2003年8月1日金曜日

水の話(5)文学と水 2003.8.X 初出

というわけで水の話をしているうちに
諸悪の根源は人間の持つ、知性、なのではないか
などという極論めいたとろまで僕はきてしまったのでした。
人間の知性が諸悪の根源だ、などとなったら
なんともならないわけですが
その何ともならないところを
ギリギリまで問い詰めていくのが
文学、というものなのかもしれません。

埴谷雄高の死霊という小説に、虚体、と呼ばれる
限りなく造物主に近い視点を持つ存在が
出てきますが、
その、虚体、は大審問という裁判を開き
イエスも釈迦も呼び出して裁きます。
虚体は、イエスよ、お前は人間中心主義の教義を広め
その後の人類の歴史を人間同士による限りない戦争の歴史にしてしまった、と
イエスを裁き
釈迦よ、お前は瞑想中に近くに落ちていたチーチカ豆を
何の罪の意識もなく食べただろう、
植物が光合成によって作り出している酸素の
有難さに思いも馳せずに空気を吸っただろう、と言って裁きます。
虚体、はもう暴君に近い裁きを行うわけです。
イエスや釈迦のような聖人でも
容赦なく裁かれてしまうのだから
僕ら凡人はもう話にならないと思います。
たぶん大審問にさえ呼んでもらえない。
イエスも釈迦も裁かれる大審問。

でも考えてみれば当然の話で
前回も書いたように地球上の多くの生物のうちで
宗教を必要とするのは人間だけです。
どうしても人間が作り出す宗教というものは
人間中心的なものになってしまう。
なんだかんだ言ってみんな人間としての
現世利益が欲しい。
そして雨後のタケノコのように次々と出てくる
新興宗教も、自分が救われたいとか
子供の人生が上手く行って欲しいとか
病気を治して欲しいと言った人間の要求に
答えるものになってしまう。
でもそういった人間が行う全ての宗教上の営みは
虚体、という太陽系も宇宙も時空という概念すらも
超えたスーパーユニバーサルな視点から見た場合
なんと人間中心主義的な行為なのだろう、と
見えてしまうわけです。

イエスは人間の救いしか考えなかったし
釈迦は宇宙の理法を探って悟りを開いたとは言っても
植物や空気の精の痛みにまでは思い至らなかったではないか、と。

一応、キリスト教徒の方や仏教徒の方が
気分を害されないよう記しておきますと
イエスが出てきた当時のユダヤ社会というのは
旧約聖書の律法にがんじがらめになっていて
神の定めた安息日に働いた者は死刑、などという
現代人からみると無惨としか言えないような事を
していたわけです。
そこにイエスが登場し、律法は人間のためにある
のであって、人間が律法のためにあるわけではない、
安息日に働いたからと言って死刑などというのは
本末転倒だ、叫んで人々に救いをもたらしたわけです。
イエスはユダヤの厳格な律法世界に
人間中心の、愛、の概念を持ち込んで
律法を完成させたスーパースターだったわけです。
文字通り救世主だった。イエスに悪気はなかった。
でも虚体は、イエスよ、お前の人間中心的教義が
その後の世界を人間同士による戦争の歴史にしてしまったのだ、と言って
イエスを裁く。
釈迦はどうかと言えば、前世で虎に自分の体を食べさせたとかいう
エピソードからも推察されるように、
食物連鎖に対する罪の自覚が釈迦にはあった。
でも虚体は、釈迦よ、お前は瞑想中に近くに落ちていた
チーチカ豆を無自覚に食べただろう。
植物が光合成によって作りだす大気の精に感謝せず
無自覚に空気を吸っただろう、と裁く。

虚体、はまるでイチャモンをつけて絡んでくる
酔っ払いオヤジのようですが
水についてズラズラと書いてきて
地球も生物もみんな何かに生かされているのかも
しれないな、という視点を持ってから考えてみると
虚体の裁きも最もだな、と思えてきたりするから
不思議です。

広い宇宙の数ある一つ
太陽系の一惑星、蒼い地球。
その蒼さは水からきている。
そしてそんな惑星は少なくとも
太陽系には地球しかない。
そして水は雲をつくり
雨となって地上に降り注ぎ
地上に降り注いだ雨は
ミネラルを含んだ地下水となって湧き出し
湧き出した地下水は川となり
やがて海へと流れ込む。
そして海水は太陽熱によって
蒸発し、またまた雲を形成する。
雲はまたまた雨を降らせる。
植物達は太陽光から光合成を行って
酸素ガスを放出し、オゾン層を形成し
地球を生命が住める状態にしている。
そしてそういった環境を壊そうとしているのは
高度に発達した知性をもった人類だけ。
やはり人類の高度に発達した知性が諸悪の根源なの
かもしれません。
そういったことに対して
無自覚な人類はすべて、虚体、によって
裁かれてしかるべきなのではないか、と
僕は水の話を書きながら思ったのでありました。

ちなみに埴谷雄高の死霊には
神様、と呼ばれる知的障害のある少女が出てきます。
もう一人、宇宙の真理を知り尽くしているのに
言葉を話せないために精神病院に預けられている
黙狂、という存在。
僕はそれが非常に気になるわけです。
やっぱり人類の知性が諸悪の根源であって
真実は沈黙にあるのかな、と思ってしまうのです。
仙台四郎さんも言葉を話せないというだけで
実は宇宙の真理を知っていた神様だったのかもしれないな、などと
考えてしまいます。
そんな仙台四郎さんを今も大切に祭っている
仙台商人に僕は敬意を持ってしまいます。

蛇足となりますが
埴谷雄高の実家は福島県の神道の家だったそうです。
由緒ある神社、神道は、たいてい鎮守の森にあって
自然を大切にしていますが
埴谷雄高のスーパーユニバーサルな視点に立った
広大な思想の原点もその辺にあるのかな、と
僕は思ったりします。
僕が文学的問いに取り付かれて
神道を探り、知的障害者の意味づけを
探っているというのは
ラインとしては間違っていないような気が
してきました。

と、ズラズラと水の話を五回に渡って
書いてきたわけですが
地球と水
人類と水
生物と水
宗教と水
文学と水
水って何なのだろ、と思うわけです。




-水の話(完)-



死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)

水の話(4)宗教と水 2003.8.X 初出

♂♀生・性・聖のエッセイにも書きましたが
世界宗教足りえて長く続いてきた宗教には
ある種の共通性があるはずだ、と僕は
考えているわけです。
で、今回は水の話という事で
水についての共通項を探ってみたわけであります。

まずユダヤ教。
ユダヤ教の聖典である旧約聖書は
臨在の幕屋(主がおられるところ)に近づく際
洗盤の、水、によって手足を洗い清めなさい、と
定めています。
で、キリスト教。
キリスト教の聖典である新約聖書においては何度も、
水、によって洗礼(バプテスマ)を授ける、と
いう記述が出てきます。
キリスト教はユダヤ教の一派から出た宗教なので
まあその辺は理解できるところです。
では僕が最近探っている神道ではどうなのだろう。
日本の神社では参拝する際
拝殿の前にある手水舎(ちょうずや、てみずや、
おみずや)のきれいな水で、禊(みそぎ)という
祓(はらい)を行って日常生活での穢れ(けがれ)を
清めるようです。

臨在の幕屋、に行く前に、洗盤の水、で
手足を洗い清めなさい、というユダヤ教と、
拝殿、に行く前に、手水舎の水、で
穢れを清めなさい、という神道の発想はよく似ているな、と
僕は今回発見しました。
地球の状態も人体の状態も動植物の状態も
水によって保たれているのだ、という事を考えると、
♂♀生・性・聖、そしてその土地の
風土から生まれてくる、宗教、に、水、が何らかの形で
取り込まれているのは極めて自然な事なのかも
しれません。

そもそも現在の地球上の全ての生物は
太古の昔、海、つまり水の中にいた、というのが
現在の定説です。
地球に水があったから生物が誕生した、とも
言えるわけなので、地球の状態も人体の状態も
動植物の状態も、水、によって保たれているのは
当然のことなのでしょう。

でも、宗教、を必要とするのは
地球上のあらゆる生物のうちで人類だけです。
それは何故か?
たぶんそれは、人類には高度に発達した脳があるからでしょう。
で、その人類の高度に発達した脳が編み出してきた宗教が
ささいな教義の違いをめぐって血で血を洗う戦争を繰り広げる。
何故なのだろう……。
ハンティングを宿命ずけられたライオンさんやトラさんでも
必要以上の殺戮は行わないのに
高度に発達した脳を持つ人類が
とんでもない規模で同胞殺しを行う。
何故なのだろう……。
植物さん達は物言わずせっせと光合成を行って
二酸化炭素から酸素ガスを抽出して
太陽の強烈な紫外線から地球上の全ての生物を
守ってくれるオゾン層を形成してくれているのに
これまた高度に発達した脳を持つ人類が
そのオゾン層を破壊する。
人類は密室で七輪を焚いて自殺したり
真冬にストーブを焚いたまま眠って死んだりして
酸素の重要さを脳では理解してはいるはずなのに、
オゾン層を壊しても案外平気だったりする。
何故なのだろう……。
物言わずせっせと光合成を行って酸素ガスを
提供してくれている植物さん達の方が
人類よりも余程偉い存在なのではないのだろうか、と
僕は思ったりします。
極論すれば人類の、知性、が諸悪の根源なのでは
ないのか、などとも。
そういう事を教えるために
造物主(いるとしたら)は、一定の割合で人類に
知的障害者が発生するように設定したのかな、などと
考えてしまいます。

