2003年12月1日月曜日

ラーメン国技場 仙台場所 2003.12.X 初出

暗い話題ばかりが続いた2003年でしたが
年の瀬は、ラーメン国技場仙台場所で
おいしいラーメンを食べてきたのですよ、という話題で
閉めたいと思います。

国分町虎横通りからトコトコと
西公園へ向かって歩いていくと
ラーメン国技場仙台場所が
見えてきます。
国技場、と名打つだけあって
建物は国技館を模した造りです。

入口のパンフレットを手に取ってみたところ

ラーメンは国民食。
その作り手の、技、をぶつけ合う
テーマ形集合館。

とありました。
たいへんよい感じです。
ラーメン国技場仙台場所。

館内に入ると
すぐ左手に神社が目につきました。
朱色の鳥居もあります。
大変よい感じだと思います。

国技館で行われる大相撲は
スポーツ、というよりも
神事に結びついた日本の文化、なのですが
最近では、スポーツ、のようになってしまいました。
こんな事を書くと、僕が外国人力士が
横綱になることを面白くないと
思っている保守的な人のように思われそうですが
そうではありません。

おそらく巨人の長島監督の引退セレモニーに涙した
世代の人達は、外国人力士が横綱になることに
違和感を覚えていることでしょう。
で、中田選手やイチロー選手の海外での
活躍に胸を躍らせている世代の人達は
自然に受け止めていることかと思います。

大相撲は日本がメジャーなのだ

と取ればすっきりするのですが
中々そうはいかない。
本当に現代はあらゆる分野が過渡期なのだな、と思って
しまいます。

僕は外国人力士が横綱になることは
全く構わないと思います。
ただ、大相撲というのはスポーツではない、という点を
理解してもらえたらよいかと思います。
どうしてしまったのでしょう、僕は。
横綱審議会の委員にでも
なりたがっているのでしょうか。

閑話休題。
相撲の立会いは、力士同士の
阿吽の呼吸、で始まるような気がします。
僕は相撲はあまり詳しくないので
間違っているかもしれません。
ただレフリーが号砲をかけないで
始まるスポーツというのは
あまりないのではないかと思って
しまうのです。
阿吽の呼吸、のエッセイにも
書きましたが、僕は、阿吽の呼吸、を
日本人同士の、阿吽、ではなく
人類の普遍的なものに広げて考えています。
つまり、国籍、人種、を超えて
人間であるならば当然、阿吽の呼吸、で
分かりあえる部分があると思うのです。
だって卵から生まれる人類はいないのだから。
それを妨げているのは、無知と偏見、でしょう。
とてもいいではないですか、阿吽の呼吸、による立会い。

力士は土俵下で力水をつけます。
水、H2Oです。
水の話、のエッセイにも書きましたが
地球上の万物の活動は水の循環によって
なされています。
地球上の大量の水は、太陽熱によって蒸発して雲を形成し、
雲は雨を降らせ、その雨は山肌を洗い
地中のミネラルを含んだ地下水を湧きたたせます。
そしてその湧き出した水分がまたまた太陽熱によって
蒸発し、雲、を形成します。
そういった循環を、宇宙空間から見ると
蒼く見える、わけです。
太陽系の蒼い惑星、地球。

その蒼い地球に住む人類の活動もまた
水の循環によってなされています。
産まれてきた赤ん坊の体は、90パーセントが
水分だそうです。
そしてその割合は成人となるころに70パーセントにまで
下がり、老年に至ると50パーセント以下になるそうです。
子供が水々しく見えて、老人がシワクチャに見えるのは
人体の保水力の違いだ、と言えるのだと思います。
要は、人体の保水力が高ければ高いほど若く見える、という事です。
動物さんも、水、を取らなければ死んでしまうでしょうし、
植物さんも、水、を取らなければ枯れてしまいます。
地球も人類も、動物さんも植物さんも昆虫さんも
粘菌さんも、あらゆる生物は、水、によって
その生命を保たれているわけです。
とてもいいではないですか、土俵下での、力水。

そして力士は土俵に、塩、を撒きます。
全ての生命は太古、海から来た、というのが
現在の定説のようですし
そもそも人体は塩を切らしたら持ちません。
盆地甲斐の武田信玄が塩を切らしていた時
敵対していた越後の上杉謙信が
塩を送ったという戦国美談、敵に塩を送る、の故事は
このエッセイでも以前触れました。

神社でも、水、と、塩、は欠かしません。
神聖なる、水、と、塩、です。
とてもいいではないですか、塩による土俵の清め。

相撲道は、礼儀作法、を、非常に重んじます。
健全なる精神は、健全なる身体に宿れかし、と
古代の詩人も嘆いたように
えてして体力のある者は
教養や人格に問題があったりします。

戦いや争いに勝つと、男性はテストステロンが
放出されて性欲が高まる。
スポーツ大会などで見事勝利し
テストステロンが大量放出されている状態の男性は
多くの女性にとって魅力的であろう、という話は
このエッセイでも度々書いてきました。
でもやはりそういった、人間の動物的な面、を
開き直ってみせてはいけないのではないかと
思ってしまいます。

国技、相撲、においては
強いだけでは横綱になれません。
教養と人格が求められます。
たとえポーズであっても
横綱ともなれば、ちょっとした古典の一節くらいは
述べられなくてはなりません。

これが、スポーツ、となると
話が異なります。
ドーピングをやろうと
相手に嫌がらせをしようと勝てばよい、という話に
なってしまいます。
僕はNBA入りを目指して真剣にバスケットボールに
取り組んでいた時期があるので
その辺はよく分かります。
バスケットボールはとても合理的な、スポーツ、です。
気合十分、という世界とは全然違います。

僕がNBA入りを目指していた頃は
悪童、ことデニス・ロッドマンが
まだデトロイト・ピストンズにいました。
デトロイト・ピストンズは、当時、バッドボーイズ、と
呼ばれていて、勝つためなら何でもやる、というスタイルでした。
ファウルも手の内、暴言、も、突き飛ばし、もあり。
スポーツマンシップなど全く関係ない、という感じでした。
確かに勝てるし合理的ですが
相撲道、とは程遠い世界でした。

相当話が逸れてしまいましたが
大相撲は、スポーツ、ではなくて
神事に結びついた日本の文化なのだよ、という話なのです。

ラーメン国技場仙台場所内の神社さんにも
水、と、塩、が供えてありました。
館内右手には、三瀧山不動院の
神様、仙台四郎さんもおりました。
大変よいな、と思ってしまいます。

僕は何を書いているのでしょう。
早くラーメンを食え、という感じですね。

実は僕は、ラーメン国技場仙台場所に何度か来ていて
熊本好来の黒ラーメン
喜多方坂内食堂の支那そば
和歌山紀一の中華そば
と、食べ歩いておるのであります。
7店出店しているので
3店だけ取り上げるのは
フェアではないので
とりあえず、旨かった、とだけ書いておきます。
いずれ全店制覇してやろうともくろんでいるところで
あります。

首くくる、縄切れもなし、年の暮れ

武士は食わねど、高楊枝

GIVE ME A EARTH!


みなさん、どうぞよいお年をお迎え下さい。




-ラーメン国技場 仙台場所-




関連

  阿吽の呼吸
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20038_1382.html
  水の話(1)~(5)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038_1467.html


戦後日本システム崩壊の前兆(3)サカキバラ事件=神の死亡 2003.12.X 初出

サカキバラ事件。これはもう、神の死亡、だと思います。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と評していた
思想家がいましたが、それは、神の死亡、という意味かと
思ってしまいます。
そしてサカキバラ事件が、少年達による
訳の分からない、凶悪犯罪の引き金になったような気がします。

あの事件は確か新興住宅地で起きたと思います。
新興住宅地には、近所のオヤジ、もいないし
実のオヤジ、が会社に取られて単身赴任でもすれば
家庭は母親だけの母性的なものになってしまう
という問題点を指摘する人もいますが、
僕はとりあえず、神の死亡、について考えて
みたいと思います。

まず、新興住宅地、の問題点を考えると
新興住宅地にはまず、神社、がないだろうし
核家族であれば、神棚、も、仏壇、もないでしょう。

サカキバラ事件は、ニーチェだ、と指摘されると
同時に、ジョルジュ・バタイユの、エロチズム、でも
あると言われます。
これはどちらも、神の死亡、なのです。

マルキ・ド・サド侯爵の、ソドムの百二十日、という
小説は、万有引力の支配するこの地球上において
これ以上逸脱した性行為は不可能、という究極の
レベルに達している、というのは、このエッセイで
何回か述べてきたところです。
おそらく人間の、エロティズム、であるとか
性欲であるとか、獣性であるとか
悦楽淫蕩性であるとか、ディオニュソス性であるとかを
開放し、徹底的に突き詰めていくと
フェティシズム、体液趣味、糞尿趣味、SMプレイ
強姦、近親相姦、と、異常度を高めていき
手足切断、皮剥ぎ、という段階を経て
最終的には、性の対象を殺してしまいたい、という
ところに行き着くのでしょう。
カニバリズム、というのは、性の対象を殺して
食べてしまうものですが、これが地球上の人類の
性表現の限界だと思ってしまいます。
どうして、地球上の、と遠まわしな書き方を
するのかというと、僕は人類が
宇宙空間でセックスしようとしたら
きっと人類の、性文化、も、劇的に
変わるのではないか、と考えているからなのです。
でも地球上においては
カニバリズム、がマックスだと思います。

なんともおぞましい話ですが
性の、内的体験、としては
その種の人にとっては地球上における
究極の快楽、なのでしょう。

神の死亡、を迎えてからだいぶ経つ
アメリカ社会では、強姦殺人、が非常に多いようです。
エロティズム、であるとか
性欲であるとか、獣性であるとか
悦楽淫蕩性であるとか、ディオニュソス性であるとかを
開放し、徹底的に突き詰めていくと
結局は、強姦だけではすまず
性の対象を殺してしまわないと満足できない、という
段階に至ってしまうのだと思います。
後は、食べるだけ、です。
アメリカ社会に、カニバリズム、が登場しないことを
同盟国の人間として願います。

こうして書いてきてみると
人間というのは本当に、どうしようもない造り、を
しているな、と思ってしまいます。
セックスには、加虐性と被虐性がどうしても
付きまとってしまいます。
俗に、正常位、と呼ばれる、
最もオーソドックスな体位で男女が交わっても
どうしても男性が女性を攻めている、という
感じがしてしまいます。
以前にも書きましたが、男性は戦いや争いに勝つと
テストステロンが放出されて性欲が高まるのです。
男性はやはり、攻撃性の本能、を持っているのだと
思います。
スポーツ大会などで見事勝利し、テストステロンが
大量に放出されている状態の男性は
おそらく多くの女性にとって魅力的でしょう。
私はいや、戦いや争いに勝てなくても
誠実で優しい男性が好き、という女性も最近は
多いような気がしますが
そこには、戦いや争いに向かわない男性は
テストステロンが大量放出されることもないので
浮気に走らず、いつでも一緒にいてくれて
確実に毎月の家賃7万円を払ってくれるはずだ、という
本能的計算があると思います。

八木山動物園のエッセイにも書きましたが
僕が八木山動物園で色んな動物達の性交を
観察したところでは、立ちバック、の体位が
動物界では主流のようでした。
でもやはり、♂が♀を攻めているように見えました。
こうして書いてみると、人間というのは
本当に、どうしようもない造りをしているな、と
思ってしまいます。
確かに人間には、動物的な部分があります。
でも人間は動物ではありません。
詳しくは、僕著、八木山動物園、のエッセイを
読んで頂きたいのですが
人間と動物を決定的に違う存在にしているのは
言語活動、です。それは今回のテーマではないので
踏み込みません。

