2003年6月1日日曜日

ADSL開通パーティーで大恥をかいた僕は、寄らば大樹の陰の時代は完全に終わったと思った 2003.6.X 初出

そういう事だったのか、と
僕は思った。
僕が友人達に手伝ってもらって
ADSLを導入した時
大変な苦労をさせられたのは
そういう事だったのか、と。

待ちに待ったADSLの開通日。
よく晴れた日でした。
この日のためにシャンペンや鳥の唐揚げなどを
買い込んでわざわざ駆け付けてくれた友人達。
僕は、今か今か、とADSLの開通をワクワクしながら
待っていたのです。
いよいよルータの設定も終えて
快速ADSLで、快適なインターネットライフ
が始まる! と座の興奮は頂点に達しました。
僕は手伝ってくれた友人達に頭を下げながら
マウスに手をかけました。
友人達はもうシャンペンを振り始めています。
その時異変が起きました。
繋がらない……。

そんなはずはない、と友人達はPCや
ルータを点検してくれました。
どこにもミスはないはず、との事。
気の弱い僕は勇気をふりしぼって
NTTに問い合わせの電話をかけてみました。
局内工事の依頼はきておりません……。
なんですと?
僕は頑張って今度はプロバイダーさんに
問い合わせの電話をかけてみました。
業者さんを通してNTTに局内工事は依頼してあります、手元の資料では
もう工事は完了してあるはずです……。
なんですと?
僕は勇気を出して
NTTに聞いたら局内工事の依頼はきていない、と言われたのですが、と粘ってみた。
いえ、そんなはずはないのですが……。
僕はちょっとムッときたが
ラジオの女性パーソナリティーを思わせる
張りのある声でそう答えられると
なんだか鼻の下が伸びてきてしまい
受話器を置いてしまいました。
友人達には、何やってんだよ、と
突っ込まれてしまいました。

すったもんだの挙句
結局その日はADSL開通を祝う事ができませんでした。
僕は友人達と白けた気分で鳥の唐揚げをつまみながら
シャンペンを空けました。
ちなみに開通したのはそれから一ヶ月後の事です。

で、最初の話に戻るのですが
先日、作家の村上龍さんと国会議員の塩崎恭久さんの
対談を読んでいたら(啓蒙的なアナウンスメント
NHK出版)ちょうどADSL開通の裏話が
出ていたのです。
それで僕は、そういうことだったのか、と納得
したのです。
事の真相はこういう事らしい。
NTTはISDN回線に巨額の投資を行った
のに、IT業界はまさに日進月歩、あっというまに
ISDNより何倍も速いADSL技術が登場して
しまい、ISDN回線での収益を確保できなく
なることを恐れたNTTが、組織的に
ADSL申し込み者の局内工事を遅らせていた
らしい、との事。
そして気の弱い僕が必死で問い合わせた時には
局内工事の依頼はきておりません……と答える。
うーん、NTT、そちも中々のワルよのう、と
僕は唸った。
それで友人達が集まってくれた僕の
ADSL開通パーティーを台無しにしてしまうとは。
あぶなく友情にヒビが入るところだったぜ。

まあでも相手の立場に立ってものを考えるのは
人類の黄金律です。一方的にNTTを非難しては
いけないような気がします。
NTTのこれからを考えてみると
ケンタ君? やLモードで
頑張ってはいるが、IP電話の登場で
それらの固定電話でのサービスも頭打ち、と
いうよりも持っていかれる恐れすらあるようです。
IP電話が2007年度には2788万世帯に
普及する、という矢野経済研究所の発表が
新聞に出ていました。
そういった状況下で、少しでも収益を確保して
おかなければ社員の生活を守れない、或いは
株主に利益を還元できない、という事なのかも
しれません。
でも組織的にADSL申込者の局内工事を
遅らせる、というのは、あまりにアコギ過ぎないか?
ADSL開通パーティーで大恥かいたのは
僕だけじゃないような気がするぞ。

僕は、大きいことはよい事だ、と教えられて
きた最後の世代のような気がしますが
ADSL開通パーティーで大恥をかいてみて
寄らば大樹の陰の時代は完全に終わった、と思いました。

啓蒙的なアナウンスメント〈第1集〉金融・経済
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啓蒙的なアナウンスメント〈第2集〉世界の現状
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恐ろしや、川端康成 2003.6.X 初出

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

などと一行目で書かれてしまったら
読者は思わず続きも読んでみようと
なってしまうのではないでしょうか。
有名な川端康成の小説、雪国、の
冒頭の一文です。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

とても映像的な文章です。
この文章を映像で表現しようとしたら
カメラワークとしては、まず国境を思わせるカットを
撮り、そこから暗いトンネルに入っていき
トンネルの奥に光が見えてきて、しばらくしてから
雪に包まれた景色を写して出して、あ、雪国だ、と
観客に思わせなければなりません。
それだけ視点の移動の必要があるカットを
一文で行ってしまう、というのが
川端康成の凄いところです。

川端康成は新感覚派の作家であると言われます。
何が新感覚かと言えば、上記のような
映像的表現を巧みに行う事で
人の心理や内面を直接踏み込んで書くことなく
浮き立たせてしまう、というところが
新感覚、なのでしょう。

~について怒った、とか、~で哀しかった、と
直接的にエモーションを説明するのは簡単ですが
それを描写によって浮き立たせる、というのは
とても難しいものです。
説明は簡単だけれども、描写は難しい。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

映像を描写しているだけなのに
あるエモーションが浮き立ってきます。
名文と言われる所以です。

ここまでは川端康成についてよく言われる事なの
ですが、僕はこの一文をもっと深読みしています。
小説好きの友人には笑われますが
僕はちょっとマジです。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

僕はこの一文で、母親の子宮のトンネルを潜り抜けて
この世に生を受ける、人の誕生シーンを連想するのです。それともう一つ、
臨死体験の際に経験すると言われる、所謂トンネル体験も。

人の誕生においては、誰もが母親の子宮から
胎内のトンネルを潜り抜けてこの世界に
生まれてきます。そしてそこに広がる
新しい世界の感覚に驚き、産声を上げる。

逆に臨死体験においては
たいていのパターンでは、暗いトンネルを
潜り抜けていき、その先に花畑が出てきたり
天使が出てきたりする。

川端康成はそういった人の誕生や死における
イメージも、雪国の冒頭の一文に織り込んだの
ではないか、と僕は深読みして一人で怖く
なっているのです。
誕生や死にたいして誰もが深層意識に持って
いるであろうトンネル体験のイメージを利用して
物語世界に一気に引き込んでしまう。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。

恐ろしや、川端康成。


雪国 (新潮文庫 (か-1-1))



Ⅴ秘密結社の合言葉 結局夏目漱石に行きついた 2003.6.X 初出

・ゲセルシャフト(利益社会)ばかりが発展し
 ゲマインシャフト(共同社会)がどんどん失われていく中で
 どうすればゲマインシャフトを取り戻せるのか……と
 考えてきた僕は、結局夏目漱石に行きついた


よく年配の方々が、日本も欧米のような冷たい社会
になってしまっていいのか、と嘆くことがあります。
それはゲマインシャフト(共同社会)をどんどんなくして、
ゲセルシャフト(利益社会)ばかりの世界になってしまってよいのか、と
翻訳する事ができます。

本来、近代化して資本主義化していく、というのは
ゲマインシャフト(共同社会)を削って
ゲセルシャフト(利益社会)に
置き換えていくという行為だ、とも言えるかもしれません。

ならどうして近代化を達成したはずの
先進資本主義国日本で
未だに、欧米のような冷たい社会になって
しまっていいのか、という議論が出てくるかというと
それは先に見てきたように、日本は本当の
意味で近代化、資本主義化していなかったからだ、と言えます。
唯一成功した社会主義国、と揶揄されるように
ゲマインシャフト(共同社会)を失うことなく
ゲセルシャフト(利益社会)を発展させてきた。
その代表例が家族的企業経営だったのでしょう。
そういった戦後のシステムが
九十年代の失われた十年を経て
98~2002頃には、誰の目にも限界であることが見えてきた。

本当の意味で血も涙もない資本主義が走り始めてしまった現在
ゲセルシャフト(利益社会)の論理ばかりが幅をきかせて
ゲマインシャフト(共同社会)の部分はどんどん失われていく。
年配の方々は、そういった様子を見ていて
日本も欧米のような冷たい社会になってしまっていいのか、と嘆くのでしょう。
でも僕はまだ年配の方ではないので
嘆いてばかりもいられません。

ではどういった形でこれからの社会に
かつて地域社会や世間がもっていた暖かい部分を取り戻していくのか、という課題が
出てきます。

一人暮らしの老人と話をしたり
近所の子供達と野球をしたりしても
はっきり言って一文の得にもなりませんが
近代化の過程や近代以前には
そういった行為が自然に地域社会で行われていて
無償のセーフティーネットとして機能していたはずです。

誰も一文の特にもならない事などしない。
効率化を旨とする近代社会、資本主義社会にあっては
当然の選択です。
そんな事をしているのだったら
TOEFLやMBAの勉強でもした方がいい、と
なります。

そこでNPO(民間非営利団体)の出番となるのでしょうか
NPOはボランティアとは違って有償のサービスも
行う場合もあるとの事です。
最近では大手企業社員の中にもNPOに関わる
人が増えているという話です。
それは家族的企業経営の時代が終わって
企業が単なる利益追求集団であることが
明らかになってしまったこととも関係しているように思います。
近代化過程や近代以前には
愛情や誠意、義理・人情で賄われていた
部分をなんとか補っていく次善の策としては
NPOがベストであるようにも思います。

ただ僕は、NPOを起ち上げて役所から
金を取るんだ、と企んでいる人に会った事が
あるので、NPOが全て素晴らしいとは言えません。
内申書にボランティア歴を書くために
ボランティア活動をしている高校生の
話などを聞いても首をかしげてしまいます。
本当に人間というやつは……と。

以上長々とゲセルシャフトとゲマインシャフトという
概念を使って考察してきましたが
近代社会、資本主義社会の矛盾を考察していくと
何故かいつも夏目漱石の言葉に行きついてしまいます。
知に働けば角が立ち
情にさおせば流される
意地を通せば窮屈だ
まことに人の世は住みにくい

人の世に答えなどないのかもしれません。


秘密結社の合言葉(完)




Ⅳ秘密結社の合言葉で大企業の不祥事を考察してみる 2003.6.X 初出

・ゲセルシャフトとゲマインシャフトで
 大企業の不祥事を考察してみる

一頃続いた大企業による企業不祥事の頻発を
僕はなんたる事だ、まさかあの一部上場企業が、と
驚いて見ていましたが、そういった見方は
家族的企業経営を前提としたものの見方だった
と今気がつきました。
既に見てきたように、企業と共同体や個人の
利益はもう一致していないので
一部上場企業といえども日本のために
頑張っているわけではない、という事になります。
ゲセルシャフトとゲマインシャフトが完全に
分離し始めて、資本主義本来の血も涙もないシステムが
稼動し始めているので、企業の目的は単に
利益を上げて株主に利益を還元する事、になっています。
そういった状況に対して、内部告発を制度化する、という企業が出てきましたが、
僕はそれが正解のような気がします。
忠臣蔵が大好きで、家族的企業経営に慣れてきた
多くの日本人にとっては、どうしても内部告発というと
裏切りのようなニュアンスがあって気持ちのいいものではないかもしれませんが、
慣れていくしかないような気がします。

すべての企業が日本のために頑張っているわけではない時代に、
ゲセルシャフトとゲマインシャフトを混同した
家族的企業経営の感覚のままでいると、利益を求める企業が暴走を始めた時、
誰も止められなくなってしまうような気がします。

企業が組織的に反社会的な行為に加担している時
社員がそれを外部に訴える事は
家族的企業経営の感覚では、家族を裏切るような
或いは暖かい共同体に対する敵対行為であるような
気持ちになってしまいます。
ですがもうゲセルシャフトはゲマインシャフトではない
のです。つまり会社は家族ではない。

僕自身も実は某企業にいた時に、一度上司から企業犯罪に近いことを
指示されたことがあります。
困ったな、と追い詰められていた時に
同僚から、それ犯罪だよ、と指摘されてハッと
して正気を取り戻し、こと無きを得ましたが
そういった時に内部告発制度があると助かるな、と実感します。
一社員としては、上司に反社会的行為を指示された場合でも、自分の生活も
保障されず、同僚から裏切り者扱いされるかもしれない、というリスクのもとでは
中々外部へ訴える事ができません。

ゲセルシャフトはゲマインシャフトではない
つまり、会社は家族ではない、というのが
常識にならないといけないのかもしれません。



-秘密結社の合言葉、Ⅴ、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_7474.html



Ⅲ秘密結社の合言葉で戦後日本を総括してみる 2003.6.X 初出

・ゲセルシャフトとゲマインシャフトで
 戦後日本を総括してみる

戦後日本の奇跡の復興、それを成し遂げた要因は
なんと言っても、家族的企業経営、でしょう。
最近は内外の変化に対応できなくなってしまって
様々な面で制度疲労を見せている家族的企業経営
ですが、これをゲセルシャフトとゲマインシャフトで
分解してみます。

地縁・血縁などの暖かい共同体(ゲマインシャフト)を解体し
法律や契約によるクールな社会(ゲセルシャフト)へ
移行していく、という近代社会、資本主義社会の
前提に照らして考えてみると
家族的企業経営、という言葉自体に論理矛盾が
含まれている事に気がつきます。

家族的企業経営、よく考えると変な言葉です。
それは法律や契約によるクールな世界と
地縁・血縁、文化による暖かい共同体という相反するものが同時に
成立している事になります。
家族という、本来ゲマインシャフトに分類されるものと
企業という、本来ゲセルシャフトに分類されるものとが
合体して、家族的企業経営、という言葉を構成しています。
そして重要なことは、それが戦後復興期や
高度成長期からバブルにかけては矛盾では
なかった、という事です。

敗戦の焼け跡から欧米に追いつき追い越せと
日本人が一丸となって頑張っていた時期には
企業も個人も地域共同体もみんな同じ目標を持っていた
つまりゲセルシャフトとゲマインシャフトの
利益が一致していた、のです。
それで、家族的企業経営、というものが
強みとなっていたと考えられます。

ですがもう2003年現在
ゲセルシャフトとゲマインシャフトの
利益は一致していません。
誰もが日本のために頑張っているわけではない時代です。

企業は安い労働力が手に入るのであれば
東南アジアや中国に出て行きますし
業績が悪くなればリストラを行って人員を
削減します。働く側もいつ首を切られるか
分からないような組織に一生忠誠を誓おう
などと考えていません。

そう考えていくと、家族的企業経営、という
戦後日本の奇跡の復興を支えた成功要因も
時代のあだ花として消えていくのかもしれません。
もう社員同士で旅行に出かけたり
花見に出かけたり、社内で運動会を開催したり
という事は復活しないのでしょう。

