2003年8月1日金曜日

顕教と密教 2003.8.X 初出

先日知り合いの画家さんと話をしていたところ
幸福の科学は顕教的で、オウム真理教は密教的だな、と
言われて僕はハッとしたのでありました。

顕教(けんきょう)とは、表に顕された教えです。
つまり日常生活でああしないさい、こうしなさい、
こう考えなさい、という教え。文字で表された教義。
それに対して密教(みっきょう)というのは
文字通り秘密の教えです。これは日常生活で
ああしなさい、こうしなさい、というのではなく
修行したり、真言を唱えたりして体得していくのもの。
仏教で言えば、不立文字(ふりゅうもんじ)の部分。
文字にはよらない教え。

僕の家の郵便受けによく、幸福の科学、のパンフレットが入っているのですが、
そういったものにたまに目を通してみると、確かにとても顕教的です。
つまり日常生活においてこう考えれば幸福になれますよ。
こうすれば幸福になれますよ、と教祖やその夫人自身が
文字で顕教的に顕してします。
瞑想したりする密教的な部分もあるようですが
大川隆法さんの圧倒的な著作量を見ると
やっぱり幸福の科学は顕教的だな、と思わせられます。
対してオウム真理教は、となると
修行するぞ! とプリントされたTシャツを着て
多くの信者がサティアンにこもってヨーガに励んでいた姿から推察する限り、
とても密教的だな、となります。

幸福の科学は顕教的で
オウム真理教は密教的。

一応記しておきますと、僕は幸福の科学や
オウム真理教(現アレフ)の関係者の方々を
批判する意図はありませんので悪しからず。
ただ知り合いの画家さんと話していて
顕教と密教の関係を考える上で、中々いい例えだな、と思ったわけです。
関係者の方々は予めご了承下さい。

で、宗教には顕教的な部分と密教的な部分とが
あるわけです。
キリスト教は新約聖書という顕教と
礼拝という密教を持っていますし
イスラム教もまたコーランという顕教と
礼拝、断食(ラマダン)という密教を持っています。
仏教は仏典という顕教と
厳しい修行という密教を持っています。
つまりたいていの宗教には、顕教的部分と
密教的部分とがあるわけです。
では僕が最近探っている神道はどうなるのか、となると
これが神道には顕教的部分がないのです。
古事記や日本書紀があるじゃないか、と言われるかも
しれませんが、古事記や日本書紀は物語であって
教義ではありません。
つまり日常生活でこうしなさい、ああしなさい、であるとか、
こう考えさなさい、といった事を定めた根本経典が神道にはないわけです。

この事に対して南方熊楠という作家は
日本の神社、神道の事を
どんな教にも顕密の二事ありて
たちまちにして頭のてっぺんからつま先まで
感化しうるもの、と評しています。
つまり日本の神社というのは、参拝する事で
たちまちにして頭のてっぺんからつま先まで
感化されてしまう密教的なものである、と
言っているわけです。
先日司馬遼太郎さんの、街道を行くシリーズ(朝日文庫)の仙台・石巻編、
奥州の古風、というエッセイを読んでいたら、全く同じ事が書いてあって
僕は驚きました。
司馬遼太郎氏曰く、神道は気分であって教義ではない、との事。
神道は気分であって教義ではない。
僭越ながら僕なりに南方史観と司馬史観を
ミックスさせて頂くとこうなります。

どんな宗教にも顕教と密教の二つの要素があって
神道は顕教としての教義こそもたないものの
神社に参拝する事で、たちまちにして頭のてっぺんから
つま先まで気分が感化されてしまう密教的宗教である。

えらい事です。
日本では特定の宗教団体に加入しない限り、
自分は無宗教だ、と考えている人が多いような気がしますが、
初詣で神社に参拝したり、夏祭りのお神輿に参加したりする事で、
知らず知らずに密教的に、頭のてっぺんからつま先まで神道に感化されている、
という事になるからです。
そしてそれが、わが国固有のマンダラならん、と
南方熊楠は書いています。
マンダラとは、お釈迦様の悟りのビジョンをビジュアル化したものです。
つまり南方熊楠は、日本人固有の心の風景は神社にあり、と言っているわけです。

欧米人に比して、日本人の宗教心というのは
たいへんおおらかであると言われます。
クリスマスイブを恋人と過ごして
大晦日に家族と除夜の鐘を聞いて
元旦に友達と神社に初詣でに行く。
そんな現代日本人の最もポピュラーな
年末年始の過ごし方。
そこにはキリスト教と仏教と神道という
三つの宗教が入り乱れています。
でも誰もおかしいとは思わない。
これはすごい事です。
悪く言えば節操がない。
よく言えば宗教的寛容さがあります。
それは日本人固有の心の風景を形成する神社が
顕教的な教義を持たない、たちまちにして
頭のてっぺんからつま先まで感化してしまう
密教的なものであるからではないか、と僕は今思いました。
顕教的部分の教義にこだわりがないから
他宗教の優れた部分を全て吸収して
自己流にアレンジしてしまう。
江戸時代までは、神仏習合、という事でほとんどの神社で仏像も
一緒に祭られていたそうです。
僕は大晦日に除夜の鐘を鳴らす神社を知っています。
神道は顕教的教義を持たないので、そういう事が可能になります。
顕教的教義を持たないので、他宗教に対してとても懐が深い。
そしてそれがそのまま日本人のおおらかな宗教心を形成している。
日本の各宗教団体の信者数の合計は、日本の人口よりも多い、という
ユーモラスな話も聞いた事があります。
つまり特定の宗教団体に入る人達も、掛け持ちで気軽に色んな宗教団体に
加入している、という事です。
悪く言えば節操がない。よく言えば宗教的寛容さがあります。
中東で現在もユダヤ教とキリスト教とイスラム教が
血で血を洗う宗教戦争を繰り広げている事を考えると
日本人の宗教心はアンビリーバブルです。

じゃあ日本人は宗教的にだらしない民族なのか、というとそんな事はなくて、
毎年全国各地で盛大な神社のお祭りが行われていますし
初詣ともなれば神社に大挙して押しかけます。
そしてみんな知らず知らず、たちまちにして
頭のてっぺんからつま先まで密教的に神道に感化されている。
バリバリの無神論者で、かつ強硬なマルキスト、というような人でも、
自分の子供が、友達と初詣に行きたい、とか、神社のお祭りで
金魚すくいがしたい、とか言って目を輝かせている時に、
行くな、とは言えないはずです。
つまり日本に住んで暮らすかぎり
絶対に神道からは自由になれない。
そして次々と、たちまちにして頭のてっぺんから
つま先まで密教的に神道に感化された人が
再生産され続ける。これはえらい事です。
そして神道の頂点にあるのは何かと言えば、天照大神。
天照大神にこの国を任せられたのが、天皇陛下。
少なくとも皇室支配を正当化する文脈ではそうなります。

僕は神社のシステムを起ち上げた人達は
日本における、自然と人間の関係、を知り尽くした
天才的プロデユース集団だったように思います。
そのプロジェクトは2003年現在も
社会的、精神的インフラとして
日本社会で機能している。
その偉業の前には、冷戦期に形作られた
左右対立軸などというものが
とても瑣末な事のように思えてきます。




-顕教と密教-
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻 (朝日文庫)