2004年1月10日土曜日

我が国とこの国(6) 霞ヶ関支配の終焉 2004.1.X 初出

霞ヶ関の官庁は、皇居を取り囲む形で
配置されていると言われます。

もっと具体的に言えば
明治以来、長らくそれぞれの官庁への
予算配分権を握っていた
大蔵省、という名前は
日本書紀において、天皇陛下が
泰氏、という渡来人の集団に勅命を下されて
設置された皇室の金庫番に由来しているわけです。

何を言いたいのか、と言いますと
大蔵省、という名前は
日本書紀において天皇陛下の勅命で
設置された由緒ある組織に由来しているのだから
近代国家の一行政機関、であると同時に
宗教的権威、となってしまうわけです。
そうなると、大蔵省職員は偉い、となるわけです。

僕がこのエッセイの中で
もう官は偉くない、とか
霞ヶ関支配が終わる、とか
平気で書いているのは
大蔵省、が、財務省、に名前を変えたからです。

大蔵省、には、一行政機関であると同時に
宗教的権威、がありますが
財務省、には宗教的権威はありません。
財務省、などという言葉は
日本書紀には一度も登場しないからです。
財務省、は、近代国家における単なる一行政機関です。
だから財務省の職員は、偉くはない、のです。
ただの雇われ役人です。
大蔵省職員、は
日本書紀にまで連なる、宗教的権威、があるので
偉い、のですが
財務省職員、は、宗教的権威、がないので
ただの雇われ役人、です。
だから、偉くはない、わけです。

中央省庁の統廃合が行われていた際
その、ネーミング、をめぐって
高級官僚達の激しい抵抗があったようですが
それは、日本書紀、にまでつながる
宗教的権威、を否定され
単なる一行政機関の、雇われ役人、に
成り下がってしまうことへの
抵抗だったのでしょう。
財務省、なんて軽々しい名前は
日本書紀、にも、古事記、にも
一度も登場しません。
だから高級官僚はもう、偉く、はないわけです。

大蔵省、が、財務省、に名前を変えた時点で
高級官僚達の、宗教的権威、は剥奪され
タックスペイヤーである、市民、が
雇っている、ただの雇われ役人、になったわけです。

吉本隆明さん(吉本ばななさんのお父さん、知の巨人)は、
日本人が神社に初詣でに行ったり
夏祭りに参加しているうちは
日本に近代はこない、と発言されていたように思いますが
僕は、大蔵省、が、財務省、に名前を変えたことで
近代国家への道が開かれたのではないか、と考えるのです。
おお、僕も偉くなったものだ。
吉本隆明さんに反論してるぞ。

つまり、大蔵省、が、財務省、に
名前を変えた時点で
高級官僚達は、宗教的権威、を
なくしたのだから、主権は
タックスペイヤーである、市民、に
移ったのではないか、と思うのです。

大蔵省、に注文をつけることは
日本書紀にまで連なる
天皇陛下勅命の組織に、異議申し立て、を
行うような、畏れ多い行為、ですが
財務省、という宗教的権威を持たない
単なる一行政機関の、ただの雇われ役人、に
注文をつけるのは
タックスペイヤーである、市民、として
当然の権利ではないか、と思うのです。

だからこれからは
この国、と突き放して表現しても
自然に受け止められるように
なるのではないか、と思うのです。

この国、と表現した場合
それは、社会契約説、に基づく
司法・立法・行政、という
権力機構、の事を指すように
なるのではないか、と思うのです。

この国、と突き放して表現しても
別に、非国民、というわけではない、と
なるのではないか、と思うのであります。
ヨーロッパのように
我が国、と表現する人は
右翼、とか、超国家主義者、と
捉えられるようになっていくのかもしれません。

先日、小室直樹氏の、三島由紀夫が復活する(毎日ワンズ)と
いう本を読んでいて
僕は、占領軍によって歪められてしまった
戦後天皇制にただ一人立ち向かい
最後は自衛隊の基地でアジ演説を行い
腹をかっさばいてみせた三島由紀夫という
作家の凄さを改めて認識しました。

