2003年7月1日火曜日

お釈迦様の手のひらの上を駆け回っている孫悟空 其の一 五官と六識 2003.7.X 初出

人間の五官はなんといい加減なものなのだろう、と
思う事があります。
本当に僕達はちゃんと世界を見ているのかな、と。

例えば視覚。
仙台スタジアムでサッカーを見ている時
僕はボールの動きや中心選手の動きに視覚をフォーカスしていて、
ほとんどの場合フォーカスしていない部分は
背景として切り捨てています。
そして切り捨てた部分は記憶に残っていません。
聴覚にしても、街を歩いている時
全ての音を聞いているかと言ったらそんな事はなくて
フォーカスしていない音は切り捨てています。
そしてストリートミュージシャンがギターを弾いて
いたら、数限りなくある音の中から
ギターの音にフォーカスし、聞き取る。

同じ事は嗅覚も
味覚にも
触覚にも
言えるのではないでしょうか。
つまり、フォーカスする、意識する、という事が
大切で、五官が常に世界を正確に認識している
わけではない。
気がつかなかった、という言い方に
端的に現れるように
どんな高級料理を食べていても
どんなに汚いものに触れていても
気がつかなかった、という事
つまり五官をフォーカスしていなかった
という事だけで、その経験の意味性は
半減してしまいます。
言い換えれば
えっ、さっき食べたのそんな高級料理だったの?
えっ、さっき触ってたのそんなに汚いものだったの?
となると、どんな高級料理も汚いものも
意味がないのではないか、という事です。

要は人間にとって五官(眼・耳・鼻・舌・身)が
フォーカスする対象を決定する、意識、が最も大事で
それによって始めて世界を認識できるのだ、という
事だと思うのですが
そう考えると、五官に、意識、を加えて
六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)とした
仏教の唯識論は凄いな、と僕は思うわけです。
仏教はフォーカスする、意、も含めて
やっと世界を認識できるのだ、とする。

考えてみると確かに、五官(眼・耳・鼻・舌・身)は
正常でも、意識が壊れてしまったら
私は誰、ここは何処、のいわゆる
心神耗弱の状態になってしまうわけです。
裁判などで問題になる心神耗弱状態という場合
たぶんもっとひどくて、私は誰、ここは何処、という
問いすら立てることができず、〇△◇$☆……という状態なのだと思います。
僕はそういう○△◇$☆……状態の人と会ったことがありますが
本当に世界をまともに認識できていませんでした。

人間が世界を認識する時、最も重要なものは
六識のうち、意識だ、と言えるかもしれません。



其の二 コギトと六識へ続く
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/20037_9124.html