2003年8月1日金曜日

ニューヨーク大停電のニュースを見て市場万能主義の弊害を思ふ(2) 2003.8.X 初出

というわけで僕はニューヨーク大停電のニュースを見て
市場万能主義の弊害を思ったわけです。
やっぱり、市場、に馴染まない分野というのはあるのかなあ、と。
それというのも僕が年配の方と議論していて込み入った話になると
必ずと言っていいほど、こんな殺し文句が出てくるからです。
曰く。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

そういった話を力説する年配の方々は
いったい何を言いたいのだろう、と僕なりに想像してみるとたぶん、
生まれた時から電気もガスも水道もあった
お前らにいったい何が分かる!?
生まれた時から電気もガスも水道もあったお前らに発言権はない!
生まれた時から電気もガスも水道も……そんな意味が
含まれているのだと思います。
食い物の恨みは恐ろしい、とよく言いますが
たぶん、電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいのだな、と
僕は感情的になっている年配の方々を見てよく思います。
何を言いたいのかと言いますと
やはり電気やガスや水道といったライフラインは
全ての人に安定的に供給されるべき性質のもので
あって、そういった分野まで市場化して投機の対象と
して不安定なものにしてしまうのはよろしくないのではないか、という事です。

松下幸之助翁の水道哲学は確か
全ての人に水道の蛇口をひねれば水が出てくるように
家電製品を安く広く提供したい、というものだったように思います。
高度成長以前に考案された松下幸之助翁の水道哲学でさえも、
水道、というライフラインは安定的に供給されて当たり前だ、という前提に
立っているわけです。
やはり現代においても電気やガスや水道といったライフラインは
全ての人に安定的に供給されて当然の性質のものであって、
そういった分野まで市場化して投機の対象とし、
不安定なものになってしまうのはよろしくないのではないか、と
僕はニューヨーク大停電のニュースを見て思ったわけです。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

食べ物の恨みは当然恐ろしいですが
電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいのです。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

閑話休題。
教育や医療なども本来、市場、には馴染まない性質の分野かもしれませんが、
小泉政権が進める構造改革においては、そういった分野も市場化する動きが
あります。
大学のトップ30にしか補助金は出さない。
国立大学も独立行政法人化して競争させる。
病院の株式会社化を認める、などなど。
要は政府に今の社会構造を維持するだけの
金がないという事なのですが
ない袖は触れないので仕方ないとは思います。
戦後日本の構造を解体し、市場化を進めていくしかないわけです。
で、社会がどんどん市場化していくと
いったいどうなってしまうのでしょう。
IT化は民間主導で進められていますが
市場は残酷なものだなあ、というのがよく現れています。
つまり、光ファイバーやADSLの開通はたいてい、
東京、大阪、名古屋、という大都市から始まって、
次に、政令指定都市、県庁所在地、と進んでから
最後に過疎地で開通という流れになっています。
ひどい場合には過疎地にはブロードバンドが
入らないようです。
市場に文句を言っても仕方がないので
そういった場合過疎地に住む人々は
地元で協力してケーブルでも引くしかありません。
そういった問題がデジタルデバイトという形で
取り上げられたりする事がありますが
市場化していく、という事はあらゆる分野がそうなっていくという事なのだと
思います。デバイトだらけ。
つまり、これまで建前上は一応全国一律だった
教育や医療、電気やガスや水道、といった分野に置いても
格差がついていきます、という事。

昔は仙台市内でも、突然電気が消えたりしたんだぞ!

食べ物の恨みは恐ろしい、とはよく言いますが
電気やガスや水道の恨みも結構恐ろしいものだ、という事を
僕は年配の方々との議論で学びました。
それに加えて、教育の恨みは恐ろしい、医療の恨みは恐ろしい、
ブロードバンドの恨みは恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい……という社会に
なってしまうのでしょうか。
たぶんなるのでしょう。
というか既になってきています。
最近の社会面のニュースを見ていたりすると
~の恨み、で、単純にキレてしまっている人がたいへん多いようで
僕は憂鬱な気分になってきます。

一生尽きる事のない、~の恨み、を持つ人は
一生尽きる事のない、富の源泉、を手にしているのと
同じ事なのだ。

そんな気休めの言葉を言う人もいます。
~の恨みを抱えた人はそれを糧に努力せよ、という意味なのだと思いますが、
確かに一理あります。でもどこか虚しいものもあります。
~の恨み(ルサンチマン)を力に変えていけ、と
いうのはニーチェ的世界観であって
行き着くところはエンドレスな
バトルロワイヤルです。
少し前に、高校生達が陸の孤島でサバイバルをかけた
デスマッチを行うという、その名もバトルロワイヤルという映画が
物議をかもしたりしていましたが、あの映画もニーチェ的と言えばニーチェ的です。
僕もバトルロワイヤルという映画を観てみたのですが
そこには、あまりに人間的な、あまりに人間的な姿がありました。
人間が生きていく限り、何によってサバイバルしていくかという問題は
いつの時代でも出てきます。
でもサバイバルや金銭の話を一番に持ってくるのは
それを言っちゃあ、お終いよ、と昔の人が言っていた事に
あたるのではないでしょうか。
あまりに人間的な、あまりに人間的な事は
本来隠すべき事なのでしょう。
それを言っちゃあ、お終い、なのです。
でも時代はニーチェのようです。
サカキバラ事件を、これがニーチェだ、と
評した思想家がいました。
それはたぶん
力への意思だけが支配する世界、
弱い者が、さらに弱い物を叩く世界
あまりに人間的な、あまりに人間的な世界が
来てしまった、という意味なのだと思います。
それを言っちゃあ、お終いよ、の
お終い、が来てしまったのでしょうか。

僕は、ニューヨーク大停電のニュースを見て
アメリカ主導で進められる市場万能主義の弊害に
思いを馳せてみました。こうしてズラズラと書いてくると
やっぱり弊害は大きいような気がします。
ニーチェが、あまりに人間的な、と評する時
ニーチェは人間を信用していません。
性悪説に立っています。
僕はできたら性善説に立っていたいです。
でも目の前には、あまりに人間的な、あまりに人間的な現実が溢れています。



ニューヨーク大停電のニュースを見て
市場万能主義の弊害を思ふ -(完)-



世界標準で生きられますか (徳間文庫)