ゲセルシャフトはゲマインシャフトじゃない、と
いう言い方はちょっと難解ですが
簡単に言うと、会社は家族じゃない、ということです。



-秘密結社の合言葉、Ⅳ、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_1165.html




Ⅱ秘密結社の合言葉で近代社会を解釈してみる 2003.6.X 初出

・ゲセルシャフトとゲマインシャフトで
近代社会を解釈してみる

ゲセルシャフト、法律や契約によるクールな世界
ゲマインシャフト、地縁・血縁などによる暖かい共同体、と捉えて
近代社会や現代を解釈してみると
意外とすっきりとものが見えてきます。

まず、社会が近代化していく、という事は
どういうことか。
近代化していく、という事は
地縁・血縁などの暖かい共同体(ゲマインシャフト)を解体し
法律や契約によるクールな社会(ゲセルシャフト)へ
移行していく、ということなのだと思います。
それが近代社会や資本主義経済の前提になっている
ように思われます。
どうしてそれが近代社会の前提になっているのか、と
考えてみると、出身地差別や門地差別を防ぐため、と
捉えることができます。
また、地縁・血縁や身分による選別を廃して
効率的に人材を適材適所に配するため、とも。

中世においては士農工商など身分制ががっちりと
固まっていたわけで、地縁・血縁の強固な
ゲマインシャフトは機能していても
ゲセルシャフトは発達しておらず
非常に非効率で差別的な社会であったはずです。

年配の方は、お上(オカミ)という政府や行政機関の
公権力を馬鹿にした言い方をする事がありますが
それはゲマインシャフト(共同社会)で自立した
ルールを持ってやっているのに
ゲセルシャフト(利益社会)の余計なルールを押し付けてくる公権力め、と解釈する事ができます。


-秘密結社の合言葉、Ⅲ、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_4544.html


Ⅰ秘密結社の合言葉 ゲセルシャフトとゲマインシャフト 2003.6.X 初出

ゲセルシャフトとかゲマインシャフトとか
アンチノミーとかアンチテーゼとか……昔の
インテリは、そういったややこしい言葉が
大好きです。
まるで秘密結社の合言葉のようで
その用語を理解できない人を排斥している
ような冷たさがあります。
でもある用語を共有する事で
議論や相互理解がよりスムーズになる、という
利点も確かにあります。
そういったわけで今日はゲセルシャフトと
ゲマインシャフトについての話。


・ゲセルシャフトとゲマインシャフト

こういった秘密結社の合言葉のようなややこしい言葉に
接した時は、まず辞書を引いてみるのが一番です。
最近はインターネットで検索する、という方法も
ありますが、とりあえず辞書。
このエッセイにも度々登場して活躍している
三省堂大辞林によりますと
ゲセルシャフト、利益社会
ゲマインシャフト、共同社会
との事です……何のことだかよく分かりませんね。

でも推測もまじえて無理やり解釈してみると
ゲセルシャフトとは利益社会、つまり法律や契約
による株式会社や商売などのクールな世界、と
考えてよいのだと思います。
ゲセルシャフト、クールな世界。
逆にゲマインシャフトとは共同社会、つまり法律や
経済によらない文化サークルや、地縁・血縁による
ホットな地域共同体、義理と人情の世界? と捉えて
よいのでしょう。ゲマインシャフト、暖かい世界。


-秘密結社の合言葉、Ⅱ、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_2843.html



悟りの秘訣 2003.6.X 初出

前回のエッセイ、長寿の秘訣、では
何やら暗い話になってしまったので
今回は明るい話題を……と思って、悟りの秘訣、を
用意したのですが、悟りの秘訣というのは明るい話題
なのだろうか、と冒頭で逡巡しています。

前回はセラトニンの話だったので
今回はメラトニンの話です。
ご存知の方も多いかもしれませんが
メラトニンもセラトニンと同じく
心の安定に大きな役割を果たす神経伝達物質です。

ストレス社会アメリカで
一時メラトニンが発売されましたが
メラトニンを摂取すると睡眠障害が治るとかの
効用があったはずです。

では、何故メラトニンが悟りの秘訣なのか
と言いますと、あのお釈迦様が、なんと
ゴーダマ・シッタルダ様がメラトニンを
キメて悟りを開かれたからなのです!
と、センセーショナルに書いてしまいましたが
仏教関係者の方々はこのエッセイを
読んでも訴えないで下さい。

ではお釈迦様はどこでメラトニンをキメられたのか
といいますと、お釈迦様が悟りを開かれたと言われる
菩提樹の下でキメられていたらしいのです。
菩提樹の実には大量のメラトニンが含まれて
いるらしい、という事が明らかになってきています。
さらにさらに、メラトニンというのは
脳のちょうど真ん中あたり、だいたい両目の真ん中
あたりに位置する、松果体、という部分に作用する
という事も分かってきています。
両目の真ん中、つまりかつて第三の眼があったと
言われる部分にメラトニンは作用するのです。
そういった様々な事実が科学的に明らかになるにつれて
僕はお釈迦様はやっぱり凄い人だな、と思いました。
菩提樹のもとで悟りを開いた、という
何気ない一つの行為に、脳科学的に見ても
重要なメッセージを含んでいるのです。

まず菩提樹の下に座り瞑想にふける。
そして時折、近くに落ちている菩提樹の実を口に含む。
菩提樹の実にふくまれるメラトニンを
摂取したところでさらに瞑想にふける。
空腹の中で摂取されたメラトニンが
消化器官を通して吸収され始め
それが両目の真中あたりに位置する松果体に作用する。
メラトニンで刺激された、松果体、が
第三の眼を開き始める。
そして限りなく睡眠状態に近く
かつ研ぎ澄まされた精神状態の中で
悟りのビジョンを得る……。

完璧です。はっきり言って科学的に見て
文句なしの悟り方です。
まず瞑想の場として菩提樹の下を選んだと
いうところがすごい。
菩提樹の実にメラトニンが含まれる、などという
データがない時代に、どうしてお釈迦様は
菩提樹を選ばれたのだろう? と思うと
僕は畏れを抱きます。

悟りの秘訣、メラトニン。



長寿の秘訣 2003.6.X 初出

年間自殺三万人時代。
長生きしたければ交通事故より
自殺に気をつけなければならない時代となって
しまいました。
どうして日本で突出して自殺者が多いのだろう、と
問題提起される事があります。
何故だろう、と聞かれたら
日本人は大人しくて真面目だからだ、とか
ジュクジュクした梅雨のせいだとか
ハラキリの民族だからだ、という
曖昧な答えになってしまいます。

そういった中、先日瀬名秀明さん監修の
神に迫るサイエンス、という本を
読んでいて、そんな解釈もあるのか、と
感心したのです。
さすがに理系の人は割り切り方が違うな、と。

神に迫るサイエンス、の115ページで
山本大輔さんという方が指摘していたのですが
セロトニンというドーパミンと並ぶ重要な
神経伝達物質があるらしいのです。
セロトニンは心の安定に大きな役割を果たしている
神経伝達物質であるらしく、うつ病患者や
自殺未遂者の場合、セロトニンの量が極度に
減っているのだ、との事。

心の安定に大きな役割を果たすセロトニン。
そのセロトニンの出を良くするタンパク質を
セロトニントランスポーターと言うらしいです。

セロトニントランスポーターの
遺伝子にはS型とL型があるとの事。
遺伝子がS型の人はL型の人に比べて
セロトニントランスポーターの働きが
半分以下になる、と。
つまりS型遺伝子の人の方がL型遺伝子の人より
セロトニンの出が悪い。

簡単に言うと、S型遺伝子の人の方が
L型遺伝子の人よりもセラトニンの出が悪いので
心配性やうつ病になりやすいという事です。

で、ここからが重要なのですが
S型遺伝子(心配性型? )を
持つ人の割合は
日本人で98パーセント
アメリカでは68パーセントであるとの事。

それで僕は得心したのです。
日本人の98パーセントが
つまり日本人のほぼ100パーセントが
セロトニンの出が悪いS型遺伝子を持っている。
日本人というのは、生まれつき心配性でうつに
なりやすい繊細な民族なのだな、と。
だから日本では突出して自殺者が多いのか、とも。

僕はなんでもDNAで説明してしまう風潮には
懐疑的なのですが、現在の日本の閉塞状況の中で
自殺することなく長生きしていくためには
経済が悪い、政治が悪い、教育が悪い
あれが悪いこれが悪いと言って
ますますうつな気分を深めていくよりも
単に日本人である僕はセロトニンの出が悪いのだ
と割り切って、個人的にセロトニンの出を良くする
方法を探っていった方がよいような気がしてきました。


長寿の秘訣、セロトニン。


「神」に迫るサイエンス―BRAIN VALLEY研究序説 (角川文庫)



異邦人と文化催眠 全ては太陽のもと何度も繰り返されてきた 2003.6.X 初出

アルベルト・カミュの、異邦人、という
小説があります。
主人公はムルソーという男性なのですが
これがまったく常識の通用しない人間で
実の母親が死んだ翌日に喪に服すこともなく
海水浴に出かけてみたり
出かけた先では女の子とセックスに
励んでみたり……さらには映画を
観ては笑い転げたり、と
常識人からみたら完全な異邦人なわけです。
ついには友人の女出入りに関係して人を
殺害してしまいます。
そして裁判にかけられて殺害した理由を
尋ねられては、太陽のせい、と答える。

父親の葬儀で父の位牌に焼香を投げつけた、という
織田信長のエピソードと似ています。
そういう意味では信長も、異邦人、だったのでしょう。

仙台高等裁判所~のエッセイでも引用した
心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア著に
おいても、実在した殺人犯ゲイリー・ギルモアは
死刑にするぞ、という脅しに対して
早く死刑にしてくれよ、と語っています。
これもある種、異邦人、です。

そういった異邦人性をを内部に抱えた人間というのは
きっと現在の地球上にもかなりの数いるはずです。
そういった異邦人達はきっと悪びれずに人を
殺したりして、それを社会の側から非難されても
平気でいられるのかもしれません。
時計仕掛けのオレンジやナチュラルボーンキラーズと
いう映画もそんな感じだったような気がします。

小説に映画にと引用が増えてしまいましたが
要は、死刑に処すぞ、と脅しても
早く死刑にしてくれよ、と答える異邦人達が
この地球には存在するという事です。
異邦人。
考えてみたら殺されたがっている人に、殺すぞ、と
いうのは脅しになっていないし
殴られるのが好きな人? には
ぶん殴るぞ、という脅しも無効なわけです。
軽蔑されたがっている人を
侮辱したら、きっと本人は喜んでしまうだろうし
不幸になりたがっている人に
そんな事を続けていると不幸になるぞ、と忠告したら
本人は、そんな事、を続けるでしょう。

そういった異邦人達は確かに存在しているのに
近代社会というものは、そういった異邦人達の存在を
無視する事で成立しているように思います。
全ての人は豊かな老後を送りたいはずだ、という
前提の上に年金制度その他が整備されているし
全ての人は自由を拘束されるのが嫌だろう、という
前提の上に刑法や懲役制度がある。
そういった、全ての人は~だろう、という部分
つまり社会の圧倒的多数派が共有する価値観の事を
文化催眠、と呼ぶらしいのです。文化催眠。
それでこのエッセイのタイトルが
異邦人と文化催眠、となっているわけです。

文化催眠という言葉は
知り合いの画家さんに最初に聞いたのですが
僕はそれを聞いた時ハッとしてスッキリしたのを
覚えています。
       
以前、仙台市博物館でインカ帝国展が開催され
確かその時は、哀しみの美少女フワニータ、と
題されていたように思います。
単純な僕は、少女がイケニエとして殺されるなんて
可哀想だな、インカ帝国はなんてひどい文明なんだろう、と思ってプンプンして帰ってきたのを
覚えています。
でも知り合いの画家さんに、文化催眠、という言葉を
聞いた時僕はハッとして
インカ帝国に対してプンプンしてしまったのは
僕が近代社会の文化催眠にかかった目で
インカ帝国展を見ていたからではないか、と
思ったのです。

それでその後古代宗教について調べてみたら
やっぱりその通りで、僕のインカ帝国に対する
怒りは筋違いのものだったのです。
古代社会では、神のためのイケニエとして
殺される事は結構名誉な事だったらしいのです。
となるとフワニータ少女は、実は哀しくとも
なんともなくて、意外と神のためのイケニエとして
選ばれた自分を誇らしく思いながら死んだのかも
しれません。
現代風に言えば、神のイケニエとして選ばれちゃったわ私、みんな見て見て、
ウフッ……フワニータ素敵……のような感じだったのかな、と僕は想像しました。
ついでに戦前の神風特攻隊の中には
陛下のために死ねることを誇らしく思いながら
突っ込んでいった兵士もいたのかな……などとも。
それは英霊の問題も絡んでくるのであまり深入り
したくありませんが……文化催眠の一つの例です。

現代は一応ヒューマニズムという人道主義的なものを
前提として全ての物事を語ったり見ているような気がします。
ヒューマニズムというフィルターが
現代の文化催眠にあたるのでしょう。
文化催眠は絶対的な真実ではないのに
みんな真実だと思い込んでいる。
そして現代に生きる限り、僕もその例外では
なく、ヒューマニズムという文化催眠に
かかっているような気がします。
それで少女をイケニエにするインカ帝国展を見て
プンプンしてしまった。

ヒューマニズムの漫画家として知られる手塚治さんが
ヒューマニストとして捉えられる事に対して
怒っただか泣いたというエピソードを聞いた事が
あります。
ヒューマニズムは現代の文化催眠に過ぎない、とは
分かっていても、それを訴えなければ人類はダメになる、と自覚していたから
単純なヒューマニストとして見られる事が不快だったのかもしれません。
あくまで僕の推測ですが……。

ピュアな絵本を描いている人が実は詐欺師だったり
ヒューマニズムを訴える漫画を描いている人が
実は人間に絶望していたり、と芸術は深いです。
逆に悪魔的な小説を書いている人が
意外とジェントルマンだったり……とか。


異邦人と文化催眠。
無理やりまとめに入りますが
アルベルト・カミュの小説、異邦人、の主人公ムルソーは
実の母親が死んだ翌日に喪に服すこともなく海水浴に出かけてみたり
出かけた先では女の子とセックスに
励んでみたり……さらには映画を
観ては笑い転げたり、と、異邦人、な行動を繰り返したあげく、
ついには友人の女出入りに関係して人を殺害し、裁判で殺害した理由を
尋ねられては、太陽のせい、と答える。

そう、太陽、太陽なのではないか、と最近僕は
思います。
その時代その時代で様々な文化催眠が形成され
その文化催眠にかからない人間は異邦人と呼ばれて
呆れられたりしますが
常識人の営みも異邦人の営みも
全ての事象が太陽のもとで何度も繰り返されてきただけ
なのではないか、と。
絶対的な真理などどこにもなく、ただ太陽がそこにある。
それがニーチェの言いたかった、永劫回帰、ではないのかと。
違うかな……。


-異邦人と文化催眠 すべては太陽のもと何度も繰り返されてきた(完)-


関連、仙台高等裁判所、其の一~八
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_1256.html


異邦人 (新潮文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)



煙草屋のみっちゃん 2003.6.X 初出

煙草屋のみっちゃんは、とてもプリティーな
おばあさんだ。

みっちゃんは僕の行きつけの煙草屋の店番さんで
僕が煙草を買うといつもライターをくれる。
僕はみっちゃんの店に通って三ヶ月になる。

みっちゃんはいつも西の空を見上げながら
店番をしている。
僕は西の空の向こうに何が見えるのか
一度みっちゃんに聞いてみたい気がする。
UFOでも見えるのだろうか

タバコ……また増税されるんだね……と
僕がボヤイたら
その分、働くんだよ、と
みっちゃんは答えた。
みっちゃんはたまに真実を言う。

でも250円と270円の違いは大きいよ、と
さらに僕がボヤくと
じゃあとっておきの安い煙草があるから、と
みっちゃんは言って、紫色のパッケージに包まれた
見慣れない煙草を取り出した。

いくら? と、僕。
150円! と、みっちゃん。

なんですと? と、僕。
口元に得意げな笑みを浮かべるみっちゃん。

みっちゃんの取り出した煙草を手に取ってみる。
こんな煙草があったのかよ、と僕は驚いた。
沖縄煙草VIOLET、二十本入りで150円。
安過ぎ。早く教えろよ、みっちゃん。

僕はみっちゃんに150円を払って
さっそく店先で一本吸ってみる。

どう? と、みっちゃん。
ウマい、と、僕。

これで150円は反則だ、と僕は思った。
僕はしばらくみっちゃんお薦めの
沖縄煙草VIOLETを吸うことにした。

この煙草、他であまり見かけないね、と、僕。
沖縄直で仕入れているから、と、みっちゃん。

僕はみっちゃんと仲良くしておいて
よかったなと思った。

増税されても150が170円。安過ぎ。
政府は失政のツケを喫煙者に押し付けてくるけど
僕にはみっちゃんがついている。

ぼくは沖縄煙草VIOLETを5箱まとめ買いした。
750円也り。セブンスター五箱なら1250円だ。凄い
500円浮いた! 

沖縄煙草VIOLETを五箱まとめ買いした僕に
みっちゃんは何故かWINSTONのライターをくれた。

店先の灰皿に吸い終えたVIOLETを
押しつけ、僕は店を後にした。
しばらくして振り返ってみる。
煙草屋のみっちゃんは
西の空を見上げながら店番をしている。


仙台高等裁判所 其の八 罪を憎んで人を憎まずは真なりや 2003.6.X 初出

僕は呆気に取られながら法廷を後にしました。
単純な僕は、被告人の女性の刑が情状酌量で
軽くなる事を願ってしまいました。
それと結構自分が世間知らずだな、とも痛感しました。

裁判官にしても検察官にしても弁護士にしても
凄い仕事をしている人達で、こういう裁判が日常的に
青葉区の片平で繰り広げられているのだ、という
事に無自覚でした。

法曹関係者は、どんな悲惨な案件でも細部に渡って
調べ上げ、それを条文に照らし合わせて提出し
裁判では表情一つ変えずにそれを訴えなければならない。
そして裁判官はそれにジャッジを下さなければならない。
民事事件ならまだしも刑事事件を担当してしまったら
日常的に刃傷沙汰に関わっていくことになります。

人が人を裁く。法治国家、近代国家では
そうする事で社会の規範を維持していくしか
ないのでしょうが、それにしても凄い世界です。
建前上は法を適用しているだけなのかもしれませんが
それでも裁判官とて検察官とて弁護士とて人間。
殺人犯に死刑の判決を言い渡す裁判官は
法の名の下に殺人を犯しているわけで
法治国家でなければ裁判官も殺人者、という
屁理屈も成り立ちます。

じゃあ近代以前はどうやって犯罪人の処罰や
争いの仲裁を行っていたのか、と考えると
きっと、首長の鶴の一声や
亀の甲羅についた焼け跡での占い
村八分、大岡裁き、宗教裁判……と
人間味はあってもどうしても恣意性の排除できない
方法を採っていたのでしょう。
そうなると近代の司法・立法・行政という
システムの方が優れているようにも思います。
近代社会は様々な矛盾を抱えていても
やはりこのシステムの中でやっていくしか
ないのだろうか、と僕は思いました。

罪を憎んで人を憎まず、とは言っても
信賞必罰を徹底しなければ
秩序が保てなくなるのが人間社会の常。
知に働けば角が立ち
情にさおせば流される
意地を通せば窮屈だ
まことに人の世は住みにくい。
夏目漱石も書いたように
それが近代社会の真実の姿のような気がします。


-仙台高等裁判所(完)-



心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)

仙台高等裁判所 其の七 あまりに生々しいものを見せられると人は無口になる 2003.6.X 初出

裁判長に向かって左側から被告人が入廷してきました。
女性です。
しばらくすると向かって右側の検察官が罪状を
読み上げ始めました。
どうやら被告人の女性はヤ○ザな夫に振り回された
哀れな女性であったらしく、耐えかねた末に
夫が隠し持っていた拳銃で当の夫を撃ち殺して
しまったとの事。

裁判用の資料とはいえ、夫を撃ち殺した
様子が細部にわたって正確に、かつ生々しく 
読み上げられる様は、ちょっと参ってしまうものが
ありました。
しかもその容疑者であるとされる被告人が
目の前でうつむいているのです。
あまりに生々しいものを見せられると
きっと人間というのは沈黙してしまうの
でしょう。
法廷内は水を打ったように、そう、水を打ったように
静かでした。衣ずれの音さえ響いてしまうほどに。
僕も重苦しい空気に包まれた法廷内の
傍聴人の一人として言葉をなくして
聞き入っていました。

検察官の被告人への質問が始まりました。
被告人の女性への酷な質問が次々と
繰り出されます。
聞いているだけで僕は疲れてしまいましたが
それが終わると今度は被告人の弁護人による
質問が始まりました。
心なしか被告人の女性に有利な質問であった
ような気がします。

最後に裁判長が被告人に発言を促します。
被告人の女性は涙声で自分の窮状を訴えました。
情状酌量を狙って弁護士が仕組んだものかも
しれませんが、それでも聞いていてグッタリと
してしまうものでした。

最後に裁判長が判決の言い渡し日を
告げて閉廷しました。

最前列にいた各メディアの記者達が
編集部へ打電するためなのか
一斉に駆け出して廊下へ出て行きました。


-仙台高等裁判所、其の八、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2003/06/20036_40.html



仙台高等裁判所 其の六 何気に法廷に入った僕は大変な裁判に出くわしてしまった 2003.6.X 

法廷に入ってしばらくして僕は
これから行われるのはどうやら
刑事事件の裁判らしい、という事に
気がつきました。
それも殺人事件らしい……と。

最前列には各メディアの記者達が陣取っています。
これはえらいことになってしまった、と僕は
思いました。
地下食堂でトンカツ定食を食べてから
フラリとやってきた人間が、ひやかし半分で
覗いていいような裁判なのだろうか、と。

一旦廊下に出てから考えなおそうか、とも
思いましたが、既に傍聴席の入口のドアは
閉めらています。
授業中に教室を抜け出すのが難しいのと
同じで、一旦固まった空間からは
抜けにくいものです。

どうしよう、どうしよう、と逡巡している
うちに、裁判が始まってしまいました。

-仙台高等裁判所、其の七、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_9184.html


仙台高等裁判所 其の五 日本も訴訟社会を迎える 2003.6.X 初出

食後の一服でエグゼグティブ弁護士に勝って自信を
回復した僕は、法廷の並ぶフロアに向かいました。

エレベータで法廷のあるフロアに出てから
僕はあたりを見回しながら
廊下を歩いてみました。
ちょっとした大学の講義室が
並んでいる、という雰囲気です。

かつての日本人は、裁判沙汰になる、と
言って刑事、民事問わず訴えられる事を
極端に恐れていたように思います。
でもやはり司法の分野においても
グローバル化する経済環境に対応するための
司法改革というものが進められていて
二十年以内に法曹(弁護士、裁判官、検察官? )を
倍増するとか、しないとかいう話も出ています。

これから日本もアメリカのような訴訟社会になるのか
と思うとウンザリしますが、時代の流れなのでしょうからしょうがないのかもしれません。
こうして裁判所に来て場慣れしておくのも
悪くないような気がします。
それに刑事事件と違って民事事件で訴えられたと
いうのは、私権の調整がつかなくなっている、と
いうだけで、犯罪者だと疑われているわけでは
ないのだし……などと考えながら法廷の並ぶ廊下を
歩いていると、傍聴者が溢れている法廷が
目に入りました。
僕はよく考えもせずに
その法廷に入ってみることにしました。


-仙台高等裁判所、其の六、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_5353.html


仙台高等裁判所 其の四 僕は弁護士に勝った 2003.6.X 初出

仙台高等裁判所の地下食堂で
法曹関係者に混じってトンカツ定食を
食べた僕は、いかめしい裁判所の雰囲気にも
慣れてきました。
食事というのは本当に不思議なものです。
敵対関係にある人とおいしく食事を取る、と
いうのは難しいですし、一緒に食事をする事で
親和性が深まる事もあります。
仙台高等裁判所の地下食堂で
法曹関係者に混じってトンカツ定食を
食べた僕は、よく考えてみれば犯罪者と疑われて
ここに連れてこられたわけでもないのだし
隣人とトラブルを抱えているわけでもないのだから
裁判にかけられる心配はないのだ、という
当たり前の事に気がつきました。

仙台高等裁判所の地下食堂で
法曹関係者に混じってトンカツ定食を
食べた僕は、喫煙所で食後の一服を
吹かしました。
隣りで上等のスーツに弁護士バッチをつけた
三十歳くらいの男性が煙草を吹かしています。
きっとやり手のエグゼクティブ弁護士です。格好いい。
エグゼクティブ弁護士の煙草の銘柄は
マイルドセブンワンでした。
タール1mgの健康煙草です。
僕の煙草の銘柄はセブンスター。
なんとタール14mgです。
僕は、勝った、と思いました。


-仙台高等裁判所、其の五、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_9466.html



仙台高等裁判所 其の三 司法関係者は左脳が発達している 2003.6.X 初出

というわけで僕は仙台高等裁判所の地下食堂で
トンカツ定食を食べる事になってしまいました。
何をやってるんだ、と思われるかもしれませんが
一応小説家を目指しているのでこういう事も
やっておかなけばならないのです。

たいてい公共機関の食堂は地下にありますが
それは何故なのだろう、などと思いながら
僕はトンカツ定食を食べました。
味は中々悪くありませんでした。

食堂で食事を取っている方々は
おそらく法曹関係者(裁判官、弁護士
検察官、書記官etc)だったと思います。
みなさん非常に左脳の発達した顔をされていました。
でも失礼ながら右脳は弱そうだな、などと
僕は思いました。
ちなみに左脳とは論理・計算を司る部分で
右脳とは音楽や美術を鑑賞する感性を司る部分で
あると言われます。
毎日六法全書と睨み合って
条文と事案を照らし合わせる作業を
していると次第に左脳が肥大化してきて
右脳が縮小していってしまうのだろうか、などど
想像しながら、僕はトンカツ定食を食べました。

勝手な事を書いてしまい司法関係者のみなさん
ゴメンナサイ。
社会正義が守られるのはみなさんのおかげです。
このエッセイを読んでも訴えないで下さい。


-仙台高等裁判所、其の四、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_1869.html



仙台高等裁判所 其の二 裁判所の建物はいかめしい 2003.6.X 初出

僕はその日、仙台高等裁判所にフラリ、と
裁判を見に行ったのです。
変な奴だな、と思われるかもしれませんが
一応小説家を目指しているので
そういう事もやっておかないといけないのです。

で、仙台高等裁判所の建物の前に立った時
僕は、ずいぶんといかめしい建物だな、と思いました。
そこで人間と建物の関係について思いを馳せてしまった
のですが、やはり目的に相応しい建物というものは
あるのだな、と思いました。
東京ディズニーランドのようなところで
刑事事件の判決を言い渡されても
中々罪の自覚がおきないような気がします。
やはり裁判所の建物は無機質で無骨な感じの
建物が相応しいのかな、と思いました。

仙台高等裁判所の建物が持ついかめしい雰囲気に
圧倒されてしまった僕は、やっぱり中に入らないで
家に帰ろうかな、とちょっと怖気づいてしまいました。
でも、ここで帰ったら男じゃない、と
勇気を振り絞って建物の中に入ってみました。

こんにちは……こんにちは。
ドキドキしながら建物の中に入ってみると
警備員さんに声をかけられました。
意外とフレンドリーな雰囲気です。
ロビーには掲示板があって
その日の裁判事案と裁判が行われる法廷の
部屋番号が記されています。
裁判の傍聴は自由との事。
僕はあまりロビーをウロウロしていると
不審者と間違われて裁判にかけられるのでは
ないかと不安になってきました。
それで、B1食堂、という案内が
目に入ったので僕はそそくさと
食堂に駆け込みました。


-仙台高等裁判所、其の三、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_2705.html


仙台高等裁判所 其の一 罪を憎んで人を憎まず 2003.6.X 初出

罪を憎んで人を憎まず、と昔の人は言いました。
とても人間の本質にせまった言葉だと思います。

村上春樹さん訳の
心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア著を
読んでみると、犯罪とはなんだろうと
考えさせられます。
その本はゲイリー・ギルモアという殺人犯の
ノンフィクション作品なのですが
たいてい犯罪者の人生を追っていくと
この人は犯罪者にならざるを得なかったのだな、と
思わされたりします。

罪を憎んで人を憎まず。
果たしてどうなのだろう。
最近は犯罪被害者の側から
加害者の人権を擁護し過ぎている、と
批判がなされる事もあるようです。

果たして、罪を憎んで人を憎まず、は真なりや。
犯罪被害者、加害者、検察官
裁判官、書記官、新聞記者……そういった人達を
目の前に、僕はその問いについて考える瞬間に
出くわしてしまったのです。

青葉区片平の
仙台高等裁判所において。


-仙台高等裁判所、其の二、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20036_8565.html





