2003年12月1日月曜日

卵のなかみ150回記念・2003年死語辞典(1) 2003.12.1 初出

卵のなかみ、も早いもので150回を迎えました。

どういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
ひょんな事から、卵のなかみ、を始める事に
なったわけですが、本当にこのエッセイを
書き始めてよかったなと思っています。
毎回分野問わず自由に書かせてもらったおかげで
自分の小説のテーマも、今この国で起こり始めて
いる変化の概要も、だんだんと見えるようになってきました。

僕がなんとか現代の状況を把握しようとして
書いているこのエッセイの中から
読んでくれるみなさんが一ヶ所か二ヶ所でも
あ、そうかもしれないな、という部分をひろって
生活に役立ててもらえたら最高に嬉しいな、と
思います。

以前、転換期を迎えた労働組合、のエッセイの中で
2003年死語辞典を作る、と約束しておりましたので
今回は、卵のなかみ、連載150回を記念して
2003年死語辞典を作成することにしてみました。

僕は2,3年前に、これで文学界新人賞間違いなしだ、という小説を
書き上げたのですが、どうやら作者の独りよがり、いわゆる、
勘違い、だったらしく、見事落選したのでした。
それで何度か原稿に手を入れなおしたりしている間に
気がついた事があったのですが
そこにある、言葉、が古くなっていたのです。
ほんの2,3年前の、常識、に基づいて書かれた
言葉、なのに、既に古い。
これは大変な事ではないかと思い至ったのであります。

現代の国内外の大変化を、人類史上最大の乱気流、とか
明治維新や戦後よりも大きな変化、とさえ称する人が
いますが、例えばその大変化の一つだったとされる
明治維新の際には、夏目漱石や正岡子規らが
中心となり現在の、日本語、を作ったわけです。
つまり僕が今書いているような文章は
江戸時代には存在しなかったわけです。

現実を正確に記述する言葉がなければ
人々の精神は不安定になります。
明治維新の大変化の際には
江戸時代の書き言葉では捉えきれないような
新概念がどんどん流入してきたのだと
思います。
そう考えると現代の、日本語、を作った
夏目漱石や正岡子規の仕事はやはり偉大だったのだな
と思います。

僕は学生時代に、アイデンティティー(自己同一性)という言葉を
覚えてからだいぶ精神的に楽になったのですが、
一億総中流社会、のもとで、みんなと一緒、に
戦後復興や高度経済成長に向かっていた1970年代くらいまでの
日本社会では、アイデンティティー、という言葉はそんなに
必要なかったのではないかと思うのです。
70年代に、加藤諦三さんの、俺には俺の生き方がある、という
タイトルの本がベストセラーになったそうですが
俺には俺の生き方がある、というタイトルの本が
ベストセラーになるくらい、かつての日本人は
アイデンティティー(自己同一性)を意識することなく
或いは抑圧して生きていたのではないかと思うのです。
俺が俺が、とか、私が私が、という人は
我が強い人、として嫌われていたのではないかと
思ってしまいます。

でも2003年現在、終身雇用やら年功序列型賃金やら
社会の敷いたレールやらが次々と崩壊し始めています。
つまり社会の側は、あなたは~会社の~部長ですよ、とか、
君は~大学~学部卒のエリートですよ、という形での
アイデンティティーを提供してくれなくなってきています。
つまり、老若男女が嫌でも、俺の生き方、を
探さなくてはいけなくなってきているわけです。
現在、俺には俺の生き方がある、というタイトルの
本を出版しても、そんなに売れないような気がしてしまいます。

エーリッヒ・フロムという学者が、自由からの逃走、と
いう名著を残していますが、何をしていてもよい、という
圧倒的な自由を与えられると
逆に不安や不自由を感じてしまい、自由から逃走、して
しまいたくなったりするのが人間だったりします。
人間というのは本当に困った存在です。
サルトルという文学者も、自由を求める闘いの中に
あってこそ、私は最も自由感を感じた、という
言葉を残しています。
人間というのは本当に困った存在です。
不自由な状況におかれると、自由を求めて闘うのに
圧倒的な自由を与えられると、自由から逃走してしまいたくなる。

現代のように、社会の敷いたレール、が崩壊し始めて
誰もが、俺の生き方、をしてよい、俺の生き方、を
しなければならない、という、自由が義務化、したような状況になると、
ずっと、社会の敷いたレール、に乗っていた人達は、
むしろ、自由なんかいらない、誰か俺の生き方を決めてくれ、と、
自由から逃走、してしまいたくなるのではないかと思ってしまいます。

むしろ現在ベストセラーを狙うなら
俺には俺の生き方がある、というタイトルよりも
あなたの生き方は決まってます、というタイトルの方が
よいかと思ってしまいます。
あなたの生き方は決まってます。
これでは怪しげな新興宗教ですね。
たぶん、自由から逃げたい心理、が多くの人にあるから
怪しげな新興宗教が流行るのだと思ってしまいます。

少々話が逸れてしまいましたが
2003年死語辞典を作るのだ、という話でした。

最近村上龍さんが、言葉がない、と盛んに発言して
いるのですが、現在起きている変化を正確に
表す言葉がないのだと思ってしまいます。
日本人は、という主語が機能していないとも
発言されていますが、確かに、一億総中流社会が
終わって、若年層と中高年層、都市部と地方
高所得者層と低所得者層、といった格差が露呈し始め
メディアの多様化によって趣味嗜好の対象も
千差万別になってきたので
日本人は、とか、普通の人は、とか、普通の家庭は、と
言われても、どういう人を指しているのか
イメージできにくくなってきています。
でも、日本人は、という主語を持ってくると
なんとなくイメージができるような
気がしてしまいます。
言葉と現実にギャップが起き始めてきているわけです。

言葉がないと現実に起きている事態を
説明できないので、人間は精神的に不安定になります。
訳の分からない事件、を起こしている人達の
半数くらいは、自分で何をやっているのか分かって
いないのではないか、と思うことがあります。
つまり、言葉が貧困になってきているから
事態を意識化できていない。
そして現実感が希薄になる。

と、卵のなかみ、連載150回を記念して
うつらうつらと考えてきてみたわけですが
僕は夏目漱石や正岡子規のように
新しい日本語を作るのだ、などという芸当は
できそうにありませんが
とりあえず現在大量に発生している死語と
その背景にあるものを探っていきたいと
思い至ったのであります。


-2003年死語辞典(2)、へ続くー
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/15020032200312.html
自由からの逃走 新版

俺には俺の生き方がある―ある青年の手記 (1966年) (銀河選書)