2003年12月1日月曜日

戦後日本システム崩壊の前兆(3)サカキバラ事件=神の死亡 2003.12.X 初出

サカキバラ事件。これはもう、神の死亡、だと思います。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と評していた
思想家がいましたが、それは、神の死亡、という意味かと
思ってしまいます。
そしてサカキバラ事件が、少年達による
訳の分からない、凶悪犯罪の引き金になったような気がします。

あの事件は確か新興住宅地で起きたと思います。
新興住宅地には、近所のオヤジ、もいないし
実のオヤジ、が会社に取られて単身赴任でもすれば
家庭は母親だけの母性的なものになってしまう
という問題点を指摘する人もいますが、
僕はとりあえず、神の死亡、について考えて
みたいと思います。

まず、新興住宅地、の問題点を考えると
新興住宅地にはまず、神社、がないだろうし
核家族であれば、神棚、も、仏壇、もないでしょう。

サカキバラ事件は、ニーチェだ、と指摘されると
同時に、ジョルジュ・バタイユの、エロチズム、でも
あると言われます。
これはどちらも、神の死亡、なのです。

マルキ・ド・サド侯爵の、ソドムの百二十日、という
小説は、万有引力の支配するこの地球上において
これ以上逸脱した性行為は不可能、という究極の
レベルに達している、というのは、このエッセイで
何回か述べてきたところです。
おそらく人間の、エロティズム、であるとか
性欲であるとか、獣性であるとか
悦楽淫蕩性であるとか、ディオニュソス性であるとかを
開放し、徹底的に突き詰めていくと
フェティシズム、体液趣味、糞尿趣味、SMプレイ
強姦、近親相姦、と、異常度を高めていき
手足切断、皮剥ぎ、という段階を経て
最終的には、性の対象を殺してしまいたい、という
ところに行き着くのでしょう。
カニバリズム、というのは、性の対象を殺して
食べてしまうものですが、これが地球上の人類の
性表現の限界だと思ってしまいます。
どうして、地球上の、と遠まわしな書き方を
するのかというと、僕は人類が
宇宙空間でセックスしようとしたら
きっと人類の、性文化、も、劇的に
変わるのではないか、と考えているからなのです。
でも地球上においては
カニバリズム、がマックスだと思います。

なんともおぞましい話ですが
性の、内的体験、としては
その種の人にとっては地球上における
究極の快楽、なのでしょう。

神の死亡、を迎えてからだいぶ経つ
アメリカ社会では、強姦殺人、が非常に多いようです。
エロティズム、であるとか
性欲であるとか、獣性であるとか
悦楽淫蕩性であるとか、ディオニュソス性であるとかを
開放し、徹底的に突き詰めていくと
結局は、強姦だけではすまず
性の対象を殺してしまわないと満足できない、という
段階に至ってしまうのだと思います。
後は、食べるだけ、です。
アメリカ社会に、カニバリズム、が登場しないことを
同盟国の人間として願います。

こうして書いてきてみると
人間というのは本当に、どうしようもない造り、を
しているな、と思ってしまいます。
セックスには、加虐性と被虐性がどうしても
付きまとってしまいます。
俗に、正常位、と呼ばれる、
最もオーソドックスな体位で男女が交わっても
どうしても男性が女性を攻めている、という
感じがしてしまいます。
以前にも書きましたが、男性は戦いや争いに勝つと
テストステロンが放出されて性欲が高まるのです。
男性はやはり、攻撃性の本能、を持っているのだと
思います。
スポーツ大会などで見事勝利し、テストステロンが
大量に放出されている状態の男性は
おそらく多くの女性にとって魅力的でしょう。
私はいや、戦いや争いに勝てなくても
誠実で優しい男性が好き、という女性も最近は
多いような気がしますが
そこには、戦いや争いに向かわない男性は
テストステロンが大量放出されることもないので
浮気に走らず、いつでも一緒にいてくれて
確実に毎月の家賃7万円を払ってくれるはずだ、という
本能的計算があると思います。