現代の欲望の総体は何処へ 2003.6.X 初出

きっとその時代の欲望の総体の
流れをつかむ事ができれば
ビジネスチャンスをゲットできる
のでしょうが
現代日本ではその欲望の総体が
何処へ向かっているでしょう。

商売人はものが売れないと嘆いているし
政府は雇用を生み出す新産業を
求めているし
とにかく景気がよくなってくれないと
困る、という人も多い。
でも単純に考えて
欲望が発生しなければ
マネーは動かないわけです。
で、そのマネーの流れを見てみると
世界一の貯蓄大国は相変わらずで
誰も金を使わないから
ジリジリとデフレが進む。
サイバーレボリューションの
エッセイでも書きましたがIT技術が
さらにそのデフレを加速していて
不良債権の額面ばかりが増えていく。
では現代日本人の欲望の総体の流れは
貯蓄に向かっているという事だろうか。
いくら貯金好きな国民であっても
欲望の対象が貯蓄のわけがないはずです。
それは守銭奴というものでしょう。
要は欲望する対象がないのではないでしょうか。
簡単に言っていまえば欲しいものがない。

五十代くらいの人に話を聞くと
かつては誰もが豊かなアメリカンライフに
憧れていて、マイホームに自家用車
かわいいペット、というアメリカの
ホームドラマキッドとでも呼べそうな
ものに欲望の総体が向かっていたとの事です。
それで住宅、不動産、自動車産業が
栄えたのだ、と。
ローンを組んでもそれらをみんなが
欲しがったので、それで経済は
回っていた、と。
でも最近の若い人達の中には
別にアパート暮らしでいいし
ローン組んでまで自家用車を
持たなくてもいい、という人も増えてきました。

豊かなアメリカンライフをほとんどの人が
達成してしまったのでそれらが欲望の対象で
なくなり、今度は欲望の総体が
カツラとか美容整形とか脱毛とか
箱物ではなく自分自身のボディを磨くことに
向かい始めたのだろうか、と僕は思いました。
TVCMの影響で禿げは駄目、デブはだめ
ブスは駄目という強迫観念が社会に
一時形成された事がありましたが
それでローンを組んででも整形したり
脱毛したりする人が増えたような気がします。
美容整形医は相当儲かったらしいです。
そういったコンプレックス産業が
儲かる社会というのは
理想的とは言えないかもしれませんが
ザ・資本主義な世界なので
それも仕方ないとは思います。

で、今度人体改造にも飽きた人々の
欲望の総体が、やっぱり人間はハートでしょう、と
いう事で、癒し系商品、に向かったのでしょうか。
癒し系という言葉が一時溢れていました。
でも、癒しとか、癒される、とういうのは
欲望なのだろうか? 
そこには癒されたい、という欲求は
感じられますが、欲望というニュアンスとは
ちょっと違う気がします。
欲望というのはもっとギラギラしていて
動けなくなるまで旨いものを食ってみたいとか
キャデラックを乗り回したいとか
異性とやりまくりたい、というような
内容である気がします。
もしかしたら、贅沢な悩み、というエッセイでも
書いたように、マズローの欲求段階説の通りに
人々の欲望の総体が上昇し始め
いい家に住んだりいい車に乗ったりすることや
旨いものを食いまくったり、セックスしまくることに
魅力を感じなくなっている人が増えているのかも
しれません。最も基本的な欲望である性欲まで
なくなってきたのか、最近はセックスレスという
話も聞くようになってきました。
欲望の総体は上昇するところまで上昇してしまい
マズローのいう最終段階の欲求
自己超越のレベルまで欲望の総体が
至ってしまったのでしょうか。
そうだとしたらもう何を作っても
生活必需品以外は売れるわけがないと思うのですが
どうなのでしょう。
だってもうみんな悟りたがっているのだから。

以上長々と欲望の総体の流れを追ってきましたが
さて、現代のビジネスチャンスは何処にあるのでしょう。
政府は雇用を生み出す新産業を求めて
いるのに、人々の欲望の総体は悟りを求めている?
誰も何も欲しがっていないのに
何の産業を興せばいいのだろう。
それとももしかして人々の欲望を燃料にして
回転してきた資本主義のシステムが
早くも限界をきたしているのでしょうか。
共産主義の崩壊から15年で資本主義も
デッドエンド?
人間の欲望は無限だと思われて
いたのが意外と人類は淡白だった、と
いうことだろうか。

日本人の欲望の総体は、これが欲しいとか
これが食いたいという低次のものから
生きがいとか、やりがいとか、自己承認とか
自己超越へと向かっているような気が
しますが、それらは中々産業社会とは
両立しないもののような気がします。
それらの欲望の総体を政府が吸収し
さらに財政赤字もチャラにし
供給過剰の経済から需要を創出し
さらに若年層の失業問題も
一挙に解決できるウルトラCとなると
それは戦争しかない、という事に
なってしまいます。
ああ、ナムサン、ナムサン……と
僕は溜め息が出てきました。
近代国家というものは、やはり定期的な
戦争を必要とするものなのだろうか、と。

僕は政治家にはあまり多くを期待しない方が
いいような気がしてきました。
頼むから余計な事はしないでね、という感じがします。


-現代の欲望の総体は何処へ-




数字は嘘をつかないが嘘つきが数字をつくる 視聴率と実視聴率 2003.6.X 初出

先日友人に、TVがラジオ化してるよね、と
言われて僕はハッとしました。
TVがラジオになることはないので
それは正確にはTV番組というものが
ラジオ番組のようになんとなくつけて
おくものになってしまった、という
ことだと思います。

おそらくかつてはTVの登場で
それまでメディアの王様だったラジオが
なんとなくつけておくBGM的なものに
なってしまった、という変化があったのだと
思います。
同様に今回はインターネットの登場で
TVがなんとなくつけておくBGM的なものに
なりつつある、という変化が起こっているのかも
しれません。

事件の速報性という点でも
インターネットがTV・ラジオに追いついて
きていますし、それにインターネットで
TV番組もラジオ番組も流れるように
なりつつあります。

僕の周りでも、パソコンを持っている人は
一様に、TV観なくなったね、と言います。

食堂や人の集まるところに
何気にTVが置いてあって
そこにいる人たちを
観察してみても
みんな自分達の会話や
ケータイのメールチェックに
忙しくてTVを注意して観ている人は
ほとんどいないようです。

何か大きなイベントがあると
マスコミは、視聴率何パーセント! と
さも日本人のほとんどがこれを
観たんだ、とアピールしますが
僕は何かおかしいな、と最近感じていたのです。
力道山を観るために街頭のTVに人が
群がった60年代でもないのだし……と。
そこで僕はある格言を思い出したのです。

数字は嘘をつかないが
嘘つきが数字をつくる。

ただTVをつけているだけの人が
圧倒的に増えた時代に
視聴率30パーセント! とか
視聴率40パーセント! とか言われても
真に受ける気になれません。
実視聴率というものを考えると
そのうち半分以上はおそらく、テレビをつけながら
他の事をしていた、というもののように
思います。

それでもマスコミが視聴率を前面に押し出して
くるのは、みんなと一緒じゃなきゃいけない、とか
出る杭は打つ、というかつての日本社会に
順応していた人達が現在強い不安を抱えていて
そういう人達が視聴率の高い連ドラや
バラエティー番組の情報を求めているから
という構図があるからかもしれません。
でもTVのあおる力、アジる力は
どんどん弱まっているように感じます。
それでも出演者達は、自分達が王様だ、と
いう表情で、今時こうだよね、的発言をしています。
政治家達には、TVのアジテーション力を使って
ポピュリズム政治を行おう、という姿勢が
見え見えです。でも何かおかしい、と感じる
人が増えています。
若い人達からは、芸能人ってTVに出る回数が
多いだけで他は普通の人だよね、という声が
聞こえてきます。

サイバーレボリューションというエッセイにも
書きましたが、IT革命は情報の民主化を
引き起こしているので、次第に王様が裸であることが
明らかになっていくような気がします。
僕はとりあえず
小さい声で言ってみたいと思います。

王様は裸じゃないか。


数字は嘘をつかないが
嘘つきが数字をつくる  視聴率と実視聴率



数字は嘘をつかないが嘘つきが数字を作る 失業率と実失業率 2003.6.X 初出

某政府系メールマガジンによると
若年層の失業率が12パーセントに
なってしまった事に対して
対策を立てました、との事。

僕は始め、十人に一人が失業なら
まだ余裕かな、と思ったのです。
欧州の先進国でも軒並み
失業率10パーセントの時代が
あったようだし……でも待てよ、と
僕はそこである格言を思い出しました。

数字は嘘をつかないが
嘘つきが数字を作る。

二十代前半の友人に話を聞くとたいてい
同級生のほとんどはまともに就職できて
いない、と話します。
まともに就職できたのは自衛隊に行った人
くらいで、後は大学に留年したりして
誤魔化している、と。
失業率12パーセントでそんな事態に
なるのだろうか?

これはクサい、と思った僕は
失業率算出方法を調べてみました。
結果はクロでした。

ものの本によると
日本の失業率というのは
ハローワークに登録していない人や
アルバイト、フリーター、パラサイトシングル
引きこもり、新卒無業……等は含まれないとの事。
ではアルバイト、フリーター、パラサイトシングル
引きこもり、新卒無業……をカウントしたら
若年層の実失業率は何パーセントになるのだろう。
僕はちょっと考えたくないような気がしますが
15? 20? 25? 30パーセントくらいは
行ってるのだろうか。
5人に一人、4人に一人
或いは3人に一人にまともな職がない!?
相当ヤバい状況なのではないだろうか。
地域によっては、若年層の仕事はほとんどゼロです
という地域もあるのではないだろうか。
これは本当に相当ヤバい状況なのではないだろうか。

僕も二十代前半にフリーターのような
暮らしをしていた時期があって
その時は年配の人達に
若いっていいねえ、とか
バイト生活は気楽でいいね、とか
逆に
フリーターはケシカらん、とか
好き勝手なことを言われていました。
あんたらの時は楽だっただろ! と
言い返したかったのですが
例によって気の弱い僕は
微笑み返すだけで反論する事もできずに
フラストレーションを溜めて
いた事を覚えています。
そういった事態が今日本中で起きているのかも
しれません。
これはえらいことです。

ちなみにちょっと古い資料になりますが
イギリスではアルバイト層に対して
日本の生活保護にあたる収入補てんが
支払われていたとの事。
ブレア政権になってからは締め付けが
厳しくなったらしい、との事ですが
それでも職にあぶれた人に対して
手厚い保護を感じます。
でも現在日本政府には金がないから
それも無理。

某政府系メールマガジンを読んで
若年層の失業率が12パーセントに
なっていよいよ欧州並みの失業率10パーセント
社会がきたか、などと思った僕が馬鹿でした。
実際は欧州よりひどい状況かもしれません。

数字は嘘をつかないが
嘘つきが数字をつくる 失業率と実失業率


ゲーム脳とたけしの挑戦状 2003.6.X 初出

昔、たけしの挑戦状、というゲームが
ファミリーコンピュータにありました。
かなりマニアックなゲームなので
覚えている方は少ないと思いますが
映画監督、北野武さんが、ビートたけし
としてバラエティー番組などで活躍
していた頃、その名前を冠して発売された
ゲームです(企画にも携わったので
しょうか? )
最近ゲームと若者の暴力についての
相関関係を研究している人が増えて
いるらしく、ゲーム脳、という言葉を
聞くようになりました。それで僕は
たけしの挑戦状、を思い出したのです。

確かに最近の少年犯罪は凶悪化している、と
僕も実感します。
僕が子供のころは、どんな悪ガキでも
ホームレスという弱い立場にある人間を
集団で殴り殺す、などという少年達は
いませんでした。
それでこれはどうした事か、と
これはゲームのやり過ぎではないか、と
勘ぐる研究者が増えてきたのだと
思います。
ゲームをやり過ぎると脳波が変わって
ゲーム脳になってしまう、らしい、ホントかい?

今週の新聞のニュースにもこんなのがありました。
17歳以下の未成年に暴力的描写のあるゲームを
販売した業者に、最高500ドル(5万円位?)罰金を
課すワシントン州法に対して、業界団体が違憲訴訟-。

さて、どうなのだろうゲーム脳。
ゲーム脳と言わないまでも、ゲームは
少年達に悪い影響を与えるのだろうか。

僕が友人に聞いたゲームにまつわる一番
過激な話は、オンラインゲームの話です。
オンラインのロールプレイングゲーム
に参加したところ、自分が抜けると
オンライン空間でパーティーを組んでいる
他の人達も先へ進めなくなるため
毎日ゲームをするハメになってしまった、との事。
メル友と一緒にネット上のドラゴンクエストや
ファイナルファンタジーに参加した、という形
をイメージすればよいのだろうか? 
それでだんだんオンラインゲームから抜けられなく
なってしまい、最後は会社を辞めてしまった、との
事。
僕はその話を友人から聞いた時
笑ってしまいましたが
当事者や家族はちょっと笑えない話です。

閑話休題。
ゲーム脳とは言わないまでも
ファミリーコンピュータが発売されて以降の
世代には、少なからずゲームの影響は
見られるような気がします。
ドラゴンクエストシリーズは大ヒットしま
したが、思考の回路がドラクエ化している
人はよくいます。
例えば、イヤな上司や顧客はモンスターで
それを倒すとレベルが上がるんだ、という
言い方は結構普及しています。
中途半端なプラス思考を進めるビジネス書
なんかより、とてもたくましい考え方だと
僕は思うのですが、ちょっと人生が
ゲーム化してる面は感じられます。
イヤになったらリセット、という事に
ならない事を僕は祈ります。

で、たけしの挑戦状、に戻るのですが
普通のゲームはたいてい攻略法とか
カタルシスを得る場面であるとか
シューティングでポイントが増える、と
いう場面があります。
それでプレイヤーはストレスを発散したり
ゲームの世界にハマったりしていくのですが
たけしの挑戦状にはそれがないのです。
たけしの挑戦状では、プレイヤーは
パチンコ屋に行ってハネモノを打ったり
街で因縁を吹っかけられて喧嘩に巻き込まれたり
家に帰れば女房・子供に追い出されたり、と
はっきり言って何をすればいいのか
分からないゲームなのです。
それで宝探しの話が出てきて
宝探しのゲームなのかな、と思って
宝を探すために飛行機に乗ると
飛行機が墜落してゲームオーバー。
物凄くイライラさせられましたが
ゲームの中なら何でも思い通りになる、と
思っていた幼き僕にとって
たけしの挑戦状、はちょっとショックでした。
あ! たけしの挑戦状、という言葉の
意味が今分かりました。
ビートたけしはゲームを通して
世の中はゲームとは違うんだぞ!
バーチャルワールドと
リアルワールドとは違うんだぞ!
と、ゲーム世代の僕達に挑戦状を
叩きつけてきたのだ! 
それで、たけしの挑戦状……。
なんたる事だ……凄いぞ、ビートたけし……。

なんか深読みし過ぎているような気もしますが
北野武さんはやっぱり凄い人だ。
ゲームと若者の暴力との間に
相関関係があるのかないのか
僕はよく分かりませんが
北野武さんは凄い、と
あらためて思いました。