僕は、大蔵省、に代表される霞ヶ関の高級官僚達が
清廉潔白で超優秀な人達で
運営される組織であるなら
天皇陛下勅命の、宗教的権威、があっても
構わないと思います。
ただ実際は、官官接待、天下り、業界との癒着
税金の無駄使い、裏金作り……と
宗教的権威、どころか、俗物の見本、のような
有様なので、高級官僚達の、宗教的権威、を
否定してしまいたくなるのです。

宗教的権威、というのは
例えば、文部省、が、教育の総本山である、という
迷信に代表されるお上意識です。
文部省推薦図書、とか、文部省推薦映画、というのが
昔はありました。
何年か前にも、文部省が不登校を認めた、というニュースが
流れた事がありました。

でも、社会契約説、に基づく
近代国家、として見てみると
文部省が教育の総本山である、というのは
おかしいものです。
ただの雇われ役人、が、どうして
推薦図書、や、推薦映画、を指定するのでしょう。

庶民が無知な時代はそれでよかったのかも
しれませんが、現代の、市民、はそんなに
無知ではありません。

文部省、も、文部科学省、になってしまいました。
文部省、は、宗教的権威、がありそうですが
文部科学省、には、宗教的権威、がなさそうです。
日本書紀、には、間違っても
科学、という言葉は出てきません。

先日、政府が、首相の諮問機関である
第28次地方制度調査会、を設置し
都道府県をブロックごとの行政組織に
再編する、道州制、導入に向けた本格的な
議論に入る方針を固めた、というニュースが
ありました。
本当に、道州制、が導入される可能性が出てきた
わけです。
そして、霞ヶ関の高級官僚達に
もう、宗教的権威、はない。

となると、この国は、この州は、と突き放して
発言しても、非国民扱いはされない、という
状況になっていくかもしれません。
この国、や、この州、が指すものは
単に、ホップスの、社会契約説、に基づく
リバイアサン、というコンセンサスができて
いくのかもしれません。

もしかしたら、明治以来の画一的中央集権化が終わり
ミカド、という日本人のスピリチュアルな
精神的支柱と、幕府、という俗界の政治権力が
分かれていた、江戸スタイル、に戻っていくのかも
しれません。
分からない。分かりません。
でも確かな事は

・どんな社会も完全ではない
・どんな社会も真底から善くはないが
 だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはない
・あらゆる社会は、その成員に
 ある種の利点を提供するが
 一方、不正の澱はなくなるわけではない

という事です。
冒頭のレヴィ=ストロースの、悲しき熱帯、の中の
一文です。

やはり最後はブルーハーツになってしまうのですが
簡単に言うと

ここは天国じゃないんだ
かといって地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど
悪い奴ばかりでもない

という事です。

栄光に向かって走る
あの列車に乗って行こう。

謹んで新年のお喜びを申し上げます。
本年も、卵のなかみ、をよろしくお願い致します。

TRAIN TRAIN 走って行く
TRAIN TRAIN どこまでも



―我が国とこの国(完)-



関連

 転換期を迎えた労働組合(1)~(4)
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 戦後日本システム崩壊の前兆(1)霞ヶ関支配の終焉
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三島由紀夫が復活する

超戦争論 上

超戦争論 下

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

我が国とこの国(5)リバイアサン 2004.1.X 初出

近代国家、というのは
人間の作為によるものなのですが
日本は島国で、かつ有史以来
ほとんど外国の占領を受けた事が
なかったので、その辺の感覚が中々掴めなかったり
します。
1945年のアメリカ合衆国による占領が
おそらく有史以来初めての外国軍による
直接的占領ではないでしょうか。