僕は宗教の事を考えるといつも知的障害者の存在に
行き着きます。
人類は高度に発達した脳を持っているので
どうしても、この世界とは何か、人生とは何か
愛とは何か、死とは何か、神とは何か、といった
形而上学(けいじじょうがく)を必要とします。
でもたぶん知的障害者は形而上学を必要としないのでは
ないか、と僕は思うわけです。
人類の、知性、が諸悪の根源なのだ、という先ほどの
極論めいた仮定に照らして考えてみれば
人類の中で唯一罪のない存在は
知的障害者と呼ばれる人達なのではないか、と。
本当に彼らは障害者なのだろうか。
もしかしたら障害者は知性を抱えた
僕達の方なのではないか、とさえも。

昔の人達が知的障害者を聖人視していたのはきっと
その辺に理由があるのだな、と僕は今思いました。
聖者の行進、というテレビドラマが何年か前に
ありましたが、そのドラマは施設に暮らす
知的障害者達の話でした。
人類の諸悪の根源である知性を持たない知的障害者達。
彼らはやはり聖者なのかもしれない。

仙台市内のクリスロード商店街にある三瀧山不動院には
仙台四郎さん、という神様が祭られています。
四郎さんは江戸末期から明治にかけて
仙台に実在した人物で、言葉を話せない
今で言えば知的障害者と呼ばれる人だったらしいです。

四郎さんが街を徘徊していてフラリと
立ち寄った店は必ず繁盛したとの事。
何かありそうです。





-水の話(5)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/08/520038.html

水の話(3)生物と水 2003.8.X 初出

既に見てきたように地球の状態も
人類の体の状態も、水、によって保たれて
いるわけです。

太陽熱によって蒸発した地球上の水は雲を形成し
地上に雨を降らせる。その雨は山肌を洗って
地中のミネラルを含んだ地下水を湧き立たせ
川となり、やがて海へと流れこむ。
そして海水は太陽熱によって蒸発し
またまた雲を形成し、またまた地上に雨を降らせる。
そしてそういった地球の水のサイクルの中に
生きる人類の体の機能も、水、によって支配されている、と。
水、は、地球にとっても人類にとっても
文字通り生命線です。

でもよく考えたら人類だけでなく
動物さんや植物さん達も、水、がなければ
生きていけないわけです。
動物さん達も水分をとらないと死んでしまうでしょうし
植物さん達も水分をとらないと枯れてしまいます。

地球も人類も、動物さんや植物さんや粘菌さんや昆虫さん等の
あらゆる生物も、水、によってその生命を保たれているようです。



-水の話(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/420038.html

水の話(2)人類と水 2003.8.X 初出

地球の状態は水の循環によって保たれているわけですが
その地球に住む人類もこれまた例外ではなくて
水の循環によってその生命が保たれているわけです。

まず母親の胎内に宿った時点で
胎水という、水、に浸されていますし
そもそも精子と卵子の結合によって産まれる受精卵は
99パーセントが水分であると言われます。
そして母親の胎内から産道を潜って、オギャー、と
産まれてきた赤ん坊の体は、90パーセントが
水分だそうです。
そしてその割合は成人となるころに70パーセントまで
下がり、老年に至ると50パーセント以下になるそうです。
子供が水々しく見えて、老人がシワクチャに見えるのは
人体の保水力の違いだと言えるのだと思います。
要は人体の保水力が高いほど若く見えるという事です。

現代日本の多くの女性は、できるだけ長く人体の
保水力を高く保とうと努力しているようですが
それはたぶん人体の保水力を高く保って
若々しく見せたいという事なのだと思います。
きっと現代日本において、人体の保水力が高い女性は
きっと何かいいことがあるのだと思います。
新人の女子社員がお局様にイジめられたりするのも
人体の保水力の高低に関係があるのではないか、と
僕は今思いました。

話が若干逸れてしまいましたが
要は地球の状態も、その地球に住む人類の体の状態も
水、によって保たれているのだ、という事です。
人間は何も食べなくても一ヶ月ほど生きれるが
水分を補給しないと一週間で死んでしまう、という話を
聞いたこともあります。
水は地球にとっても人類にとっても非常に大切なようです。


-水の話(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/320038.html

水の話(1)地球と水 2003.8.X 初出

広い宇宙の数ある一つ、太陽系の一惑星、地球。
そう、僕たちは地球に住んでいるのです。
人類史上始めて宇宙を飛んだという旧ソビエト連邦の
宇宙飛行士ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を残しています。
たぶん地球は蒼いのです。僕たちは蒼い地球に住んでいる。
その地球の蒼さはいったいどこからきているのだろう、と考えてみると、
たぶんそれは、地球にある大量の、水、からきているのでしょう。
水、H2O、です。

で、地球上の大量の水は
太陽熱によって蒸発し雲を形成します。
そして雲は雨を降らせ、その雨は山肌を洗って
地中のミネラルを含んだ地下水を湧き立たせます。
地下水は川となって流れ出し、
やがて海へと流れ込みます。
そして海水となった、水、は、太陽熱によって蒸発し
またまた雲を形成し、またまた地上に雨を降らせる。
そうした、水、の循環によって、地球の万物は
上手く流転しているわけです。
そしてそれを宇宙空間から見ると蒼く見える。
太陽系の蒼い惑星、地球。




-水の話(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220038_2494.html

顕教と密教 2003.8.X 初出

先日知り合いの画家さんと話をしていたところ
幸福の科学は顕教的で、オウム真理教は密教的だな、と
言われて僕はハッとしたのでありました。

顕教(けんきょう)とは、表に顕された教えです。
つまり日常生活でああしないさい、こうしなさい、
こう考えなさい、という教え。文字で表された教義。
それに対して密教(みっきょう)というのは
文字通り秘密の教えです。これは日常生活で
ああしなさい、こうしなさい、というのではなく
修行したり、真言を唱えたりして体得していくのもの。
仏教で言えば、不立文字(ふりゅうもんじ)の部分。
文字にはよらない教え。

僕の家の郵便受けによく、幸福の科学、のパンフレットが入っているのですが、
そういったものにたまに目を通してみると、確かにとても顕教的です。
つまり日常生活においてこう考えれば幸福になれますよ。
こうすれば幸福になれますよ、と教祖やその夫人自身が
文字で顕教的に顕してします。
瞑想したりする密教的な部分もあるようですが
大川隆法さんの圧倒的な著作量を見ると
やっぱり幸福の科学は顕教的だな、と思わせられます。
対してオウム真理教は、となると
修行するぞ! とプリントされたTシャツを着て
多くの信者がサティアンにこもってヨーガに励んでいた姿から推察する限り、
とても密教的だな、となります。

幸福の科学は顕教的で
オウム真理教は密教的。

一応記しておきますと、僕は幸福の科学や
オウム真理教(現アレフ)の関係者の方々を
批判する意図はありませんので悪しからず。
ただ知り合いの画家さんと話していて
顕教と密教の関係を考える上で、中々いい例えだな、と思ったわけです。
関係者の方々は予めご了承下さい。

で、宗教には顕教的な部分と密教的な部分とが
あるわけです。
キリスト教は新約聖書という顕教と
礼拝という密教を持っていますし
イスラム教もまたコーランという顕教と
礼拝、断食(ラマダン)という密教を持っています。
仏教は仏典という顕教と
厳しい修行という密教を持っています。
つまりたいていの宗教には、顕教的部分と
密教的部分とがあるわけです。
では僕が最近探っている神道はどうなるのか、となると
これが神道には顕教的部分がないのです。
古事記や日本書紀があるじゃないか、と言われるかも
しれませんが、古事記や日本書紀は物語であって
教義ではありません。
つまり日常生活でこうしなさい、ああしなさい、であるとか、
こう考えさなさい、といった事を定めた根本経典が神道にはないわけです。

この事に対して南方熊楠という作家は
日本の神社、神道の事を
どんな教にも顕密の二事ありて
たちまちにして頭のてっぺんからつま先まで
感化しうるもの、と評しています。
つまり日本の神社というのは、参拝する事で
たちまちにして頭のてっぺんからつま先まで
感化されてしまう密教的なものである、と
言っているわけです。
先日司馬遼太郎さんの、街道を行くシリーズ(朝日文庫)の仙台・石巻編、
奥州の古風、というエッセイを読んでいたら、全く同じ事が書いてあって
僕は驚きました。
司馬遼太郎氏曰く、神道は気分であって教義ではない、との事。
神道は気分であって教義ではない。
僭越ながら僕なりに南方史観と司馬史観を
ミックスさせて頂くとこうなります。

どんな宗教にも顕教と密教の二つの要素があって
神道は顕教としての教義こそもたないものの
神社に参拝する事で、たちまちにして頭のてっぺんから
つま先まで気分が感化されてしまう密教的宗教である。

えらい事です。
日本では特定の宗教団体に加入しない限り、
自分は無宗教だ、と考えている人が多いような気がしますが、
初詣で神社に参拝したり、夏祭りのお神輿に参加したりする事で、
知らず知らずに密教的に、頭のてっぺんからつま先まで神道に感化されている、
という事になるからです。
そしてそれが、わが国固有のマンダラならん、と
南方熊楠は書いています。
マンダラとは、お釈迦様の悟りのビジョンをビジュアル化したものです。
つまり南方熊楠は、日本人固有の心の風景は神社にあり、と言っているわけです。