以上見てきたようなセックスにおける
加虐性と被虐性に対する人々の理解が深まってきたので
ソフトSM、が普及してきたのかもしれません。
でも、そうして地球上の人類のセックスによる
快楽を突き詰めていけば、行き着くところは
強姦殺人、や、カニバリズム、が限界だと
僕は思います。
SMプレイの、S、サディスト、こと
マルキ・ド・サド侯爵は
キリスト教が支配する世界にあって
こんな事ばかり書いていたので
逮捕されて牢屋に入れられたりしました。
サド侯爵の偉大なところは
牢獄の中にあってもまだ
エログロの話を書き続けていた、というところです。
マルキ・ド・サド侯爵は、普段は、誰からも愛される
大変マナーのよい洗練された、ジェントルマン、だったと言われています。
この辺が小説の面白いところなのです。

日本のSM文学の巨匠、団鬼六さんは
プライベートでは一度も女性を
縛ったことがないそうです。
SM文学の巨匠が、一度もプライベートで
女性を縛ったことがない。
変態性欲をひたすら書き続けた
マルキ・ド・サド侯爵が、誰からも
愛されるマナーのよい、ジェントルマン、だった。
小説というのは奥が深いし
分かりません。
小説とは何か、のエッセイにも書きましたが
やはり、テキスト、が全てなのです。

と少々話が逸れてしまいましたが
サカキバラ事件は、神の死亡、なのではないかという
話なのです。
神が生きていたら、あんなことはできない。
日本人がこれ以上神仏を尊ぶ姿勢を忘れていけば
日本社会でもそのうち、強姦殺人、が増えていく
でしょう。
だって、セックス、セックス、とやっていけば
この地球上において究極は、性の対象を殺す、しか
ないのですから。
それが、人間の造り、なのだと思ってしまいます。
造物主、には勝てないような気がします。

神が死んで久しいアメリカ社会では
チャイルドポルノ、も出ているらしいです。
日本でも女子高生の、援助交際、が
問題にされていたのは記憶に新しいところですが
最近ではもっと性の対象が低年齢化してきて
先日は、小学校の教員が、女子児童に
性的暴行を加えようとして逮捕される、という
おそましい事件、が起きてしまいました。
日本社会がこのまま神仏を尊ぶ姿勢を忘れていけば
いずれ日本社会でも、チャイルドポルノ、が
出てくるでしょう。
既に見てきたように、それは、自然の摂理、のような
気がします。
造物主、には勝てないような気がしてしまいます。

それは、オカルトがかった、神の裁き、とかの
話ではなくて、単に、人間の造り、が
そうなっているだけのような気がします。

人類の地球上におけるセックスの快感など
おのずと限界があるのです。
経済学における限界効用逓減の法則
心理学におけるマズローの欲求段階説を
見てもそれは明らかです。
連続強姦殺人犯、は、いずれ、強姦殺人、にも
飽きるでしょう。カニバリズムに走って
性の対象を食べてみても、そのカニバリズムにも
いずれ飽きるでしょう。
地球上において、マルキ・ド・サド侯爵を
超えることはできないと思います。
この先、宇宙がインフレーションから
デフレーションにでも向かわない限り
ソドムの百二十日、は越えられないと僕は思います。

旧約聖書においては、ソドムとゴモラの街は
神の怒りに触れて滅ぼされた、ことになっていますが
神の怒りが及ばなくとも、堕落淫蕩を繰り返していると
たぶんその社会は滅ぶのだと思ってしまいます。
それは、自然の摂理、なのでしょう。
道徳の問題や、善悪の問題というよりも
自然の摂理、のような気がします。

♂♀生・性・聖のエッセイにも書きましたが
性を絶つのも、性にまみれるのも
エクソダス(脱自体験)して
生の枠組みを超えて、聖、に至る方法なのだと僕は
考えています。
でも性にまみれる方法が世に広まると
社会は壊れてしまうのだとも思います。
ロシアのラスプーチンという
大酒飲みで女好き、という教祖の宗派は
滅びました。
日本でも、真言立川流、という
肉食と男女混合による、即身成仏、を掲げた宗派が
あったようですが、これもまた滅びました。
それが、自然の摂理、なのだと思います。
伝統的でスタンダードとなっている宗教では
たいてい僧侶が、性を絶つ、ことで、聖、に至る
方法を取るようです。
その辺の事情が分かっていないから
妻帯を許されないキリスト教の牧師が
少年愛に走ったり、女人禁制の高野山で
男色が生まれるのではないか、というのは
♂♀生・性・聖のエッセイにも書いた通りです。

弘法大師空海は、性にまみれてエクソダスする手法を
知っていたのに、敢えて封印したそうですが
正しい選択だったのだと僕は思ってしまいます。
そして弘法大師空海は、現在も多くの日本人に
愛されている。
これもまた、自然の摂理、なのでしょう。

キリスト教のピューリタンに始まった
近代社会の価値観に基づいて
真言立川流、を、邪宗だ、と非難してみたり
麻原彰晃は、信者の女性とセックスして
いたから邪宗だ、と非難してみたり
サイババは少年愛の傾向があるから
邪宗だ、と非難してみたりする人が
後を絶ちませんが、宗教とは本来
危ない面を抱えているわけです。
宗教が、墓場の平和、のようなものに
思われてしまっているのは
日本仏教が、葬式仏教化してしまって
いるからでしょう。
人間は危ないし、宗教も危ないのです。

宗教にはそういった危険な面があるので
結局、性にまみれる手法を封印した
弘法大師空海、であるとか
イエス・キリストであるとかが
後々も人々に愛される。
それも、自然の摂理、なのでしょう。
たぶん、性、が社会に横溢しては
社会は壊れるのです。

女性が痴漢に遭って、警察に相談しに行ったら
その警察官がカメラ付ケータイで
スカートの中を撮影していた、なんてことになったら
その社会はもう終わりでしょう。
でも日本社会はそうなりつつあります。

昔は山間地におどろおどろしい、秘法館、という
大人のおもちゃ屋さん、がありましたが
性情報と社会の住み分けとして
正しい方法だったと僕は思ってしまいます。
性にまみれてエクソダスする手法は
秘法、でよいのです。

最近では、かつては裏通りにあった
性風俗店であるとかアダルトグッズ屋さんであるとかが
表通りに出てくるようになりましたが
これでは社会は壊れてしまう。
性情報、は、山間地のおどろおどろしい、秘法館、にあり、
セックスは、成人男女の、秘め事、でなくては
ならないと思います。
それが弘法大師空海の姿勢なのだと思います。

弘法大師空海は、ボーリング技術でも知っていたのか
日本各地の温泉を掘り当てたとも言われていて
弘法の湯、も多数残しました。
僕は温泉街に住み着いた湯女(ゆな)は
売春婦の役割も果たしていたのではないかと思います。
川端康成の小説では、日本の自然風景の中で
インテリ学生と温泉芸者の、淡い恋、が繰り広げられたりしますが、
とても日本的だな、と思ってしまいます。
そこには、性的搾取、という悲壮感がありません。
でも社会が完全に近代化・西洋化してしまった現在では
そんな、風情、はもうありません。

アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激すると気持ちが
いいらしい……

なんて話になってしまいます。

昔、性の解放、と叫ばれていた時代があったようでしたが、
性を解放したら、行き着く先は、チャイルドポルノ
強姦殺人、カニバリズム、なのです。
同じことばかり書いていますが
マルキ・ド・サド侯爵が発見したように
人間の地球上での性的快楽など
おのずから限界があるわけです。

禁欲的な社会において、性の解放、を行えば
当初は刺激的でしょうが、20年も30年もすれば
弊害が出てくる。
3S(セックス・スポーツ・スクリーン)政策を考えた
アメリカ政府は、やはり頭がいいな、と思ってしまいます。
黄色い猿どもが嬉しそうに性にまみれて滅んでいく姿を
喜んで見ているのではないだろうか。
人間は、造物主には勝てないのだと思います。
僕は、神を信じろ、という布教活動をしているわけでは
ありません。
自然の摂理、の話をしているのです。
文系人間の数学講座、にも書きましたが
神とは長さであり、幅であり
高さであり、深さである、という人もいます。
神とは単なるこの、宇宙、世界、人間の
法則ではないかと思うことがあります。
善因善果、悪因悪果という仏教の考えは
こうすれば、ああなる、という因果律に基づくもので
それに対して、キリスト教やユダヤ教などの一神教は
神が与えてくれる、神に選ばれる、という予定説の考えをとりますが、
その予定説においても
究めていくと、神とは長さであり、幅であり
高さであり、深さである、というとこへ行きます。
つまりある種の法則。
それを仏教的に言えば、仏法、という事に
なるのかもしれません。

以前聖に連なるエクソダス(脱自)体験には
並みのセックスなど話にならない快感があるはず、と
書きました。
そしてそこに至る試行錯誤の過程において
多くの発見があるはずだ、とも。
でもやはりオウムのように薬物に
頼ってはいけないような気がします。

セックス教団、真言立川流においては
しゃれこうべ、を置いて
金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅を広げて
その上で男女が交わっていたようです。

性にまみれるにしても
現代のアダルトビデオなんかと違って
志の高さが違うのです。

何を言いたいのか、と言いますと
性にまみれるにしても
性を絶つにしても
神仏の名の下において行われていたのですよ、という
話なのです。

理念を持たない国家の
神仏に全く触れることのない
新興住宅地で、異常な性情報の氾濫に
さらされた鋭敏な感覚の少年が
透明な存在の不安、におびえて
自らのうちに、バイオモドキ神、を作り上げ
エロチズムの極限としての快楽殺人に
走るのは十分考えられうります。
やはりサカキバラ事件は、ニーチェ
バタイユ、神の死亡、だったと思ってしまいます。

共産主義思想の、唯物史観(この世は物だけ)の
影響によって、戦後、神を否定してみせるのが
格好よく頭がいい、という風潮ができて
しまいましたが、やはり神を殺してはいけない
ような気がします。
唯物史観に立つはずの共産主義国家
朝鮮民主主義人民共和国が
金総書記を、神格化、している事情を
考えればそれは分かります。

ラッセルという哲学者は
宗教はなくてよいものである。
否、それはむしろ悪である。
宗教は、まだ完全には成長しきらない
人間というものを表す
一つの特徴である、と述べています。
つまり、神は悪だが、必要悪だ、ということです。

以上見てきたように
人類の地球上における、セックスの快楽、など
たかが知れているのです。
セックスをどんどん解放していっても
強姦殺人、カニバリズム、が限界なわけです。
それでは社会が壊れてしまう。

じゃあどうした性愛の形が理想的か、となれば
これは、神の名の下に永遠の愛を誓った男女が
協力して家庭を営んでいく、という形がベストのような気がします。
僕は神社は好きですが、右翼ではないので
この場合男女が永遠の愛を誓う場所は
神社の神前であっても、キリスト教のチャペルで
あってもよいと思います。
折口信夫翁によれば、神との了解が、うけひ(誓約)、であり、
そこから男女の誓約法が分化して、ちかひ、となったそうです。
信用の原点は、神との、うけひ、ではないかと
思ってしまいます。
法治国家であるアメリカ合衆国でも
最後は聖書に手を置いての
宣誓陳述、となるようです。
浮世の荒波を乗り切るために
多少の嘘はついたとしても
聖書に手を置いての、宣誓陳述、で
嘘をつくことは許されない。
それがアメリカ社会の、信用、の原点と
なっているのでしょう。

じゃあ、婚前交渉はいけないのか
不純異性交遊はいけないのか
離婚はいけないのか、不倫はいけないのか
浮気はいけないのか、同性愛者はいけないのか
母子家庭はいけないのか、シングルマザーはいけないのか、と、
個別の問題は出てくるでしょうが
一応理想的な性愛の形というのは
神の前で永遠の愛を誓った男女が
協力して家庭を営んでいくものなのだよ、というラインは
残さなければならないような気がします。
性をどこまでも解放していったら
それは、強姦殺人、カニバリズム、に至るからです。
フェティシズム、や、体液趣味、糞尿趣味や
SM、や、近親相姦、というのは、昔は、変態、とされていたのに、
現代では、アダルトサイトやアダルトビデオのカテゴリー分けで
当然のように記されています。
個人の性癖は、尊重しなければならないでしょうが
僕はこれ以上おそましい性犯罪の話は聞きたくありません。
地球上のセックスなどきりがないのです。

