2003年8月1日金曜日

これから会社と個人の関係はどうなってしまうのだろう(2)田中耕一さんの場合 2003.8.X 初

マスコミは一頃ノーベル化学賞を受賞した
田中耕一さんを、ベラボウに褒め称えていました。
世界最高の権威ある賞を受賞したのだから
褒め称えるのは当然としても
どうもそのほめ方は奇妙なネジレが含まれて
いたような気がします。
ノーベル賞の授賞式を担当するスウェーデンの
外務省も日本のマスコミには相当参ったという
その過熱報道ぶり。
僕が感じたネジレとはいったい何だったのだろう。

それはマスコミが日本人が一体感を持って近代化に
取り組んでいた暖かい時代の幻想を取り戻そうとして
躍起になっているのに
現実社会の側がそんな幻想を受け付けないくらい
変化してしまっているという事からきていたのではない
だろうか、と僕は今思いました。

マスコミは田中耕一さんの研究成果云々よりも
私はただのサラリーマンですから、という
田中耕一さんの姿勢ばかりを報道していました。
或いは人となりであるとか。
誤解されると困りますが
僕は田中耕一さんを批判しているわけではありません。
ただ社会の状況を明らかにしたいだけです。
状況を明らかにしなければ
対策も立てられません。

前回のエッセイにも書いたように
近代化という国家の大目標を達成し
終身雇用の原則も崩れ始めた現在の社会状況において
多くの人々が不安を抱えています。
つまり、真面目に頑張っていれば誰かが見ていて
取り立ててくれる、という終身雇用的な発想では
もう生き残れないのではないか、と多くの人が
不安を抱えているわけです。
そういった時代状況なのにマスコミは
私はただのサラリーマンですから、という
田中耕一さんの姿勢を褒め称える。
引退間近の年配の方々ならばマスコミの
そういった報道を目を細めて喜ぶのかもしれませんが
いい人、真面目な人、というだけでは生き残れないかも、と多くの人々が
日々不安を抱えている時代に、いい人であれ、とメッセージを送られても
どうにもならないような気がします。

この俺、俺様NO.1! という近代的自我の強そうな人よりも、
私は不器用な人間なんです、何もかも皆様のおかげです、という
近代的自我の弱そうな人の方が好まれる、というのは近代化途上の
日本社会では常識でした。
それで高度成長からバブル期まで実際日本は
世界で最も成功した国の一つだった。
それでマスコミは、あの素晴らしい日々をもう一度と
キャンペーンをはったのかもしれませんが
現実の社会状況はそんなキャンペーンが白けて見えるほど変わってしまって
いるので、そのギャップが奇妙なネジレとなって僕には見えたのかもしれません。

誤解されると困りますが
僕は、いい人だけでは生き残れなくなるという社会が
理想的だと言っているわけではありません。
ただ、掛け声やキャンペーンだけでは
どうにもならないくらい現実社会が変化してしまって
いるのに、いい人であれというメッセージを発しても
どうにもならないのではないかと思うわけです。

僕はどうもこれからは、人がいいだけの人は
不利な社会になるような気がして仕方ありません。
つまり近代的自我を強化して個人が言いたい事を
主張していかないと、あ、了承したんだな、という
事で不利益を被ってしまう社会になるような気が
するのです。

北の国から、とか、寅さんシリーズのような
日本的人情映画がどんどんなくなって
きていますし
釣りバカ日誌、のような映画を観ても
ノスタルジーを感じはしても
今時そんな平和な社長も社員もいないよ
となってきているような気がします。

若い女性の間からは
人がいいだけの人より少々我が強くても
ビジョンを持って生きている人の方が素敵!
という声も聞こえてきます。
若い女性は本当に時代の要請に敏感です。
これから子孫を残すにあたってできるだけ
サバイバルに有利なオスをかぎわけようとしている
彼女たちのセンサーは、時に経済白書よりも正確に
時代の要請を的確につかみとります。

これからの近代化を終えた日本社会で生き抜くにあたって
気の弱い僕も近代的自我を強化して
それは僕の権利であるぞ!
これは僕の義務であるぞ!
と、口うるさい近代的自我の強い人間にならなくては
ならないのだろうか、と思ってしまいます。
卵のなかみも、気の弱い僕による、ですます調を改めて
世界一グレイトな僕による、である調に移行しなければならなくなる日が
近づいているのかもしれません。

嗚呼、何たる事である。
世界一グレイトな僕は
そういうのがとても苦手である。

これからの会社と個人の関係は
どうなってしまうのだろう-(完)-