2003年11月1日土曜日

想像力を摩滅させるもの(5)ツァラトゥストラ的世界観 2003.11.X 初出

マリリン・マンソンVSニーチェのエッセイにも
書きましたが、ニーチェという哲学者は
19世紀のキリスト教社会にあって
神の死亡、を宣言し、徹底的にキリスト教と
戦って、最後は発狂した後
10年以上ベッドの上でノタ打ち回って
死んでしまった、という凄い人です。
そのニーチェは、発狂の寸前

第七天の歌を歌え、
ディオニソス=十字架に架けられた者

という謎の署名のある手紙を
友人に送っていたそうです。
まず、詩、として美しく、且つ、力強い一文だな、と
思ってしまいます。でも意味が全くつかめませんね。

第七天の歌を歌え。

これは、キリスト教世界の、神、を、完璧に近い形で
表現した、ダンテ、神曲、に出てくる
7段階の天国のうち、最も、神、に近いとされる天国
第七天国、のことでしょう。
だから、第七天の歌を歌え、というのは
至高の天国の歌を歌え、とか
神の歌を歌え、のような意味ととっていいような
気がします。あくまで大場訳ですが……。
(大長編小説であるダンテの神曲を
読み通すほど時間がない、という方で
それでも興味がある、という方は
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では

ディオニュソス=十字架に架けられた者

の部分はどうか、となるわけですが
ディオニュソス、というのは
ギリシャ悲劇、バッコスの信女、に出てくる
悦楽淫蕩の神、ディオニュソス、のことであると考えられます。
つまり、ディオニュソス、とは、人間の持っている
悦楽淫蕩性のことをさしていると取ってよいかと思います。
そしてニーチェは、悦楽淫蕩神、ディオニュソス、が
イコール、十字架に架けられた者、であると
している。

十字架に架けられた者

これは間違いなくイエス・キリストのことでしょう。
となるとニーチェは、悦楽淫蕩性こそが、イエスの本質だ、と
言っているようにさえとれます。
これはキリスト教徒の方にとっては
ちょっと解せない、教祖を侮辱するような内容です。
やはり、ニーチェはキリスト教の敵だ、となってしまうのでしょうか。
人類の悦楽淫蕩の罪、を、イエスが一人背負って
十字架に架けられたのだ、ととれば
ある意味、原罪思想に基づいた、一般的な
聖書解釈となるのでしょうが
キリスト教と徹底的に戦っていたニーチェの
思想とは相容れません。
ニーチェは、ツァラトゥストラ、という著作において
原罪も天国も隣人愛も否定してみせたのです。
そのニーチェが発狂の寸前に

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

と書き残した。
これは本当に謎です。
第七天の歌を歌え、の部分などは
神を賛美しているようにさえ思えます。

僕はニーチェが最後に言いたかったのは
こうではなかったかと思う。
イエス・キリストは、実は悦楽淫蕩(ディオニュソス)な人間で、
悦楽淫蕩(ディオニュソス)の恐ろしさを
誰よりも知り尽くした人間だったからこそ
食欲・好色・金銭欲、といった
どうしようもない人間の子汚さ(ディオニュソス)を
自分の中に充分に抱えていたからこそ
そのアンチテーゼとして
人間の悦楽淫蕩性(ディオニュソス)を戒めるような

姦淫するな

であるとか

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ

であるとか

隣人を愛せ

といった、凡人には、無茶言うなよ、とも
思えるような教えを述べたのだ。
おお、イエスよ、十字架に架けられた者よ
あんたホントに大したもんだぜ。
2000年近く人類騙したけど
あんたの嘘は完璧だった。
参ったぜ、イエス……というのが
ニーチェの最後の言葉の意味ではないかと思います。
天国を否定し、地上の悦楽を肯定し
神にすがらせる教えは
社会的弱者の心理へのつけこみだ、と
次々と社会教会の嘘を暴いていったニーチェが
発狂の直前になって、実はイエスはそんな人間の
欺瞞性・悦楽淫蕩性など全てお見通しで
だからこそ、それに蓋をするような
教えを垂れていたのではないか、と思い至ったのでは
ないかと思います。
お釈迦様の手の平の上を駆け回る孫悟空、の喩えのようですが
ニーチェは一生をかけてキリスト教と戦い続けたのに
実はイエス・キリストの手の平の上を
駆け回っていただけだった、と気がついてしまったのでは
ないだろうかと思う。

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

これはニーチェのイエス・キリストに対する
敗北宣言ではないか、とさえ僕は思います。
ツァラトゥストラ、において
天国を否定し
地上の悦楽を肯定し
神の死亡を宣言してみせたニーチェが
最後は、第七天の歌を歌え、
つまり、至高の天国の歌を歌え、という
境地に至った。そして発狂した。
梅毒が脳に上がったせいだ、という話もありますが
ニーチェはプライドの高い人だったので
たぶん自分がそれまで築き上げてきた
ツァラトゥストラな世界観、が
壊れてしまうことに耐えられなかったのではないかと思う。

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

この詩的に美しく、且つ、力強くて
また謎めいているニーチェの最後の言葉は
一生をかけてキリスト教と戦い続けたニーチェの
イエスに対する敗北宣言なのではないか、と
いう話をまずしてきたわけですが
僕が今回言いたいのは、ニーチェが発見した!? ように、
キリスト教的価値観は、偽善的、とさえ思える文明を築き上げますが、
その根底にはギリシャの悦楽淫蕩の神、ディオニュソス、が
隠れているのではないか、という事です。
キリスト教の、偽善的、つまり、人間の現実を無視した
キレイゴト、とさえ取れそうな倫理観の高さは
人間のどうしようもない悦楽淫蕩性、ディオニュソス性に対する、
イエスの、想像力、からきているのではないかという事を言いたいわけです。

そしてニーチェの出た、19世紀後半あたりから
キリスト教世界においても、あまり、人間の悦楽淫蕩性、を
隠さなくなってきたような気がするなあ、という話なのです。
それはニーチェの、ツァラトゥストラ、に見られる
力への意思、地上の悦楽の肯定、食欲、性欲、金銭欲、の肯定、
天国の否定、超人思想、というメッセージが溢れてきたからではないかと
思うわけです。
つまりツァラトゥストラな世界観が溢れている。
ちなみにナチスドイツは、ニーチェの、ツァラトゥストラ、を
担いでいたと言われています。

現代はグローバルに情報が行きかうので
西洋世界の事情も他人事ではありません。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と
評していた思想家がいたのは記憶に
新しいところです。

でも僕は、ツァラトゥストラ、を書いたニーチェは
発狂の寸前になって、イエス・キリストに敗北し
天国を肯定したのではないか、と思うわけです。
それがニーチェの最後の言葉

第七天の歌を歌え、
ディオニュソス=十字架に架けられた者

の意味ではないかと思うわけです。




-想像力を摩滅させるもの(6)へ続く-
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