-ゲーム脳とたけしの挑戦状-


宮城県近代美術館 その3 2003.6.X  初出

僕は眼を鍛えるために
宮城県近代美術館に通いつめて
いた時期があるので
実は常設展の美術品も
見慣れたものが多いのですが
いつ行ってみても新たな発見が
あります(ちなみに眼を鍛える、という
のは視力回復とかではないので
あしからず……僕は両眼1.5、凄い)

今回気になったのは
マックス・ヘビシュタインという人の
版画シリーズです。
それぞれの版画に
われらの父
天にいますわれらの父よ
御名があがめられますように
世々限りなくアーメン
というタイトルがふってあります。
キリスト教世界で生きる魂が
脱出口を求めてあがいている版画です。
どうしてその版画に引き付けられたのか、と
思い出してみると
たぶん僕が、キリスト教って何だろう、と
考えていたからだと思います。
不思議なものです。
美術品はそういったバイブレーションや
メッセージを発していて
出会うべく時に出会うと、ビンゴ!
という事になります。

どんなに名画と言われるものでも
その人が出会う時期によっては
何が名画か分からない、という事も
あります。
それでよいのだと僕は思います。
バブルの頃、世界中の美術品を
金にもの言わせて買い取って
ゴッホだか誰だかの絵を、死んだら
一緒に燃やしてくれ、と発言する人まで
飛び出し、世界中から
バッシングを受けたわが国でしたが
(戦利品を大英博物館に所蔵している
イギリスには言われたくない)
ゴッホだろうがミロだろうが
ピカソだろうが
シャガールだろうが
みんな名画というけど
今のところ僕にはよく分かりません、と
言えるようになったら本当の成熟社会
なのだと思います。

というわけで今回はおそろしく長い
エッセイになってしまいましたが
こんな素敵な近代美術館が身近に
あるという事で仙台万歳なわけです。

最後に特設展情報。
日本が誇る天才版画家。
わだばゴッホになる
棟方志功展
4月5日~6月15日
宮城県近代美術館


-宮城県近代美術館(完)-


陰翳礼讃 東京をおもう (中公クラシックス (J5))



宮城県近代美術館 その2 2003.6.X 初出

宮城県近代美術館の
白壁と明るい照明の常設展を
歩きながら
では、近代美術でなく
中世の美術はどうだったのだろう、と
僕は思いました。

よく言われるように中世は闇の世界で
明るい照明などなかったわけで
(明るい照明は白熱電球を発明した
トーマス・エジソンのおかげ)
当時の美術品は闇を前提として
造られていたわけです。
谷崎潤一郎の陰翳礼賛という本に
その話が出てくるのですが
中世は闇の世界だったから
中世の美術品、特に日本の中世美術品は
薄暗いところに置いた方が引き立つ、のだ
そうです。
確かに僕も修学旅行(今もあるのだろうか? )で
京都や奈良に行った時
たくさんの中世の仏教美術品を観ましたが
そういうものはたいてい薄暗いところに
置かれていて、ちょっとゾッとする
美しさがありました。
観音様が何百体も薄暗い空間にたたずんで
いるさまは、圧巻です。

というわけで僕は
やはり宮城県近代美術館は
宮城県中世美術館ではなく
宮城県近代美術館だ、という
事を発見したのです。
次回、やっと美術品の話に入ります。


-宮城県近代美術館その3、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2003/06/320036.html



宮城県近代美術館 その1 2003.6.X 初出

青葉区川内元支倉にある
宮城県近代美術館に行ってきました。

近代美術館。
そう、ここは近代美術館です。
建物も近代建築の技術が結晶しています。
厳密な数学的計算に基づく測量技術。
遠近法や幾何学を感じさせる
空間の切り取り方。
それらが絶妙に配置されて
宮城県近代美術館、という作品に
仕上がっています。
さすが近代美術館です。
何を当たり前の事を、と思われるかも
しれませんが、僕はまず、美術品を
見る前に建物に感心してしまったのです。

受付でチケットを買って
僕はとりあえず常設展から
のぞいてみました。

で、気がついたのですが
近代美術館の展示室は
どこもたいてい壁面が白です。
何を当たり前の事を、と思われるかも
しれませんが、どこの近代美術館も
たいてい壁面は白です。
そして明るい照明。

中々美術品の話に入らないで
建物や展示室の話ばかりしていますが
それは結構重要な問題で
ロックバンドのステージでも
設計さんや音響さんや照明さんの力が
あって始めてバンドのメンバーや
演奏が引き立ちます。

というわけで
近代美術館の壁面がどこも白で
照明が明るいのは、その方が
美術品が引き立つからだ、という
当たり前のような結論に僕は至ったのです。


-宮城県近代美術館その2、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220036.html



トイレ考 やはり芥川龍之介はすごい 2003.6.X 初出

注:お食事中の方はすいません。
  トイレの話です。食事が済んで
  一息ついてから読んで下さい。

というわけで人間にとってトイレとは何か
という話が激論に至ったのであります。
育ちが良くて上品な僕は
顔をしかめながらも
実は興味があって
聞き耳を立てていたのですが
以下要約。

だいたい何処へ行っても
水洗トイレがあって
くみ取り式便所、というものを
見る方が珍しくなってしまって
しまいましたが
トイレが水洗か、くみ取り式か、と
いう問題は、年配の方にとっては
重要な問題だったようです。

かつて西洋に追いつき追い越せ、と
近代化に取り組んでいた日本人にとって
西洋文明が築いた近代社会というものは
口惜しいけれど魅力的なもので
憧れと、その裏返しである
コンプレックスの対象であったようです。

それで西洋文明に劣等感を持っていた
かつての日本人は、西洋人というのは
どうやら糞尿をオケに溜めておいて
窓から捨てていた歴史があるらしい、とか
西洋婦人のフレアスカートは
庭に置いたオマルにクソをするために
スソが広がっているのだ、という事を発見し
ほれみろ、あんな文明などたいしたことないぜ
と、なんとも下らない事で自尊心を
取り戻したらしいのです。
六十代くらいの方は、この話がスッと分かるかも
しれません。

そんなクソやトイレについての議論が延々と
繰り広げられたのです。

東京近郊でも未だに水洗トイレが
完備していない地域があるのだから
東京だってまだまだだ、等と発言して
いる方もいました。
僕は何がまだまだなのか理解できなかった
のですが
東京のトイレ水洗化率は80年代に
80パーセントくらいだったそうで
(その時日本全体では30パーセント)
当時ヨーロッパの先進国は
ほぼ100パーセントのトイレ水洗化を
達成していたので、東京だってまだまだだ、という
事らしいのです。
(現在は東京も100パーセントになったの
だろうか? )
どうやら年配の方にとっては
トイレが水洗か、くみ取り式か、と
いう問題は、民族のプライドに
かかわる問題だったようです。

中には
昔の日本人はJAPANESE式トイレに
しゃがみこんでクソをしてたから
足腰が強かったのだ、とか
俺はアイドルは絶対にクソをしないと
信じてた、とか極論を言う人もいて
人間とクソとトイレと文明の関係と
いうものは、実に興味深いものがあるな、と
僕は感心しました。

マルキ・ド・サドのソドムの百二十日と
いう小説においては、ちょっとここには
書けないようなクソに関する行為が
延々と繰り返されていて、それが哲学的
命題にまで至っていますし
古事記においては、アカやクソから
神が生まれたり、カワヤでオホトを
ササレて~などという現代語訳すれば
トイレでエッチ、という描写が出てきたり、と
人間とクソとトイレと文明の関係は
文学的にも重要なもののように思います。

育ちが良くて上品な僕は、本当に
参ってしまい、今日は上手く要約
できませんでしたが
僕が一番、人間とクソとトイレと文明の
本質に迫っているな、と感じるのは
芥川龍之介の、好色、という短編です。
主人公のプレイボーイ氏が
狙った女を射止める事ができなくて
悶々としているのですが
なんとそのプレイボーイ氏
思いを断ち切るために
ホレた女のクソを見ようとします。
ホレた女のクソを見て
恋心を絶とうとする。
人間とクソとトイレと文明の
本質に迫った、普遍的な小説に
仕上がっています。
僕は、やはり芥川龍之介はすごい、と
思いました。


-トイレ考 やはり芥川龍之介はすごい(完)-


ソドムの百二十日

口語訳古事記 完全版



現代心理学考 2003.6.X 初出

本当にそれは恐怖で
僕は背筋が冷たくなる思いがしました。

人類の知はここまで来てしまったのか、と。

僕がまだウブだった頃
初めてドストエフスキーの小説を
読んだ時も同じ恐怖を感じました。

ドストエフスキーなどと言うと
偉い人が読むカタい本、を
イメージされる方が多いのですが
その通りであったらよいな、と本当に僕も思います。
ですがそうではないのです。
僕がドストエフスキーの一連の小説を読んで
最初に思ったのは
おいおい、こんなもん売っていいのかよ、です。
それはまるで犯罪の手引書です。
悪いことを企んでいる人間がドストエフスキーを
読んだら大変なことになる、と思ったものです。
それはつまり、人間というものが何か、という事を
知り尽くせば、人間というものを操作できるように
なってしまうからです
僕は現代心理学にもそれを感じて怖くなったのです。

現代の心理学は、次々と知覚の謎を解き明かし
つつあります。
人間はどうすれば喜ぶか、怒るか
哀しむか、楽しくなるか、つまり喜怒哀楽の謎。
仏教の唯識論で言う六識=眼・耳・鼻・舌・身・意
のどこをどう刺激すれば人間はどうなるか、の謎。
それらをどんどん明らかにしています。
その事の何が怖いか、と言えば
僕がドストエフスキーの小説を読んだ時
感じたものと一緒で、それらの知識を
駆使すれば、人間を操作できるからです。

すでにそれは行われ始めていて
少し前までは市民レベルでも、SF商法や霊感商法
新興宗教や自己啓発セミナーの
マインドコントロールなどがありました。
また最近では軍隊においても
捕虜から情報を得たい時に
かつてのように無闇に責め立てるのではなく
現代心理学のテクニックを使って効果的に
拷問を加えていくのだそうです。恐ろしい。

僕は、母親がパチンコで1000万負けて
それでも止めなくて困っている、という相談を
受けた事があります。
現代のパチンコ店も
色彩や音響や椅子の間隔など、ほとんど芸術的と
言えるほどの心理学テクニックで、客の脳内に麻薬を
放出させ、パチンコ依存症患者をつくり上げています。
知り合いの母親はおそらく今もパチンコ店に
通っているはずです。そういう状態の人に
ドストエフスキーの、賭博者、を手渡しても
絶対に読みません。
でもきっとパチンコ台の開発者は読んでいるはず
なのです。あなかしこ、あなかしこ。

心理学に詳しい50代の方に話を
聞いたことがあるのですが、70年代以前は
心理学の知識自体が日本に入って来ていなくて
日本人はみんなウブだったのだ、そうです。

ですが現代は、学者先生も商売人も
宗教団体もジゴロも
仕掛ける側はみんな心理学の知識を
持っています。

騙されないためにも
愛する人を守るためにも
これからは誰もが心理学の入門くらいは
押さえておかなくてはならないのかも
しれません。

悪賢い人間は知識を軽蔑し
単純な人間は知識を賞賛し
ただ賢い人間は知識を利用する。
つまり知識そのものは
自らの利用法を教えたりはしない。
        哲学者 フランシス・ベーコン


-現代心理学考(完)-


賭博者 (新潮文庫)



グレゴリオ暦などやめてしまえ 2003.6.X 初出

ドッグイヤー。

2000年頃からよく、ドッグイヤー、という
言葉を聞くようになりました。
ちょうど犬の1年が人間の7年にあたる、だか
人間の7年が犬の1年にあたる、だかで
時代の変化がそれだけ速い、という例えなの
だと思います。
本当にここ5年くらいは
あらゆる事象が物凄いスピードで変化していて
先進国では人間の時間感覚も変わってしまった
ように思います。

とにかくあらゆる事象のスピードが速い。
気がついたらポケットベルはなくなっていたし
気がついたら時計からバケツから漫画から
何でも100円で買えるような店ができていたし
気がついたら金色やピンクの髪の人が増えていたし
気がついたらダンボールを敷いて公園に寝ている人が
増えていた。

気がついたら伝統の一戦がプロ野球巨人・阪神戦から
サッカー日本・韓国代表戦に変わっていたし
気がついたら終身雇用は終わっていたし
気がついたら有事法制は国会を通っていたし
気がついたらアフガニスタンの戦争も
イラクの戦争も終結していた。

IT業界では18ヶ月で
半導体の集積度が二倍になる、という
ムーアの法則がまだ継続中だという話だし
缶ジュース業界にいる知り合いに聞いた話では
ソフトドリンクの新製品は毎年
1000種類発売されているのに
一年後に継続販売されているのは
1パーセントだけなのだそうだ。

気がついたら光ファイバーサービスが始まって
いたし……気がついたら、気がついたら、と
あらゆる事象が物凄いスピードで
変化していて、もうヒューマンの限界を
超えているような気がします。
このスピードとカオスが支配する世界で
気が狂わないようにするためには
僕はもう、グレゴリオ暦をやめるしか
ないのではないかと思ったのです。

ドッグイヤーも終わって、今度はラットイヤーなどど
囁かれる現在、12ヶ月で1年などという
グレゴリオ暦的な時間軸で
悠長に生きていたら
時代に置いていかれてしまう……。

一年が7年のドッグイヤーなのだから
実際は7掛け計算で
グレゴリオ暦の12ヶ月を7年としなければ
ならないのだ。
そう捉えないともう時代についていけない。
そしてドッグイヤー用の新しいカレンダーを作ってしまう。
新しいカレンダーにおいては
グレゴリオ暦の1日が7日
グレゴリオ暦の7日が49日
グレゴリオ暦の1ヶ月が7ヶ月
グレゴリオ暦の2ヶ月が14ヶ月
グレゴリオ暦の6ヶ月が42ヶ月
グレゴリオ暦の12ヶ月が84ヶ月
84÷12=7でご名答。
ちょうどグレゴリオ暦の一年を
ドッグイヤー用に変換できたことになる。
これは結構、僕の生活実感にあったカレンダーです。
1日でかつての7日分の変化を感じるし
7日経つと、僕はかつての49日分くらいの変化を感じる。
1ヶ月経つとかつての7ヶ月分の変化を感じるし
それで一年経つと、僕はかつての7年分の変化を実感している。
このドッグイヤー用のカレンダーを発売すれば
結構売れると思うのですが、どうでしょう。
もう試作品はあるので、カレンダー業界の方で
興味のある方はぜひ連絡を下さい。
現在ラットイヤー用のカレンダーも開発中です。