欧米人に比して、日本人の宗教心というのは
たいへんおおらかであると言われます。
クリスマスイブを恋人と過ごして
大晦日に家族と除夜の鐘を聞いて
元旦に友達と神社に初詣でに行く。
そんな現代日本人の最もポピュラーな
年末年始の過ごし方。
そこにはキリスト教と仏教と神道という
三つの宗教が入り乱れています。
でも誰もおかしいとは思わない。
これはすごい事です。
悪く言えば節操がない。
よく言えば宗教的寛容さがあります。
それは日本人固有の心の風景を形成する神社が
顕教的な教義を持たない、たちまちにして
頭のてっぺんからつま先まで感化してしまう
密教的なものであるからではないか、と僕は今思いました。
顕教的部分の教義にこだわりがないから
他宗教の優れた部分を全て吸収して
自己流にアレンジしてしまう。
江戸時代までは、神仏習合、という事でほとんどの神社で仏像も
一緒に祭られていたそうです。
僕は大晦日に除夜の鐘を鳴らす神社を知っています。
神道は顕教的教義を持たないので、そういう事が可能になります。
顕教的教義を持たないので、他宗教に対してとても懐が深い。
そしてそれがそのまま日本人のおおらかな宗教心を形成している。
日本の各宗教団体の信者数の合計は、日本の人口よりも多い、という
ユーモラスな話も聞いた事があります。
つまり特定の宗教団体に入る人達も、掛け持ちで気軽に色んな宗教団体に
加入している、という事です。
悪く言えば節操がない。よく言えば宗教的寛容さがあります。
中東で現在もユダヤ教とキリスト教とイスラム教が
血で血を洗う宗教戦争を繰り広げている事を考えると
日本人の宗教心はアンビリーバブルです。

じゃあ日本人は宗教的にだらしない民族なのか、というとそんな事はなくて、
毎年全国各地で盛大な神社のお祭りが行われていますし
初詣ともなれば神社に大挙して押しかけます。
そしてみんな知らず知らず、たちまちにして
頭のてっぺんからつま先まで密教的に神道に感化されている。
バリバリの無神論者で、かつ強硬なマルキスト、というような人でも、
自分の子供が、友達と初詣に行きたい、とか、神社のお祭りで
金魚すくいがしたい、とか言って目を輝かせている時に、
行くな、とは言えないはずです。
つまり日本に住んで暮らすかぎり
絶対に神道からは自由になれない。
そして次々と、たちまちにして頭のてっぺんから
つま先まで密教的に神道に感化された人が
再生産され続ける。これはえらい事です。
そして神道の頂点にあるのは何かと言えば、天照大神。
天照大神にこの国を任せられたのが、天皇陛下。
少なくとも皇室支配を正当化する文脈ではそうなります。

僕は神社のシステムを起ち上げた人達は
日本における、自然と人間の関係、を知り尽くした
天才的プロデユース集団だったように思います。
そのプロジェクトは2003年現在も
社会的、精神的インフラとして
日本社会で機能している。
その偉業の前には、冷戦期に形作られた
左右対立軸などというものが
とても瑣末な事のように思えてきます。




-顕教と密教-
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻 (朝日文庫)

ニューヨーク大停電のニュースを見て市場万能主義の弊害を思ふ(2) 2003.8.X 初出

というわけで僕はニューヨーク大停電のニュースを見て
市場万能主義の弊害を思ったわけです。
やっぱり、市場、に馴染まない分野というのはあるのかなあ、と。
それというのも僕が年配の方と議論していて込み入った話になると
必ずと言っていいほど、こんな殺し文句が出てくるからです。
曰く。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

そういった話を力説する年配の方々は
いったい何を言いたいのだろう、と僕なりに想像してみるとたぶん、
生まれた時から電気もガスも水道もあった
お前らにいったい何が分かる!?
生まれた時から電気もガスも水道もあったお前らに発言権はない!
生まれた時から電気もガスも水道も……そんな意味が
含まれているのだと思います。
食い物の恨みは恐ろしい、とよく言いますが
たぶん、電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいのだな、と
僕は感情的になっている年配の方々を見てよく思います。
何を言いたいのかと言いますと
やはり電気やガスや水道といったライフラインは
全ての人に安定的に供給されるべき性質のもので
あって、そういった分野まで市場化して投機の対象と
して不安定なものにしてしまうのはよろしくないのではないか、という事です。

松下幸之助翁の水道哲学は確か
全ての人に水道の蛇口をひねれば水が出てくるように
家電製品を安く広く提供したい、というものだったように思います。
高度成長以前に考案された松下幸之助翁の水道哲学でさえも、
水道、というライフラインは安定的に供給されて当たり前だ、という前提に
立っているわけです。
やはり現代においても電気やガスや水道といったライフラインは
全ての人に安定的に供給されて当然の性質のものであって、
そういった分野まで市場化して投機の対象とし、
不安定なものになってしまうのはよろしくないのではないか、と
僕はニューヨーク大停電のニュースを見て思ったわけです。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

食べ物の恨みは当然恐ろしいですが
電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいのです。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

閑話休題。
教育や医療なども本来、市場、には馴染まない性質の分野かもしれませんが、
小泉政権が進める構造改革においては、そういった分野も市場化する動きが
あります。
大学のトップ30にしか補助金は出さない。
国立大学も独立行政法人化して競争させる。
病院の株式会社化を認める、などなど。
要は政府に今の社会構造を維持するだけの
金がないという事なのですが
ない袖は触れないので仕方ないとは思います。
戦後日本の構造を解体し、市場化を進めていくしかないわけです。
で、社会がどんどん市場化していくと
いったいどうなってしまうのでしょう。
IT化は民間主導で進められていますが
市場は残酷なものだなあ、というのがよく現れています。
つまり、光ファイバーやADSLの開通はたいてい、
東京、大阪、名古屋、という大都市から始まって、
次に、政令指定都市、県庁所在地、と進んでから
最後に過疎地で開通という流れになっています。
ひどい場合には過疎地にはブロードバンドが
入らないようです。
市場に文句を言っても仕方がないので
そういった場合過疎地に住む人々は
地元で協力してケーブルでも引くしかありません。
そういった問題がデジタルデバイトという形で
取り上げられたりする事がありますが
市場化していく、という事はあらゆる分野がそうなっていくという事なのだと
思います。デバイトだらけ。
つまり、これまで建前上は一応全国一律だった
教育や医療、電気やガスや水道、といった分野に置いても
格差がついていきます、という事。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

食べ物の恨みは恐ろしい、とはよく言いますが
電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいものだ、という事を
僕は年配の方々との議論で学びました。
それに加えて、教育の恨みは恐ろしい、医療の恨みは恐ろしい、
ブロードバンドの恨みは恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい……という社会に
なってしまうのでしょうか。
たぶんなるのでしょう。
というか既になってきています。
最近の社会面のニュースを見ていたりすると
~の恨み、で、単純にキレてしまっている人がたいへん多いようで
僕は憂鬱な気分になってきます。

一生尽きる事のない、~の恨み、を持つ人は
一生尽きる事のない、富の源泉、を手にしているのと
同じ事なのだ。

そんな気休めの言葉を言う人もいます。
~の恨みを抱えた人はそれを糧に努力せよ、という意味なのだと思いますが、
確かに一理あります。でもどこか虚しいものもあります。
~の恨み(ルサンチマン)を力に変えていけ、と
いうのはニーチェ的世界観であって
行き着くところはエンドレスな
バトルロワイヤルです。
少し前に、高校生達が陸の孤島でサバイバルをかけた
デスマッチを行うという、その名もバトルロワイヤルという映画が
物議をかもしたりしていましたが、あの映画もニーチェ的と言えばニーチェ的です。
僕もバトルロワイヤルという映画を観てみたのですが
そこには、あまりに人間的な、あまりに人間的な姿がありました。
人間が生きていく限り、何によってサバイバルしていくかという問題は
いつの時代でも出てきます。
でもサバイバルや金銭の話を一番に持ってくるのは
それを言っちゃあ、お終いよ、と昔の人が言っていた事に
あたるのではないでしょうか。
あまりに人間的な、あまりに人間的な事は
本来隠すべき事なのでしょう。
それを言っちゃあ、お終い、なのです。
でも時代はニーチェのようです。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と
評した思想家がいました。
それはたぶん
力への意思だけが支配する世界、
弱い者が、さらに弱い物を叩く世界
あまりに人間的な、あまりに人間的な世界が
来てしまった、という意味なのだと思います。
それを言っちゃあ、お終いよ、の
お終い、が来てしまったのでしょうか。

僕は、ニューヨーク大停電のニュースを見て
アメリカ主導で進められる市場万能主義の弊害に
思いを馳せてみました。こうしてズラズラと書いてくると
やっぱり弊害は大きいような気がします。
ニーチェが、あまりに人間的な、と評する時
ニーチェは人間を信用していません。
性悪説に立っています。
僕はできたら性善説に立っていたいです。
でも目の前には、あまりに人間的な、あまりに人間的な現実が溢れています。



ニューヨーク大停電のニュースを見て
市場万能主義の弊害を思ふ -(完)-



世界標準で生きられますか (徳間文庫)

ニューヨーク大停電のニュースを見て市場万能主義の弊害を思ふ(1) 2003.8.X 初出

ニューヨークが大停電でエライことになっている、と
いうニュースが最近ありました。
近代都市に電力が供給されなくなるというのは
大変な事なのだな、と僕は改めて認識させられました。
近代都市にとって、電気、ガス、水道は
まさにライフラインなのだな、と。
何年か前にエンロンというアメリカの電力会社が
電力の先物買いを行って不正会計を行った挙句
破綻してしまった、という事件がありました。
いわゆるエンロン事件です。
それは電力というライフラインまで市場化してしまう事の危険性を
象徴してあまりある事件でした。
今回のニューヨーク大停電に、そういった電力自由化による弊害が
あるのかないのか、今のところよく分かりませんが、
ナキニシモアラズ、といった感があります。
それで今日はアメリカ主導で進められる市場万能主義の弊害について
考えてみたいな、と思ったわけです。

エンロン事件が起きるまで、つまり90年代後半から
2000年、2001年くらいまでのアメリカ経済には
ニューエコノミー論というのがありました。
IT技術を導入することでアメリカ経済は
景気後退局面のないニューエコノミー体制に
移行したのだ、というやつです。
結局ニューエコノミーはバブルだった、という事は
その後のITバブルの崩壊の過程が証明しています。
日本でもそうでしたが、バブル経済の恐ろしいところは
その渦中にいる時には中々バブルだと気がつかないという事です。
例にもれずニューエコノミー論が盛んで、アメリカ経済が一人勝ちしていた
90年代後半から2000年、2001年の間は、アメリカで採用された方法は
全て素晴らしいのだ、という雰囲気でした。
それはちょうど日本がバブル経済の頂点にあった80年代に
ジャパン・アズ・ナンバーワンという本が売れたり
欧米企業が懸命に、カイゼン、や、カンバンホウシキ、を
学んでいたのとパラレルなのだと思いますが
やはり渦中にいる時は中々その本質が見えない、というのが
バブル経済の恐ろしいところ。
実は僕も本質が見えなくなっていた一人でした。
アメリカ経済がニューエコノミー論でバブルに湧いていた頃
時価会計基準、ストックオプション、
ナスダック・アンド・シリコンバレーのキャピタルゲイン、
グリーンスパン神話……と、何でも市場化するアメリカ経済は素晴らしくて、
護送船団方式の日本の経済システムは全て時代遅れの非効率なものだ、と
考えていました。
それで現内閣の経済財政担当大臣である竹中平蔵氏が書いた、
世界標準で生きられますか(徳間書店)という刺激的なタイトルの本を
買ってきて、フムフム……僕はこのままではとても世界標準で
生きていけそうにないな、平蔵さん助けてくれえ~と
悲鳴を上げていたものです。

で、エンロン事件が起こった。
竹中平蔵氏の提唱する、世界標準、であるべきアメリカ経済において
エンロン事件が起こってしまったのです。
それは、時価会計基準、ストックオプション、
徹底した市場化……などが完全に裏目に出てしまった
象徴的な事件でした。
つまり、電力、という都市のライフラインまで
市場の競争に巻き込み、何ヶ月後の、電力、にまで値段をつけて
先物取引の対象とする。
さらに、ストックオプションと時価会計基準制度のもと
会計事務所を取り込んでインサイダー取引を行い暴利を上げる。
挙句、電力株、という本来安定株であるはずの
エンロン株を信用して運用資金として取り込んでいた
年金制度などが連鎖的に大打撃を受け、多くの善良な市民の生活設計が
壊されてしまった。
アメリカ主導の、世界標準、の脆さが露わになってしまい、
市場万能主義者はみんな沈黙してしまうような大事件でした。
なんでもかんでも市場化して
電気やガスや水道のライフラインまで投機の対象にしてしまうとこうなるよ、
という事件だったような気がします。

エンロン事件を知った時、僕はしばらく呆然となってしまった事を覚えています。
竹中平蔵氏の、世界標準で生きられますか、という刺激的なタイトルの本を
読んで、これからは僕も、世界標準、に対応できる人間にならなくては、と
脳内のリストラに励んでいたのに
その、世界標準、の、標準、であるべきアメリカ経済の
根幹がコケてしまったのです。僕は凹みました。
僕が凹んだくらいだから
エンロン事件を知った竹中平蔵氏は、もっと凹んだはずです。
でも大臣たるもの人前で凹んでいる姿を見せてはいけない。
でも胸中ではかなり凹んでいる。
最近の竹中平蔵経済財政担当大臣の発言の切れの悪さは
その辺にあるのかな、と思ったりします。



ニューヨーク大停電のニュースを見て
市場万能主義の弊害を思ふ(2)へ続く
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/08/220038.html

白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である 2003.8.X 初出

というわけで僕はハーマン・メルヴィル作の
白鯨(はくげい)をやっと読み終えたわけであります。
白鯨、は1851年発表のアメリカ古典文学作品です。
本好きな人は、古典を読め、とよく言いますが
発表から150年以上たっても残っている、という時点で
白鯨、には既に何かあるな、と思わせられます。
150年とか200年と読みつがれてきた本にはきっと
150年たっても200年たっても変わらない何か、が
あるはずです。そしてその、何か、は、人類にとってとても大切な事だから、
本好きの人は、古典を読め、と言うのだと思います。
というわけで僕は、ハーマン・メルヴィル作、1851年発表の、
白鯨(はくげい)、をやっと読み終えたわけであります。

僕は始め、白鯨、という小説はたぶん、キャプテンクック風の船長が、
白鯨という巨大クジラを追いかけまわすストーリーなんだろうな、くらいの
認識しか持っていませんでした。なんかそんなアニメが昔あったな、
という感じです。
実際そういった話の展開だったのですが
100ページほど読み進んで、まず思ったのは
退屈だな~という事でした。
古典文学作品というのは、たいていスピード感なくて
話の筋も整っていないものが多いので
退屈なものである事が多いのですが
白鯨、も例に漏れず退屈な小説でした。
文学好きな人の中には、その退屈感がいいのだ、と
マゾヒスティックな事を言う人もいますが
どうなのでしょう。僕は面白くてためになる小説が
一番いいと思うのですが。
で、僕はだんだん、白鯨、を読むのが
苦痛になってきたのでありました。
エラい本を買ってしまったな、と。
でも買ったからには意地でも読み通してやろうと
決意し、先程読み終えたわけです。
そして最後に解説に目を通してみたのですが
その解説の中に、白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である、と書いてあったのです。
早く言えよ、という感じですが
白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である、との事。
それは作品をケナしているのだろうか、ホメているのだろうか。
白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である。
きっと世界的古典ともなれば、なんとでもホメてもらえるという事なのでしょう。
僕もいつか言われてみたいです。
卵のなかみの古典的退屈ぶりは超一流である。

閑話休題。
白鯨の古典的退屈ぶりは超一流でしたが
内容の深さもこれまた超一流でした。
キャプテンクック風のエイハブ船長が
白鯨、という巨大クジラを執念で追いかけるというストーリーを通じて、
作者のハーマン・メルビルは、神の存在を問うているのでした。
僕が最初にイメージしたような
単なる捕鯨船の話ではなかったのです。
そしてこの場合の、神、は、
ユダヤ教の聖典、旧約聖書、の神、エホバ、です。
というわけで、これから古典的退屈ぶりにおいて
超一流である、白鯨、に挑戦してやろうという
血気盛んで奇特な若者がいるとしたら
僕は、白鯨、に挑戦する前に、
ユダヤ教の聖典、旧約聖書、を
読んでおくことをお勧めします。
旧約聖書の知識がある程度ないと、白鯨、の深さは
たぶん分からないと思います。
僕は幸いにして、旧約聖書と新約聖書とコーランと
古事記を読み比べるという無謀な企画を成功させた事があったので、
旧約聖書をモチーフとした、白鯨、の内容的深さには恐れ入りました。

どれくらい、白鯨、が深いかと言いますと
白鯨の主人公のエイハブ船長の、エイハブ、という名前が既に、
旧約聖書においてエホバの神を捨てたイスラエルの王アハブの
メタファー(隠喩)となっています。
エイハブ船長=アハブ、です。
そう解釈して読んでみると
白鯨、と呼ばれる神の化身を執念で追いかけるエイハブ船長の姿は、
神を捨てて近代的自我と自由意志とを獲得して、神を含む大自然、を
支配しようと挑戦している僕たち現代人の姿でもあるわけです。
神を含む大自然に対する畏れ、を捨てないと近代は始まりません。
森林を伐採して都市を開発したり
石油や鉱物などの資源を奪い合って戦争をしたり
有害な放射性物質や産業廃棄物を過疎地にまき散らかして豊かな生活を
送っている現代人はみんな、神を含む大自然に対する畏れ、をなくしています。
もっと言えば現代人は、神を含む大自然、に対して挑戦しています。
現代人はみんな、白鯨と闘うエイハブ船長です。

