2004年3月1日月曜日

プロ野球と日本のプロ野球(7)勉強 2004.3.X 初出

勉強、という言葉にも、自主トレ、に似て
勉めて強いる偉い行為、という
ニュアンスがあります。
これはもしかしたら儒教圏の特徴なのかもしれません。

でも僕は最近、社会のアングロサクソン化によって
勉強、という言葉も何だか、その記された文字、と
その意味するところ、が遊離してきているような気が
するのです。
またまた文学的にちょっと気取って言えば
シニフィアン、と、シニフィエ、が遊離しているように
思うのであります。

巷で言われる、ポスト資本主義、知価社会、というものが
本当に訪れたら、知識は最大の資産となるわけで
勉強は、勉めて強いる偉い行為、どころか
会社の損益分岐点を割るかどうかの
生命線になってしまうわけであります。
そうなると

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也

のような感覚で、勉強は、努めて強いる偉い行為
或いは、精神修養のための微笑ましい行為、やら
人格修養、晴耕雨読な仙人思想……といった崇高な
ものではなくて、単に
勉強してない事には、生活の糧を得られなくなって
しまうのではないかと思うのであります。

日本では近代以前、就労人口のほとんど(85%くらい)が
農民、だったのが、20世紀を通して
工場労働者、となりました。
そして日本社会では、農業従事者が
著しく減少しました。

それと同じように、21世紀の日本社会では
知価社会が訪れて、工場労働者、が
知識労働者、へ移行していくだろう、と言うのです。

そんなわけがないだろうと
思われる方もおられるかもしれませんが
中国が、10億、とも、12億、とも言われる人口を
持って、本格的に市場社会に参入し始めたため
ほとんどの工場労働は、中国へ持っていかれて
しまうわけで、これといった付加価値のない
工場労働者のままでは
10億とも12億とも言われる中国人と
まともに職を奪い合う事になってしまうわけです。
はっきり言って勝てるわけがありません。

中国では、かつて日本で、団塊の世代、が
金の卵、と呼ばれて地方の農村から
集団就職で太平洋ベルトコンベアー地帯に
移動していったように、大量の低賃金労働者が
都市部へと職を求めて移動し始めているようです。

ちなみに、先日僕は、メイド・イン・チャイナの
春物シューズを購入してみたのですが
はっきり言って、ものは悪くありませんでした。

一方、中国の農村部の疲弊は酷いものがあるという
話なのですが、これもかつて日本が経験したものと
同じでしょう。

富める者はますます栄え、貧しい者は
ますます貧しくなっていく。
近代化、都市化、資本主義化、というものは
いったい何なのだろう、と思ってしまいます。

こういった社会的矛盾を埋めるべく
農業社会から工業社会へと移行していく過程で
共産主義思想、社会主義思想、が
説得力を持つのかもしれません。

実際中国共産党は、農村部を
支持基盤として誕生したもののようですが
このまま中国の農村部が疲弊し続け
新たに誕生した都市部の中間層や富裕層から
民主化要求などが出てくるようですと
共産党の独裁的手法が限界を迎えるかも
しれません。
ここが中国が経済発展していく中での
最大のグレーゾーンだと言われているようです。

要は農業社会から工業社会へ移行していく際に
共産主義思想というものが
最も魅力的なものに映るのではないかと
いう事であります。
農業社会、というものは
その村々の、共同体、で作業を進めるので
一人一人の社会的連帯感が保てるわけで
アノミー(無連帯、無規範)を防げます。

これが農業社会から工業社会へ移行し始めると
この、共同性、が壊されてしまい
失われた田園共同体意識
疎外感、孤立感、を埋め合わせるべく
われわれは生産手段をブルジョワ層から奪還し
プロレタリアート独裁による政権を築くのだ
労働者よ、団結せよ、労働者よ
今こそ立ち上がる時だ
我々は生産手段をブルジョワ層から……といった
共産主義のメッセージが多くの人をひきつけるのでは
ないかと思うのであります。

実際日本でも、農業社会から工業社会へと
劇的に変貌していった60年代70年代に
共産主義思想が多くの若者達を引き付けたように
思います。
それで人生を棒に振ってしまった人も
多いようですが。

現在の中国では、共産主義思想の下で
生産手段を国有企業としていた
計画経済が立ち行かなくなり
共産党政権下での資本主義化という
人類史上例のない体制に移行し始めています。
WTO加盟やFTA締結、私有財産制の保護など
もう完全に実質は資本主義化しているようです。