閑話休題。
現在先進国で採用されている
グレゴリオ暦(太陽暦)というものは
地球の自転と公転と、太陽との位置関係とを
入念に計測し観測した結果割り出されているものです。
無限に広がる宇宙空間。
その中の太陽系の惑星の一つである蒼い地球に
住む人類は、宇宙のシンフォニーの一部から
時間観念を編み出したのです。
時間とは、とてもロマンチックなものです。
そう、時間の支配者は学校の先生や
部長や支店長ではなく
太陽と惑星の運行なのだ、というロマンチックな
言い方も成立しますし、その方がむしろ正確です。
太陽系に何か大きな異変がおきれば
人類の編み出したグレゴリオ暦もドッグイヤーも
ラットイヤーも変更も迫られるでしょう。

ちなみに日本では明治6年1月1日から
グレゴリオ暦(太陽暦)を採用したらしいです。
それ以前は太陰太陽暦で、月の満ち欠けをベースにした
暦だったらしい、との事。
満月の夜は交通事故が多いとか、女性の生理は
月の運行に影響されるとかの俗説がありますが
月はロマンチックというよりも
ルナティックな感じがします。
そして昔の日本人は一月ごとに
水無月、神無月、師走……など、とても詩的な名前を
つけていたそうです。

いずれにせよ人間は、広い宇宙の数ある一つである
太陽系のシンフォニーから、時間観念を
編み出した事で
誕生日をお祝いしたり
命日に線香を上げたりする事ができるようになりました。
また古いアルバムを見て感傷にふけったり
未来を夢見たりすることができるようになったのも
時間観念のおかげです。
時間とは、太陽系の惑星の運行と地球
そこ住む人類の知性と想像力によって
偶然生み出された奇跡の産物なのではないでしょうか。

時が単なる数字の羅列になってしまい
季節や惑星の運行に思いをはせるような
ものでもなくなり
犬の時間やネズミの時間に振り回されている現代人。
宇宙のシンフォニーに反した現代人が
精神を病みやすいのもよくわかる気がします。

もうグレゴリオ暦などやめてしまえ。 




構造改革が進めば日本にイタリア人が増える!? 2003.6.X 初出

というわけで
何のために死ぬか、というのは
何のために生きるか、と同じ事だと
僕は思うのですが、どうでしょう。

煙草も酒もやめて
毎日のジョギングを欠かさない、という
ヘルシーな生活を送っていても
人は何故か、ふと虚しさにとらわれる時がある。

何のために死ぬか、死ねるか、というのは、
その人が人生において
何にもっとも価値を見出しているか
という事の証明でもあり
健康のために死ぬ、という人はいないし
それは日本語としても破綻しています。
健康は手段に過ぎないような気がする。

昔は、日本のために~死ぬ人がいた。
ちょっと前までは会社のために~死ぬ人がいた。
それは人々が日本のために生きていた時代や
会社のために生きていた時代があった、と
いうことの証明のように思います。
では現代人は何のために死ぬのだろう。
つまり現代人は何のために生きているのだろう。
それが分からなくなってしまったし、掴めなく
なってしまったような気がする。

現在は年間自殺者三万人と言われ
確かに人はよく死んでいますが
それは、日本のため~でも
会社のため~でもないようだし
家族のため~でもなさそうです。
単に精神的に経済的に追い込まれて死んでいる人が
ほとんどのような気がします。
本当に切ない死に方だし
死んでも浮かばれないというのは
この事か、とも思ったりします。

或る友人が
戦前は天皇制が、戦後は企業社会が
日本人に人生の価値と
社会的規範とを与えていたのに
現在それがなくなってしまい
日本社会はアノミー状態に陥っているのだ
と言っていましたが、それもあるような気がします。
(アノミー。フランス語。個人や集団相互の関係を
規制していた社会的規範が弛緩、または崩壊した時に
生ずる混沌状態  by 三省堂 大辞林 )

若者の間で少し前まで、本当の自分探し、と
いうものが流行っていたような気がしますが
きっと天皇制や企業社会のルール以外での
何のために死ぬか、を
みんな探していたのだと思います。

で、イタリア人の男の一番格好いい死に方は
女のために死ぬことだ、という俗説があります。
僕はイタリアに行ったことがないので
本当のところは分かりませんが
何のために死ぬか、が
何のために生きるかだ、という僕の仮説に
従えば、イタリア人の男は、女のために生きている!
という事になります。
おお、イタリア男……

さて、僕は現在何のために死ねるのだろう?
このエッセイを読んでくれるみなさんはどうでしょう。
僕はもう日本のために死ねる世代ではないような気が
するし、勤め先が突然なくなる、という経験を
何回かしているので、会社のために死ぬ、という
のももう無理のように思います。
でもホレた女のためならどうだろうか?
死ねるかもしれない、と僕は思いました。
気がついたら僕はイタリア人になっていたのです。
マンマミーア、メノメール、メノマーレ。

国のために死ねるのも
会社のために死ねるのも
女のために死ねるのも
何かのために死ねる、というのは
きっと男として人として同等に格好いい事
なのであって
女のために死ぬことができる
イタリア人化した格好いいこの僕を
国や会社のために死ねた前の世代の人間達が
ナンパだとかケシカらんとか言って批判することなど
できないのではないでしょうか。

もう日本社会は若者に生きがいを
設定することはできないようですし
無理に設定しようとすれば
きっとファシズムが生まれるはずです。
既にその兆候はあります。

構造改革が進んで終身雇用の勤め人が
どんどん減っていけば
若者だけでなく中高年にも
何のために生きればいいのか分からない
何のために死ねばいいのか分からない
という人が広がっていくでしょう。
もうファシズムを避けるには
イタリア人になるしか残された道はないのかもしれません。

構造改革が進めば日本にイタリア人が増える。
嗚呼、マンマミーア、メノメール、メノマーレ。



マリリン・マンソン VS ニーチェ 第二戦 2003.6.X 初出

というわけで、マリリン・マンソンが
ニーチェを読んでいた事を僕は発見したのです。
ファンの中では常識かもしれませんが。

ニーチェの代表作、ツァラトゥストラはかく語りき、は
名著で、僕も読んだ事があります。

マリリン・マンソンと同じく
キリスト教世界にあって、神は死んだ、と叫んだニーチェ。

しかし、ニーチェの代表作、ツァラトゥストラはかく語りき、を
注意深く読んでいくと、ニーチェは
イエス・キリストその人を批判しているのではなく
イエス後の教会のあり方、社会のあり方
文明のあり方、を批判しているのだと分かります。

キリスト教文明というのは、近代科学や
クラシック音楽などを生み出して
世界に貢献してきましたが
隣人愛や天上の救いなどの概念が
どうしても偽善的な文化を形成してしまう
ようです。

好色、貪欲、金銭欲といった
人間の自然な欲求を否定し
天の国に至上の価値を置く。
その事自体は「♂♀ 生・性・聖」の
エッセイでも書きましたが
地上で傷ついた人々に安らぎを与える、という
宗教本来の形ですから仕方のない事です。
ですが、現在のアメリカ政府のように
他国でキリスト教的価値観から見て
非人道的な事が行われていたら
出かけていって開放、教化してあげなければ
ならない、という清教徒的というか
子供じみた正義感のある文化、文明を
築きがちです。
それで世界中が迷惑しているのにやめない。

そういったキリスト教文化が持つ偽善性を
鋭敏な感性を持つニーチェは感じ取り
ツァラトゥストラはかく語りき、の中で
天国を否定し、地上の快楽を肯定し
超人になれ、と叫んだように思います。

ニーチェ自身は最終的に、永劫回帰、という
あらゆる善悪も、時空も
キリスト教という宗教すらも超えた概念を提出し
発狂してしまい、十年以上ベットの上で
のた打ち回って死んでしまいました。
すさまじい。

私はダイナマイトである-。
とも、生前ニーチェは語っていて
同時代の人は理解できなかったようですが
確かにニーチェはダイナマイトで
盲目的なキリスト教の支配から脱した
ヨーロッパは、その後
急激な近代化を迎え、戦争の世紀に突入し
ナチスを生み出してしまいます。
ピカソの絵で有名なゲルニカという町で
人類史上初めて一般市民への無差別爆撃が
行われましたが、僕はそこにもニーチェの
影を感じます。
歴史に、たら、れば、はないとよく言われますが
ニーチェがいなければ広島、長崎に原爆が
落とされる事もなかったのかもしれません。

アメリカの学校で起こった殺人事件が
マリリン・マンソンのアルバムのせいにされた
というのも同じ構図のような気がします。
マリリン・マンソンも現代アメリカの
ダイナマイトなのでしょう。
自分達の持つ一番嫌な部分を見せられると
社会は非難します。
それは普段は蓋をしている自分の欲求でも
あるからです。

でもそれはニーチェと同様、吹き出すべくして
吹き出したその文明の持つ毒であって
マリリン・マンソン自体を非難しても
仕方がないような気がします。
ちょうどサカキバラ事件の後
日本中で少年犯罪が頻発したようにです。
誤解されると困りますが
それは、サカキバラ事件を起こした少年が悪くない、という
事ではありません。彼はその毒を芸術という形で
提出すべきだったのです。

閑話休題。
マリリン・マンソンにしてもニーチェにしても
共通するメッセージは
傷ついたからといって、天国での救いばかり
考えて祈ってばかりいるな!
現世でどんな貧乏くじを引いても
無理やり幸せになれ!
地上に生きろ!
地上の悦楽を肯定しろ!
超人になれ!
というもののように思います。
ですが、そういうメッセージが世界に溢れると
どうしても地上は争いの絶えない場所に
なってしまいます。
もしかしたらイエス・キリストは
人類の特質がそういうものだ、と知っていて
2000年以上も続く大嘘をかましたのかな、と
思うと、逆にイエス・キリストの
凄さもわかります。

マリリン・マンソンもニーチェも
ひどい育ちだったらしく
どうせ神なんかいねえんだろ? と
思う瞬間が何度もあったのだと思います。
でも不思議な事に両者とも
イエス・キリストその人は批判していません。
イエス以後の社会、教会、文明を批判しているのです。

感性の鋭いマリリン・マンソンの
ボーカル、ブライアン・ワーナー氏は
ニーチェ同様、ひどい育ちの中で
傷ついた人間は天国という概念にすがって
一生を終えるしかないのか?
TVではおかしな宗教家が出演し
ワイドショー的な人生相談を行って金を儲けて
いやがる!
ラジオから流れてくるロックミュージックも
売れ線バンドばかりだ!
ROCK IS DEAD !
GOD IS DEAD !
GOD IN THE TV ?
ハレルヤ・マザーファッカー !!!
と、怒りと破壊衝動を高めていったのだと思います。
そして日本の宮城県仙台市青葉区北山に住む
小説家の卵にまで衝撃を与え、エッセイを一本書かせて
しまう程の、マリリン・マンソンの音、を作った。

うーん、これは本物だぜ、と僕は思った。
ピュアで鋭敏な感性が社会の矛盾を暴き
それが表現として噴出してくる。
とても文学的な音だ。

マリリン・マンソンというバンドの持つ
破壊性というのは、実はとてもピュアな
初期衝動から出発していたのだ。

マリリン・マンソンもニーチェも
本物のクリスチャンだから
現在の社会、教会、文明が
許せない……。

というわけで
マリリン・マンソン VS ニーチェ は
引き分け。

ちなみに今日はマリリン・マンソンと
hideが友達だったというのも
なんとなく分かりました。
ZILCHのhideです。
今なら書いてもいいように思うのですが
hideはファンに内緒で
慈善団体に寄付していたらしい、との事です。
友達から聞いた話なので噂かもしれませんが
(間違ってたらゴメンナサイ)
でも格好悪いからファンに隠してた、と
いうところに、僕は精神のダンディズムを感じました。

どんなに破壊的な表現を行っていても
表現者の根底にあるのはいつも
とてもピュアで傷つきやすい感性の
ような気がします。


-マリリン・マンソン VS ニーチェ(完)-



ツァラトゥストラ〈1〉 (中公クラシックス)

ツァストゥストラ〈2〉 (中公クラシックス)

マリリンマンソンの言葉





マリリン・マンソン VS ニーチェ 第一戦 2003.6.X 初出

いきなり
ROCK IS DEAD !
GOD IS DEAD !
GOD IN THE TV ?
ハレルヤ・マザーファッカー !!!

と、アメリカの人気? ロックバンドグループ
マリリン・マンソンのボーカル
ブライアン・ワーナー氏は叫んだのです。
僕は圧倒されてしまいました。

ロック好きの友人に進められて
せっかく進められたのだから、と
僕は何気にマリリン・マンソンのCDを何枚か
聞いてみたのですが……凄い。
どう凄いのか。
凄い。
だからどこが凄いのか。
凄い。
だからどこがどのように凄いのか。
凄い、といった感じなのです。
特にアンチクライストスーパースターという
アルバムが最高に凄くて
もう破壊衝動120パーセント。
衝動直結激烈怒涛爆音専門で突っ走る、といったノリ。
気の弱い僕でさえも、聞いているうちに興奮してきて
何か凶悪な気分になってしまうようなものでした。

おそらくロック史のみならず
クラシックから雅楽、全音楽史を通して
これほど破壊的な音楽はなかったのではないか
と思います。
こんな音楽はかつて地球に存在しなかった、と
思ったら
GIVE ME A EARTH !
という叫びも入っていました。
地球を俺によこせ !
僕も言ってみたいぜ
GIVE ME A EARTH !

ちなみにマリリン・マンソンという
バンド名は、かつてのアメリカのセックスシンボル
マリリン・モンローと、アメリカの劇場型連続殺人犯
チャールズ・マンソンの名前を合体させたものらしいです。
両者ともアメリカの大衆文化が生み出した悲劇の象徴。
アメリカの闇を最も抽出している、と
批評される事もあるこのバンドには
ふさわしい名前なのでしょう。
マリリン・マンソン。

アメリカの学校で起こった殺人事件が
マリリン・マンソンのアルバムのせいに
された事もあるらしいとの事。
歌詞を上手く聞き取れない日本人の僕が聞いても
これだけ気持ちを掻き立てられるのだから
それも分かるような気もする。
多感なティーンエイジャーには危険な音楽かも
しれません。毒がある。
そもそもキリスト教国で
アンチ・クライスト・スーパースター、と
名乗るのだから凄い。

で、僕は
GOD IS DEAD ! とか
GOD IN THE TV ? とか
ハレルヤ・マザーファッカー !!!
という叫びを聞いて
あ、ニーチェだ、と思ったのです。
ニーチェというのは
19世紀末にヨーロッパで神の死亡宣言を行った
ドイツの思想家というか哲学者です。

ニーチェみたいだな、と思って
マリリン・マンソンに興味を持った僕は
一番町のHMVにトコトコ出かけて
マリリン・マンソン関係の雑誌を
探ってみました。
あったぞ。
マリリン・マンソンの言葉、という小冊子。
ページを開いてみて僕は驚いた。

マリリン・マンソンはニーチェを読んでいたのだ!