エイハブ船長は、白鯨、という圧倒的自然の脅威と
闘って、片足をなくしてしまいます。
それでもエイハブ船長は、旧約聖書でエホバ神を捨てたイスラエルの王
アハブのように、執念で白鯨に闘いを挑み続けます。
白鯨は神の化身なのではないか、と、船の乗組員達が
畏れ始めても、エイハブ船長は徹底的に闘いを挑み続けます。
人の片足を奪っておいて神の化身もクソもあるものか
そんな神ならいらない、人間様が一番偉い。
まさに、エホバの神を捨てたイスラエルの王アハブです。
白鯨に敢然と立ち向かうエイハブ船長と乗組員達の運命やいかに……。

白鯨にモリを何本か打ち込んではみたものの
結局船もろとも白鯨に突き飛ばされて
巨大な海の渦巻きに飲み込まれていきます。
つまりエイハブ船長と乗組員達は、神を含む大自然、に闘いを挑み、
結局は敗北し、船もろとも海のもくずとなって消えていくのです。
僕はそこに現代文明の行く末を見ました。
人類は、神を含む大自然、に闘いを挑み、
善戦はするものの、結局は敗北し、
巨大な渦巻きに飲み込まれて消えていく……。
なんとも言えません。

でもどうなのだろう、と僕は思いました。
毎日神に祈りを捧げてエコな生活を送っていたとしても
神が姿を現すというわけではありません。
むしろ片足を奪われても執念で、神を含む大自然、に
闘いを挑み続けるエイハブ船長の姿は、結構魅力的ですらあります。
そして実はエイハブ船長が最も、神を含む大自然、に
近づいていたりします。
白鯨に船を沈められて、巨大な海の渦巻きに飲み込まれてしまうその刹那、
エイハブ船長は神を見たのではないだろうか、と僕は思いました。

神はこの世界を造りっぱなし、後は沈黙している。
祈っても中々答えてくれない。
でも、蛇に授かった知恵、が人類にはあるので
その知恵でもって人類は、神を含む大自然、を
支配してやろう、と闘いを挑んきた。
旧約聖書的に人類史を語ればそうなります。
そして2003年まできた。
でもたぶん、人類は結局、神を含む大自然、に
敗れてしまうのです。白鯨、はそういう結末を迎えます。

人類は、神を含む大自然、には勝てない。
でも闘いを挑むことで逆に、神、に近づいていく。
でもやっぱり人類は敗北する。
風の谷のナウシカ、も真っ青な巨大なテーマです。

神と決別し、近代的自我と自由意志と科学技術とを
獲得した人類が築き上げた、近代都市。
その近代都市が、相変わらず地震一発で沈むような
脆弱なものである事を考えると、
白鯨が発表された1851年とさして状況は変わっていないのかもしれません。
月まで人間を送り届けられるようになったのに
神を含む大自然と人類との関係は
相変わらず神様優位のようです。

白鯨、はやはり150年経っても読む価値のある古典文学作品でした。
白鯨、お勧めです。
ただ、白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である、事は僕が保証いたします。




-白鯨の古典的退屈ぶりは超一流である-
白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)

白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)

阿吽の呼吸 2003.8.X 初出

お寺さんの山門の両脇に、凄い形相で並んでいる
おっかない筋骨隆々の仁王様。
その仁王様の口元を注意深く観察してみると
たいてい、阿(あ)と吽(うん)の形をしています。
神社さんの入口に鎮座されている狛犬さんの
口元を注意深く観察してみても
たいてい、阿(あ)と吽(うん)の形をしています。
沖縄のシーサーさんの口元を注意深く観察してみても
たいてい、阿(あ)と吽(うん)の形をしています。
いったいこれはどうした事だろう。
どうして、仁王様も、狛犬さんも、シーサーさんも
みんな口元が、阿吽(あうん)の形になっているのだろう。
宗教的造形物と阿吽の呼吸。

というわけで、少年のように好奇心旺盛な僕は
早速三省堂大辞林で、阿吽、を調べてみたのでした。
それによると、悉雲(しつたん)字母という
日本語の五十音記のきっかけをなした言語の最初の音が、阿(あ)で、
最後の音が、吽(うん)なのだそうです。
確かに日本語の五十音記は
あ、いうえお、に始まり
わを、ん、で終わります。
それで僕はガッテンしたのであります。
日本人がよく言う、あうんの呼吸、というのは
この辺から来ているのだな、と。
きっとそうだ。
たぶんそうだ。
絶対にそうだ。
悉雲(しつたん)字母の最初と最後の音であり
日本語五十音記の最初と最後の音であり
仁王様や、狛犬さんや、シーサーさんの叫び声でもある阿吽(あうん)
凄い言葉だ、あうんの呼吸。

やはり日本語というのは奥が深い。
日本人というのは素晴らしい民族なのだな、と
ナショナリズムを満足させられて燃え上がって
しまいそうな事例ですが、実はこれは日本語、日本人に限られたものでは
ないようです。

僕が調べたところでは
ギリシャ語アルファベットは
Α(アルファ)に始まり
Ω(オメガ)に終わるようです。
あ、いうえお、に始まり
わを、ん、で終わる日本語五十音記に似ています。
もっと言えば日本語の基礎をなした、阿(あ)に始まり
吽(うん)で終わる悉雲(しつたん)字母によく似ている。
そして聖書によれば、神とは
Α(アルファ)であり、Ω(オメガ)であり
最初にして、最後の者
初めであり、終わりである、との事です。
これも仁王様や、狛犬さんや、シーサーさんなどの
宗教的造形物の口元が、阿吽、という日本語の最初と
最後の音を繋げた形をしている、というケースと
よく似ています。
イエスは、アーメン、と言ってからよく
話を始めたそうです。新約聖書でイエスの
発言として、はっきり言っておく、などと
意訳されている部分は、すべて、アーメン、なのだ
そうです。
キリスト教信者の方には怒られるかもしれませんが
僕は、アーメン、とは、Α(アルファ)とΩ(オメガ)を
繋げたものなのではないか、と今思いました。
日本語のケースで言えば即ち
阿(あ)と吽(うん)を繋げた、阿吽、です。
人類と阿吽。
宗教と阿吽。
言語の発生と阿吽。
あうんの呼吸。
何かありそうです。

突然インドに飛びますが
クンダリーニヨーガでは、宇宙の原始音を、ONG、であるとして、
ヨガのポーズを決めながら、ONG、と発音するのだそうです。
その際G音は発音せずに、脳内の松果体に響かせるようにすると大変よいのだとの事。
何によいのだろう……。
松果体というのは、菩提樹の実に含まれるというメラトニンという物質が
よく効くところです。
そしてお釈迦様は菩提樹の下で悟りを開かれた。
悟りによいのだろうか……。
さあみなさん! ご一緒に! ONG!

と、ズラズラと書いてきてみて僕が思ったのは
宇宙の原始音、というものがあるとしたら
それは即ち、ONG、アーメン、阿吽なの
ではないかという事です。
僕が仁王様や、狛犬さんや、シーサーさんの口元を
観察した限りでは、阿吽、にも見えましたし
アーメン、にも見えましたし、ONG、にも見えました。
人類と阿吽。
宗教と阿吽。
言語の発生と阿吽。
宇宙の原始音、阿吽。
あうんの呼吸。
何かありそうです。

♂♀生・性・聖のエッセイにも書きましたが
人間の造り、自然と人間の関係から必然的に
宗教が生まれてくるのだ、ということを考えると
世界宗教たりえて長く続いてきた宗教には
ある種の共通性があっても不思議ではないはずです。
だって、卵から産まれる人類はいないのだから。
卵から産まれる人類はいない。
では人類はどこから産まれるのか、と言ったら
これは母親の胎内から産道を潜り抜けて産まれて
くるわけです。
南方熊楠という作家が、産まれてきた赤ん坊を
しばらく観察し続けてみたところ
赤ん坊が、片言ながも最初に覚えた言葉は
オクン、だったそうです。
オクン、即ち、あ、いうえお、わを、ん、の、
阿吽、であり
オクン、即ち、Α(アルファ)Ω(オメガ)の、
アーメン、であり
オクン、即ち、ONG、なのではないか、
と僕は考えます。
卵から産まれる人類はいないので
みんな母親の胎内から産道を潜ってこの世界に
デビューし、最初に、宇宙の原始音、オクン、と
いう言葉を覚えた。
その後の育ち、教育などで
言語や習慣が違ってしまっても
基本的にその点では、人類はみんな兄弟のような
ものです。

どうして人を殺してはいけないの?
最近ずっと気になっていたこの質問に
答えが出せそうです。
どうして人を殺してはいけないのか。
それは警察に捕まるから、でも
法律で決まっているから、でもなく
人類はみな、母親の胎内から産道を潜って
この世界にデビューし、最初に、オクン、という
言葉を覚えた兄弟のような存在だから、では
ないでしょうか。
そしてそれは本来、阿吽の呼吸、で分かる事であり
法学者はそれを、自然法、と呼んでいるのではないでしょうか。
どうして人を殺してはいけないの?
大江健三郎さんは、そういった問いが出る事自体が
間違いだ、と発言されていたように思いますが、
全くその通りのような気がします。
人を殺してはならない。
それは本来、人間であるなら誰もが、阿吽の呼吸、で
分かるはずの事なのではないでしょうか。
人類と阿吽。
宗教と阿吽。
言語の発生と阿吽。
宇宙の原始音、阿吽。
赤ん坊が最初に覚える言葉、阿吽。
あうんの呼吸。


