2003年9月1日月曜日

奇跡とは、独座大雄峰 2003.9.1 初出

ある修行僧が百丈禅師に尋ねた。
如何なるか、これ奇特のこと。
白丈禅師答えて曰く、独座大雄峰。
その答えを聞いた修行僧は、ひれ伏して百丈禅師を
拝んだ。
すると、百丈禅師はひれ伏した僧を棒で打った。

これは碧巌録(へきがんろく)という仏教書の第二十六則に出てくる、
独座大雄峰、という話です。
ドクザダイユウホウ。
いわゆる禅問答というやつで
禅問答は中々人を食ったようなところがあって僕は好きです。
ひれ伏して拝んでいる修行僧を百丈禅師が棒で打った、というところが
中々人を食っています。

どうして自分を拝んでいる修行僧を
百丈禅師は棒で打ったのでしょう。
修行僧は百丈禅師に、如何なるか、これ奇特のこと、と
尋ねたわけです。
つまり、禅をやったら何か不思議な霊験、ご利益はあるか、と
聞いてみたわけです。
それに対して百丈禅師は、独座大雄峰、と答える。
私が今独り、こうして大雄峰という場所に座っている、と。
大雄峰はちょっと偉そうに聞こえてしまいますが
北仙台とか一番町と一緒で、大雄峰は単なる地名です。
つまり、私が独りここにこうして座っている、という事が奇跡であり奇特であり、
有り難いことである、と百丈禅師は修行僧に答えたわけです。
私がこうしてここに座っているということの
素晴らしさ、それを発見することが禅によって得られる奇特、奇跡である、と。
修行僧のお前がそこに座っているのも有り難い奇跡なのだ、と。
なのに修行僧は言葉の意味が分からずひれ伏して百丈禅師を拝んでいる。
修業僧は自分より百丈禅師を偉いと思っている。
それで百丈禅師はその修業僧を棒で打った、のだと思います。
禅問答は非常に深い。

如何なるか、これ奇特のこと。
独座大雄峰。

奇跡というものは
手を触れずにスプーンが曲げられるとか
ヨーガのポーズを決めたまま10メートル飛べるようになる、という事ではなくて、
私がここにこうして独り座っていること、
あなたがそこに独り座っているということ、
その有り難さを知ることなのだ、という事なのだと思います。
奇跡とは、独座大雄峰。

翻って西洋ではどうか。
イエスも、奇跡は衆をまどわす行為だから
認めてはならない、と言っていたそうです。
新約聖書を読んでみても
今の時代の人はしるし(奇跡)を欲しがる、と
嘆いています。
でも聖書を読んでいくと
盲人を癒したり
魚をパンに変えたり、と
奇跡を行いまくっていたりするので
イエスという人は中々面白い人だな、と
僕は思ってしまいます。

洋の東西を問わず
人々がしるし(奇跡)を欲しがる、というのは
きっと普遍的な人間の心理なのでしょう。
どうしても人間は、常識では考えられないものを見せられると
畏敬の念を持ってしまう。
イエスも死んでから復活してみせて
やっと、まことにあの人は神の子だった、と
認めてもらえたようです。

僕は超能力や奇跡と呼ばれるようなことは
昔からあって、その事自体はさして重要なものでは
ないのではないかと思ったりします。
以前にも書きましたが、僕は空中を旋回する
ソフトクリームを見たことがあるので
超常現象全てを否定しようとは思いません。
ただ大切なのは超常現象ではなくて
そこから人間はどうあるべきか、
というとこに入っていくことなのだと
思ったりするわけです。
つまり目の前でヨーガのポーズを決めたまま10メートル
飛ばれようと、足の裏の相から自分の過去の行いを
言い当てられようと、そんな事くらいで
その人を教祖と仰ぎ、有り金全部お布施として
預けてしまうのは間違っているのではないか、と
思ったりするわけです。

奇跡とは、独座大雄峰。
つまり広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
僕がここにいて、あなたがそこにいるという事。
それが奇跡であり
有り難い事だと思うわけであります。




-奇跡とは、独座大雄峰-