近代国家は人間の作為である。

これは、ホップス、という思想家の
社会契約説、からきている考えです。
ホップスは、人間は自然状態では
万人の万人に対する闘い、の状態にあるとします。
そこで、万人の万人による闘い、を防ぐために
契約、を行って成立するのが、国家、だとします。
そして、契約、によって生まれた
その、国家、を、リバイアサン、という怪物に
喩えています。
近代国家は契約による、人間の作為、によるもの
なのですが、その作為によって生まれた国家は
リバイアサン、という怪物になるわけです。

例えば、誰も戦争なんかしたくありませんが
この、リバイアサン、という怪物が暴れ出すと
有無を言わさず国民の中から兵隊が作られて
戦地へ送り出されてしまいます。
まさに、国家、は、リバイアサン、怪物です。

こういった思想的前提があるので
欧米では、この国は、と突き放して発言しても
別に、非国民、とはならないのでしょう。
近代国家は人間の作為なのですから。
むしろ、我が国は、という主語を持ってくると
右翼、とさえとられてしまいます。
我がドイツ国民は優秀であるから
他民族は抹殺してもよい、というのが
ナチス・ドイツのロジックでした。

それに欧米では市民革命によって
王権神授的思想を否定して近代化したので
政治と宗教が上手く分かれているわけです。
ところが日本では逆に、天皇制の力を借りて
近代国家を形成しました。
明治時代に天皇制の力を借りて
廃仏毀釈による神道の一神教化によって
近代国家を作ったわけです。
西洋近代とは、全く逆のプロセスを経ているわけです。

じゃあ江戸時代はどうだったか、となると
これは日本人のスピリチュアルな支柱であり
宗教的権威である朝廷と
俗界の政治権力である徳川幕府とが
分かれていたわけです。
江戸時代に日本を訪れた外国人は
これに驚くわけです。
市民革命なしで既に政教分離が行われて
いたわけですから。

つまり日本の近代化というのは
王権神授的思想を否定して
政教分離によって近代国家を作るのではなく
宗教的権威に基づく王権によって
近代国家を築いたわけです。

そうなると、ホップスの、社会契約説、に基づく
リバイアサン、であるとか
タックスペイヤー、であるとかの
意識が持てないわけです。
つまり、近代国家は人間の作為である、という
感覚が持てないわけです。

宗教的権威と俗界の政治権力が一致して
しまっているので、この国は、という主語を
持ってこられると、なんとなく
日本人のスピリチュアルな面まで
否定されたような気がして
多くの人は、不愉快な感じ、を受けて
しまうのだと思います。

そうなると、お前が、この国、という時
あの国、はあるのか、と文句の一つも
言いたくなるわけです。

宗教的権威、と、リバイアサン、が
一致してしまっているので
この国、が、単に、社会契約説、に基づく
リバイアサンなのだ、と取れないわけです。

80年代に一世を風靡した
ブルーハーツというパンクバンドが
千のバイオリン、という曲の中で

ゆりかごから墓場までバカ野郎がついて回る

と歌う時、バカ野郎、は、社会契約説に基づく
リバイアサン、を指しているのだと僕は思います。
つまり、アホな政治家、や、アホな高級官僚達、に
向かって、バカ野郎、と叫んでいるのだと思います。

僕は子供の頃、ブルーハーツを聞いていたら
まともな大人になれないな、という恐怖感を
感じましたが、それは、リバイアサン、に
対する恐怖だったような気がします。
近代国家は、リバイアサン、怪物、なのです。

つまり、ゆりかごから墓場までついて回る
リバイアサン、に対して、バカ野郎、と叫んでいたら
まともな大人になれないな、と幼き僕は
本能的に思い恐怖を感じたのだと思います。 
そしてこんな大人になってしまいました。