お盆の季節となりました。
自分の子供が、どうして人を殺してはいけないの?
などという質問を発する、阿吽の呼吸、が
分からない人間に育ってしまうのではないか、と
不安を持たれている親御さん方は
この機会にぜひ、ご子息を強制的に実家の墓参りに
連れていってみてはいかがでしょうか。
そしてお寺さんの山門の前にいる
おっかない仁王様の前に
しばらくバカ息子を置いておく。
凄い形相をした、おっかない筋骨隆々の仁王様。
その口元から、ご子息は、阿吽の呼吸、を
学ぶかもしれません。



-阿吽の呼吸-

学問のすすめ-社説の命令調はおかしい- 2003.8.X 初出

というわけで福沢諭吉の、学問のすすめ、を読み終えたところ、
タイミングよく新札発行のニュースが飛びこんできたのです。

千円札は夏目漱石から野口英世へ
五千円札は新渡戸稲造から樋口一葉へ
一万円札は福沢諭吉で続投との事です。
なぜ福沢諭吉だけ続投なのだ!
という声が聞こえてきそうですが、何故なのだろう。
それは現内閣の小泉首相と塩爺が慶応義塾大学出身で
慶応義塾の創始者である福沢諭吉に便宜を計ったのではないか! と
勘繰ってみたくなりますが
ホントになぜ諭吉さんだけ続投なのだろう……。

閑話休題。
というわけでちょうど今福沢諭吉の、学問のすすめ、を
読み終えたのですが
明治の近代化の時期に大活躍した慶応義塾の創始者でもある福沢諭吉。
彼の主著とも言える、学問のすすめ、は
出版当時たいへんなベストセラーになったとの事です。
僕が読んでみたところでは
学問のすすめ、というタイトル通り
福沢諭吉が手を替え品を替え何度も
これからは学問をして身を立てる時代になりますよ、と
庶民、に説いている本です。
庶民、に、学問、をすすめています。
まさに学問をすすめている。
学問のすすめです。
どうしてこういった本が当時大ベストセラーに
なったのか、と想像してみると
出版当時、つまり明治の近代化の時期は
士、農、工、商の身分制でやっていた徳川300年体制が
崩れてしまって、西洋に対抗できる近代国家を
急いで作らなければ、日本は大変なことになってしまう、
このままでは西洋の食い物にされてしまうという、という大変な危機感が
インテリ層にはあったのだと思います。
そう、インテリ層、には危機感があった。
江戸から明治への近代化の時期には
庶民、とはケタ違いの情報をもった、インテリ層、というのが存在したわけです。
就労人口のほとんどが農民だった時代に
学識もあり、かつ西洋を始めとした海外経験もあり
その事情にも詳しいという、インテリ層、は
文字通り、先生、だったのだと思います。先生。
先生と庶民。
庶民と先生。
そして世界中で文盲(読み書きできない人)が
多かった中世において、日本は江戸時代の
寺子屋文化で当時としては驚異的と言えるレベルまで
識字率を高めていたということもあって
学問のすすめ、を始めとする、先生、方の
メッセージを、庶民、がよく吸収し
近代国家日本の体裁を整えて西洋に対抗できる形を作った。
現在の近代国家日本の繁栄があるのは
福沢諭吉を始めとする
江戸から明治期にかけて活躍した
インテリ先生方のおかげである、とも言えそうです。
下手すれば日本は西洋の食い物にされていた。
福沢諭吉はやはり偉い。
一万円札続投も納得です。

で、その日本を近代化させる上で
重要な役割を果たしてきたインテリ先生と優秀な庶民との
コラボレーションによる連携プレー。
そういった構図は三島由紀夫で終わったと言われています。
つまりインテリ先生がメッセージを発して
庶民がそれを学ぶ、という近代化途上の
構図は三島由紀夫で終わってしまった。
もっと言えば1970年代に終わった。
もっともっと言えば、物書きが先生だった時代は
1970年代で終わってしまったという事です。

では1970年代以後、つまり高度成長以後
日本社会にはどういった変化があったのか。
まず年々短大や大学などの
高等教育機関へ進む人が増えて
社会人の4割、5割が学士という状況にまで至りました。
大学院生もごろごろいます。
地方都市にも丸善や紀伊国屋のような大きな書店ができました。
年間1000万人を超える海外旅行者もいます。
つまり1970年代以後、庶民、はもうそんなに無知では
なくなったという事です。
福沢諭吉に代表される江戸から明治の近代化の時期
或いは三島由紀夫の1970年代まではあった
インテリ先生、と、庶民、という構図はもうないと
いう事です。
もう、庶民、はそんなに無知ではない。
そして90年代後半からインターネットが爆発し
無知ではなくなった庶民がメッセージを発し始めました。

で、社説の命令調はおかしい、という話になるわけですが、
各新聞社の社説はたいてい、こうせよ、ああせよ、と命令調で書かれています。
インテリ先生と庶民という構図がなくなってしまった時代にいったい誰に
命令をしているのだろう、と僕は不思議に思ってしまいますが
それは各新聞社が、インテリ先生がメッセージを発して
庶民がそれを学ぶ、という、学問のすすめ、的発想から
抜け切れていないという事なのだと思います。
インテリ先生と庶民という構図は三島由紀夫の1970年代で終わってしまって、
もうインテリ先生に命令されて生き方を変えるほど、庶民、は無知では
ないのに新聞の社説はいつも誰かに命令している。
新聞がある程度信頼のおける
情報を提供する媒体であることは
今後も変わらないにしても
もう、庶民、に命令できるほど偉くはないのではないか、と思ってしまいます。
でも社説を読むといつも誰かに命令している。
そういった構図もここ10年くらいで
変わっていくような気がします。

僕が文学のいろはを叩き込まれた
某文芸喫茶が青葉区の二日町にあるのですが
若く生意気だった僕はよく
そこのマスターに、読者を畏れながら書け、と
怒られました。
物書きを目指して何百冊と本を読んで
何千枚と原稿を書いていると
どうしても自分が、インテリ先生、になった気がしてくる。
でも実はそんな事はなくて
読者には、書く力、がないというだけで
それは声なき読者が、無知、であるというわけでは
ないのだという事。
読者は絶対自分よりもものを知っていると
思って書いた方がよいのだ、という事。
つまり、読者を畏れながら書け、という話。
大変よい話です。
僕は新聞の社説を書いている人にも
その話を聞かせてあげたいです。

というわけで僕は
こうせよ、とか、ああせよ、という命令調では
なるべく書かないように心がけています。
僕はこう思いました、ああ思いました、と書いて
読者がそうだと思えば吸収してくれるし
そうだと思わなければ、阿保な奴だな、と思う。
ただそれだけの事。

若い頃は誰もが不安で
あまり、色、もついていないので
ああせよ、とか、こうせよ、と
命令してくれるメッセージを欲しがったりしますし
現代のように社会が混乱している時代は
偉い人に命令してもらいたくなってしまいます。
でもそれがファシズム、全体主義への第一歩。
思考停止してしまうのが一番危険です。
政治体制がおかしくなり始めると
マスメディアが体制翼賛的になってみんなもっていかれる、というのは歴史が
証明するところです。
つまり、ああでもない、こうでもない、と
ウジウジ、モジモジとしていれば
少なくとも独裁者は生まれないはずだ、という事です。
文学の役割はその辺にあるのかな、と思ったりします。
ウジウジ、モジモジ……ああでもない、こうでもない。

夏目漱石の晩年の手記を読んでみると
死んだらどうなるのだろう、あの世の世界は
どうなっているのだろう、と想像してみたり
或いは、若かりし日の思い出を振り返ってみたり、と
病の床に倒れながらも夏目漱石はまだウジウジ、モジモジ……と
書き続けています。
そこには、ただの人漱石、の姿があります。
ウジウジ、モジモジ……ああでもない、こうでもない。
それって結構大切なのかもしれません。



学問のすすめ-社説の命令調はおかしい-



学問のすすめほか (中公クラシックス)

私の個人主義ほか (中公クラシックス)

サーバー荒らし・エシュロン!? 2003.8.X 初出

というわけで先日仙台インターネットマガジンに
サーバー荒らしが入ってしまったのであります。
サイトの管理人さんも色々と原因を
探ってくれているようなのでありますが
これはいったいどうしたという事なのだろう。

で、このサーバー荒らしはいったい何者の
仕業によるものか、と僕なりに探っていたのですが
もしかしたらエシュロンにやられたのでは
ないか、と思い至ったわけであります。
エシュロン。

田中宇という方のメールマガジンによりますと
アメリカ政府は世界中の潜在敵の通信を傍受
するためにエシュロン(echelon)と呼ばれる
巨大通信傍受システムを作り上げているとの
事であります。
エシュロンは人工衛星を通じて世界中の
電話やファックス、電子メールなどの
国際通信のほとんど全てと、各地の
国内通信の一部を傍受してしまう、との事。
そして傍受した大量の情報から
ヤフーのような全文検索システムを使って
反米的発言やテロに関する発言を即座に吸い上げる事が
できてしまうとの事です。
表向きの理由は、麻薬カルテルやテロリストの動向を
つかむため、とされているものの
実際はエシュロンで得た情報を自国企業に流し
国際受注競争で勝たせたりしているとの事。
アナカシコ、アナカシコ……アメリカ政府よ
それはあまりにアコギというものではないか。
やはりアメリカ政府というのは恐ろしい、と
僕は思ってしまいます。

で、僕はガッテンしたのであります。
卵のなかみでアメリカ政府の悪口ばかり
書かれているのをエシュロンを通して
発見したCIAの職員が、こいつはアメリカの潜在敵だ、という事で、
仙台インターネットマガジンにアタックをかけてきたのだな、と。
きっとそうだ。
たぶんそうだ。
絶対にそうだ。
なんと卑劣なやり方をするのだ! CIA!
それで仙台インターネットマガジンの
読者さんにもスタッフさんにも
大変な迷惑がかかってしまったのであるぞ!
やる事が汚いのではないか、CIA!

