央政府は貧困層や過疎地に富の再配分を
行いませんし、市場のバトルで負けた人は死んで下さい、だったとは……。

痛みを伴う構造改革、それは
痛みを伴いながら戦後日本のシステムを解体し
痛い人はずっと痛くて
痛くない人はぜんぜん痛くない国にします、という
ことなのではないだろうか……何たる事だ。
何でそんな改革をみんなが支持しているのだ。


卵党総裁演説 其の二へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037_7.html

卵のなかみ、50回突破記念エッセイ 2003.7.01 初出

卵のなかみ、も早いもので50回を超えました。

どういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
ひょんな事から卵のなかみを始める事に
なったわけですが、本当にこのエッセイを
書き始めてよかったなと思っています。
毎回分野問わず自由に書かせてもらったおかげで
自分の小説のテーマも、今この国で起こり始めて
いる変化の概要も、だんだんと見えるようになって
きました。

僕がなんとか現代の状況を把握しようとして
書いているこのエッセイの中から
読んでくれるみなさんが一ヶ所か二ヶ所でも
あ、そうかもしれないな、という部分を
ひろって、生活に役立ててもらえたら
最高に嬉しいな、と思います。

中には、何を言ってるんだこいつは、という部分も
あるかもしれませんが、全ての人の意見や
感覚が一致するのは基本的に全体主義国家か
タコツボ化した新興宗教団体においてしか成立
しないわけなので、それは健全な精神が
機能している証なのだ、と僕は考えています。
あらかじめ御了承願いたいところです。
ただ書き手の側としては、なるべく多くの人の
共感を得たいというのは当然のことですが。

というわけで、卵のなかみ、は
これからもガンガン更新されていきますので
みなさんもそれぞれの分野で
夢に向かってまっすぐに
思った通りに
太陽をわしずかみするような気持ちで
突っ走っていってもらえたらな、と思います。

卵のなかみ、これからも宜しくお願いいたします。


-卵のなかみ、50回突破記念エッセイ-