例えば、アメリカ合衆国は
アメリカ大陸に住んでいたインディアンを
大量に撃ち殺して建国された、リバイアサン、です。
インディアン嘘つかない、という格言が
昔ありましたが、アメリカ大陸に住んでいた
インディアン達は、たぶん、リバイアサン、という
怪物を持たずに、大地とうまく共生していたのでは
ないか、と思ってしまいます。
日本でも、アイヌ民族、の問題があります。
オーストラリアのアボリジニなども
リバイアサン、という怪物を持たずに
大地と共生しているような気がしますが
大規模な殺し合いをしている、という話は
聞きません。
ただ、ボロロ族にも差別はある、というのは
es muss sein 運命の声、のエッセイでも
触れた通りです。

もしかしたら、ホップスの
自然状態では、万人の万人に対する闘い状態にある
という前提は、大嘘なのではないだろうか。
むしろ、リバイアサン、が生まれてから
万人の万人に対する闘い、が始まったのでは
ないだろうか。
アフリカで虐殺にいたる民族紛争が始まったのは
リバイアサン、が誕生してからなのではないだろうか。

ブラウン管の向こう側
格好つけた騎兵隊が
インディアンを撃ち倒した
ピカピカに光った銃で
できれば僕の憂鬱を
撃ち倒してくれれば
よかったのに

今度はブルーハーツの、青空、という曲の
一節です。
やはり、近代国家、リバイアサン、は
人類が生んでしまった、怪物、なのかも
しれません。
でももう、リバイアサン、は
生まれてしまいました。
僕は、近代国家は必要悪
悪だけどないと困るもの
だって僕たちはもう、竪穴式住居、には
住めないのだから、と何度かこのエッセイで
書いていますが、ホントにこの、リバイアサン、は
どうにもならない、怪物、のような気がします。

この、怪物、バカ野郎、が、ゆりかごから墓場まで
ついて回る、のです。
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰めます。
まぶしいほど
青い空の真下で。

そして日本では、この、リバイアサン、と
神様、が結びついてしまっているわけです。
そして僕は、神社、が好き。
そして僕は、リバイアサン、が嫌い。
となると、僕は
左翼、天皇支持、となってしまうので
現代の政治状況では
無党派、となってしまうのです。
ポチ保守、でも
バカ左翼、でも
プチナショナリスト、でもない。
かといって、右翼、でもない。
左翼、天皇支持、となってしまいます。

どこかで誰かが泣いて
涙がたくさん出た
政治家にも変えられない
僕たちの世代
戦闘機が買えるぐらいの
はした金ならいらない

どこかの爆弾より
目の前のあなたの方が
ふるえる程大事件さ
僕にとっては
原子爆弾打ち込まれても
これにはかなわない

ブルーハーツという80年代に一世を風靡した
パンクバンドの、NONONO、という曲の一節です。



-我が国とこの国(6)へ続く-

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関連
ゆりかごから墓場までバカ野郎がついて回る
https://digifactory-neo.blogspot.com/2003/10/200310_83.html
皆殺しのメロディー(1)~(2)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/1200310_8.html


我が国とこの国(4)アンガージュマン 2004.1.X 初出

梅棹忠夫という学者が半世紀近く前に書いた
文明の生態史観(中公クラシックス)
という本の中で、日本の知識人とフランスの知識人は
為政者の側に立ってものを考える傾向がある、と
指摘されています。ドイツなどもそういった傾向が
あるとの事です。
フランスでは、サルトルという文学者が
アンガージュマン(政治参加)という概念を提唱していましたし、
日本でも、物書き、の政治的発言はかなり
多いような気がします。

政治なんか関係ない、とばかりに
ストーリーものばかり書いている人の評価は
意外と低かったりします。

ただこれは難しいところで
あまり政治経済に関わりすぎると
ストーリーの世界に戻れなくなってしまうという傾向が
あるのです。
ゴーマニズム宣言の小林よしのりさんが
政治経済に関りだした頃
思想家の浅羽道明さんが、適当なところで
引き上げないとストーリーものを
描けなくなくなるぞ、と指摘されていたような
気がしますが
確かにそうなってしまった感があります。