では地球上における究極の男女の性愛表現の形は何か、と言えば、
これは僕は、キス、ではないかと思います。
キス、チユー、であります。
なんかテレますね。性愛においてはテレや恥じらいは
非常に大切だと思います。
たぶん、アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激しても
男女がテレながらする、チユー、キス、
には適わないと思うのであります。
キス、チユー、です。ABCの、A、です。
古い言葉ですね。
昔は、A=キス、B=ペッティング、C=セックスだったのです。
昔の日本人はウブだったので
人前で、セックス、と言えなくて
ABC、という隠語を作ったわけです。

文の起こるや必ず由あり。
天朗なれば即ち象を垂れ
人感ずれば即ち筆を含む。

弘法大使空海の言葉です。
言葉には訳があるのです。
やはり、訳の分からない事件、を起こしている人達の半数くらいは、
自分で何をやっているのか分かっていないのだと思います。
言葉が貧困になってきているから。

話が逸れてばかりですが
僕は、満天の星空の下で若い男女がテレながら
する、キス、チユー、が地球上における
究極の性愛ではないかと思うのです。
仙台七夕祭りの夜に
ベガとアルタイル、織姫と彦星のように
男女がテレながらいとおしそうに
キスをするのがいいと思う。
とてもプラトニックだな、と思われるかもしれませんが
プラトニックラブ、とは、まさに
プラトン的愛、なのです。
プラトンとはソクラテスの弟子にあたる哲学者です。
プラトンは、宇宙の法則に思いを馳せるまさに
プラトニックな人、でした。
僕は、アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激すると
気持ちがいいらしい、というような地上的、ディオニュソス的、
ニーチェ的、ツァラトゥストラ的性愛を繰り返していると
その社会は、宇宙の法則によって滅ぶのでは
ないかと思ってしまいます。
満天の星空の下、ベガとアルタイル、織姫と彦星のように
若い男女がテレながらキスをする、という
プラトン的愛、プラトニックラブ、が
宇宙の法則にかなっているような気がします。

昔の売春婦には、体は売っても
キスだけはさせない、というこだわりが
あったようですが、そういうこだわりは
大切だな、と僕は思ってしまいます。

村上春樹さんの最新作、海辺のカフカ、では
神社の石、をひっくり返す前に
登場人物が神社の前で若い女性と
落ち合い、売買春、を行うという場面がありましたが
僕は、あ、これはギリシャやローマでかつて
行われていた、神殿売春の事だ、と思いました。
宗教の危ない面ではありますが
それにしても、神の名の下での、売買春、なわけです。
神殿売春にはたぶん罪の意識はなかったと
思いますが、それでも、神殿売春、なわけです。
神を殺してはいけないのだと思います。
そして村上春樹さんは
マッカーサー元帥の話題に触れてみせてから
神社の石をひっくり返した。
やはり村上春樹さんは、すごいな、と思ってしまう。

神のことは、僕自身まだ分からない事が多いです。
でも、文明の衝突、の時代にあって
ますます重要になってくると思います。
それぞれの文明の根底にあるのは
神、なのですから、文明の衝突、は
ある意味、神々の戦い、とも取れます。

神、とは、宗教のことに限らなくて
マルキシズムも科学も
形を変えた、神、でしょう。
つまり人間が生きる上で
或いは共同体を成立させる上で
信じるにたるべき形而上学のことなのだと
思います。

という訳で僕は、サカキバラ事件、は
神の死亡だと思うのであります。
日本社会で、人間が生きる上で
或いは共同体を成立させる上で
信じるにたるべき形而上学が
壊れた瞬間だったような気がします。



-戦後日本システム崩壊の前兆(完)-



関連

  文系人間による数学講座(1)~(5)
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  八木山動物園(1)~(5)
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  想像力を摩滅させるもの(1)~(6)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/1200311.html


海辺のカフカ (上) (新潮文庫) 海辺のカフカ (下) (新潮文庫)
ツァラトゥストラ〈1〉 (中公クラシックス) ツァストゥストラ〈2〉 (中公クラシックス) 
ソドムの百二十日
テストステロン―愛と暴力のホルモン
三教指帰 (中公クラシックスJ16)
ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
性のアウトサイダー (中公文庫)
約束された場所で―underground〈2〉
エロティシズムの歴史―呪われた部分 普遍経済論の試み〈第2巻〉 (哲学文庫)
日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか




戦後日本システム崩壊の前兆(2)ヒ素入りカレー事件=共同体の崩壊 2003.12.X 初出

訳の分からない事件、の流れが始まった90年代後半の
象徴的事件として僕が記憶している二点目は
ヒ素入りカレー事件、です。
これは夏祭りで出されたカレーライスに
ヒ素が混入されていた、という事件でしたが
その後、職場のポットに異物が混入されていた、とか
似たような事件が続きました。
そういう意味でも、象徴的、でした。

地域共同体、や、職場の花見、などで
出されたカレーライスやトン汁に
毒物が入っているのでは、となったら
お祭り、どころか、近所付き合い、すら
成り立ちません。
そういう意味では、僕は、というか多くの方が
指摘していたように、あの事件は、共同体、に対する
重大な挑戦でした。

会社でも地域でも、人間が集まる全ての、共同体、は
その構成する一人一人の人間に対する、信用、が
なければ成り立ちません。

うちの地域のお祭りでは、どうも食べ物に
何か入れてる人がいるらしい……

うちの会社では、ポットの水に
何か入れてる人がいるらしい……

となったら、その、共同体、は
もう成立しないでしょう。
そんな、夏祭り、や、会社、には
行きたくないと誰もが思うからです。

最近でも

うちの大学のあるサークルで
女の子に酒を飲ませてから強姦したりしているらしい……

というちょっと信じられない事件がありました。
そうなれば、もちろんその大学の、サークル、という
共同体ももう終わりでしょう。
そんなサークルには誰も行きたくないからです。

ゲセルシャフトとゲマインシャフトのエッセイにも
書きましたが、日本社会には
かつて、家族的企業経営、というものがあって
会社は家族、だったわけです。
戦後のある時期までは、復興、や、高度経済成長、が
全ての日本人の悲願だったので
家族的企業経営、でも問題なかったのだと思います。

つまり、ゲセルシャフト(法律や契約などのクールな社会)と
ゲマインシャフト(地縁・血縁・地域共同体)の利益・目標が、
復興、や、高度経済成長、という事で一致していたわけですから。

当時は、会社勤めのお父さん達は
日本の復興のために働く、英雄、だったはずです。
きっと地域社会でも、学校でも同窓会でも
働くお父さん達は尊敬された事でしょう。

でも2003年現在、復興、や、高度経済成長、といった
日本人全てが共感できる目標はありません。
構造改革、というのは、むしろそういった
戦後復興期型の社会システムを壊します、というものです。
卵党総裁演説、のエッセイにも書きましたが
もう壊さない事にはどうにもならない状況です。

ゲセルシャフト(法律や契約などのクールな世界)と
ゲマインシャフト(地縁・血縁・地域共同体)の利益は
もう一致していないわけです。
つまりもう、会社は家族ではない。

一部上場企業といえども、全ての企業が
日本のために、頑張っているわけではありません。
安い人件費が手に入るのであれば
企業はどんどん海外へ出ていきます。
現在の大手企業の業績の回復は
従業員の解雇によるものだと
言われています。もう会社は家族ではないわけです。
株式会社の目標は、日本の復興、ではなくて
株主に利益を還元すること、になってしまったのです。
それが資本主義だ、と言われれば
それまでですが、昨日まで一緒に働いていた人達を
経済合理性だけで簡単に解雇するというのは
いかがなものかと思ってしまいます。
こういう感覚を持っている僕は
もしかしたら、家族的企業経営、にまだ毒されて
いるのかもしれません。

それは兎も角、株式会社の目標が
日本の復興、ではなくて
株主に利益を還元すること、になってしまったので
会社勤めのお父さん達は
会社で頑張っただけで、地域共同体や
親戚の集まりや同窓会でも尊敬されるという事は
もうないわけです。

ヒ素入りカレー事件の話をするのに
どうして、家族的企業経営、の話をしているのか
というと、どちらも、共同体、の問題だからです。

大きな目標のもとで、共同体各自が
何かに取り組んでいる間は
エネルギーが一つに向けられるのでよいのですが
現代のように、国家的目標喪失の時代にあっては
共同体を構成する人間のエネルギーなりリビドーなりが内部化し、
陰湿な暴力として身近な共同体内部の者に
向けられてしまうのではないか、という話なのです。

前回に続いて政治の話になりますが
政治家が次の時代の行きすえを示せて
いないので、行き場のなくなったエネルギーが
内部化してしまっているだと思ってしまいます。
つまり世界に向かって、日本がこういう理想を
示してみせるのだ、という目標がないので
エネルギーが内部化し、身近な人間に対する暴力になってしまう。

世界に向かって日本がこういう理想を示してみせる
といっても、それは侵略に向かっていけ
という話ではなくて、憲法にもあるように
国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ
という姿勢を示してみせる事ではないかと思います。
ただ憲法にはそう書いてあるのですが
国際社会において、日本の政治家が一番不名誉な存在
なのではないか、と思えるくらい一頃は政治が
ひどかったので、言葉が死んでしまっていたわけです。
前回も書きましたが、今回の衆議院選挙では
族議員が相当落選し、不名誉な政治家も相当落選した
ようなので、政治家が尊敬される時代が戻ってくる
かもしれません。でも歩みは遅いような気がします。
現在、多くの子供達にとっては、中田英寿選手や
イチロー選手、の方がむしろ、国際社会における
名誉ある地位を占めている、尊敬できる存在なのではないかと
思ってしまいます。
僕は、オウムの地下鉄サリン事件の年に
つまり1995年に、野茂英雄投手が国内で馬鹿にされながらも
海を渡って成功してしまったのは象徴的だったと思います。
現在海外と関われる日本人には希望があります。
国連の緒方貞子さんなども
国際社会における名誉ある日本人、だと
僕は思ってしまいます。
でもそういう日本人は、まだ少数派でしょう。
むしろ、社会の敷いたレール、がなくなって
何をしたらいいか分からない
何がしたいか分からない、という人が増えている
ような気がします。

ある意味、ファシズム、全体主義、が最も
手っ取り早く全ての問題を解決する方法だったり
するわけです。
だから、日本はファシズム前夜だ、と言う
人がいるのも肯けます。
ヒットラーのような英雄が出てきて
手っ取り早く全部片付けてくれ、と思っている人は
結構多いと思う。
僕は、アレキサンダー大王のような人に
出てきて欲しい、と話をしている人に会った事があります。
でもそういったアプローチが間違いであることは
歴史が示しているし、7%理論にも書きましたが
メディアが多チャンネル化して
しまったので、国民を情報的に囲い込むのももう無理です。
根気強く、一つ一つの問題を片付けていくしかないわけです。
そして霞ヶ関支配が終わるのだから
お上(おかみ)が何とかしてくれるだろう、と
思わないで、社会を構成する、市民、としての
自覚を持った一人一人が小さな行動を起こして
いくしかないわけです。

こうして書いてみると、やはり政治です。
社会の歪み、を解決するのは
政治の仕事なのです。
この政治の舞台が、官僚や業界と
癒着した族議員が跋扈する利益誘導だけの
舞台になってしまっていたのが
70年代以降の諸問題の全ての原因のような気がする。

政治家、と、政治屋、という言葉があって
政治家、は尊敬されても、政治屋、は
尊敬されないのだと思う。
バブルの頃は、都内の高級料亭で、
なんだか上手いことやっている
政治屋、が、政治家、だと思われていました。
みんな、そんなもんだろ、と諦めていたような気がします。
高級料亭で芸者と遊びながら
票を買ったり、官僚に口利きしたり
するのが、政治家、だと思われていたわけです。
経済が回っているからそれでいいか、という要因も
あったと思います。
政治家、というのは
金と女にまみれながら汚いことをしている人達
だとずっと思われていたわけです。
でもそれは、政治屋、であって、政治家、ではないのです。
そういう、政治屋、を永田町に跋扈させてしまっていた責任は
国民の側にもあるのでしょう。
その国民の水準以上の政治家は生まれないのだと
何かの本で読んだ事があります。