八木山動物園のエッセイにも書きましたが
僕が八木山動物園で色んな動物達の性交を
観察したところでは、立ちバック、の体位が
動物界では主流のようでした。
でもやはり、♂が♀を攻めているように見えました。
こうして書いてみると、人間というのは
本当に、どうしようもない造りをしているな、と
思ってしまいます。
確かに人間には、動物的な部分があります。
でも人間は動物ではありません。
詳しくは、僕著、八木山動物園、のエッセイを
読んで頂きたいのですが
人間と動物を決定的に違う存在にしているのは
言語活動、です。それは今回のテーマではないので
踏み込みません。

以上見てきたようなセックスにおける
加虐性と被虐性に対する人々の理解が深まってきたので
ソフトSM、が普及してきたのかもしれません。
でも、そうして地球上の人類のセックスによる
快楽を突き詰めていけば、行き着くところは
強姦殺人、や、カニバリズム、が限界だと
僕は思います。
SMプレイの、S、サディスト、こと
マルキ・ド・サド侯爵は
キリスト教が支配する世界にあって
こんな事ばかり書いていたので
逮捕されて牢屋に入れられたりしました。
サド侯爵の偉大なところは
牢獄の中にあってもまだ
エログロの話を書き続けていた、というところです。
マルキ・ド・サド侯爵は、普段は、誰からも愛される
大変マナーのよい洗練された、ジェントルマン、だったと言われています。
この辺が小説の面白いところなのです。

日本のSM文学の巨匠、団鬼六さんは
プライベートでは一度も女性を
縛ったことがないそうです。
SM文学の巨匠が、一度もプライベートで
女性を縛ったことがない。
変態性欲をひたすら書き続けた
マルキ・ド・サド侯爵が、誰からも
愛されるマナーのよい、ジェントルマン、だった。
小説というのは奥が深いし
分かりません。
小説とは何か、のエッセイにも書きましたが
やはり、テキスト、が全てなのです。

と少々話が逸れてしまいましたが
サカキバラ事件は、神の死亡、なのではないかという
話なのです。
神が生きていたら、あんなことはできない。
日本人がこれ以上神仏を尊ぶ姿勢を忘れていけば
日本社会でもそのうち、強姦殺人、が増えていく
でしょう。
だって、セックス、セックス、とやっていけば
この地球上において究極は、性の対象を殺す、しか
ないのですから。
それが、人間の造り、なのだと思ってしまいます。
造物主、には勝てないような気がします。

神が死んで久しいアメリカ社会では
チャイルドポルノ、も出ているらしいです。
日本でも女子高生の、援助交際、が
問題にされていたのは記憶に新しいところですが
最近ではもっと性の対象が低年齢化してきて
先日は、小学校の教員が、女子児童に
性的暴行を加えようとして逮捕される、という
おそましい事件、が起きてしまいました。
日本社会がこのまま神仏を尊ぶ姿勢を忘れていけば
いずれ日本社会でも、チャイルドポルノ、が
出てくるでしょう。
既に見てきたように、それは、自然の摂理、のような
気がします。
造物主、には勝てないような気がしてしまいます。

それは、オカルトがかった、神の裁き、とかの
話ではなくて、単に、人間の造り、が
そうなっているだけのような気がします。

人類の地球上におけるセックスの快感など
おのずと限界があるのです。
経済学における限界効用逓減の法則
心理学におけるマズローの欲求段階説を
見てもそれは明らかです。
連続強姦殺人犯、は、いずれ、強姦殺人、にも
飽きるでしょう。カニバリズムに走って
性の対象を食べてみても、そのカニバリズムにも
いずれ飽きるでしょう。
地球上において、マルキ・ド・サド侯爵を
超えることはできないと思います。
この先、宇宙がインフレーションから
デフレーションにでも向かわない限り
ソドムの百二十日、は越えられないと僕は思います。

旧約聖書においては、ソドムとゴモラの街は
神の怒りに触れて滅ぼされた、ことになっていますが
神の怒りが及ばなくとも、堕落淫蕩を繰り返していると
たぶんその社会は滅ぶのだと思ってしまいます。
それは、自然の摂理、なのでしょう。
道徳の問題や、善悪の問題というよりも
自然の摂理、のような気がします。