でも、わしズム、の中に掲載されている
よしりん、が登場しない漫画などを読むと
上手くバランスが取れているな、とも思って
しまいます。

小林よしのりさんは、我が国、という主語が
似合う代表のような気がします。
小林よしのりさんの漫画を読んでいると
日本人としてのエスノセントリック(自民族中心主義)を
非常に刺激されるのでとても感情が高ぶってきます。

難しい問題です。我が国、と、この国。



-我が国とこの国(5)へ続く-
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文明の生態史観ほか (中公クラシックス)

我が国とこの国(3)日蓮聖人と超国家主義者 2004.1.X 初出

偏狭なナショナリズム、と言えば
すぐに戦前の超国家主義、ファシズムの時代が
思い浮かびます。

当時の石原莞爾(1889~1949)
北一輝(1883~1937)井上日召(1886~1967)
大川周明(1886~1957)といった超国家主義者達は
みんな、日蓮主義者で、法華経の行者、だったようです。
現代で言えば、極右、という事になるのかも
しれませんが、政治行動を決定づける際に
宗教が影響を与えている。
やはり僕はもっと宗教を極めていかなくては
いけないな、と思ってしまいます。

僕が日蓮聖人の、立正安国論(中公クラシックス)を
読んでみたところでは、他の宗派を全て邪宗扱いし
全てを捨てて、法華経によれ、と主張しています。
帯には、火を吐くような説法、とありましたが
まさに、火を吐くような説法、です。
蒙古襲来、という国難にあって
日蓮聖人が、全てを捨てて法華経によれ、と主張した部分が
戦前の石原莞爾や北一輝に代表される
超国家主義、つまり、ファシズム、全体主義、に
つながっていったのではないか、と
僕は今のところ見ています。

ちなみに川端康成は、三島由紀夫の自衛隊基地での
割腹自殺の後、精神異常状態に陥り
日蓮聖人の幻覚・幻聴を聞いた、と言われています。

こんなことを書くと、日蓮主義者、は
日蓮大聖人の霊が、と喜んでしまいそうですが
僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!? の
エッセイにも書きましたが
人間が精神的・肉体的に追い込まれると
幻覚・幻聴を生じる、などというのは
常識中の常識です。
川端康成は、きっと、愛弟子とも言える
三島由紀夫の自殺に衝撃を受けて
精神異常状態に陥ったのだと思います。

でもここで、日蓮聖人の幻覚・幻聴を生じるところが
さすがノーベル文学賞作家です。
三島由紀夫の自衛隊基地での割腹自殺(つまり極右的行動)に
戦前、石原莞爾や北一輝を超国家主義に走らせた
日蓮聖人の影を見たのでしょう。
ドン・ピシャリです。
さすが川端康成です。

精神的・肉体的に追い込まれて
空中を旋回するソフトクリームの幻覚を生じたり
している僕は、やはり川端康成には
遠く及ばないのかな、と思ってしまいます。

そして三島由紀夫の自衛隊基地での
割腹自殺から6年後
今度は村上龍さんが、米軍基地のある街を
舞台とした、限りなく透明に近いブルー、で
芥川賞を受賞されました。
この時、埴谷雄高翁の、鶴の一声、で受賞が決まった
というのは、小説とは何か、のエッセイでも
記したとおりです。
何を言いたいのか、と言いますと
自衛隊基地から米軍基地の街へ
小説の舞台が移ってしまった、という事です。
やはり日本は占領されているのだな、と
思ってしまいます。
現在、どんな評論活動を行うにしても
日本の領土が米軍基地に押さえられている、という
認識を欠いたものは、ズレているように思ってしまいます。
日本はアメリカ合衆国の、51番目の州、と言っても
過言ではないような気がします。
反戦なら反戦でもよいのですが
この点を押さえておかないと
議論にならないような気がします。
1970年の三島由紀夫の自衛隊基地での
割腹自殺から34年。
1976年の村上龍さんの、米軍基地のある、福生、を
モデルとした、限りなく透明に近いブルー、から
28年。
太平洋戦争の終結から数えると
59年になります。
2004年、まだ、米軍の占領は続いています。
少年達は、透明な存在の不安、のシグナルを
出し続けています。

と、話が逸れてしまいましたが
日蓮宗と超国家主義者の話です。
現代でも、日蓮宗、は大きな勢力ですが
他宗派を邪宗扱いする体質は相変わらずのようで
創価学会と顕彰会の罵り合いは酷いものがあります。
そしてその創価学会を支持母体とする公明党に頼らないと
自民党は政権を維持できなくなってしまっています。
だからどうした、と言われると困りますが
ただそうなっているのですよ、という話なのです。

一応記しておきますと
僕は創価学会や顕彰会や公明党や
日蓮主義者を非難する意図はありません。
関係者の方々は予めご了承下さい。
僕は顕彰会に入っている知り合いがおりまして
入会を勧められた事があったのですが
丁寧にお断りしました。
でも、険悪な関係、になることはありませんでした。
日本には、信教の自由、があります。
反社会的な行動に出ない限り
どんな宗教を信じていても自由だと思います。

ただ日蓮宗の人は
我が国、と言いたがる傾向があるのは確かだと
思います。

ちなみに、古代・中世の宮中での
加持・祈祷の記録には
真言宗の僧侶の名前が見え
中・近世になると、日蓮宗の僧侶の名前が
見えるようになるようです。
何を言いたいのか、と言いますと
なんだかんだ言って
日本の最高の宗教的権威は
宮中、にあるのですよ、という話なのです。
お宮様、神社です。

僕は、蒙古襲来、という国難にあって
火を吐くような説法、を行い
国を守ろうとした日蓮聖人は素晴らしいと
思います。
そして、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を
南無妙法蓮華経によって統一しようとした
日蓮聖人の宗教的情熱も素晴らしいものがあると思って
しまいます。

先日、日本書紀の、皆既日食、の記述が
科学的に正確だった、というニュースがありました。
つまり本当に、皆既日食、があったわけです。
日蓮聖人が、日蓮宗開宗後
比叡山で愛染・不動の二明王を感得した建長6年の
元旦にも、日蝕、があったとされています。
その日蝕の日輪の中に、日蓮聖人は
愛染明王、を見たというのです。
そしてしばらくした正月15日から17日の間には
今度は月輪の中に、不動明王、を見た、と
されているようです。
月に兎、太陽には烏。金卯玉烏集。
日輪の翼。やはり何かありそうです。
平野啓一郎さんの芥川賞受賞作、日蝕、では
西洋の錬金術における、日蝕、時の
精神変容状態、が、生々しく描かれています。
日本書紀が、政治的意図で編纂されている部分があるのは
間違いないにしても、神代、や、初代神武天皇
聖徳太子の活躍、あたりには、かなり重要な
メッセージがあるのではないか、と僕は考えています。
旧約聖書、においても、創世記、から
モーゼの十戒、あたりまでを
トーラー、として、最も神聖な部分、と
していたような気がします。

ここまで来ると宗教に関心のない方は
何を言っているのか分からない状態かもしれません。

でも、我が国、と、この国、の問題を
探っていくと、日蓮聖人の南無妙法蓮華経による
金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の統一にまで
繋がってしまうのだから
宗教というのは深いな、という話なのです。

手と手を合わせて幸せ。


-我が国とこの国(4)へ続く-

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関連
恐ろしや、川端康成
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僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!?
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月に兎、太陽には烏
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小説とは何か(1)~(5)
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土地の持つ力(1)福生
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崩壊の前兆(3)サカキバラ事件
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立正安国論ほか (中公クラシックス)


我が国とこの国(2)右脳と左脳 2004.1.X 初出

人間は、論理的な説得だけで動くかと言ったら
そうではありません。
感情・エモーションを刺激してくれる部分が
欲しいわけです。
論理・計算を司る左脳と
感情・直感を司る右脳を持つ存在として
当然のことだと思います。

僕は以前勤め先でクレーム処理の電話応対を
していた時にそれを学びました。
たいてい電話をかけてくるお客様の
クレーム・苦情の内容は支離滅裂です。

右脳の感情の機能が異常に高まってしまっているので
左脳の論理・計算能力が低下してしまって
いるわけです。

でも電話口で支離滅裂な事をわめき立てて怒っている
お客様も、10分、20分と経過すると
たいていトーンダウンしてきます。
怒りの感情を引き起こすのは
確かアドレナリンかノルアドレナリンだったような
気がしますが、おそらく人体は
怒りの感情を30分以上キープできないのでは
ないかと思ってしまいます。

僕が経験した最長のクレームは
2時間でしたが、最後はお客様との
世間話、になってしまいました。
現在、企業のクレーム処理部隊に回されて
ああ、いやだな、と思っている読者の方が
おりましたら、参考になればと思います。

クレームの電話がきたら、まず、最初の10分20分は
お客様の左脳の機能が低下されているので
何を言っても分からない状態です。
もしお客様が間違っていたとしても
ここでその間違いを指摘してはいけません。
ノルアドレナリンがさらに放出されて
まさに、火に油を注ぐ、状態になってしまいます。
とにかく最初の10分、20分は
とにかく申し訳なさそうな口調で
そうですね、そうですね、と相槌を打ちまくる事です。
すると、10分、20分、を経過した頃には
お客様の左脳の機能、つまり論理・計算能力が回復
してきます。
その段階に至ってから、当社のシステムは、と
説明を始めることです。

話が逸れてしまいましたが
こういった構図は、我が国、と、この国、の
問題と同じなのではないかと思うのです。

我が国は、と言ってもらえると
日本人としてのエスノセントリック(自民族中心主義)が
満足させられるので、右脳が刺激されて感情の機能が高ぶります。
でも、この国は、という主語を持ってこられると
何だか冷たい分析家のようで
右脳は活性化されません。
そうなると、日本は世界一素晴らしい国だ、と
思いたがっている人達は
お前が、この国、という時
あの国、はあるのか、と文句の一つも
言いたくなるわけです。

でも先述の、クレーム処理、の話と同じで
我が国、我が国、と連呼してエスノセントリックを
刺激して感情が高ぶっている状態では
この国、の問題点を正確に捉えることができません。

健全なナショナリズムは大切ですが
偏狭なナショナリズムに陥ると
見えるものが見えなくなります。
戦前の軍部の暴走を許したものはそれでしょう。

その国が偏狭なナショナリズムに陥っている時
この国は、という主語を持ってくる人は
非国民、のように扱われてしまいます。
僕は非国民歴が長いのでその辺はよく分かります。
そして日本社会では、これにプラスして
世間様、の圧力が加わります。

何で受験勉強しないの?
何でNBA選手になるなんて夢みたいなこと言ってるの?
何で東京のブランド大学に受かったのに
仙台の大学なんて行くの?
何で授業サボって体育館でバスケばかりしてるの?
何で教室の窓から教科書ぶん投げたりするの?
何で天気がいいのに傘さしてるの?
何でグランドで吼えてるの?
何でいつもバスケットボール持ち歩いてるの?
何で大学生なのに勉強なんかしてるの?
何で大学まで出たのにこんな仕事してるの?