マリリン・マンソン VS ニーチェ 第二戦へ続く。
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2003/06/20036_17.html







巨人の星と精神のダンディズム考 2003.6.X 初出

思い込んだら試練の道を
行くが男のド根性
真っ赤に燃える王者のしるし
巨人の星をつかむまで
血の汗流せ、涙を拭くな……

と、ずっと昔、巨人の星という
アニメがありました。
テーマソングの歌詞は
上記のようなものだったと思います。

血の汗とかド根性とか
涙とか試練というキーワードが
上手く散りばめられていて
敗戦の屈辱から
欧米に追いつき追い越せと
頑張っていた日本人の情念に
強く訴えるものがあったのだと
思います。

タイヤを腰に巻いてグランドを走り
うさぎ跳びをして膝を痛めたりしながら
甲子園を目指し
ついに出場した甲子園では
エースが猛暑の中、連投に耐えながら
肩を痛め……最後は、試合に負けた球児達が
涙を流す。
そんな青年達の姿を見ると
もう涙腺が緩んでしまう、という
年配の方は多いようです
最近はそういう高校球児を見なくなりましたが。

日本社会が敗戦から奇跡の復興を果たし
近代化も終えてしまった現在。
今度はグローバル化
市場化、IT革命と
超近代化とでも呼べそうな変革に
さらされています。

超近代化、ポストモダン、ポストポストモダン
ポストポストポストモダン
ポストポストポストポストモダン……と
社会が激変していく中で
努力している人が偉い
苦労している人が偉い
というかつての高度成長期の文脈では
対応できなくなってきているような気がします。
努力や根性、血と汗と涙だけでは
どうにもならない事が増えてきました。

人材派遣会社に仕事の登録にいくと
ワード、エクセル、アクセスなど
パソコンスキルのチェックがあります。
十分で何文字打てるか、とか
五分で何項目入力できるか、という
テストがあって、それで登録は終わりです。
はっきり言って
誠心誠意頑張ります、とか
熱意とか忠誠心とかは
何の意味もありません。
逆にそんな気持ちを持たれたら困る、と
いうのが実情のようです。

おそらくこれからの超近代化社会では
努力や根性、だけではなくて
どうすれば最少の努力で
最大の結果を得られるか考える、と
いうプロセスが
重要になってくるはずです。
そしてその上で努力する。
そういったクール? な人間は
かつての高度成長期の日本社会では嫌われていました。

でもよく考えてみれば
生きている限り、
誰でも多少の努力はしているし
苦労もしているはずで
それを他者に見せて
浪花節的に応援してもらう、というのも
どこか厭らしいような気がします。

血と汗と涙も嫌になるくらい
流してはいるが、他者の前では涼しい顔をしている、と
いうのが、これからの時代の礼儀になって
いくような気がするのですが
どうなのでしょう。

巨人の星と、精神のダンディズム。

愛とは毎月の家賃7万円を払うこと 2003.6.X 初出

愛とは毎月の家賃7万円を払うこと。

景気のいいデザイナーさんであるT氏は
確かにそう言った。

僕は衝撃を受けた。

僕は国分町の某飲み屋に来ていた。
そこで、女をかこっている、という
景気のいいデザイナーさん、T氏と
知り合いになったのだが
T氏によれば、女への愛とは
毎月の家賃七万円を払うこと、らしいのだ。
できたら愛と金は分けて考えたいと思っていた
ウブな僕は、その発言に衝撃を受けたのだ。

昔、同情するなら金をくれ、というドラマの
台詞が物議をかもしたことがあって(イエナキコ? )
その時は僕も、なんたる事だ、と思ったものです。
でも何故か、どういうわけか、どういう巡り合わせか
僕は社会に出てから四回ほど、突然勤め先がなくなる、という事態に見舞われてしまい
その台詞の意味もなんとなく
分かるようになってしまいました。

突然勤め先がなくなる、おそらく現在日本中で
似たような事態が発生していると思うのですが
そうするとたいてい雇用主さんは
同情の言葉をかけてくれます。
でも、どんなに暖かい言葉をかけられようと
次の日から僕の生活費がなくなる事に
変わりはないわけです。
気の弱い僕はたいてい
有難うございました、と言って
辞めてしまうのですが
同情するなら金をくれ、と
毒づいてしまう人も中にはいるでしょう。
当然の事ですが、雇用主も従業員も
あまり気持ちのいいものではありません。

愛とは毎月の家賃7万円を払うこと。
ママさんがつくってくれる
美味しいあったか芋焼酎を飲みながら
景気のいいデザイナーさんで
女をかこっているというT氏は
確かにそう言いました。

口惜しいが真実かもしれない、と
僕は思いました。

誠実である、とか
真面目である、とか
優しい、とか
その人の人間性だけで愛する人を
守れる幸福な時代は終わったのかも
しれません。

金じゃないんだよ、というのは
失業率1%の、悪いことさえしなければ
誰でも人並の暮らしができる、という
旧社会の常識だったのでしょう。

嗚呼、なんたる事だ。
愛とは、毎月の家賃7万円を払うこと。


伝統の一戦 2003.6.X 初出

記事によると
伝統の一戦である
サッカーの日本・韓国代表戦で
0-1で日本代表が敗れた、そうです。

伝統の一戦がいつのまにか
プロ野球の巨人・阪神戦から
サッカーの日本・韓国代表戦に
変わってしまいました。

いつ変わったんだよ、と思いますが
変わってしまったらしい。
そういった事に対して世代間、地域間で
コンセンサスが出来ていなくて
最近僕はよく混乱しています。

先日も、ある五十代の方と話を
していたのですが、その方は
髪を染めたりピアスをしている若者は
不良だと思っていたし
僕が皮パンを履いてバイクに乗っている姿を
見てからは、暴走族の話になってしまいました。

マスコミは、一般大衆、を想定して
情報を発信しなければならないので
どこかで、日本人の常識、を
設定しなければならないのでしょうが
伝統の一戦、と書いた時
巨人・阪神戦をイメージする人と
日本・韓国代表戦をイメージする人がいて
田舎、と書いた時
こ汚なくてダサいところをイメージする人と
水や空気がおいしくて人々が暖かいところを
イメージする人がいて
茶髪にピアス、と書いた時
気合いの入った不良をイメージする人と
お洒落に気をつける軟弱な若者を
イメージする人がいるのだ、という視点が
抜けてしまいます。
一言で言えば価値観の多様化の視点が
抜けている、という事になるのでしょうが
小説を書く上でもそれは結構
重要な問題になります。

小説というのは文字だけで読者に
その物語世界が存在するのだ、と
思わせなければならないわけです。
そういった時に、伝統の一戦、と
書いた時、巨人・阪神戦をイメージする人と
日本・韓国代表戦をイメージする人がいる
という事になると
表現がよりストリクトなものにならざるを
得なくなります。
つまり、日本の常識、に基づいた
比喩やメタファーが使えなくなります。

例えば、茶髪にピアスの三人の若者が
こちらを見ていた、と書いた時
それを不良の三人組が因縁をつけている、と
イメージする人と
お洒落に気をつける軟弱な若者三人組が
こっちを見ている、とイメージする人とが
いるとなると、その表現は使えません。

読者の頭の中はどうなっているんだろう、と
いう事が把握できていないと
文字だけで物語世界をつくる事はできません。
精神病者は精神病者の話は書けないのです。

価値観の多様化がすごいスピードで進んでいるので
もう日本人全てが共感できる小説というものは
出てこないようにも思います。
それと僕が今まで書いてきた小説が
どんどん古くなっています。
ほんの二、三年前のものでも
並んでいる単語からイメージされるものが
変わってきてしまっています。

伝統の一戦が、巨人・阪神戦か
日本・韓国代表戦かは、社会にとっても
僕にとっても、結構重要な問題です。


♂♀ 生・性・聖 2003.6.X 初出

更年期のせいでしょうか
男性も女性も、六十歳を過ぎたあたりから
独特の品が出てくる事があります。
いつまでも脂ぎっている人もいますが……。

中年のおっちゃんやおばちゃんは
どことなく厭らしい感じがしても
老年に入ると品が出てきます。

僕は人間という存在を、生と性と聖という
三つのセイで捉えようと努力していた事が
ありました。

それで、更年期を過ぎると、三つのセイのうち
性が抜けて、生と聖だけになり
品が出てくるのではないかと考えたわけです。

生と聖だけの、赤ん坊や思春期前の少年少女
それと老年の人には罪がないような気がするし
それらに該当する人を攻撃すると
社会的に非難されます。

おそらく人間にとって、性が様々な罪を
作り出すマグマなのだと無意識に
みんな自覚しているのだと思います。
罪作りな女、という言葉もあります。

赤ん坊や思春期前の少年少女、或いは老年の人が
革命を起こす、というケースはあまり考えられません。
ベビーブーマー世代が成人を迎えた頃
世界中で学生運動が盛んになったそうですが
それも性のマグマがある時点で強大になり
社会を変革するパワーとなって噴出した
と、捉える事もできます。
そして、生と性と聖、三つのセイの関係が
宗教を生み出してきたようにも思います。
かつてキリスト教の一派が、子供ができたら
去勢する、という教義を掲げた事があったらしく
それは罪の源泉である性を絶って
聖に近づこうとする文脈が背後に見られます。
社会から活力が奪われる事を恐れた時の政府が
その宗派を弾圧したそうですが
弾圧した政府の側も、社会の活力が性から来ている
と無意識に知っていたのでしょう。

確かそれはロシアだったと思います。
ロシアは変な宗教が出てくる国で
一応ロシア正教会という国教にちかいものが
あるらしいのですが
怪僧ラスプーチンという大酒飲みで女好き、という
近代の常識ではちょっと理解し難い宗教家が
出てきたり、最近ではアレフ(旧オウム真理教)が
信者を増やしたり、或いは神の問題に取り組んだ
世界的文豪ドストエフスキーを輩出したり、と
宗教的な土壌を持っているようです。

閑話休題―。
おそらく人間にとって
生・性・聖の三つのセイのうち
性の部分が社会的活力も罪も作り出す源泉である事は
間違いないように思います。
フロイトという学者のエロスとタナトス論では
性の本能と死の本能は表裏一体のものであると
されています。違ったかな?
つまり性が戦争やケンカや犯罪を生む。違ったかな?
フロイトは性にとらわれ過ぎている、という
批判がなされる事もありますが
ある面では真実を語っているように僕は思います。
女人禁制の高野山で男色が生まれたり
妻帯を許されないキリスト教の牧師が少年愛に
走ったりするのは、フロイトの理論によれば
性を絶って聖に至ろうとしたのに
聖に至れず、別の形で噴出してしまって
いる例と言えます。

前述のラスプーチンのように
大酒を飲んで性にまみれて
聖に近づいていこうとする宗教家もいますが
いずれにせよ人間は
造物主によって生・性・聖の三つの
セイの中で踊らされているような気がします。

僕の考えでは、性を絶つのも、性にまみれるのも
きっと飛ぶための手段に過ぎなくて
飛んで何処に至るのか、と言えば
飛んで生という枠組みを超えて
聖に近づくのが宗教の原型なのではないかと思います。
聖につらなるエクスタシー(脱自)体験は
きっと並みのセックスなど話にならないくらいの
快感があるはずです。
何やら危ない話になってきましたが
宗教とは本来そういう人間が持つ危険な面を
上手く処理し、人々に安らぎを与える機能で
あるように思います。
人間の生を超越した聖という概念を設定する事で
争いや痴情のもつれの絶えない生と性の
世界で傷ついた人々を救うもの……。
若い頃はギラギラしていたと言われる
作家の瀬戸内晴美さんが
出家して尼僧となり慕われている姿を見ると
宗教本来の姿を見るような気がします。
(瀬戸内さんの本はあまり読んだ事がないので
決め付ける事はできませんが)

オウム真理教は、薬物によって
宗教体験を引き起こした事もあった
ようです。
ですが、おそらく性を絶ったり
性にまみれたりしてエクスタシー(脱自)体験に
近づいていく道程の中での試行錯誤にも
何らかの価値がある、と僕は考えているので
薬物を使った安易な宗教体験は
僕的にはあまり評価できません。
我慢して我慢して、ついに来る脱自体験だからこそ
意味があるように思います。

LSDを使用すると人為的に
宗教体験を引き起こせる、とも言われていて
体験者に話を聞くと
その時は天才になったような気がするけど
薬の効果が切れるとビジョンは
消えてしまう、そうです。

今日はとりとめのない話になってしまいましたが
生と性と聖、そしてその土地の風土。
自然と人間のかかわり、を、上手く処理して
提出できた宗教が、キリスト教、イスラム教
仏教、と、世界宗教たりえているような気がします。
そういった中で、僕は最近神道に注目しているのですが
神道に関係した凄い小説を書けたらいいな、と思って
います。
ついでに今日は、瀬戸内晴美さん、寂聴先生の凄さも
あらためて確認しました。


-♂♀ 生・性・聖-


ラスプーチン―その虚像と実像








ア・ルース・ボーイ 2003.6.X 初出

ア・ルース・フィッシュ 
だらしのないやつ

仙台一高出身の作家、佐伯一麦さんの
三島賞受賞作「ア・ルース・ボーイ」の
冒頭にそんなセリフが出てきます。
要は進学校で受験勉強に真剣に取り組まない
主人公に対して、教師が
お前はだらしのない奴だ、と
烙印を押しているのです。
進学か就職かと悩んでいる高校生には
ぜひ読んでいただきたい一冊です。

佐伯さん、いえ僕からみたら佐伯先生、には
一度お会いした事があるのですが
気の弱い僕は極度の緊張のあまり
上手くコミュニケーションが取れなかった事を
覚えています。
凄い迫力のある方です。写真とは全然違います。

いい大学、いい企業、出世コースという
98年以前の常識は過去のものになってしまい
ましたが、振り返ってみて、受験戦争とは
いったい何だったのだろう、と最近よく思います。
昔は志望校に落ちて自殺するような人も
いたようですし、僕が子供の頃は
息子が二人とも東大に入った、と言って
自慢しているおじさんもいました。

気の弱い僕は、中学高校ともテストの度に
上手く実力を発揮する事ができず
偏差値はいつも25くらいでした。
偏差値教育が始まる以前に学校を
卒業された方のために記しておきますと
大体偏差値75というと早稲田、慶応クラス
偏差値25というのは、今年の受験は諦めた方が
いい、というレベルです。或いはもっと下かもしれません。
偏差値25近辺をウロウロしていた僕は
担任の教師に、お前は進学できない、と
言われてカチンときたことを覚えています。
カチンときた僕は
猛勉強して仙台市内の某四大に潜り込んだのですが
何で僕はカチンと来たのか、と思い出して
みると、進学できない、という事
つまり偏差値が低いというだけで
全人格を否定されたような気がして
カチン、と来たのだと思います。