♂♀生・性・聖のエッセイにも書きましたが
性を絶つのも、性にまみれるのも
エクソダス(脱自体験)して
生の枠組みを超えて、聖、に至る方法なのだと僕は
考えています。
でも性にまみれる方法が世に広まると
社会は壊れてしまうのだとも思います。
ロシアのラスプーチンという
大酒飲みで女好き、という教祖の宗派は
滅びました。
日本でも、真言立川流、という
肉食と男女混合による、即身成仏、を掲げた宗派が
あったようですが、これもまた滅びました。
それが、自然の摂理、なのだと思います。
伝統的でスタンダードとなっている宗教では
たいてい僧侶が、性を絶つ、ことで、聖、に至る
方法を取るようです。
その辺の事情が分かっていないから
妻帯を許されないキリスト教の牧師が
少年愛に走ったり、女人禁制の高野山で
男色が生まれるのではないか、というのは
♂♀生・性・聖のエッセイにも書いた通りです。

弘法大師空海は、性にまみれてエクソダスする手法を
知っていたのに、敢えて封印したそうですが
正しい選択だったのだと僕は思ってしまいます。
そして弘法大師空海は、現在も多くの日本人に
愛されている。
これもまた、自然の摂理、なのでしょう。

キリスト教のピューリタンに始まった
近代社会の価値観に基づいて
真言立川流、を、邪宗だ、と非難してみたり
麻原彰晃は、信者の女性とセックスして
いたから邪宗だ、と非難してみたり
サイババは少年愛の傾向があるから
邪宗だ、と非難してみたりする人が
後を絶ちませんが、宗教とは本来
危ない面を抱えているわけです。
宗教が、墓場の平和、のようなものに
思われてしまっているのは
日本仏教が、葬式仏教化してしまって
いるからでしょう。
人間は危ないし、宗教も危ないのです。

宗教にはそういった危険な面があるので
結局、性にまみれる手法を封印した
弘法大師空海、であるとか
イエス・キリストであるとかが
後々も人々に愛される。
それも、自然の摂理、なのでしょう。
たぶん、性、が社会に横溢しては
社会は壊れるのです。

女性が痴漢に遭って、警察に相談しに行ったら
その警察官がカメラ付ケータイで
スカートの中を撮影していた、なんてことになったら
その社会はもう終わりでしょう。
でも日本社会はそうなりつつあります。

昔は山間地におどろおどろしい、秘法館、という
大人のおもちゃ屋さん、がありましたが
性情報と社会の住み分けとして
正しい方法だったと僕は思ってしまいます。
性にまみれてエクソダスする手法は
秘法、でよいのです。

最近では、かつては裏通りにあった
性風俗店であるとかアダルトグッズ屋さんであるとかが
表通りに出てくるようになりましたが
これでは社会は壊れてしまう。
性情報、は、山間地のおどろおどろしい、秘法館、にあり、
セックスは、成人男女の、秘め事、でなくては
ならないと思います。
それが弘法大師空海の姿勢なのだと思います。

弘法大師空海は、ボーリング技術でも知っていたのか
日本各地の温泉を掘り当てたとも言われていて
弘法の湯、も多数残しました。
僕は温泉街に住み着いた湯女(ゆな)は
売春婦の役割も果たしていたのではないかと思います。
川端康成の小説では、日本の自然風景の中で
インテリ学生と温泉芸者の、淡い恋、が繰り広げられたりしますが、
とても日本的だな、と思ってしまいます。
そこには、性的搾取、という悲壮感がありません。
でも社会が完全に近代化・西洋化してしまった現在では
そんな、風情、はもうありません。

アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激すると気持ちが
いいらしい……

なんて話になってしまいます。

昔、性の解放、と叫ばれていた時代があったようでしたが、
性を解放したら、行き着く先は、チャイルドポルノ
強姦殺人、カニバリズム、なのです。
同じことばかり書いていますが
マルキ・ド・サド侯爵が発見したように
人間の地球上での性的快楽など
おのずから限界があるわけです。