今回の衆議院選挙では
政治屋、がかなり落選しました。
政治の可能性が戻ってこれば
政治家、が尊敬される時代が戻ってくるかもしれません。

現在、国が抱える膨大な赤字国債は
日本人がまだ日本を愛しているからヘッジされていますが、
これが日本人自身によって、日本が見放されるようになり
外国の口座に資金が流れたりするようになると
つまり、キャピタル・フライト(資金の海外逃避)が
始まると、ヤバい、と言われています。

その段階に至れば、共同体内部の暴力も
ますます陰湿化していく事でしょう。
目標喪失、どころか、共同体の成員によって
見放されるわけですから。
僕はそんな日本は見たくありません。

でもいい材料は、ほとんどありません。
2003年死語辞典のエッセイにも書きましたが
平均株価が上昇すれば、日本人全員にパイの分け前が
あるのだ、という、常識、も、幻想、になりつつあります。
IT技術は、短期的にはデフレ要因です。
それに不況の長期化で、世界一高い、と言われていた
貯蓄率、も落ちてきているようです。
生活費のための取り崩しの段階にきているわけです。
郵政事業の民営化によって、膨大な財政投融資の資金も
いずれ政府の自由にならなくなるでしょう。
預金封鎖しても赤字国債をペイできなくなると思います。
そうなると、戦争、か、増税、しかありません。
戦争、も、増税、もいけない、という社民党が
今回の衆議院選挙で壊滅的に議席を減らしたのは
よく分かるような気がします。
もう庶民はそんなに無知ではないのだな、と思ってしまいます。
戦争、も、預金封鎖、も嫌なら、増税、するしかないわけです。
それで先日の、2004年税制改正で120億円の増税、と
なってしまったのでしょう。

日本政府はアメリカ政府の赤字国債を大量に引き受けています。
僕はアメリカ政府は、これ以上日本政府を苛めない方が
よいような気がします。
アメリカ政府の赤字国債を売りに出しますよ、という
気合の入った政治家が出てきて国民に支持されて
しまうことがあるかもしれません。

今となっては信じられませんが
60年代頃には、若者達が難しい本を片手に
喫茶店で政治の話をする、というスタイルが
一番格好良かったのだそうです。
政治の可能性が戻ってこれば
またそんな、政治の季節、がくるのかもしれません。
誤解されると困りますが、僕はそういった、混乱、を
望んでいるわけではありません。
ただ状況はどうしようもない段階に
近づいていると思うのです。

今回仙台インターネットマガジンの
衆議院選挙特集をお手伝いさせていただいて
分かったのですが
年金貰えんの? とか
仕事なくてフリーターしてるしかないんすけど……とか
国の借金どうすんすか? といった
若者の素朴な疑問をぶつけてみても
候補者の方々は、ちゃんと回答をくれました。
中にはちょっとムッとした回答もありましたが
それでよいと思いました。
政治に可能性を感じられれば
テロは起きないと思います。
前回も書きましたが
何を言っても分からないから
一発おみまい、となるのがテロのような気がします。



-戦後日本システム崩壊の前兆(3)へ続く-

https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/12/3200312.html


関連 

  

  ゲセルシャフトとゲマインシャフト
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_7088.html
  卵党総裁演説(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037.html


戦後日本システム崩壊の前兆(1)地下鉄サリン事件=霞ヶ関支配の終焉 2003.12.X 初出

90年代後半から、一年に一度は
訳の分からない事件、のニュースを聞くようになり
98~2002年にかけては、
それが、三ヶ月に一度、になり
2003年になってみたら、一ヶ月に一度
いや、一週間に一度、は
訳の分からない事件、のニュースを聞くように
なってしまいました。

こういった、訳の分からない事件、の
流れが始まった90年代後半の象徴的な事件として
僕は3つ記憶しています。
地下鉄サリン事件、ヒ素入りカレー事件
サカキバラ事件、です。

先日読者の方から、大阪河内長野家族殺傷事件、について
どう思いましたか、という質問を受けたのですが
あの事件も、死ぬ前に殺してみたかった、という発言に
見られるように、訳の分からない事件、でした。
90年代後半から始まった
こういった、訳の分からない事件、の流れを
自分なりにまとめておかないと
混乱してしまいそうなので
その背後にあるものを、僕なりに探っていきたいと
思います。

今回はまず、地下鉄サリン事件、について
僕なりにまとめてみたいと思います。

僕が子供の頃、つまり1970年代から80年代に
かけては、異常なオカルトブームでした。
UFO、超能力、ニューエイジ
といった分野のものが凄い人気だったのです。
その行き過ぎたオカルトブームへの反省から
オカルト的書物に、トンデモ本、とレッテルを貼って
排斥しようとするムーブメントも起きてきたような
気がします。

そういった中で、ノストラダムスの大予言、というものが
注目されていて、199X年の7の月に世界は破滅する、と
されていたような気がします。
僕の周りにも結構信じている人がいました。
僕も2000年を迎えた時、あれ、恐怖の大王が
降ってこなかったな、と思ってしまったのを覚えています。

僕が今にして思うのは、そういった異常な
オカルトブームというのは
高度経済成長以後の日本社会が、なんらの理念なり
形而上学なりを持たないまま
GNP信仰の下で、都市化・近代化ばかりを
進めていったことに対するカウンターカルチャーだった
のではないか、という事です。

何らの理念も、形而上学も示されないまま
世の中がどんどん都市化していく。
それにともなって急速に街が明るくなり
綺麗になり、快適になり、よりオシャレになっていく。
そういった事に対して耐えられない若者達の
中世の闇、或いは、宗教的世界観への回帰願望
だったような気がするのです。

近代化・都市化は、合理化・効率化・数値化によって
世の中をどんどん機能的にしていきますが
人間は、道理にかなう事、効率のいい事
数値化できることだけで生きていけるものではありません。
人間には、形而上学的欲求、があります。
つまり、神とは何か、この世界とは何か
愛とは何か、死とは何か、自分の使命とは何か、という
問いの答え、意味づけ、を誰もが欲しているわけです。

政府が、理念なり、崇高な使命感なりを示した上で
近代化・都市化・経済成長を進めていくのなら
よかったのでしょうが、高度成長以後の日本社会は
そうではなかった。
戦後復興型の、土建国家体質、のまま
イケイケドンドンでバブル経済に突っ込んでしまいました。

日本国憲法、はありましたが
右側の人が、しょせん占領軍の押し付け憲法じゃないか、と
言ってみたり
左側の人が、いや世界に例をみない平和憲法であるぞ、と
言ってみたり
学校の先生が、日の丸・君が代はいけない、と
言ってみたりと
なんだか、不毛、とも取れそうな議論を繰り広げた挙句
気がついたら憲法論議は、タブー、になってしまって
経済成長してるからまあいいか、という事になって
しまいました。
現在国会で憲法改正の動きが出てきたようですが
僕は単に、経済が回らなくなったからではないか、と
疑っています。

国会がそんな感じで、何らの理念も
崇高な使命感も世界観も示せないまま
或いは議論さえしないまま
霞ヶ関の高級官僚主導の政策で
経済成長・近代化・都市化に
突き進んでいってしまったために
バブル期の日本社会では、ほとんどの人が
成金、のような醜態をさらす事になってしまいました。
政治が機能していれば
バブルで泡のように生まれて
泡のように消えていってしまった大金を
有効な投資に回すこともできたはずです。

理念、も、崇高な使命感、も
何らの世界観も持たなければ
それは、個人であれ、国家であれ、
いくら金を持っていたとしても、成金、なのです。
成金は有難がられることはあっても
尊敬されることはありません。

先日アメリカ高官が、イラク復興に対する
日本の援助を引き出すために
日本はATM(現金自動引き落とし機)ではない、と
リップサービスしたそうですが
日本はATMではない、という言葉がリップサービス
となるという事は、今までATMだと思われて
いたという事です。
何だか、援助交際、の原因も
この辺にあるような気がしてきました。
子供は大人の姿を見て育ちます。
カラオケに付き合って、2.3万円のお小遣いをくれる
オジサン達を、女子高生達はATMだと思っているはずです。
オジサン達にも多少やましい気持ちはある。
そうなると、これは、少女売春ではないのだよ、という意味で
ポップなイメージの、援助交際、というリップサービスが生まれる。
日米関係と構図は似ています。

地下鉄サリン事件の話をするのに
どうして戦後政治の話をしているのかと
いうと、これは結構大切な事だと思うからです。
政治が、理念、も、崇高な使命感、も
世界観、も指し示す事ができなければ
企業も学校も家庭も
理念、を持てないからです。

政治が、理念、も、崇高な使命感、も示さなければ
企業は金儲けのことしか考えません。
学校でも偏差値でしか子供を判断できません。
家庭でも偏差値でしか子供を判断できません。

でも、オウム真理教の麻原彰晃氏は
国も企業も学校も家庭も示してくれない
理念、なり、崇高な使命感、であるなり
形而上学的保障、なりを与えてくれたのでは
ないかと思うのです。
例えそれが間違ったものであったとしてもです。

そしてオウム真理教は、霞ヶ関、へ突っ込んでいきました。
地下鉄サリン事件、は、その意味で
とても象徴的な事件でした。
霞ヶ関、は、戦後日本を支配してきた
高級官僚達の砦です。
戦後の日本社会を動かしてきたのは
永田町、ではなくて、霞ヶ関
政治家、ではなくて、高級官僚、だったのです。

オウムの信者になった人達はきっと
戦後の日本システムに打ち捨てられた人達だと
僕は思います。
オウムの信者に信じられない、高学歴、の人が
多かったのは何故だ、などと驚いて
いた人達が大勢いましたが、そもそも
偏差値の高い人を学歴のある人、としてしまう
共通一時に始まる戦後の教育システムが間違っていたのでは
ないかと思ってしまいます。

中国の高級官僚登用制度、科目による選挙
科挙制度を模した、受験教育は
暗記王、偏差値マシーンを作るだけのような気がします。
そしてそういう人が、学歴のある人、として出世してしまう。
受験戦争の弊害については、このエッセイでも
度々書いてきました。

僕は最後の受験世代なのでよく分かるのですが
数学を学んで論理の不思議に思いを馳せたり
物理を学んで宇宙の不思議に思いを馳せたり
国語を学んで言葉の不思議に思いを馳せたり
歴史を学んで人類というこの不思議なものに
思いを馳せたりしていたら、まず高い偏差値は
取れませんでした。
子供は、何で、何で、とよく聞きますが
その、何で、何で、が学問の始まりであるはずなのに
何で、何で、などというのはいいから
とにかく覚えろ、というのが受験勉強でした。
クイズに近かったような気がします。

そういった、世界一歪んだ教育、と言われる
受験戦争、を見事勝ち抜き、暗記王、偏差値マシーン、と
なってしまった人間が、ふと、俺の人生なんだろう、と、
形而上学的問い、に取り付かれてしまった時に

心の隙間お埋めします。
我こそはグル、尊氏であるぞ、とささやく
なんだか今までの、社会の敷いたレール、の上では
見たこともない長髪のエキセントリックな中年男に
出会ってしまったら
全てを投げ捨てて帰依してしまいたくなるのは
目に見えています。
そして、サリンを撒いて来い、と言われても
ヤバいのでは、という危機感も持てなくなる。

だから言ったでしょう。鈴木さん。
ヨーガ道場に通うのもいいですけど
週に2回までにしてくださいね、と。

そんな……あんまりじゃないですか、喪黒さん。

ド~ン! 

統一教会が話題になっていた時も
どうしてこんな高学歴の人達が、と
いろんな人が驚いていましたが
事情は同じだと思います。

オウムは国政選挙にも出ようとして
失敗していましたが
結局、オウムに集まっていたのは
霞ヶ関の高級官僚主導による戦後システムに
打ち捨てられた人達なのだと思ってしまう。
オウムは、内閣を模してそれぞれに
大臣、を設けていましたが、あれも象徴的でした。
オウムを生んだ遠因には、高級官僚主導による
戦後システムの歪みがあると思う。
戦後の日本社会を動かしてきたのは
永田町、ではなくて、霞ヶ関
政治家、ではなくて、高級官僚、だったのです。
そしてオウムは、霞ヶ関、へ突っ込んだ。
高級官僚に仕事を全て預けて
黒い金で、ゴルフや芸者遊びに精を出していた
自民党の古老政治家達に、地下鉄サリン事件の
遠因があると思います。

これはあまり認めたくないことなのですが
オウムの信者には、このエッセイにも
度々登場する80年代に一世を風靡した
ブルーハーツというパンクバンドのファンが
多かったと言われています。

7%理論のエッセイにも書きましたが
80年代の日本社会は、博○堂、や、電○、といった
大手広告会社の振りまく
異様に明るい雰囲気であるとか
エル○ス、シャ○ル、グッ○、ケ○ゾー
コムサ・デ・○○、といった
DCブランドブームであるとか
大手デパートグループが吹聴する
おいしい生活、であるとか
ディスコのボディコン、お立ち台ギャル、であるとか
ある種の人には最高で、ある種の人には
最悪の時代だったわけです。
インターネットなんてまだなかったから
そういった異常に明るい情報に
日本中が囲い込まれてしまっていたのです。
人前ではいやでも、明るいノリ、でいなければ
なりませんでした。明るさの全体主義、の時代でした。

何も考えない方が幸せになれる、という
おかしな時代でした。
恋愛至上主義の時代で
恋人いない歴一年、とか
恋人いない歴五年、とかいう
おかしな言葉が出てきたのもこの頃でした。
恋愛は個人的なものなので、好きな人ができなければ
何年恋人がいなくても構わないはずなのですが
当時は、恋人がいない人、は
まるで、人格に問題があるのだ、とでも
言われかねない時代でした。
クリスマスに一人は格好悪いから、と
とりあえずたいして好きでもない異性と付き合って
しまった人も多いと思います。
こうして書いてみると、本当に80年代は、狂乱、の時代
だったわけですね。僕は、明るさの全体主義、と名づけたい。

あの頃は、社会の敷いたレール、が永遠に続くのだ
という幻想がまだあって、受験戦争に打ち勝って
大学に合格したら合コンで恋人作って
適当に遊んだりして、それから企業社会に入って
60まで勤め上げたら、老後は庭の盆栽をいじりながら
今の若い人達は、などとたまに小言を言いながら
じいさんや、ばんさんや、などとやって
死んでいくのだろうな、というイメージが
できてしまっていたのです。
今となっては考えられませんが
本当にみんなそれが当たり前だと思っていたのです。
要は大量の嘘の情報に囲い込まれて
上手く刷り込まれていたわけです。

そんな異様な、明るさの全体主義、の時代にあって
オシャレな恋愛賛歌の歌ばかりが溢れる
ミュージックシーンに突如
子汚い格好をした四人組が現れたのでした。
それがブルーハーツだったのです。
ブルーハーツは衝撃的でした。
ブルーハーツの子汚い4人組は
ボーカルが、破戒僧
ギタリストが、文学者
ベースが、幸福の科学
ドラムが、仏教徒
という、まさに神がかったメンバーで
構成されていました。
バブルの、明るさの全体主義、の時代に
あって、コテコテの形而上学の詩を
それまでの、女の子にモテたいぜ、的ロックの対極にある
パンクロックというスタイルで提出したわけです。
モテテたまるか、という感じでした。

ブルーハーツが、何らの理念も
崇高な使命感も持たない国家の、成金趣味的繁栄
つまり俗に言う、バブリーな雰囲気、についていけなかった
当時の繊細で純粋で誠実な若者達の
心を捉えたのはよく分かります。
僕もその一人だったからです。
つまり僕は、繊細で純粋で誠実な若者だった、と
言っているのですよ。フフフ……。

でも繊細で純粋で誠実な若者だった僕は
ブツーハーツの引退後
結局何も変わらなかったのだな、と
ある種の喪失感を感じたのを覚えています。
一時の開放感、を味わったものの
受験戦争とか社会の敷いたレールとか
バブリーな雰囲気とかは、全く変わりませんでした。
それを考えると、ブルーハーツ解散後
多くのファンがオウムに流れてしまったのも
分からなくもありません。

僕は地下鉄サリン事件のニュースを見た時
笑えなかったのを覚えています。
マスメディアは、例によってオウムを
徹底的に村八分にしていましたが
僕はまかり間違ったら、あそこにいたのかな、という
恐怖感を感じてしまったのです。
彼らと僕との違いは、高学歴かどうかだけかも
しれないな、と思ってしまいました。
そう考えると、中学・高校とも
偏差値25で通して本当によかったな、と
今心から思います。

僕はマス・メディアも嫌いですが
オウムが押しかけてくる、第四の権力、テレビカメラに
対抗して、8ミリビデオで報道陣を
撮影していたのを今でも覚えています。
僕はあの気持ちがよく分かる。
マリリン・マンソンの言う通り
あの頃は、まだインターネットなんか普及していなくて

GOD IN THE TV!?

なメディア状況でした。
テレビによって全てが裁かれていました。
抗弁権はありませんでした。
マスコミを敵に回したらもう終わりでした。
オウムが起こした、松本サリン事件、で
マスコミによって容疑者であるとされた河野義行さんは
社会的信用を一気に失ってしまいました。
河野さんは、むしろ、松本サリン事件の被害者、だったのです。
なのに、河野白状しろ、という手紙さえ来たそうです。
テレビによって裁かれてしまったのです。
そしてそれは、誤審、でした。
まさにマリリン・マンソンが言う通り

GOD IN THE TV!?

なメディア状況でした。
一応裁判制度を確認しておきますと
刑事事件の場合
警察が逮捕して、容疑者、となり
検察によって裁判にかけられて、被告人、となり
裁判官の判決が出てから、有罪、となるわけです。
逮捕された段階では、あくまで疑われている
容疑者、に過ぎないわけです。
詳しくは僕著、仙台高等裁判所、のエッセイを
ご参照下さい。
その過程にある人を、マスコミがジャンジャン
書き立てて、容疑者の少年時代のアルバムや文集まで
持ち出してきて人格攻撃を加え、村八分、にするというのは
近代国家では許されないはずなのです。
マリリン・マンソンのように

GOD IN THE TV!?

と中指を立てたくなってしまいます。
あんたら、神、なのか? と。
日本の警察官や検察官は世界一優秀で
裁判まで持ち込んだ事件の、ほぼ100%が
有罪になる、という時代が長く続いてしまったために
そうなってしまったのかもしれませんが
現在のように治安が悪化してくると
警察官や検察官の間違いも増えてくるでしょうから
逮捕された時点で、犯罪者、と決め付けて
マスコミがあおるようなことはできなくなると思います。
僕もたまに時事問題を書くので、
その辺は気をつけなくてはいけません。
間違いを指摘されたら僕はすぐに訂正します。
これからは権威を守るために自分の間違いを認められない人は
生きにくくなるでしょう。というか信用されなくなる。
僕は最近、さっさと間違いを認められる人、の方が
間違いを隠して権威を保っている人、よりも
信用できるような気がするのです。
人間は間違うのだから、間違いを指摘された時、
さっさと認めて訂正できる人の方が信用されるように思うのですが
学校の先生とか、警察官とか、官僚、という人達は
こういうのが最も苦手のようです。
官尊民卑、の時代があまりにも長く続いてしまったため
官が偉い、という意識があるのでしょう。

お代官様! というのは、江戸時代の封建制度の名残です。
近代国家においては、タックスペイヤーである
市民、が主人公なのです。
確かに公の仕事に携わる、官、に間違いがないように
勤めるのは大切ですが、間違いを指摘された時
意地になって隠そうとすると、ますます信用されなくなります。
そういった意識改革のコストも考えると
現在の混乱状況が落ち着くには
あと10年はかかるだろうと思ってしまいます。

とまあ、そんなブルーハーツの暗い面から
オウムの暴走まで書いてきたわけですが
僕は、オウムが、霞ヶ関、へ突っ込んだのは
象徴的だな、と思うのです。
戦後日本の高級官僚支配への抵抗だったのだと思います。
誤解されると困りますが、僕はオウムを
擁護しているものではありません。
ただ、ある社会的事件が
何かを象徴していることはよくあることです。

それらの全てが、戦後日本の政治が
理念、も、崇高な使命感、も示す事をしないで
或いは議論さえしないで
ただGNPが伸びればいい
近代化・都市化していけばいい
金がありゃいい
という成金路線をとった事からきているのでは
ないかと思うのです。
最近明るみになる事件を見るにつけ
国政の舞台が、族議員の跋扈する利益誘導の場と
化してしまっていたのだな、とつくづく思います。
それは、政治屋、であって、政治家、ではありません。

理念なき国家は滅ぶ、のです。
人はパンなしでは絶対死にますが
パンのみで生きるわけでもないのです。
経済成長さえしていればよい、というのは間違いでしょう。
サリン事件の年に、野茂英雄投手が
日本中で馬鹿にされたり冷やかされたりしながらも
海を渡って成功してしまったのも象徴的でした。
やはり海外の事を一切考えずに
日本の中だけで、みんなと一緒に、盛り上がっていたのが、
バブル、なのでしょう。
2003年現在、海外と関われる可能性のある日本人には
希望、があります。国内だけで考えていると
息がつまりそうになります。

小泉首相のもとで進められている
構造改革、を、70年代にやっておけば
何の問題もなかったというのは
以前も述べました。
あの頃一部ではソビエト連邦の崩壊は
予見されていたのだし、日本は戦後復興から
高度成長期を経て、オイルショックで
一息ついていたのだから
戦後復興期に形成された、高級官僚、を中心とした
緊急時・復興型の戦後システムの改革に
着手しておくべきだったのだと思ってしまいます。
混乱の中にあって、優秀な官僚を中心として
一気に復興へ向かわせるのは手ですが
社会が落ち着いて安定してきたらむしろ邪魔になります。
あまりに強力な権限が長く続くと
不正の温床、になります。
世界一優秀とされていた大蔵官僚の
ノーパンしゃぶしゃぶ、も象徴的と言えば
象徴的でした。

政治の場で70年代に、現在小泉政権が
進めているような、霞が関の権力を
政治に場に取り戻す、という流れが起きていれば
オウムもブルーハーツも出なかったと僕は思います。
そして僕も、小説家を目指したり
することはなかったのかもしれません。
でも歴史に、たら、れば、はないのだから仕方がありません。

歪められてしまった精神は、芸術の場で表現し
歪んでしまった社会システムは
政治の舞台で変革する。
それが理想的な近代国家の姿のような気がします。
そう考えると、歪められた精神、を
芸術として表現したブルーハーツは素晴らしいが
オウムが霞ヶ関にテロ攻撃をしかけたのは
間違いだ、となります。

そういった意味で、政治家が高級官僚から権力を
取り戻そうとしている現在の構造改革の
流れは支持できるような気がします。
議会政治の可能性が信じられている世界では
テロは起きないような気がするからです。
何を言っても分からないから一発おみまい、と
なるのが、テロ、でしょう。

今回の衆議院選挙では、官僚や業界と結びついた
族議員が相当落選したようです。
集団強姦する若者は元気があっていい、と発言した
例の老政治家も落選したようです。
民意の勝利でしょう。
歪んでしまった社会システムを議会政治の舞台で
解決していけば、テロ、は防げるはずです。

歩みは遅いですが、政治の機能が少しづつ回復して
きているような気がします。
政治家が尊敬される時代が戻ってくるかも
しれません。



-戦後日本システム崩壊の前兆(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2200312.html



関連

  
  