閑話休題。
絶対的な権力は絶対的に腐敗する。
誰の言葉か忘れてしまいましたが
現在のアメリカ政府の横暴ぶりを
見ていると言いえて妙だと思えてきます。
パックスアメリカーナと呼ばれる
絶対的権力構造が絶対的に腐敗し始めているような気がします。
やはり基本的に絶対的な権力というのはよろしくないのでしょう。

僕はアメリカ政府が絶対的権力によって
絶対的に腐敗してしまわないように
おかしいぞ、と思った事はこれからも
卵のなかみでどんどん書いていきたいと思います。
当店についてご意見ご感想がございましたら
お聞かせください、というお客様アンケートを
ファミレスなどでよく見かけますが、あれと一緒です。
僕は絶対的権力構造パックスアメリカーナが
絶対的に腐敗して滅びてしまう事がないように
ご意見ご感想をこれからも書いていきたいと
思います。

というわけでCIA職員のみなさん
エシュロンで反米的発言を探していて
このページにたどり着いても
それは愛ゆえのお客様の声なので
サーバー荒らしを入れたりしないで下さい。



 

サーバー荒らし・エシュロン!?

これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(2)田中耕一さんの場合 2003.8.X 初

マスコミは一頃ノーベル化学賞を受賞した
田中耕一さんを、ベラボウに褒め称えていました。
世界最高の権威ある賞を受賞したのだから
褒め称えるのは当然としても
どうもそのほめ方は奇妙なネジレが含まれて
いたような気がします。
ノーベル賞の授賞式を担当するスウェーデンの
外務省も日本のマスコミには相当参ったという
その過熱報道ぶり。
僕が感じたネジレとはいったい何だったのだろう。

それはマスコミが日本人が一体感を持って近代化に
取り組んでいた暖かい時代の幻想を取り戻そうとして
躍起になっているのに
現実社会の側がそんな幻想を受け付けないくらい
変化してしまっているという事からきていたのではない
だろうか、と僕は今思いました。

マスコミは田中耕一さんの研究成果云々よりも
私はただのサラリーマンですから、という
田中耕一さんの姿勢ばかりを報道していました。
或いは人となりであるとか。
誤解されると困りますが
僕は田中耕一さんを批判しているわけではありません。
ただ社会の状況を明らかにしたいだけです。
状況を明らかにしなければ
対策も立てられません。

前回のエッセイにも書いたように
近代化という国家の大目標を達成し
終身雇用の原則も崩れ始めた現在の社会状況において
多くの人々が不安を抱えています。
つまり、真面目に頑張っていれば誰かが見ていて
取り立ててくれる、という終身雇用的な発想では
もう生き残れないのではないか、と多くの人が
不安を抱えているわけです。
そういった時代状況なのにマスコミは
私はただのサラリーマンですから、という
田中耕一さんの姿勢を褒め称える。
引退間近の年配の方々ならばマスコミの
そういった報道を目を細めて喜ぶのかもしれませんが
いい人、真面目な人、というだけでは生き残れないかも、と多くの人々が
日々不安を抱えている時代に、いい人であれ、とメッセージを送られても
どうにもならないような気がします。

この俺、俺様NO.1! という近代的自我の強そうな人よりも、
私は不器用な人間なんです、何もかも皆様のおかげです、という
近代的自我の弱そうな人の方が好まれる、というのは近代化途上の
日本社会では常識でした。
それで高度成長からバブル期まで実際日本は
世界で最も成功した国の一つだった。
それでマスコミは、あの素晴らしい日々をもう一度と
キャンペーンをはったのかもしれませんが
現実の社会状況はそんなキャンペーンが白けて見えるほど変わってしまって
いるので、そのギャップが奇妙なネジレとなって僕には見えたのかもしれません。

誤解されると困りますが
僕は、いい人だけでは生き残れなくなるという社会が
理想的だと言っているわけではありません。
ただ、掛け声やキャンペーンだけでは
どうにもならないくらい現実社会が変化してしまって
いるのに、いい人であれというメッセージを発しても
どうにもならないのではないかと思うわけです。

僕はどうもこれからは、人がいいだけの人は
不利な社会になるような気がして仕方ありません。
つまり近代的自我を強化して個人が言いたい事を
主張していかないと、あ、了承したんだな、という
事で不利益を被ってしまう社会になるような気が
するのです。

北の国から、とか、寅さんシリーズのような
日本的人情映画がどんどんなくなって
きていますし
釣りバカ日誌、のような映画を観ても
ノスタルジーを感じはしても
今時そんな平和な社長も社員もいないよ
となってきているような気がします。

若い女性の間からは
人がいいだけの人より少々我が強くても
ビジョンを持って生きている人の方が素敵!
という声も聞こえてきます。
若い女性は本当に時代の要請に敏感です。
これから子孫を残すにあたってできるだけ
サバイバルに有利なオスをかぎわけようとしている
彼女たちのセンサーは、時に経済白書よりも正確に
時代の要請を的確につかみとります。

これからの近代化を終えた日本社会で生き抜くにあたって
気の弱い僕も近代的自我を強化して
それは僕の権利であるぞ!
これは僕の義務であるぞ!
と、口うるさい近代的自我の強い人間にならなくては
ならないのだろうか、と思ってしまいます。
卵のなかみも、気の弱い僕による、ですます調を改めて
世界一グレイトな僕による、である調に移行しなければならなくなる日が
近づいているのかもしれません。

嗚呼、何たる事である。
世界一グレイトな僕は
そういうのがとても苦手である。

これからの会社と個人の関係は
どうなってしまうのだろう-(完)-

これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(1)中村教授の場合 2003.8.X 初出

青色LEDの開発者である中村修二・米カリフォルニア
大サンタバーバラ校教授が、発明当時在籍していた
日亜化学工業に対し特許権の対価として20億円
を求める裁判を起こした、というニュースがありました。
僕の周りの年配の方からは総じて、何たる事だ、と
言う声が聞こえてきました。
でも若い人達からはあまり、何たる事だ、という声は
聞こえてきません。

今日はその辺の、何たる事、について考えてみたいと
思います。

卵のなかみ、を始めて少し分かってきた事は
近代社会というのは、我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)を
前提に成立していて、我思う故に我あり、という個人の責任の主体を
明確にすることで権利や義務が明確になり
選挙や私有財産制や契約や裁判が成り立つのだ、という事です。
そして近代化というのは、地縁・血縁による暖かい共同体を解体し、
法律や契約によるクールな世界に置き換えていく行為である、と。
そして日本は98年から2002年にかけて完全に近代化を果たしたのだ、と。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが
それは当たり前のことではなくて
例えば、所有は盗みである、という言葉があります。
つまり私有財産制、私の所有する財産、という概念が
なければ、盗み、という概念も発生しない、という考え方です。
我思う故に我あり、という近代的自我に基づいて
これは私の財産だ、という主張をするから
その財産を盗んだ、という概念が発生するわけで
誰も何も所有しない原始共産制のような社会では
その辺にあるものを持っていっても
それを盗みとは言いません。
盗み、の発生は、所有、にあるのだという屁理屈です。
そう、屁理屈です。
所有は盗みである。中々よくできたロジックですが
共産主義革命がもはや現実的でないことを考えると
それは屁理屈です。
矛盾は抱えていても現在のところ僕たちは
近代が築き上げたシステムの中で生きていくしかありません。

で、中村教授の話に戻るのですが
共産主義革命はもはや現実的でない事を考えると
現在のシステム下で
我思う故に我あり、という近代的自我を持った人間が
個人の発明の対価として会社に20億円の対価を
求めたとしても、原理的に何の問題もないと言えます。
別に犯罪的行為を働いているわけではありません。
でも多くの日本人は、所属していた会社に
特許権を寄越せ、とか、20億円寄越せ、と
請求する人を見ると、なんとなく、欲深い奴だな、とか
我の強い奴だな、と思ってしまいます。
我の強い奴、文字通り近代的自我の強い奴だな、と。
それは何故なのだろう。

一つ考えられるのは
日本は最近近代化を終えたばかりなので
近代的自我の強い奴、は文字通り、我の強い奴、として
嫌われる雰囲気が残っているということです。
つまり日本を近代化させるためには、みんな近代的自我を押し殺し、
日本のために、働く必要があったわけで
そういった状況が長く続いてしまったために
日本社会には近代的自我を持って権利だ義務だと叫ぶ人は、
我の強い奴、という事で嫌われる雰囲気が残っているのではないかという事。
それで、20億円寄越せ、という中村教授の訴訟を見て、
何たる事だ、と思ってしまう。