禁欲的な社会において、性の解放、を行えば
当初は刺激的でしょうが、20年も30年もすれば
弊害が出てくる。
3S(セックス・スポーツ・スクリーン)政策を考えた
アメリカ政府は、やはり頭がいいな、と思ってしまいます。
黄色い猿どもが嬉しそうに性にまみれて滅んでいく姿を
喜んで見ているのではないだろうか。
人間は、造物主には勝てないのだと思います。
僕は、神を信じろ、という布教活動をしているわけでは
ありません。
自然の摂理、の話をしているのです。
文系人間の数学講座、にも書きましたが
神とは長さであり、幅であり
高さであり、深さである、という人もいます。
神とは単なるこの、宇宙、世界、人間の
法則ではないかと思うことがあります。
善因善果、悪因悪果という仏教の考えは
こうすれば、ああなる、という因果律に基づくもので
それに対して、キリスト教やユダヤ教などの一神教は
神が与えてくれる、神に選ばれる、という予定説の考えをとりますが、
その予定説においても
究めていくと、神とは長さであり、幅であり
高さであり、深さである、というとこへ行きます。
つまりある種の法則。
それを仏教的に言えば、仏法、という事に
なるのかもしれません。

以前聖に連なるエクソダス(脱自)体験には
並みのセックスなど話にならない快感があるはず、と
書きました。
そしてそこに至る試行錯誤の過程において
多くの発見があるはずだ、とも。
でもやはりオウムのように薬物に
頼ってはいけないような気がします。

セックス教団、真言立川流においては
しゃれこうべ、を置いて
金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅を広げて
その上で男女が交わっていたようです。

性にまみれるにしても
現代のアダルトビデオなんかと違って
志の高さが違うのです。

何を言いたいのか、と言いますと
性にまみれるにしても
性を絶つにしても
神仏の名の下において行われていたのですよ、という
話なのです。

理念を持たない国家の
神仏に全く触れることのない
新興住宅地で、異常な性情報の氾濫に
さらされた鋭敏な感覚の少年が
透明な存在の不安、におびえて
自らのうちに、バイオモドキ神、を作り上げ
エロチズムの極限としての快楽殺人に
走るのは十分考えられうります。
やはりサカキバラ事件は、ニーチェ
バタイユ、神の死亡、だったと思ってしまいます。

共産主義思想の、唯物史観(この世は物だけ)の
影響によって、戦後、神を否定してみせるのが
格好よく頭がいい、という風潮ができて
しまいましたが、やはり神を殺してはいけない
ような気がします。
唯物史観に立つはずの共産主義国家
朝鮮民主主義人民共和国が
金総書記を、神格化、している事情を
考えればそれは分かります。

ラッセルという哲学者は
宗教はなくてよいものである。
否、それはむしろ悪である。
宗教は、まだ完全には成長しきらない
人間というものを表す
一つの特徴である、と述べています。
つまり、神は悪だが、必要悪だ、ということです。

以上見てきたように
人類の地球上における、セックスの快楽、など
たかが知れているのです。
セックスをどんどん解放していっても
強姦殺人、カニバリズム、が限界なわけです。
それでは社会が壊れてしまう。

じゃあどうした性愛の形が理想的か、となれば
これは、神の名の下に永遠の愛を誓った男女が
協力して家庭を営んでいく、という形がベストのような気がします。
僕は神社は好きですが、右翼ではないので
この場合男女が永遠の愛を誓う場所は
神社の神前であっても、キリスト教のチャペルで
あってもよいと思います。
折口信夫翁によれば、神との了解が、うけひ(誓約)、であり、
そこから男女の誓約法が分化して、ちかひ、となったそうです。
信用の原点は、神との、うけひ、ではないかと
思ってしまいます。
法治国家であるアメリカ合衆国でも
最後は聖書に手を置いての
宣誓陳述、となるようです。
浮世の荒波を乗り切るために
多少の嘘はついたとしても
聖書に手を置いての、宣誓陳述、で
嘘をつくことは許されない。
それがアメリカ社会の、信用、の原点と
なっているのでしょう。

じゃあ、婚前交渉はいけないのか
不純異性交遊はいけないのか
離婚はいけないのか、不倫はいけないのか
浮気はいけないのか、同性愛者はいけないのか
母子家庭はいけないのか、シングルマザーはいけないのか、と、
個別の問題は出てくるでしょうが
一応理想的な性愛の形というのは
神の前で永遠の愛を誓った男女が
協力して家庭を営んでいくものなのだよ、というラインは
残さなければならないような気がします。
性をどこまでも解放していったら
それは、強姦殺人、カニバリズム、に至るからです。
フェティシズム、や、体液趣味、糞尿趣味や
SM、や、近親相姦、というのは、昔は、変態、とされていたのに、
現代では、アダルトサイトやアダルトビデオのカテゴリー分けで
当然のように記されています。
個人の性癖は、尊重しなければならないでしょうが
僕はこれ以上おそましい性犯罪の話は聞きたくありません。
地球上のセックスなどきりがないのです。