中国がこのまま順調に工業化に成功すれば
中国共産党は、経済の成功によって
農村の支持基盤を失う、という形になり
かなり不安定な政権になってしまいます。

そして工業化によって誕生した
都市部の中間層や高所得者層は
権利意識に目覚め
共産党の独裁的手法に民主化要求を
突きつけてくるはずです。

抜け道は、名前だけ共産党で
実質資本主義、というダブルスタンダードを
押し通すことですが
果たしてそれが可能なのか。
中国脅威論、も、中国崩壊論、もありますが
やはりここはかなりのグレーゾーンでしょう。

作家の平野啓一郎さんと瀬戸内寂聴さんが
中国へ旅行した際
中国の若者達が哲学書や文学書を
地べたで座り読みしていたのを見て
衝撃を受けたそうですが
そういった形で中国の民衆が
政治意識に目覚めていくと
中国共産党も立場が危なくなっていくのでは
ないかと思ってしまいます。
要は、独裁的権力者にとって
民衆は無知であってくれた方がよいわけです。

そういった意味では
台湾の直接選挙は要注目で
中国共産党が、今後高まるであろう民主化要求に対して
どういった態度を取るのかの試金石になるように
思います。

と、書いてきたところで、今回の台湾総統選で
候補者が銃撃を受けた、というニュースが
飛び込んでまいりました。
なんとも嫌なタイミングであります。
いったいどうなってしまうのだろう。

と、少々話が逸れてしまいましたが
農業社会から工業社会への移行が成功し
ある程度物的な豊かさを実感できる社会になると
共産主義の魅力は色あせていくものなのではないか
という話なのであります。

で、農業から工業へと産業形態が移行し
さらに工業社会から知価社会へ移行しようとしている
現在の日本社会では、関係者には申し訳ないのですが
労組はこのまま衰退していくのではないかと
思ってしまうわけであります。

たぶん若い人達の多くは
一つの会社に一生勤めようなんて
思っていないだろうし、第一長く勤めたくても
途中で会社が倒産してしまったりします。
会社が倒産してしまったら
組合活動どころではありません。

マルクス的、史的唯物論的に言えば
理念なり法律制度なりの上部構造は
生産手段という下部構造によって決定される、という事に
なるのかもしれませんが
下部構造である、生産手段が
農業から工業へ、さらに知価へと移行していく
ことによって、上部構造にあたる
共産主義という理念が崩壊してしまうのだから
ある意味カール・マルクスは正しかったのかも
しれません。

知価社会においては、生産手段は
経営者ではなく労働者にあります。
ビル・ゲイツ氏は、マイクロソフトから
20人が去れば、会社はたちまち倒産の危機に
陥る、と発言しているようです。

これが、大量生産・大量消費の
20世紀型の工業社会では
会社から20人が去っても
新たに20人採用すれば済むわけです。
まさにチャップリンが、映画、モダンタイムス、において
描いたような、地下鉄の階段を駆け上がる羊達の群れが
やがて職場へと急ぐ人の群れに代わるような世界です。
そして辿り着いた工場内では
人間がベルトコンベアーに飲み込まれてしまいます。

ちなみにチャップリンは、赤、つまり
共産主義者だったのではないかと言われています。
チャップリンのような繊細な人は
農業社会から工業社会へと移行していくことで
失われていく、何か、に耐えられなかったのだと
思います。

でもそれは20世紀の工業社会の悲哀です。
日本社会ではチャップリンの、モダンタイムス、が
ポストモダンタイムス、に移行しつつあります。
チャップリンが描いたような
地下鉄の階段を羊のように駆け上がり
工場内のベルトコンベアーの前で
何時間も同じ作業を行う、という、労働、は
全て中国や東南アジアへ、或いは
FTAを締結しているメキシコ、や、シンガポールへ
外注されてしまいます。
賃金格差を考えたら勝てるわけがありません。

どう考えても、工業社会から知価社会へ移行して
いくしかないわけですが、知価社会においては
決められたことを言われた通りにこなす能力ではなく
自分の脳みそで考えて、クリエイティブに
活動することが求められるわけです。
ですが、これが困ったことに
戦後の日本社会は、中国の高級官僚登用制度
科目による選挙、によって、言われたことを
忠実にこなす脳みそしか育成してきませんでした。