  仙台高等裁判所
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_1256.html
  ゆりかごから墓場までバカ野郎がついて回る
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  太陽が燃えている
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  7パーセント理論(1)~(4)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/12003111.html



卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(8) 2003.12.X 初出

こうして書いてきてみると
20世紀後半の大量生産・大量消費型の
経済状況において日本社会がとった
社会が敷いたレール、のもと形成された、常識、において
それこそ大量に死語が発生している事が分かります。
それも、ナウい、とか、チョベリグ、といった
どちらかと言えば罪の少ない流行語の類だけではなく
受験戦争とか、出世コースといった
人々の生活や生き方に直結するような
基本的な部分で大量の死語が発生している。
これは大変なことだな、と思ってしまいます。

20歳前後の読者の方には
どうして僕がそんなに、社会の敷いたレール、に
こだわっているのか理解できないと思いますが
現在の20代後半から40代後半くらいまでの世代の
人にとって、社会の敷いたレール、は絶対だったのです。
人生のスタンダードとして、それ以外考えられませんでした。
社会の敷いたレール、に乗らない人は
ドロップアウトした不良、だったのです。
個人が不良だったのです。
今、ギターを片手に歩いている20歳前後の健全な男の子や女の子を
よく見かけますが、あれは、不良、でした。
今考えるとよく分かりませんね。
どうしてギターを弾くと不良なのでしょう。
以前も書きましたが、僕がバイクに乗っている姿を
観ると、年配の方々は、暴走族、の話をよくするのです。
気の弱い僕が、暴走族、になれるわけがありません。
ツッパリ、という言葉もありましたが
個人が、不良、となる社会だったので
自分の生き方を通そうとすると
ツッパリ、と呼ばれていたのだと
思います。ツッパリハイスクールロックンロール
とかもありました。
ハイスクールで個性を発揮して
ロックンロールミュージックに目覚めたりする人は
ツッパリ、だったわけです。 
ヤンキー、という言葉もありましたが
ヤンキー、を辞書で引くと、単に
アメリカ人、のことを指すようです。
もしくはニューイングランド系の
アメリカ人の事です。

日本社会が大量生産・大量消費の経済状況で
勝つためにとった、社会の敷いたレール、では
従順で無個性で画一的な労働力が大量に必要と
されたわけですが
そういった中で、アメリカ人、のように
ギターを弾いたりバイクに乗ったりしている人達を
ヤンキー、と呼ぶようになっていったのかも
しれません。あくまで僕の推測ですが。

松井選手がニューヨークヤンキースに入団して
ワンシーズン過ごしてしまいましたが
ニューヨークヤンキース、というのは
ニューヨークアメリカっ子、のような
意味なのだろうか。

日本で、田舎ヤンキー、という言葉は
かつては、田舎でバイクに乗って
髪を染めたりギターを弾いたり
ケンカをしたりしながら粋がっている
よく分からない人達の事を指して
いたような気がしますが
これからは、田舎ヤンキー、は
単に田舎に住むニューイングランド系アメリカ人の事を
指すようになってしまうのだろうか。興味はつきない。

要は、大量生産・大量消費の、社会の敷いたレール、に
おいては、個性、は邪魔だったわけです。
個性も持った人は、文字通り、社会の敷いたレール、に
おける、不良品、つまり、不良、だったのです。
最近、真面目な子ほど危ない、と言われたりしますが
それは、大量生産・大量消費の、社会の敷いたレール、における、
真面目な子ほど危ない、という事なのだと思います。
つまり、真面目に、社会の敷いたレール、に乗ろうと
している子ほど危ない。
この場合の、真面目、には
規範に忠実、というニュアンスがあります。

でも、真面目、という言葉を辞書で引くと
(1)本気であること
(2)真剣であること
(3)誠意のこもっていること
(4)誠実であること
とあります。By 三省堂 大辞林
つまり、真面目、という言葉には
規範に忠実、というニュアンスは本来ないのでは
ないかと思ったりします。
あるのかもしれませんが、その規範となるべき
社会の敷いたレール、がなくなりつつあるので
真面目な子ほど危ない、と言われたりするのだと
思ってしまいます。

僕は中学・高校とも、真剣に誠実に
NBA入り目指してバスケットボールに取り組んで
いたので、三省堂大辞林によるところの
真面目な人、だったわけですが
受験勉強を全くしないので
不良、のように扱われていました。
当時の同級生に話を聞くと、不良、というよりも
不明、だったそうです。

田中康夫知事が長野県庁に初登庁した際
知事が差し出した名刺を折り曲げた
職員がいましたが、あの方も、真面目だな、と
思ってしまいます。つまり、規範に忠実だな、と。
この場合の、規範、は、県庁内の規範、です。
でもそういう県庁内の規範に忠実な人を
外部から見ていると、おかしく見えて
しまいます。
真面目が不良になってしまったのかも
しれません。
現在は、規範、が変わり始めているので
規範に忠実、という意味での、真面目な人、は
やはり危ないな、と思ってしまいます。

真面目な人、という言葉から推測される
人物像に関しても、コンセンサスができにくく
なってきているのかもしれません。
えらい事です。

と、いろんな死語を書きたててきましたが
僕は時代の先端を走る、ナウなヤングなのですよ、と
言いたいわけではなくて
これまでは、家庭も恋愛も友人との会話も、
そのほとんどが、社会の敷いたレール、が
前提になっていましたのですよ、という事を言いたいわけです。
それだけ、刷り込み、がひどかったわけです。
それがなくなるというのは大変な事であるわけです。
日本社会における基本的な会話や言葉が
変わってしまうという事だからです。
僕はたぶん、社会の敷いたレール、を知る最後の世代となるでしょう。
そして困ったことに、現在弊害となってしまっている
社会の敷いたレール、は、戦後のある時期までの日本社会では
成功要因だったわけです。

人間はそれまで成功要因となっていた事を
改めるということが中々できません。
現在国会で、抵抗勢力、となっている人達も
悪い人達ではないのだと思います。
きっと、あの頃はこのやり方で
全て上手くいっていたんだ、という確信を
持っているはずです。
道路公団民営化の問題で
ある議員が猪瀬直樹委員に対し

物書きが! 書くのとやるのと違うんだ!

と暴言を吐いていたニュースがありましたが
最たるものだな、と思ってしまいました。
つまり議員の側には、俺たちがこのやり方で
日本を復興させて繁栄に導いたのだ、と
いう自負があるから
そのやり方を改める事ができない。
失敗は成功の元、とはよく言いますが
成功もまた失敗の元なのです。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

戦後日本の大量生産・大量消費の
社会が敷いたレール、の下で
よかれ、と思って頑張ってきた人達が
戦犯、のように扱われて政治生命を終えていきます。
族議員、公団の総裁、受験教師……etc.

戦中派の人と戦後生まれの人の
話がかみ合わないように
現在の20歳以下の人達が、どんどん社会に出てきた時
社会の敷いたレール、の考えを引きづった僕より上の
世代の人達は、あっという間に
話の通じない、オジサン・オバサン、と
なってしまうと思います。
僕はそんな時代にあっても、話の通じないオジサン・オバサン、
となる事なく、若者達にチヤホヤされていたいのであります。
若者たちにチヤホヤされるイケてるオジサマとなるためには、
とりあえず、社会の敷いたレール、のもとで行われた、
刷り込み、を一つずつ剥がしていくしかないと思うのであります。
若者たちにチヤホヤされる素敵なオジサマになりたい、という、
大いなる下心から出発したその作業が
同じ、刷り込み、を受けた世代の
人達の役に立てればこれ幸い。
日本社会は、イケてるオジサマ・オバサマだらけに
なります。

とりあえず前世紀の遺物を全部捨ててからで
ないと新世紀に対応できる人間になれないと
思うのであります。
もう2003年12月です。
もうすぐ2004年になります。
なのにまだ日本社会では
戦後システムの考えを引きずった人達と
21世紀に対応しようと努力している人達との
ギャップが、多くの悲劇を生み出しています。

僕はちょうど過渡期の真ん中の世代だと
自分で思っています。
だから巨人の長島監督の引退セレモニーに
涙した人達の気持ちも分かるし
中田選手やイチロー選手の海外での
活躍に胸を躍らせている人達の気持ちも
分かるのです。だから辛い。

でも時の大河は変わらないのです。
地球は自転しながら太陽の周りを
公転しているのですから。
つまり人間がいくら人為的な抵抗を
加えても、時代は不可避的に流れていくのです。

ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは
かつ消え、かつ結びて
久しくとどまりたる例なし
世の中にある人と栖と、またかくのごとし

平家物語に続いて
今度は鴨長明の方丈記の一節であります。

いつの時代も、今の若い人達は、は決まり文句です。
でもいつの時代も、今の若い人達は、と
言われていた人達が次の時代を作っていくのです。
戦後システムの考え方を引きずったままの
世代は、管理教育の記憶もなく
小学生の頃からインターネットがあり
海外で活躍する中田選手やイチロー選手の姿を
自然に観て育った世代が社会に出てきた時
全く相手にされなくなるでしょう。
僕はそんな時代にあっても
話の通じないオジサンになることなく
若者たちにチヤホヤされる
素敵なオジサマとなりたいと切に願うのであります。

素敵なオジサマ大作戦。
卵のなかみ、これからも宜しくお願い致します。

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(7) 2003.12.X 初出

受験戦争、学歴社会

ソニーは学歴を問わない、というニュースが
かつて話題になっていましたが
最近のニュースでは、定期昇給や
年功序列型の給与体系なども止めて
完全実力制に移行すると発表されていました。
本当にもう、ビジネスオリンピック、という感じです。
いったいこのハイパー資本主義化は
どこまで行ってしまうのでしょう。

それはともかく
こういった動きは他の大手企業にも波及して
いくと考えられるので
もう、どこそこの有名大学を出た、とか
どこそこの有名会社にいたことがある、というのは
完全に時代遅れのものになってしまうのでしょう。

大学も会社も入るまでが勝負
入ってしまえば後は、俺は~会社の社員だ、
俺は~大卒だ、おお凄い、という時代は
完全に過去のものとなって
しまいそうです。
これは大変な事です。

僕より上の世代の人達は
ほとんどが出身大学の偏差値の高さや
所属している会社の評判で
その人の実力を判断する傾向があります。

以前にも書きましたが
僕は中学・高校とも偏差値25だったので
僕の能力は、どうせ偏差値25くらいだ、と
思って小さくなっていたことがありました。
でも社会に出てみてから
京大法学部卒とか第一勧銀にいたとか
いう人と会って話をしてみて分かったのは
そんなに考えている事は変わらないのだな、と
いう事でした。

受験戦争や学歴社会の弊害によって
僕のように要らぬ劣等感を抱いてしまった人は
結構多いと思います。
最近思うのは、受験戦争・学歴社会というのは
中国の高級官僚登用制度、科挙、を模したものでは
ないかという事です。
科挙制度、つまり、科目による選挙です。
高級官僚は公的な仕事なので
コネではなく選挙で選ぶ必要があったのでしょう。

霞ヶ関の高級官僚が支配するこの国が
その、科挙制度、を思わせる教育制度を組み立てたのは
偶然ではないと思います。
科挙、には、出身・身分に関係なく
優秀な人材を、科目による選挙、で
採用できるという利点があります。
でも同時に、高級官僚支配を正当化する
論理にもなるのではないかと思うのです。
つまり、お前らが遊んでいる時に
俺たちは受験勉強してたんだ、だから
高級官僚が天下りしたり
接待を受けたりするのは当然だろう、という
ことになるからです。
確かにそう言われると何も言えない。
そして偏差値が低かった人はいらぬ
劣等感を植え付けられる。
高級官僚の支配は磐石となるわけです。

実際僕が紅顔の美少年だった頃
つまり僕が中学生・高校生だった頃は
大卒と高卒では月給が5万円違う、なんて
親や教師に脅されていました。
社会が敷いたレール、にまだ幻想があったので
受験、は、一生を決めるものだ、とも思い込まされて
いました。