では地球上における究極の男女の性愛表現の形は何か、と言えば、
これは僕は、キス、ではないかと思います。
キス、チユー、であります。
なんかテレますね。性愛においてはテレや恥じらいは
非常に大切だと思います。
たぶん、アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激しても
男女がテレながらする、チユー、キス、
には適わないと思うのであります。
キス、チユー、です。ABCの、A、です。
古い言葉ですね。
昔は、A=キス、B=ペッティング、C=セックスだったのです。
昔の日本人はウブだったので
人前で、セックス、と言えなくて
ABC、という隠語を作ったわけです。

文の起こるや必ず由あり。
天朗なれば即ち象を垂れ
人感ずれば即ち筆を含む。

弘法大使空海の言葉です。
言葉には訳があるのです。
やはり、訳の分からない事件、を起こしている人達の半数くらいは、
自分で何をやっているのか分かっていないのだと思います。
言葉が貧困になってきているから。

話が逸れてばかりですが
僕は、満天の星空の下で若い男女がテレながら
する、キス、チユー、が地球上における
究極の性愛ではないかと思うのです。
仙台七夕祭りの夜に
ベガとアルタイル、織姫と彦星のように
男女がテレながらいとおしそうに
キスをするのがいいと思う。
とてもプラトニックだな、と思われるかもしれませんが
プラトニックラブ、とは、まさに
プラトン的愛、なのです。
プラトンとはソクラテスの弟子にあたる哲学者です。
プラトンは、宇宙の法則に思いを馳せるまさに
プラトニックな人、でした。
僕は、アナルから指を突っ込んで前立腺をマッサージしながら
ピンクローターで腹部を刺激すると
気持ちがいいらしい、というような地上的、ディオニュソス的、
ニーチェ的、ツァラトゥストラ的性愛を繰り返していると
その社会は、宇宙の法則によって滅ぶのでは
ないかと思ってしまいます。
満天の星空の下、ベガとアルタイル、織姫と彦星のように
若い男女がテレながらキスをする、という
プラトン的愛、プラトニックラブ、が
宇宙の法則にかなっているような気がします。

昔の売春婦には、体は売っても
キスだけはさせない、というこだわりが
あったようですが、そういうこだわりは
大切だな、と僕は思ってしまいます。

村上春樹さんの最新作、海辺のカフカ、では
神社の石、をひっくり返す前に
登場人物が神社の前で若い女性と
落ち合い、売買春、を行うという場面がありましたが
僕は、あ、これはギリシャやローマでかつて
行われていた、神殿売春の事だ、と思いました。
宗教の危ない面ではありますが
それにしても、神の名の下での、売買春、なわけです。
神殿売春にはたぶん罪の意識はなかったと
思いますが、それでも、神殿売春、なわけです。
神を殺してはいけないのだと思います。
そして村上春樹さんは
マッカーサー元帥の話題に触れてみせてから
神社の石をひっくり返した。
やはり村上春樹さんは、すごいな、と思ってしまう。

神のことは、僕自身まだ分からない事が多いです。
でも、文明の衝突、の時代にあって
ますます重要になってくると思います。
それぞれの文明の根底にあるのは
神、なのですから、文明の衝突、は
ある意味、神々の戦い、とも取れます。

神、とは、宗教のことに限らなくて
マルキシズムも科学も
形を変えた、神、でしょう。
つまり人間が生きる上で
或いは共同体を成立させる上で
信じるにたるべき形而上学のことなのだと
思います。

という訳で僕は、サカキバラ事件、は
神の死亡だと思うのであります。
日本社会で、人間が生きる上で
或いは共同体を成立させる上で
信じるにたるべき形而上学が
壊れた瞬間だったような気がします。



-戦後日本システム崩壊の前兆(完)-



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