2004年3月1日月曜日

プロ野球と日本のプロ野球(3)合理性と精神性 2004.3.X 初出

と、日米ともに、野球、若しくは、ベースボール、の
開幕シーズンを間近に控え、各選手の
周辺も慌しくなってまいりました、という話題から
例によってややこしい話を展開してしまったわけで
ありますが、日米ともに、野球、若しくは
ベースボール、の開幕を間近に控えて
耳にするようになった
自主トレ、という言葉にも
僕は違和感を感じたのでありました。
自主トレ。

日本では、戦前の軍国主義を引き継いだかのような
体育会、というものがあって
押忍! な世界が、ほんの少し前までありました。
押忍! な世界では、トレーニングは縦社会の下で
集団で行うもの、という前提が
あるので、個人的に行うトレーニングは個別に考えて
自主トレ、という言葉ができたのかもしれません。

体育会、には、シゴキ、という風習もあったりして
全てにおいて年功序列的なシステムとなっていて
一年生はボールを触れない、などという
人権侵害、とも、不合理、とも取れそうな習慣が
まかり通っていました。
ですが体育会ではそれが美徳だったわけです。
国会でも、一年生議員、などという言い方がありますが
派閥の中で、年功序列的にポジションを上げていき
やがて大臣のポストをゲットする、という
システムはある意味、体育会、的です。
体育会、では、そういった風習が
美徳になってしまいます。

そういった慣習が、全く不合理なものか、というと
そうとも言い切れなくて
コートに出てボールに触れる前に
筋力や持久力の土台を作ってから
ボールに触れて技術を覚える、という
合理性、はあったように思います。
国会でも同じかもしれません。

そしてコートに立てるようになった選手には
ボールに触ることへの、飢え、があるから
あっという間に技術が上達します。
それに体育会で仕込まれた、押忍! な上下関係は
年功序列型の社会へ出た時にも役に立ちます。

昔は、体育会出身の学生が、就職、に
というか、就社、に有利だった時代もあったようです。
でも体育会的な、押忍! な上下関係は
終身雇用、や、年功序列型賃金、の社会でだけ有効なので
あって、これからの、実力社会
エイジレス(年齢を問わない)社会、では、邪魔、に
なるかもしれません。
相手の肩書き、つまり、部長、や、課長、といった
ポストによって、言葉や態度を使い分けるような行為は
年功序列型の社会では、美徳、でしたが
これからは、姑息、となるかもしれません。
ここでも価値観の180度の転換があります。

で、そういった社会システムの変化による
価値観の大転換が起きているので
僕は、自主トレ、という言葉に違和感を
感じたのかもしれません。

トレーニングは個人でしておくべきもの
というコンセンサスのある実力主義の社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのでは
ないかと思ったわけです。

自主トレ、には、集団でやるはずの
トレーニングを、自主的に行っている偉い行為
のニュアンスがあるような気がします。

僕はNBA入りを目指して真剣に
バスケットボールに取り組んでいた時期があるので
アメリカの大学バスケなども結構研究したのですが
アメリカでは、チームスポーツといえども
自分で基礎的なトレーニングを行っておくのは当たり前で
チームで集まった時には、連携プレーや作戦の確認など
最小限の事を行う形になっていたように思います。
そういったコンセンサスのある社会では
自主トレ、という言葉は出てこないのではないかと
思うのです。

どちらがよいか、と一概には言えませんが
アメリカ式では何でも合理的になる傾向があり
日本式では何でも精神論になってしまう傾向がある、と
言えるかもしれません。

メンタルトレーニングの領域へ踏み込んで考えてみれば
何でも精神論へ持っていく日本式も
あながち悪くはないと思ってしまいますが
合理的な考えも捨ててはいけないな、とも
思ってしまいます。

日米関係は、安全保障の分野では
相当歪んでいますが
こと文化の面に限って言えば
面白いようにコラボして
お互いの長所、短所、を理解し
上手く取り込んだ新しい形態へ
向かっているのかもしれません。


-プロ野球と日本のプロ野球(4)へ続く-

http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/4198520043.html