2003年9月1日月曜日

卵のなかみ100回記念(4)日本では何が起きているか 2003.9.X 初出

・日本では何が起きているか

日本では何が起きているか、これは
卵のなかみ、の第一回でも書きましたように
ある意味、卵のなかみ、の出発点でも
あるわけですが、現在日本では
日本人みんなが何かに向かう、戦争へ
或いは経済戦争へ、といった1940年体制が
終わろうとしています。

結果の平等、所得再配分機能が上手く
機能していたという事情にもよるのでしょうが
1940年体制のもとの日本社会では
戦前から長らく、みんな一緒だよね
出る杭は打ちましょうね
人並みが一番だよね、という文化状況でした。
集団のルールに従って群れて生きるのが
善しとされていて
集団から抜け出して個人主義で生きようとする人は、
自分勝手な奴、エゴイスティックな奴
我の強い奴、という事で嫌われていました。
簡単に言うと、世間様が一番です、という社会でした。
日本社会が嫌いな人は、それを、日本村、などと呼んで
いました。
その1940年体制が終わろうとしている。
これは大変な事だと僕は思います。

みんなと一緒に個人を抑圧して生きていくのが
美徳だった社会で、ほとんどの人が精神を形成して
きたわけです。
1940年体制と呼ばれるくらいだから
もう60年以上日本は集団主義で
やってきているわけです。
当然、家庭でも学校でも職場でも
1940年体制の考え方に染まっているわけです。
それが終わろうとしているのは
大変な事だと僕は思ってしまうわけです。

で、現在小泉政権が進めている、構造改革、と
いうのは、その1940年体制の考え方の下で
形成されてきた社会構造を壊してしまいましょう、と
いうものです。
構造改革が達成されれば、また日本人みんなが一緒に
豊かになれるのだ、という形で報道される事が
ありますが、実際はそうではなくて
構造改革によって、日本人はみんな一緒、では
なくなって、個人として各自が自立して生きていく事を
求められるようになってしまうわけです。
自立、とか、自己責任、という言葉が溢れるように
なってきたのもそのためで
要は、集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会になる、という事です。

精神的に経済的に自立している人、
自己責任で生きている人、というのは
かつての1940年体制の下では
みんなと一緒になろうとしない
ツンとしたイヤみな奴、という事で
嫌われていました。
それが最近では、自立できている人、
自己責任で生きている人、というのは
褒め言葉に近くなってしまいました。
これは大変な事です。
価値観が180度変わってしまった。
そういった価値観の変化が、家庭や学校や職場で
多くの人に大変なストレスを与えているような気がして
僕は憂鬱になってしまうわけです。

夏目漱石という作家が、明治時代に一人ヨーロッパへ
留学した時、みんなが個人主義で生きるヨーロッパの
近代都市にあって、大変なカルチャーショックを受け
たそうです。
そして苦しみもがいた末に、
私の個人主義、という名著を残しました。
それを読むと、農耕民である日本人が
個人主義で生きていくというのは
いかに大変なことなのか、よく分かります。
夏目漱石は、私の個人主義、という本の中で
個人主義とは、エゴイストになる事、とか
個人主義とは、自分勝手に生きる事、などと書いて
相当もがいています。
三島由紀夫が書き切ったように純粋なる日本精神とは、
大いなる大義のために腹を切る事、です。
つまり日本人は、大いなる大義のために頑張るのは得意でも、
個人として自分のために頑張るのはひどく苦手な民族であると言えるわけです。
その高潔な民族に対して、今、個人として自分のために
頑張るようになる事、が求められているわけです。
これは大変な事です。
日本のために、自分勝手に個人主義で生きる、というのは文章として
破綻していますが、僕はその路線で
行くしか抜け道はないような気がします。
日本のために、自分勝手に個人主義で生きる。

そういった近代社会における個人として
精神的に経済的に自立するために
苦しみもがいていく、というプロセスは
1940年体制の下では、特別な職業につく人以外は
必要ありませんでした。
社会の敷いたレール、という言葉は
既に死語に近くなってきていますが
それこそレールに乗ってみんなと一緒にしていれば
ほとんどの人は一生安泰だったわけです。
個人的に何かやろう、などと考えずに
社会が提唱するレールに乗って人並みに生きていれば
一生安泰を保証しますよ、という暗黙のルールが
厳然とあって、その暗黙のルールを破って
個人的に何かやろう、とする人は
ドロップアウト、とか、不良、とか、変わり者、と
呼ばれていたわけです。
今、新しいビジネスを起ち上げる若い人達が
テレビで取り上げられて褒められる事がありますが
そういう人達は社会のレールが機能していた頃は
ドロップアウトした、変わり者、でした。
もしくは、不良。
価値観が180度変わってしまったわけです。

2003年現在、もう社会が敷いたレールは
官公庁以外どこにも見当たりません。
いい大学、いい企業、出世コースというのも
復活しないようです。
旧来的意味での安定を求める人は
公務員になるしかないわけですが
全ての人が公務員になれるわけではありません。
その事が意味するのは
ほとんどの人が、自分は何をしたいのか
何が好きか、どんな能力があるのか
その能力は今も通用するのか、と
考えながら生きなければならなくなってしまった、と
いう事だと思います。
しつこいようですが
そういった作業は、かつては特別な職業の人や
ドロップアウト組や、変わり者や、不良にしか
必要なかったのです。

構造改革によってもたらされる
そういった精神面での痛みが
家庭や学校や職場で、これからも
悲劇的な事件となって噴出してくるだろう事を
考えると、僕はとても憂鬱になります。



参考 


卵党総裁演説(1)~(3)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037.html
ADSL開通パーティーで大恥をかいた僕は
寄らば大樹の陰の時代は完全に終わったと思 った
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/2003.html
これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(1)~(2)
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/120038.html








-卵のなかみ100回記念(5)日本経済へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/100520039.html