昔は志望校に落ちて自殺する人もいました、というのは
ア・ルース・ボーイのエッセイにも書いた通りです。
こうして考えてくると、ア・ルース・ボーイの作者
である佐伯一麦先生が三島由紀夫賞を受賞したのも
よく分かります。
ドロップアウトした高校生、という私小説の
形をとりながら、科挙制度に対するカウンターにも
なっているわけです。
20世紀後半の日本社会における
受験戦争の矛盾、という大説が
ア・ルース・ボーイ、という小説を生み出しているわけです。

僕が文学のいろはを仕込まれた
二日町の文芸喫茶のマスターは
私小説は普遍化することで、私、が消える、と
言っていましたが、このことかもしれないな、と
今思いました。
つまり、一人称で、私の話、を書いていながらも
その背後の大きな歴史の流れや
他の人々へも通じる、普遍性、が含まれていれば
私小説から、私、が消えて、普遍的な小説、になるわけです。
私小説は普遍化することで、私、が消える。

少々話が逸れましたが
受験戦争に代表される、科挙的、ペーパーテスト的
システムは、フラクタクルにこの社会に
偏在しています。
昇進でも何でも、ペーパーテスト、になりがちです。
そしてそれが給料にも反映されてしまいます。
そうなると、受験テクニックの上手い人だけが
上に行ける。

でも、ソニーは学歴を問わない、というところから
一歩踏み出して、定期昇給も年功序列も止める、と
宣言してしまいました。
誤解されると困りますが、僕はそれが
良いとか悪いとか言っているわけではありません。
ただこれは大変な事だなと思うわけです。

受験戦争・学歴社会、は、あと何年かで
完全に死語となるでしょう。


-2003年死語辞典(8)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020038200312.html


ア・ルース・ボーイ (新潮文庫)

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(6) 2003.12.X 初出

・脱サラ、人並み、普通の日本人

社会の敷いたレール、がある頃は
まともな成人はサラリーマンをしているのが
当たり前、という、常識、があったので
自分でリスクを負って商売を始めてみようと
する人は、脱サラ(脱サラリーマン)と呼ばれて
いました。他に似た言葉に、ドロップアウト、という
言葉もありました。

ドロップアウト、というと、落ちこぼれ、とか
不良、というニュアンスがあるような気がしますし
脱サラ、にも、何となくサラリーマン社会で
通用しなくて、脱落した、というニュアンスが
あるような気がします。
脱出、という感じもしないではないですが
確かに終身雇用や家族的企業経営が機能して
いた頃は、サラリーマンにならない人は
ちょっと問題がある、と思われていたような気がします。
職人、なども、サラリーマンよりちょっと低く見られて
いたような気もします。

でもこれからは違います。職人は手に職をつけているので、
勤め先がなくなっても他で食っていけます。
大卒ホワイトカラー中間管理職、という漠然とした
カテゴリーにいるより人よりも、はっきりと、~職人、という
手に職をつけている方が有利だ、という時代がくるかもしれません。
床屋さんや美容師さんも、カリスマ美容師、などが
登場してから、格好いい職種、になったような気が
しますがどうでしょう。
最近では人気ラーメン店の店長が格好いい、という
ムーブメントも起きてきているような気もします。
オンリーワン、という言葉も聞くようになりましたが
漠然とした、普通の日本人、でいることに
経済的なインセンティブがなくなってきているから
ではないだろうか、と思ってしまいます。

人間というのは何なのだろう、と思ってしまいます。
経済的インセンティブの付け方で意識が変わってしまう。
昔は、三高(高学歴、高身長、高収入)の男が
格好いい、とされていた時代もあったのです。
高身長、高収入、は今でも通用するかもしれませんが、
高学歴、はもう通用しないでしょう。
それは、高学歴、の経済的メリットが
減少してきているからです。

脱サラ、人並み、普通の日本人、という言葉も
死語になるかもしれない。

脱サラ、人並み、普通の日本人、を
ベンチャー企業、自立した市民、コモンセンス、と
置き換えると、しっくりくるような気がしますが
どうでしょう。
やはり日本は、近代化を終えたのだな、と思ってしまいます。


-2003年死語辞典(7)へ続く-
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/12/15020037200312.html

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(5) 2003.12.X 初出

・戦後最悪

98~2002年頃は、あらゆる分野で
戦後最悪、という言葉を耳にしましたが
最近聞かなくなりました。
どうやら現在起きている変化は
戦後社会の続きではなくて
もうその戦後日本システム自体の
構造変化なのだ、というコンセンサスが
社会に出来たからなのだと思ってしまいます。

戦後社会においては、好景気も不景気も
循環によるもので、だいたいパターンは
同じだったのです。
多少の景気の波はあっても、長くみれば
右肩上がりに向かっていたわけです。
だから株式も少々上がったり下がったりが
あっても、長くもっておけばたいてい上昇したわけです。
それが、常識、でした。
土地もそうでした。そしてそれが、土地神話、となってしまい
バブルが起きてしまったわけです。
そもそも人類が誕生するずっと以前から
土地、はあったわけです。というか、土地、ではなくて、地球。

旧約聖書では、神様が天地創造の三日目に
天の下の水は一つ所に集まれ
乾いた所が現れよ
と言われてそうなったので
神様は乾いた所を、地、と呼び
水の集まったところを、海、と呼んだ、としています。

何を言いたいのか、と言いますと
人類が、その、地、に値段を付けて
売買し、土地神話、を作ってしまったのは
おかしいな、という事です。
やはり、バブル、だったのです。
人間のやる事に、神話、は、ありえないと思います。
だって人間だもの。
神話は神様のものです。

神がかった話に抵抗のある方でも
白亜紀には、地球の王者は恐竜だった、という事を考えれば、
土地神話、の愚かさを、理解していただけるかと思います。
白亜紀の恐竜さんから見たら
地球の表面に値段を付けて
売買している、人類、という種は異常でしょう。

今日人類が始めて
木星についたよ
ピテカントロプスになる日も
近づいたんだよ。
猿にはなりたくない
猿にはなりたくない
壊れた磁石を砂浜で
拾っているだけさ。
今日人類が始めて
木星についたよ
ピテカントロプスになる日も
近づいたんだよ。
猿になるよ、猿になるよ。

バブル崩壊前夜に流行した、たま、というバンドの
さよなら人類、という曲の一節です。
地球の表面に値段をつけて売買する事の
阿保らしさを自覚しつつ
あまり熱くなりすぎない程度に
経済活動にいそしむのがよいかと思って
しまいます。
そうでないと、猿、になってしまいます。
猿にはなりたくない。猿にはなりたくない。

少々話が逸れてしまいましたが
現在起きている変化は、バブルの狂乱で
幕を閉じた戦後システムの景気循環パターンの
続きではないらしい、という認識が広がってきたので
戦後最悪、という言葉を聞かなくなったのだろう、という話なのです。

経済学では、景気循環のパターンを
約40ヶ月ごとにくるキチンの波(在庫調整局面)
約10年でくるジュグラーの波(設備投資調整局面)
約20年でくるクズネッツの波(建築物循環局面)
約50年周期でくるコンドラチェフの波(技術革新を伴う
大循環局面)があると教えているようですが
戦後最悪、という言葉を聞かなくなったという事は
現在日本経済は、コンドラチェフの波、つまり
50年に一度くる、技術革新を伴う大循環局面に
きているのかもしれません。
技術革新の象徴は、もちろんIT技術です。

パソコンなんかなくなりゃいいんだ、という
ガッツ石松さんのTVCMがありましたが
実際パソコンを中心としたデジタル機器の技術革新は
すさまじいもので、先日も大手スーパーが
IT技術を駆使した無人レジ方式を採用する、というニュースがありました。
つまりIT技術は、中間管理職を排除したり
中間業者を排除したり、人間のジョブを奪ったりする面があるわけです。
10年後20年後には、そのIT技術を駆使した
思いもしない新産業が出てきて
雇用を生み出すと思うのですが
かつての産業革命においても
当初の数十年間は、それまでの仕事を
機械に置き換えていくだけでした。
詳しくは、僕著、サイバーレボリューション、を
ご参照下さい。
産業革命時におきたラダイト運動(機械打ちこわし運動)が
起きない事を願いたいところであります。
パソコンなんかなくなりゃいいんだ、と思っている
中高年の方はかなり多いと思います。

約50年周期で来る技術革新を伴った
大循環局面、コンドラチェフの波、が来ているのではないか、と
僕は思ったのですが、どうでしょう。
そうだとすると、戦後日本の経済システム、とは
全く違った世の中になってしまうわけです。
だからもう、戦後最悪、という形での
過去との比較はもうできないような気がします。
だから、戦後最悪、も死語でしょう。
大変な時代に生まれてしまったものです。

バブルの頃は、平均株価が三万円ともなれば
日本人みんなにパイの分け前が行き渡ったので
平均株価が上昇すれば
日本人みんなが一緒に豊かになれるのだ、という
幻想がまだ支配的ですが、その、常識、も
壊れつつあります。

現在の株価の回復は
大手企業による人員削減によるものだと
言われています。
ジョブレスリカバリー(雇用なき景気回復)と
言ったりしますが
人間を失業させて企業業績が回復し
株価が回復してしまう。

平均株価が上昇したから
庶民にもそのパイの分け前があるのかな、と
思ってしまいますが、生活実感としてはそうではありません。
むしろ悪くなっています。

カール・マルクスならこれを、疎外、と言ったのかも
しれませんが、僕はマルキストではないし
マルクスの著作をちゃんと読んだ事もないので
よく分かりません。
でも、ジョブレスリカバリー(雇用なき景気回復)と
いうのは、おかしいと思ってしまいます。
多くの人もそう感じると思うのですが
どうでしょう。ジョブレスリカバリー(雇用なき景気回復)

もしかしたら、単に、戦後の日本システムが
日本企業同士で、株式の持ち合い、をやっていたので
平均株価が上昇すれば、日本人みんなが一緒に豊かになれるのだ、
という幻想ができてしまっていたのかもしれません。
ちょっと考えたくありませんが
平均株価が上昇したからといって
日本人全てにパイの分け前があるわけではない、と
なってしまうのかもしれません。

本当にこれからどうなってしまうのだろう、と
思ってしまいますが、とりあえず、戦後最悪、は
死語でしょう。


-2003年死語辞典(6)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020036200312.html

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(4) 2003.12.X 初出

・出世コース、春闘賃上げ交渉

これからは終身雇用制度の下での定期昇給とか
係長・課長・部長、といった形で社内で着実に
出世していく、という事が少なくなっていくので
出世コース、も死語になると思います。
仕事はどんどん個人ベースのものになっていくでしょう。

アメリカ人はかつて、仕事を聞かれた時
ゼネラルモータースにいます、とか
IBMにいます、と答えたそうですが
80年代や90年代の激しいリストラを経験してからは
仕事を聞かれた時、金融が専門です、とか
出版が専門です、とか、マーケティングの仕事を
しています、と答えるようになったそうですが
たぶん日本社会でもそうなっていくのでしょう。

5.6年前くらいまでの日本社会では
仕事を聞かれた時、多くの日本人は
~證券にいます、とか
~建設にいます、と答えたと思います。
そして世間から高く評価されている会社に
勤めている人は、誇らしく答えただろうし
合コンなどでもモテた、と思います。
でもこれからはそうではなくなっていくだろう、という
話なのです。

80年代や90年代にアメリカの企業社会が経験したように
日本でも、大きな会社にいるから一生安泰、という
状況ではなくなってきています。
そうなると仕事を聞かれた時
どの会社に所属しているか、ではなくて
金融関係に携わっています、とか
編集部門にいます、とか、会計が専門です、と
答えるようになっていくと思うのです。
所属している組織、に対する世間の評価よりも
その人個人がどういう仕事が得意か、という事が
重要になっていくように思います。

大学も同じで、昔はブランド大学の学生は
合コンなどでも、何々大学にいるよ、と言えば
女の子にモテた、ような気がしますが
これからは、大学で今何を勉強しているか、とか
何になろうとしているか、が重要になるような気がします。