与えられた事を忠実にこなせ、という教育を
受けてきた人間が、突如、自分で考えて
行動しなくてはならない、という世界に放り出されて
気が狂って人を殺したり、包丁を振り回したりしている様子を
チャップリンなら面白おかしく
ポストモダンタイムス、という映画で表現して
くれたかもしれません。
そう、きっと日本社会は
ポストモダンタイムス、に入ってしまったのでしょう。

20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
学校を卒業したら、勉強は終わり、でしたが
知価社会が訪れたら
生涯学習、というのは
人格形成や美徳の一種ではなく
収入を左右する身も蓋もない行為に
なってしまうかもしれません。

そして20世紀の大量生産・大量消費型の工業社会では
土地、資本、労働、が
生産の三要素でしたが
21世紀の知価社会においては
知識、資本、時間、になるのではないかと
思ってしまいます。

インターネットはプレイスレス化を起こしている、と
以前サイバーレボリューションのエッセイに書きましたが
実際アメリカでは、IT技術を駆使して
国内企業のコールセンターを
インドに外注してしまう、というビジネスが
盛んになっているようです。

アメリカの会社に問い合わせの電話を
かけると
インドに繋がって、インド人が応対に
出るわけです。
本当にアメリカ人の中には
合理的に物事を考える人達が多いものだなと
思ってしまいます。
人件費も土地代も劇的に減らせて
しまうわけです。

以前も紹介した
イザヤ・ベンダサン著の、日本人とユダヤ人、の中に
ユダヤ人は長い間、自国通貨を持てなかったため
純経済学的に貨幣を運用できる、とありましたが
合理性、というものは、そういうものなのかも
しれません。
アメリカ経済の強さはユダヤを味方につけた
ところにある、という方もおります。

ユダヤ人の純経済学的強さ。
例えば今後、アジア通貨圏、が築かれる可能性が
出てきたとして、円を廃止するか、と迫られたら
多くの日本人は、NO、と言うと思います。
それは、円、という自国通貨に愛着が
あるからです。
でもユダヤ人は、長い間自国通貨を持たなかったため
純経済学的、に、どのマーケットがよいか
どこの通貨を持てばベストか、とすぐに見れるわけです。
それは、守銭奴、という意味ではなくて
むしろ自国通貨を持たない弱さを補うために
純経済学的に物事を見なければならない
という意味なので、むしろ、守銭奴、の逆です。

ユダヤ人というのは、迫害に次ぐ迫害
放浪による放浪によって
コスモポリタンに生き残る術を身につけて
いったのかな、と思ってしまいます。
そのコスモポリタンな能力は
現代のグローバルな環境で
とても有利になるのではないかと
思ってしまうわけです。

日本でも何年か前に、IT技術を駆使し
東京の会社に問い合わせの電話を
かけると沖縄に繋がる、というシステムを
起ち上げる計画があったようですが
その後はどうなったのだろうと
思ってしまいます。

ちなみに僕が以前派遣で勤めていた
某役所では、コールセンターを外注するために
公社を設立しておりました。
コールセンターを外注するために
公社が一つ増えてしまっているのだから
終わってるな、と思ってしまいます。
後は、そこへ本庁から、天下り、すれば
よいわけです。
官僚制度というのは、放っておくと
どこまでも自己増殖していくものなのだな、と
僕は某役所で学びました。
僕がこうして、官公庁に勤める人にとっては
耳の痛いことをたまに書いておくのも
マクロ経済にとってはよいことなのかも
しれません。

で、僕は、勉強、という言葉に
最近違和感を覚えるだ、という話でした。
勉強、という言葉には、どうしても
三浪して早稲田に入る、とか
8年勉強して司法試験に合格する、というような
刻苦勉励、のような意味がまとわりついています。

でも、知価社会、において求められるのは
そういった形での、勉強、ではないような気がするのです。

ちょっと気取って文学的に言えば
やはり、自主トレ、や、国民のみなさん
といった言葉と同様に、勉強、も
シニフィアン、と、シニフィエ、が
遊離してしまっているのかもしれません。

きっと、政権公約、に対する、マニュフェスト、のような
形での言い換えが、様々な分野で求められて
いるのでしょう。
カタカナ語が増えていくのはよく分かる気がする。



-プロ野球と日本のプロ野球(8)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/820043.html




日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)