2003年11月1日土曜日

想像力を摩滅させるもの(3)TVの映像 2003.11.X 初出

僕が以前仙台駅前のある定食家さんで
ニラレバ定食を食べていた時でした。
急にサイレンが鳴り出して
消防車が何台も店の前を走り抜けていったのでありました。
なんだ、なんだ、と外が急に騒がしくなってきたので
僕は急いでニラレバ定食を食べて終えて
店の外へ出てみたのでありましたが
それは、火事、だったのです。

火が出ていたのは8階建てくらいのビルで
ハシゴ車から消防士がビルの中を
覗いていたりして大変なことに
なっていました。
ビルの周りには野次馬さん達が
瞬く間に集まってきました。
僕がニラレバ定食を食べていた定食屋さんの
レジ番さんも出てきました。
3日連続だよ、とレジ番さんは呟きました。
三日連続……放火なのだろうか、と
僕は思いました。
それにしても凄い野次馬の数です。

きっと火の出ているビルの当事者や
消防士さん達にとっては大変な
災難であって、できたら野次馬さん達には
帰ってもらった方が助かるのでしょうが
みなさん中々帰りません。
人間の、野次馬根性、というのは何なのだろう、と
僕はその時思いました。

僕が野次馬さん達の表情をチラチラと観察して
みたところでは、みなさんたいへん生き生きとした表情を
浮かべておりました。花火でも見るかのような、
極上のエンターテイメント映画でも見るかのような、表情でした。
本当は素知らぬ顔して通り過ぎてくれた方が
当事者にとっては助かるのでしょうが
みなさん喜悦の表情を浮かべたまま中々帰らないのです。
むしろ、もっと燃えて欲しい、と願っているようにも見えました。
そんな野次馬さん達の喜悦の表情を
消防車の赤色灯が、紅く照らし出しておりました。
それはとても、業深い光景、でした。

火事とケンカは江戸の華、という言葉も
聞いた事がありますし
他人の不幸は蜜の味、という言葉もあります。
何なのでしょう。
人間の野次馬根性というものは。
火事もケンカもハプニングも、他人の不幸も
自分の身には火の粉が降り掛かってこない、という前提があれば、
みんな極上のエンターテイメント映画でも
見るように、気悦の表情で楽しんでしまう。

きっと人間はそうできてしまっているのだと思います。
人間の造り、が、もともと野次馬を発生させるようにできている。
僕自身もしばらく火事の現場から帰りませんでした。
もちろんその火事で、僕に損害が及ぶわけでは
ありませんし、僕がそこにいたからといって
何ができるというわけでもない。
でももう少し観ていたい、と思ってしまった。
僕の中にも、野次馬根性、があるわけです。

たぶん、人間の造り、は
そうできてしまっているのだと思います。
人間の造り、がそうなってしまっているのだから
野次馬根性に訴えかけるワイドショーや
ゴシップ記事がなくなる事はないのかもしれません。

というわけで僕は、仙台駅前で火事の現場に
居合わせてみて、人間のどうしようもない
野次馬根性、を垣間見てしまったわけでありますが
そういった火事や事故などの
他人の不幸を楽しむ際の前提条件としては
たぶん、自分の身には火の粉が降り掛からない、という点が
最も重要なのだなという事にも気がつきました。
たぶん野次馬さん達のほとんどは、自分の身に火の粉が
降り掛かりそうになったら、一目散に逃げ去っていくはずです。
僕も仙台駅前で火事を見ていて
ハシゴ車が自分の側に倒れてきたりしたら
一目散に逃げ帰ったと思います。
野次馬さん達は、自分の身には火の粉が降りかからない、と思っているから、
喜悦の表情で他人の不幸を見ていられるわけです。

そういった構図というのは
たぶん人間である限り避けられない業なのだな、と思ってしまいます。
本当に人間というものは、どうしようもない造り、を
しているのだな、と思ってしまいます。
自分の身に火の粉が降りかかるかも、とか
当事者はジロジロ見られて迷惑しているだろうな、という、想像力、を、
人類の98パーセントが持つようになれば、ワイドショーやゴシップ記事が
なくなるのかも、と思ってしまいますが、たぶんそういう事は絶対に
ないと思うので、ワイドショー的なものや
ゴシップ記事的なものは形を変えて永遠に
再生産され続けるような気がしてしまいます。

大宅壮一さんという方が以前
テレビの普及を評して、一億総白痴化(註)、と評したそうですが、
もしかしたら、一億総野次馬化、がテレビではないか、と僕は今思いました。
テレビを見ている人達は基本的にどんな災害を映像で見ていても
自分の身には火の粉がかかるものではない、という事を知っています。
つまりテレビは全ての人を野次馬にしてしまうわけです。
一億総野次馬化、がテレビなのかもしれない。

そしてテレビで毎日世界中の大事件の、野次馬、になっていると、
だんだん人間の、想像力、が、摩滅していってしまうような気がします。
ベトナム戦争の時は、世界中の人々が、想像力、を働かせて
心を痛めて反戦運動を起こしたのに
湾岸戦争では戦争が、TVゲームのようだ、と評されるようになり
今回の911テロでは、ハリウッド映画のようだ、とさえ
言われるようになってしまいました。
そしてアフガン、イラクの戦争では
200人死にました、300人死にました、と言われても
あまりピンとこない人が増えてしまった。
僕だって偉そうな事は言えなくて
このエッセイで、アメリカ政府のネオコンの悪口を
たまに書くほかは、たいした行動を起こしていません。

これはちょっとヤバい事なのではないか、と
僕は自戒も含めて思ってしまいます。
人類の、想像力、が、どんどん摩滅していってしまって
そのうち、原子爆弾が落ちました、500万人死にました
あら大変でしたね、じゃ、ちょっとコンビニ行ってくるわ、
なんてことになるのでは、と思ってしまいます。

テレビの映像で、一億総野次馬化、の流れに
飲み込まれずに自分の、想像力、をキープして
おくには、活字を読む、というのは案外有効のように
思ってしまいます。
特に小説は、読者が、想像力、を働かせてくれないと
成立しません。
読者が、想像力、を発揮しなければならないので
小説を読むのは、テレビを見るよりも
ずっと大変です。疲れます。
でも、想像力、を働かせるのは
本来大変なことのはずなのです。
その大変な作業を繰り返している人は
実際の人生で大変なことに出会った時
想像力、を働かせて、上手く対処できるのでは
ないか、と思ったりします。




-想像力を摩滅させるもの(4)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/4200311_8.html



・註、知的障害者をさした、白痴、という言葉は
   現代では差別語にあたるかもしれませんが
   一億総白痴、という用語は
   言葉として定着してしまった感があるので
   そのままの形で使用しています。
   僕自身は、人類の中で唯一罪のない存在は
   知的障害者だ、と考えているので
   差別の意図は全くありません。