僕はいやというほど、世間様、に苦しめられてきました。
中には僕が悪かった点もあるような気がしますが
その、世間様の常識、と言われるものも
10年20年のスパンで見れば
あっという間に、非常識、になるという事も
学んできました。
だから僕は、この国、と突き放して
書いてくれる人の方が信用できるような気がするのです。


-我が国とこの国(3)へ続く-

https://digifactory-neo.blogspot.com/2004/01/320041.html

我が国とこの国(1)エスノセントリック 2004.1.10 初出

謹んで新年のお喜びを申し上げます。
本年も、卵のなかみ、をよろしくお願い致します。

2004年、平成16年の最初のエッセイは
我が国とこの国、と題する事にしてみました。

日本では多くの人が、日本社会の問題を
論じる際、我が国、という表現を用います。
ヨーロッパで、我が国、と表現する人は
右翼、とか、ネオナチ、と思われてしまうそうです。
ドイツなどは、ナチス・ドイツの歴史を抱えているので
尚更でしょう。
でも日本では、多くの人が自然に
我が国は、という主語を持ってきます。

司馬遼太郎さんのエッセイ集に
この国のかたち、というタイトルのものが
ありましたが、司馬さんは、この国、と
突き放して観察するので、俯瞰的な作家、と
評されていたようです。

村上龍さんも、この国は、という主語で
突き放して書く方なのですが
お前が、この国、と書く時
あの国、はあるのか、と批判がくると
述べられていました。

難しい問題です、我が国とこの国、もしくは、あの国。

レヴィ=ストロースという人類学者は
悲しき熱帯(中公クラシックス)という著書の中で

どんな社会も完全ではない。
あらゆる社会は、その社会が宣揚する規範とは
両立しない不純さを元来含んでおり
そうした不純さは、様々な割合で配合された不正
無感覚、残忍となって具体的に表れている。
この配合をどう評価すべきであろうか?
民族誌的な探索は、そこに至る道を開いてくれる。
なぜなら、少数の社会を比較する時
それらが互いに著しく異なったものに
見えることは確かだとしても、考察の対象が
拡がれば、そうした差異は縮小するからである。
そのとき人は、どんな社会も真底から善くはないが
だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはないという
ことを発見する。あらゆる社会はその成員に
ある種の利点を提供するが、一方、不正の澱は
なくなるわけではなく、その分量はほぼ一定のように
思われ、それはまた、社会生活の面では
組織の努力に対立する、その社会固有の
惰性に相当しているのである。(374ページ)

と述べています。
なんだかやたらと晦渋で難解な文章でありますが
要はこれが、我が国、この国、の本質を
ついた文章ではないかと思うのです。
キーセンテンスは三行。

・どんな社会も完全ではない。
・どんな社会も真底から善くはないが
だからといって、どんな社会も絶対的に悪くはない。
・あらゆる社会はその成員に
ある種の利点を提供するが
 一方、不正の澱はなくなるわけではない。   

ブルーハーツという80年代に一世を風靡した
パンクバンドの、TRAINTRAIN、という曲の中に

ここは天国じゃないんだ。
かと言って地獄でもない。
いい奴ばかりじゃないけど
悪い奴ばかりでもない。

という一節がありましたが
要はそういう事なのではないかと
思うのであります。
つまり、どんな社会も天国ではないが
かといって、どんな社会も地獄のようではない、という
事です。

でも人間は本来誰もが
エスノセントリック(自民族中心主義)である
というのは、このエッセイの中でも
何度か書いてきたところです。

日本が世界一素晴らしい国だ、と思いたいのは
日本に生まれ育った者として当然であるわけです。
アメリカ人は、アメリカ合衆国が世界一素晴らしい国だ
と思いたがっているでしょうし
中国人は、中華人民共和国が世界一素晴らしい国だ、と
思いたがっているはずです。

だから日本社会の問題を論じる時に
我が国は、という主語で語ってくれる
人の方が人気が出るのはよく分かります。
我が国は、という主語を持ってくる事で
日本人としてのエスノセントリックを満足させられるので、
エモーション、感情が刺激されて高ぶってくるからです。

難しい問題です。我が国とこの国。


-我が国とこの国(2)へ続く-
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関連

文明の衝突(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120039.html




悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)