関東の一流大学の学生達によるおかしな事件が
よく報道されるようになりましたが
オウムの時と同じで、どうしてこんな高学歴の
学生達が、といった問いの立て方はおかしいと思います。
いい大学・いい企業・出世コース、に乗ってる人が
理想的な日本人像、という時代は終わったのです。
これからは、どの大学を出たか、とか、どの会社にいるか、
ではなく、その人はどういう人か、何をしようとしている人なのか、
どういう能力を持っている人なのか、という事が重要になっていくと思います。
だから、出世コース、とか、春闘賃上げ交渉、といった
ある世代のサラリーマンはだいたい同じような
ライフスタイルである、という条件下での、言葉、は
全て死語になるでしょう。


-2003年死語辞典(5)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020035200312.html

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(3) 2003.12.X 初出

・チョベリグ、チョベリバ

父権の崩壊によって、成人男性の可処分所得(おこづかい)が、
女・子供に取られてしまい、企業のマーケットの対象が
OLや女子大生どころか、女子高生にまで低年齢下してしまったために
チョベリグ、チョベリバといった言葉が
普及してしまったように思いますが
最近では、だんだん成人男女も、自分の遊びにお金を
回すようになってきましたので
これからは女子高生の発信する情報が
最先端の流行となる、という現象もなくなっていくでしょう。
だから、チョベリグ、のような言葉も
もう出てこないと思います。
でも、タトゥー、なんか見てるとまだ分かりませんね。

僕は感性を刺激するような、いい遊び、は素晴らしいと
思います。
社会に出て少し働いてみて
お金の有難さ・辛さも知って
映画や音楽も一通り見てきた成人男女が
もっと自分のために遊ぶようになれば
女子高生、がマーケットの中心となるような
風潮も過去のものになると思います。
女子高生、をブランド化して
マーケットの中心にしてしまい
援助交際したりドラッグをやったりするのが
クールだ、という風潮を作ってしまった
メディアや企業の責任は重いと思う。

その責任の一旦として、成人男女が
しっかりと、いい遊び、をしていないことにも
原因があると思ってしまいます。
成人男女がもっと、いい遊び、をして
女子高生に、私はまだまだションベン臭い小娘だな
私も早く大人になりたいな、と思わせる
ようでなければならないと思ってしまいます。



-2003年死語辞典(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020034200312.html

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(2) 2003.12.X 初出

・ナウい、メガヒット

若い人達は分からないかもしれませんが
僕が子供の頃、ナウい、という言葉が
ありました。
これはもう完全に死語だと思いますが
ナウい、の背景には結構重要な
社会構造が隠れていると思うので
2003年死語辞典の冒頭に持ってきてみました。

ナウい、という言葉は、おそらく
日本社会が科学信仰の下
近代化・都市化・工業化を目指し
大量生産・大量消費型の経済にあった時代に
近代化・都市化の最先端にいるような人の
ファッションやライフスタイルを指して
NOWい、つまり、ナウい、となって
いたのではないかと思います。

7%理論のエッセイにも書きましたが
20世紀後半の大量生産・大量消費の時代には
新し物好き、という層が存在したのです。
この、新し物好き、という層は
おそらく、ナウい、人達だったのだと
思います。
つまり全消費者人口の7パーセントにあたる
新し物好き、の、ナウい、人達にまず
新商品を持たせ、その交友関係にある
13~14人に口コミで伝わる事で

7×13=91
7×14=98

となり、全消費者の91~98パーセントが知る
メガヒット誕生、となっていました。
詳しくは、僕著、7%理論(1)~(4)を
ご参照下さい。
でも7%理論が崩壊し、進歩思想の下での
大量生産・大量消費の時代が終わって
ナウい、が死語になった事を考えると
メガヒット、も死語になるかもしれません。
もう、ナウいメガヒット商品、を追いかけなくても済むのか、と
思うと僕はホッとしているところです。
若い人達には分からないかもしれませんが
インターネット前夜、個人的趣味を持つ、というのは
大変な事だったのです。

ナウい、という言葉に代表される
進歩思想的な価値観が社会を支配していた時代には
伝統的な三味線、とか、四畳半フォークミュージック、などは、
遅れたダサい人達の好むもの、でした。
ですが最近の、津軽三味線における吉田兄弟などを
観ていると、格好いい、と思ってしまいます。
フォークソングを復活させた、ゆず、なども
中々いい味出しているな、という
感じがしますがどうでしょう。
でも、吉田兄弟、も、ゆず、も
ナウい、という感じはしません。
つまり、新しいければ新しいものほどクールだ、という
進歩主義的時代は完全に終わったのだと思います。
そして近代的・都市的なものほどクールだ、という
時代も終わるのだと思います。
だから、ナウい、は死語です。

読者の方の中には、吉田兄弟? ゆず? という方も
おられるかと思います。
僕は、ブンブンサテライツ、や、マッドカプセルパーケッツ、
も好きですが、ブンブンサテライツ? 
マッドカプセルマーケツ? という読者の方も
おられるかと思います。 
仙台のスカバンドでは、LONG SHOT PARTYや
ゴーストシンジケートがお勧めです。
洋楽では、NINやケミカルブラザーズ、プロディジーなどが好きです。
あと、マリリン・マンソンですね。
toolなども、中々狂気が出ていてよいな、と
思ってしまいます。
クラシックでは、バッハとモーツァルトが
やはりよいな、と思ってしまいます。
演歌はやはり、北島三郎さんが一番素晴らしいと思います。
色んな音楽を聴いているのですよ、と自慢したいわけではなくて、
ナウい、商品を追いかけたり
メガヒット、を追いかけたりしなくてよくなったので
精神的に楽になったな、と言いたいだけです。



-2003年死語辞典(3)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020033200312.html

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(1) 2003.12.1 初出

卵のなかみ、も早いもので150回を迎えました。

どういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
ひょんな事から、卵のなかみ、を始める事に
なったわけですが、本当にこのエッセイを
書き始めてよかったなと思っています。
毎回分野問わず自由に書かせてもらったおかげで
自分の小説のテーマも、今この国で起こり始めて
いる変化の概要も、だんだんと見えるようになってきました。

僕がなんとか現代の状況を把握しようとして
書いているこのエッセイの中から
読んでくれるみなさんが一ヶ所か二ヶ所でも
あ、そうかもしれないな、という部分をひろって
生活に役立ててもらえたら最高に嬉しいな、と
思います。

以前、転換期を迎えた労働組合、のエッセイの中で
2003年死語辞典を作る、と約束しておりましたので
今回は、卵のなかみ、連載150回を記念して
2003年死語辞典を作成することにしてみました。

僕は2,3年前に、これで文学界新人賞間違いなしだ、という小説を
書き上げたのですが、どうやら作者の独りよがり、いわゆる、
勘違い、だったらしく、見事落選したのでした。
それで何度か原稿に手を入れなおしたりしている間に
気がついた事があったのですが
そこにある、言葉、が古くなっていたのです。
ほんの2,3年前の、常識、に基づいて書かれた
言葉、なのに、既に古い。
これは大変な事ではないかと思い至ったのであります。

現代の国内外の大変化を、人類史上最大の乱気流、とか
明治維新や戦後よりも大きな変化、とさえ称する人が
いますが、例えばその大変化の一つだったとされる
明治維新の際には、夏目漱石や正岡子規らが
中心となり現在の、日本語、を作ったわけです。
つまり僕が今書いているような文章は
江戸時代には存在しなかったわけです。

現実を正確に記述する言葉がなければ
人々の精神は不安定になります。
明治維新の大変化の際には
江戸時代の書き言葉では捉えきれないような
新概念がどんどん流入してきたのだと
思います。
そう考えると現代の、日本語、を作った
夏目漱石や正岡子規の仕事はやはり偉大だったのだな
と思います。

僕は学生時代に、アイデンティティー(自己同一性)という言葉を
覚えてからだいぶ精神的に楽になったのですが、
一億総中流社会、のもとで、みんなと一緒、に
戦後復興や高度経済成長に向かっていた1970年代くらいまでの
日本社会では、アイデンティティー、という言葉はそんなに
必要なかったのではないかと思うのです。
70年代に、加藤諦三さんの、俺には俺の生き方がある、という
タイトルの本がベストセラーになったそうですが
俺には俺の生き方がある、というタイトルの本が
ベストセラーになるくらい、かつての日本人は
アイデンティティー(自己同一性)を意識することなく
或いは抑圧して生きていたのではないかと思うのです。
俺が俺が、とか、私が私が、という人は
我が強い人、として嫌われていたのではないかと
思ってしまいます。

でも2003年現在、終身雇用やら年功序列型賃金やら
社会の敷いたレールやらが次々と崩壊し始めています。
つまり社会の側は、あなたは~会社の~部長ですよ、とか、
君は~大学~学部卒のエリートですよ、という形での
アイデンティティーを提供してくれなくなってきています。
つまり、老若男女が嫌でも、俺の生き方、を
探さなくてはいけなくなってきているわけです。
現在、俺には俺の生き方がある、というタイトルの
本を出版しても、そんなに売れないような気がしてしまいます。

エーリッヒ・フロムという学者が、自由からの逃走、と
いう名著を残していますが、何をしていてもよい、という
圧倒的な自由を与えられると
逆に不安や不自由を感じてしまい、自由から逃走、して
しまいたくなったりするのが人間だったりします。
人間というのは本当に困った存在です。
サルトルという文学者も、自由を求める闘いの中に
あってこそ、私は最も自由感を感じた、という
言葉を残しています。
人間というのは本当に困った存在です。
不自由な状況におかれると、自由を求めて闘うのに
圧倒的な自由を与えられると、自由から逃走してしまいたくなる。

現代のように、社会の敷いたレール、が崩壊し始めて
誰もが、俺の生き方、をしてよい、俺の生き方、を
しなければならない、という、自由が義務化、したような状況になると、
ずっと、社会の敷いたレール、に乗っていた人達は、
むしろ、自由なんかいらない、誰か俺の生き方を決めてくれ、と、
自由から逃走、してしまいたくなるのではないかと思ってしまいます。

むしろ現在ベストセラーを狙うなら
俺には俺の生き方がある、というタイトルよりも
あなたの生き方は決まってます、というタイトルの方が
よいかと思ってしまいます。
あなたの生き方は決まってます。
これでは怪しげな新興宗教ですね。
たぶん、自由から逃げたい心理、が多くの人にあるから
怪しげな新興宗教が流行るのだと思ってしまいます。

少々話が逸れてしまいましたが
2003年死語辞典を作るのだ、という話でした。

最近村上龍さんが、言葉がない、と盛んに発言して
いるのですが、現在起きている変化を正確に
表す言葉がないのだと思ってしまいます。
日本人は、という主語が機能していないとも
発言されていますが、確かに、一億総中流社会が
終わって、若年層と中高年層、都市部と地方
高所得者層と低所得者層、といった格差が露呈し始め
メディアの多様化によって趣味嗜好の対象も
千差万別になってきたので
日本人は、とか、普通の人は、とか、普通の家庭は、と
言われても、どういう人を指しているのか
イメージできにくくなってきています。
でも、日本人は、という主語を持ってくると
なんとなくイメージができるような
気がしてしまいます。
言葉と現実にギャップが起き始めてきているわけです。

言葉がないと現実に起きている事態を
説明できないので、人間は精神的に不安定になります。
訳の分からない事件、を起こしている人達の
半数くらいは、自分で何をやっているのか分かって
いないのではないか、と思うことがあります。
つまり、言葉が貧困になってきているから
事態を意識化できていない。
そして現実感が希薄になる。

と、卵のなかみ、連載150回を記念して
うつらうつらと考えてきてみたわけですが
僕は夏目漱石や正岡子規のように
新しい日本語を作るのだ、などという芸当は
できそうにありませんが
とりあえず現在大量に発生している死語と
その背景にあるものを探っていきたいと
思い至ったのであります。


-2003年死語辞典(2)、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020032200312.html
自由からの逃走 新版

俺には俺の生き方がある―ある青年の手記 (1966年) (銀河選書)