人間誰でもいろいろな能力があって
絵が上手いとか
体力があるとか
話が上手いとか
友達が多いとか
いろいろな価値判断基準があるのに
当時のある程度の進学校では
偏差値が高いかどうかで
全て判断されていたように思います。
教師達は、今年は早稲田に何人入った、とか
一橋に何人入った、とか、そんな話ばかり
していました。
今となっては考えられませんが
受験に関係のない美術や音楽は
やらなくていい、とも言われていました。
ギターなんか弾いていると不良と呼ばれました。
そういった風潮の中で、偏差値に騙されて
能力を発揮できなくなっていった人は
恐ろしくたくさんいると思います。
それは大げさに言えば日本の損失です。
いや、国際社会における日本の役割を
考えれば世界の損失です。

僕も偏差値が高い人が能力が高い、という
暗示にしばらくかかっていて
僕の能力はどうせ偏差値25くらいだ、と
思って小さくなっていた時期がありました。
社会の側にも、偏差値が高い方ができる奴だ、という
常識が溢れていたので、偏差値が高い人は
自信を持って胸を張っていました。
社会に出てみると実感しますが
自分に自信を持つというのは結構大切な事で
イジイジクヨクヨしている人間より
ハッタリでも胸を張っている人間に
仕事を頼みたくなるものです。
そういったわけで、かつての日本社会では
高校時代の偏差値が一生尾を引く、という
ものでした。入り口社会。
大学でも会社でも入るまでが勝負。
入ってしまえば後は、俺は~大卒だ
俺は~会社の社員だ、おお凄い、と
なっていたように思います。

そういう社会が終わってしまって
所属している会社や出身大学でなく
単に個人として何ができるか
大学で何を学んだか
前の会社ではどういった業務に
携わっていたか、が問われるように
なってしまい
~会社の社員だ、~大卒だ
という形で自分のアイデンティティーを
確立していた人達が
精神の危機を迎えているように思います。
僕はなんで偏差値が低いというだけで
自分を卑下していたのだろう、と不思議な
感じに捉われています。

そういった構図が見えるようになってきてから
京大法学部卒とか
明治大卒とか
第一勧銀にいたとか
NTTにいた、とかいう人達に
会ってみましたが
当たり前の話ですが、みんな個人個人で
違っていて、できる人はできるし
できない人はできない。
話してみると結構普通の人だ
という事も分かってきました。

いったい受験戦争とは何だったのだろう。
最近では進学校でも
東大や早稲田に入れるような偏差値を
取れる高校生が、海外留学を検討しているそうです。
そして学年から何人かは、実際留学してしまうらしいとの事。
中田英寿効果だろうか、と僕は思いました。
彼は東大に入れるくらい偏差値が高かった
という話を聞いた事があります。
でも少なくとも海外に留学すれば
外国での生活経験と、使える語学力は残るように思います。
偏差値順に教師に振り分けられて
無目的に国内の大学に入っても
~大卒です、という今では通用しなくなった
肩書きが残るだけで、あまりいい事は
ないような気がします。
受験で燃え尽きて五月病になる学生も
多いらしいですし。
それに少子化で、もうすぐ大学全入時代が来る
とも言われています。
いったい受験戦争とはなんだったのだろう。
海外に出てイタリア人に向かって、偏差値68です、と言っても
何の意味もないような気もする。

で、佐伯一麦先生の「ア・ルース・ボーイ」に
戻るのですが、受験戦争からドロップアウトし
様々な社会経験を積んだ主人公は
電気工として自立します。
そして大学へと進む同級生達の
卒業式を、体育館の照明を修理しながら見下ろし
一言呟きます。
何と呟くかは、著書を読んでのお楽しみ、と
言う事になるわけですが
受験戦争が終わってしまった現在読んでも
得るものがあります。
三島由紀夫賞を受賞したのも頷けます。


-ア・ルース・ボーイ(完)-





ア・ルース・ボーイ (新潮文庫)



サイバーレボリューション 2003.6.X 初出

というわけでIT革命というのは
今後社会のあり方をどう変えていって
しまうのだろう、という話が激論に
至ったのであります。
ケンケンガクガクの激論の中、気の弱い僕は
黙って聞き耳を立てていたのですが
以下要約。

(1)中間管理職の駆逐
かつての産業革命とさえ比べられるIT革命。
アメリカでは仕事の進め方が大きく
変わってしまい、約400万人の中間管理職が
不要になってしまったそうです。
現場と本社とのパイプ役を果たしていた
中間管理職。
それは社内メールやイントラネットによって
社員全員が情報を共有できるようになる事で
不要なポストになってしまいました。
今後日本でもそういった動きが加速していくことが
考えられます。

(2)デフレ圧力
かつての蒸気機関や紡績機械による産業革命に
おいても、世界的デフレが起こったのだそうです。
それまで馬で輸送していたのが蒸気機関車に
変わり、物流コストが劇的に下がることで
デフレ圧力がかかったのでしょう。
さらに、馬、に代表されていた人達は職をなくし
そんな機械なら壊してしまえ、という事で
ラダイト運動という現象が起きています。
機械打ちこわし運動です。
かつての産業革命においても
始めはそれまで行っていた事を
蒸気機関や機械に置き換えていくだけで
雇用を生み出すような
思いもしない新産業というものは
中々起こらなかったそうです。

IT革命も現在のところ
今まで雑誌や新聞、ミニコミ誌が持っていた役割を
代替しているだけで、思ってもみない新産業と
いうものは出てきていないように思われます。
むしろ、遅かれ早かれ情報はネット上に無料で流れて
くる、という事になると、これもデフレ圧力で
レンタルビデオ店、地図屋、新聞代理店、音楽ソフト会社、映画ソフト会社……等
課金システムの変更を迫られている業種は多数です。
IT革命におけるラダイト運動が
出てきていない事がまだしも救いです。

(3)人々の心理の変化、情報の民主化
かつての産業革命においては
蒸気機関車がそれまでの人々の心理的な
地理的概念を変えてしまったとの事です。
フランスを一つの国、一つの文化にしたのは
蒸気機関車で、それまでは政治的に統一されては
いても自己完結した地域の集合体だったのだそうです。

テクノロジーやインフラの発達は人々の
意識を変えてしまうことがあります。
飛行機に一度でも乗ってみると
雲の上に天使達が住んでいる、とか
雲の上には雷様がいる、と言われても
イメージできなくなります。

IT革命においても次第に人々の意識に
変化が起きているように思います。
ネット上への発信の自由、検索エンジンによる
ボーダレス情報の取得は、次第にマスコミの
権威を弱めてきているように思います。
かつてマスコミは、司法、立法、行政に次ぐ
第四の権力と呼ばれていました。
TVや新聞に、この人が容疑者ですよ、と
書き立てられると、たとえ無罪であっても
会社を辞めなければならなくなったり
親戚が肩身の狭い思いをしなければ
ならなくなる、という事が多々ありました。
そういった構図がIT技術の発達で崩れてきて
マスコミに疑われても、インターネット上で
反論もできるし、援護運動もできる、というように
なってきました。
またテレビの視聴率という概念に対して
インターネット上ではアクセス件数という形で
人々の関心の高さを量れるようになってきています。
そういう点では情報の民主化が起こっている、とも
考えられます。

(4)プレイスレス、行政指導と市場保護政策の無効化
かつての産業革命は
人を職場へ運ぶことを可能にし
大都市が形成されていきました。
IT革命は逆に、職を人のいるところへ
運ぶ事ができます。
ノートパソコンとPHSがあれば
在宅でも喫茶店でも旅行先でも
仕事ができます。
さらにヤフーオークションや
アマゾン・マーケットプレイスがよい例ですが
住んでいる土地に関係なく、パソコンと
回線さえあれば、世界に向けて商売が成立します。
かつて街の古本屋さんは、近所の人しか
ターゲットにすることができませんでした。
競合店が近くになければ、値段を吊り上げることも
できたはずです。
しかしインターネット上に古本屋ができてしまうことで
そういったことが不可能になってしまいます。
かつてはどんな商売でも重要だった、立地条件、というものが重要でなくなりつつあります。
インターネット上での取引が本やCDだけでなく
あらゆる売買に拡がっていけば
行政指導と市場保護、という戦後の日本政府が
担ってきた役割が無効になってしまいます。
というよりもむしろ邪魔なものに
なっていくのではないでしょうか。

以上がケンケンガクガクの激論の要約です。
ネガティブな面もポジティブな面もあり
IT革命が今後社会のあり方をどのように
変えていくのか
本当は誰も分からないのかもしれませんが
それはサイバーレボリューションとでも呼ぶべき
とてつもない変化です。
考え、議論しておくのは無駄ではないように思います。



べんちゃあ・すぴりっと 2003.6.X 初出

二十代は十回失敗しろ!

なんですと!? 
と、僕は驚いた。
二十代に十回成功するのではなく
二十代に十回失敗しろ、とは何たる事だ。
二十代で四回失業し、三回倒産を経験し
二度自殺未遂を起こして、一度自己破産して
合わせて十回失敗しろとでも言うのか。
それに二十代で十回失敗するという事は
一年に一回失敗するということではないか!
なんたることだ。
さすがに企業経営者は学校の先生とは
言うことが違う、と僕は思った。

僕は仙台駅東口の新寺の某飲み屋、その名も
新寺、に来ていた。
そこで企業経営者のS氏と
知り合いになったのだが、二十代は十回失敗しろ
といきなり説教を食らったのだ。
気の弱い僕は反論する事もできずに、ただ
S氏の説教に頷いていた。

現代において、失敗とはなんだろう。
98年以前の日本では、失業、と言えば
サラリーマンにとって屈辱的な概念で
ちょっと他人には言えないことだった。
クビ、と言う言葉もあった。
まるで仕事を失くしただけで全人格を否定
するかのような言葉だ。
職を転々としている人は危ない人で
一箇所に長く勤めないと、履歴書が汚れる、という
表現もあった。
だが最近では企業の寿命が三十年であると
言われ始め、企業よりそこに働く人の方が
どうしても長生きするという事が明らかになり
さらに契約社員4割の社会がすぐそこ、などと
囁かれ始めるご時世になると
失業は一生に二度や三度は起こる通過儀礼であり
少なくとも他人に言えないような事では
なくなってきたような気がする。

また、かつて倒産と言えば経営者にとっては
死刑宣告に等しいもので
財産、信用、名誉をすべて失い、銀行からも
相手にされなくなる、という悲惨なものだった。
僕が子供の頃は、事業で失敗すると家族ぐるみで
夜逃げしなければならなかった。

つまりほんの少し前までは
日本はリスク回避型、というか、失敗の許されない社会
だったのだ。社会が敷いたレール、という言葉もあった。
親や教師の言うことをよく聞いて、社会の敷いたレールに
乗っていれば一生安泰。
そんな教育を受けて育ってきた子供たちに
ベンチャースピリットなんか育つわけが
ないのだが、政府は今になって、若者よベンチャー企業を起こせ、と叫ぶ。

二十代は十回失敗しろ!!
新寺で知り合った企業経営者のS氏は確かにそう言った。
血のションベンを流せ、とも。
血のションベン……
血のションベン……
血のションベン……流すのか!?
血のションベンを流しながら二十代で十回失敗
すれば、S氏のような企業経営者になれるのだろうか。
そこまでしてなりたくないような気もするが
ベンチャーを起こすというのは、そういうリスキーな
ものなのだろう。
そしてそういう人が尊敬される社会になっていかなくてはいけないのだろう、とも思った。
そして敗者復活が許されるような社会に。

とにかく安全第一で失敗もしないが成功もしない。
仕事も遊びもそつなくこなし、GWは
ユニバーサルスタジオジャパンに行きます、みたいな
人が、リスクを負って努力している人を馬鹿にするような時代は終わらなくてはいけないのだろう。

血のションベンを流しながら
二十代に十回失敗する……べんちゃあ・すぴりっと



ゲームの途中でルールが変わるスポーツ!? 2003.6.X 初出

ゲームの途中でルールが変わる
スポーツ。

たぶんそんなスポーツはないと
僕は思いますが、銀行の頭取さん達は
最近よくそんなふうに嘆きます。
先日僕は、某銀行に公的資金が
投入されてカチンときてエッセイを
書いてしまいましたが
一方的に非難ばかりしてはいけない、と
思いなおしました。
相手の立場に立って物を考えるというのは
人類の黄金律です。

いったいどうスポーツの
ルールが変わったのだろう。
ものの本によると、グローバル化する経済活動の中で
企業会計も日本式を止めて国際会計基準を
導入する事になったらしい。
おそらくこれが銀行の頭取さん達が言う
ゲームの途中でルールが変わったという
事ではないだろうか。
いや、たぶんそうだ
きっとそうだ。絶対にそうだ。

従来の日本式の会計から国際会計基準に
ルールが変更されると
いったいどのように銀行経営は苦しくなるのだろう。

時価会計基準の導入、というのが難物らしい。
従来は取得時の価格で土地や株式を計上していたのに
それを突然、これからは時価、今の価格で
計上して下さい、となってしまったのだ。
取得時の価格から現在の時価へ

そうなると土地神話のもと
取得時には高騰していたであろう地価で
計上していた資産は、会計上一気に目減りして
しまうし
実際には株式を売買していなくても
東証の株価が下落して時点で
会計には赤字を計上しなくてはならなくなる。

現在の経済状況でそんな会計基準にいきなり
変更されたら、どうやっても会計上赤字に
なるしかないのだろう。
僕は分かった。それで銀行の頭取さん達は
ゲームの途中でルールが変わるスポーツだ
とプンプンしているのだ。

サッカーの試合をしていて
もつれにもつれた接戦の末に
3対2まで追いついたのに
後半25分に突然審判が笛を鳴らし
これからは1ゴールを3点で
計算します、と言ったら
きっと選手も監督も怒るだろう。
銀行の頭取さん達の気持ちもちょっと分かる。

でも現在の日本では、ほとんどの人が
そういう気持ちを抱えているのではないだろうか。
会社に忠誠を誓う事がよい事だったのに
突然、これからは会社に依存しないで
下さい、と言われて困っている人は
恐ろしくたくさんいると思います。

現在、世界も日本も大きな変化の中にあり
ビジネス書界の重鎮、ドラッカー博士によれば
この変化はあと十年以上続くらしいとの事です。
2013年までこの混乱が続くのか、と
思うと、僕は嫌になります。

~今日は大事な来客があるので
近所の花屋さんで花を
買ってきました。
店員さんと話をしていたら
最近は台湾やシンガポールからの
輸入ものの花が多いとの事でした。
ただ輸送中に痛んでしまうことが多くて
持ち、はあまりよくないとの事。
でも生け花まで輸入かよ、と僕は
驚きました。
どうやらグローバル化は止める事のできない
事実のようです。
銀行の頭取さん達にもなんとか
この難局をくぐり抜けてほしいと思います。