もう一つ考えられるのは、つい最近まで日本では終身雇用の原則、
会社は家族の原則が常識で、一つの会社に40年間奉仕した後社長さんから
金時計と表彰状をもらって引退するという生き方が理想的であるとされていたので
所属していた会社に特許権の帰属を求めて訴訟を起こす中村教授のような人を
見ると、家族に対する裏切りのように感じて、何たる事だ、と
思ってしまうのではないかという事。

年配の方々の中村教授に対する、何たる事だ、には
日本人みんなが近代的自我を押し殺して
国家の近代化に取り組んでいるのに
一人抜け駆けして20億円寄越せとは
何たる事だ、とか
終身雇用でみんなが会社に忠誠を誓っているのに
所属していた会社に特許権の帰属を求めて
訴訟を起こすとは何たる事だ、という文脈が
背後にあるような気がします。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。

それに対して若い人たちからはあまり
何たる事だ、という声が聞こえてきません。
それは何故なのだろう、と
僕はまた考えてみました。

まず考えられるのは、若い人たちが時代が変わったことを
日々肌で感じ取っているからではないだろうかということです。
つまりほとんどの会社の寿命は20年とも30年とも
言われる時代なのだから、もう会社は家族にはなりえないのだということ。
40年間勤め上げて社長さんから表彰状と金時計をもらって世話になったな、と
肩を叩かれるのを待たずに会社がなくなってしまうのだということ。
会社に忠誠を誓っても経済的リターンはもうそんなにないのだということ。
日本は近代化を終えて、もう全ての会社が
日本のために頑張っているわけではないので
会社は単に個人のスキルを磨くところ
しばらくの生活費を稼ぐところという意味づけしか
もてなくなってきているのだということ。
近代化が日本人の悲願ではもうないので
会社のために頑張っただけで
会社以外でも尊敬されるということは
もうないのだということ。

若い人たちはそういった時代の変化を日々肌で
感じているので、中村教授が
以前いた日亜化学工業に20億円求めようと
特許権を寄越せと主張しようと
別に、何たる事だ、とは思わないのでは
ないでしょうか。

会社と個人の関係のあり方が
今劇的に変わり始めていて、それが中村教授の訴訟に
対する世代間の認識ギャップとなって現れている
ような気がします。

サービス残業に対する未払い分の給料の
支払いを会社に求めて訴訟を起こす、という若い人が
増えているそうですが
そういった訴訟を起こす人もかつての近代化途上の
日本社会では、なんと我の強い奴だ、という事で
嫌われていたはずです。
でも躊躇しない若い人が増えているようです。
それは、会社は家族ではないこと、会社に尽くすことが
イコール日本社会に尽くすことではないのだ、という事を
若い人たちが日々肌で感じているからではないでしょうか。
きっとそうだ。
たぶんそうだ。
絶対にそうだ。

会社と個人の関係のあり方は
劇的に変わってきている。

青色LEDの発明をめぐる
中村教授と日亜化学工業との訴訟に対する
世代間の感じ方の違いの背後には
これからの会社と個人の関係を
考える上で結構重要な文脈が隠れているような
気がします。


というわけで次回は
近代的自我の強い人、中村教授と好対照をなす
いい人、田中耕一さんについて考えて
みたいと思います。



これからの会社と個人の関係は
どうなってしまうのだろう(2)
田中耕一さんの場合に続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220038.html

仙台ライブハウス事情-仙台発、全国へ、世界へ- 2003.8.1 初出

というわけで、仙台出身のLONG SHOT PARTYというバンドが
全国的に暴れ回っているらしい、という情報をゲットした僕は、
さっそく出来立てのZeep Sendaiにライブを観に行ってみる事にしたのでした。

LONG SHOT PARTYはロック好きの友人の話によると
仙台出身のスカパンク? バンドなのだそうです。
スカ・パンク? 何だそれ?
最近はバンドもやたらジャンル分けが増えて
訳が分からない状態ですが
要は表現は全て、自分の感性がどう反応するか、の
一点につきるような気がします。
まずはライブに行ってみるべし。ライブだ、ライブ。
というわけで以下LONG SHOT PARTYのライブ体験談です。

・In Zeep Sendai
客席はオールスタンディングの超満員です。
何組かのバンドの演奏が終わって
観客は既に興奮状態にあります。
僕は本日お目当てのLONG SHOT PARTYの
登場を今か今かと待っていました。
一瞬観客のざわめきが高まり
どうした! と思ってステージに目を向けたところ
バンドのメンバーが遂にステージに現れました、と
思ったらイベントのスタッフの方でした。
何だよ……イベントのスタッフの方は黙々と
機材の調整を行ってからバックステージに
消えていきました。
僕はいつも思うのですが
あの役は中々おいしいと思うのです。
一瞬観客の期待の視線を一身に受けた
スター気分を味わえる。
僕もあの役やってみたいな……などと
指を咥えてポーッとしていたら
いつの間にかステージには
LONG SHOT PARTYのメンバーが
いて演奏が始まっていました。やられた。

あれは何だ?
ステージ近くで観客の頭上を
人体が飛び回っています。ダイブだ、ダイブ。
演奏開始二秒でいきなりダイブ!?
なんたる事だ。
LONG SHOT PARTYは一瞬で
Zeep Sendaiの空気を変えてしまいました。
凄過ぎる。開始二秒で着火。

ステージの最先端に飛び出してきたボーカルが
完全に入り込んだ状態で歌いだしました。
完全に入り込んでいます……シャーマンのようだ、と
僕は思いました。声がいい。
この声で御宣託を下されたら僕はつき従ってしまうかもしれない。
それは恐怖に近い感情でした。
そしてギターもベースも、みなさん跳んで下さい、踊って下さい、という
メッセージを発してします。
もちろん聞こえてくるのはギター音とベース音。
でもその音にはメッセージが含まれています。
俺たちの音楽で騒いでくれ。
俺たちの音楽で騒いでくれ。
そんなメッセージが場数を踏むことで培われた自信とともに伝わってきます。
これは凄い。ギターとベースが語っている。
僕も次第に脳内にアドレナリンが放出されてきて
騒ぎたくなってきました。
そして極め付きはドラムが打ちならされる中で
吹き上げられるトランペットとサックスのホーン音。
なんだこの音は。物凄い解放感だ!
これがスカ・パンク!? LONG SHOT PARTY!?

日常で心身に溜まっていたものが全て解き放たれていき
だんだん恍惚としてきます。物凄い解放感です。
LONG SHOT PARTYの演奏が始まってから僕は
人類の未来も、宇宙の構造も、日本の将来も、
一切合切一瞬たりとも考えませんでした。
そんな事はもうどうでもいいと思った。
僕は完全に文学から解放されていました。

みんな色々あるだろうけど
今日この時間この場所においては、とりあえず跳んで踊って楽しんでいって下さい。
LONG SHOT PARTYのそんな強烈でシンプルで
ポジティブなメッセージは、僕のどうしようもない文学性を完全に消し去り、
精神を解放してしまいました。
ほんとヤヤコシイ事はもうどうでもいい。
ずっとここにいたい、と僕は思いました。

以上LONG SHOT PARTYのライブ体験談でした。
ホント行ってよかったです。
やっぱりロックバンドはライブに限ります。
後日僕は、LONG SHOT PARTYのファーストアルバム
MAKING OURSELF UNDERSTOOD IN OUR SOUND
をタワーレコードで購入してしまいました。
今も時々聞きます。そして文学から解放されたあの日のライブを思い出す。
これ王道の楽しみ方。やっぱりライブです、ライブ。

そして仙台にライブハウスが増えてきました。
Zeep Sendai然り。JUNK BOX然り。
僕が学生の頃は仙台MACANAくらいしかなかったような気がします。
あとスコール? 
他にもあったら申し訳ないのですが一応僕は小説家の卵なので許して下さい。
要は気軽にライブを観に行けるようになってきて嬉しいな、という事を
言いたいわけです。

そして小さなライブイベントを覗いたりしてみると
デビュー前のバンドが、パソコンでCD-Rに焼いた自分達の曲を
200円とか300円で売ったりしています。
そういった光景もかつてはあまりなかったような気がします。
そう考えるとパソコンの発展も大きいです。
ちょっと絵の描ける人にCDジャケットをデザインして
もらえば、市販のCDとそんなに遜色のないものが
作れてしまえます。レーベルと契約しなくてもそれなりのCDを作れてしまう。
そしてライブハウスでイベントをはってちょっとずつ売っていく。
そして力をつけていく。
そういった様々な要素の相乗効果で仙台のライブシーンは
盛り上がってきているのかもしれません。
面白くなってきました。

仙台のスカバンドと言えばもう一つ
THE GHOST SYNDICATEも紹介させて下さい。
こちらは活動歴十年以上のベテランバンドです。
僕は依然ひょんな事からこのバンドのサックスの方と
知り合いになるという幸運に恵まれまれまして
THE GHOST SYNDICATEのライブも三回ほど観に行っています。
こちらも中々格好いいライブをやります。
風の便りではTHE GHOST SYNDICATEは
最近フランスに進出したという話です。

LONG SHOT PARTYは全国的に暴れ周り
THE GHOST SYNDICATEはフランスへ進出。
仙台発で全国へ、世界へ。
仙台のライブシーンは盛り上がってきています。



仙台ライブハウス事情-仙台発、全国へ、世界へ-