2004年3月1日月曜日

プロ野球と日本のプロ野球(1)シニフィアンとシニフィエの遊離 2004.3.X 初出

日米ともに、野球、若しくは、ベースボールの
開幕シーズンを間近に控え、各選手の周辺も慌ただしく
なってまいりました。

メジャーリーグへ挑戦する日本人選手が
増えてから、ニュースキャスターなどが
プロ野球は~、という主語ではなく
日本のプロ野球は~、という主語を
持ってくるようになりました。

野茂英雄投手が海を渡って成功してしまった
1995年以前は、プロ野球は~、という主語だけで
よかったわけです。
それが、2004年3月現在は、日本のプロ野球は~、という
主語を持ってこないと意味が通じなくなってしまいました。
違和感を覚えるのは僕だけではないような気がします。

いわゆる、日本のプロ野球、には
中央集権的な匂いがついているように思ってしまいますが
どうでしょう。

巨人を見ずに飯が食えるか!

というコピーが昔ありましたが
戦後復興期から高度成長期くらいまでは
東京、読売、ジャイアンツ、が
日本人の連帯感を保障する強力なコンテンツと
なっていたのではないかと僕は思います。
大袈裟に言えば、戦前における天皇制の代替物、としてさえ
機能していたのではないかと思ってしまうのです。

巨人、大鵬、卵焼き

であるとか

巨人、阪神、の伝統の一戦

であるとか

天覧試合での長島選手の活躍

であるといった形で
日本人の連帯感、日本の中央集権化を
保障するコンテンツとして
プロ野球、は、上手く機能していたのではないかと
思ってしまうのであります。
僕が子供の頃は、野球ファンは
たいてい、巨人ファン、か、アンチ巨人、で
括られていたようにも思います。

その、日本人の連帯感、或いは、中央集権化、を
保障するコンテンツとしての、プロ野球、が
90年代後半からの大転換期を経て
日本のプロ野球、になってしまったのは
象徴的だなと思ってしまいます。

社会を近代化させるには
同質な文化的背景を持つ
多数の優秀な国民と
中央集権化が不可欠です。
そして日本には、その条件が見事なくらいそろっていて
明治以来、大規模な戦争以外には
たいした挫折を経験することなく
近代化を成功させたわけです。
でも何事によらず、大きな目標達成の後には
ある種の喪失感が伴います。

国家の近代化、や、戦後復興、などの
国家的目標を喪失して久しい現代の日本社会で
ニュースキャスターが、プロ野球は~、という
主語ではなくて、日本のプロ野球は~、という
括弧つきの主語、を持ってくる構図は
象徴的だな、と思うのであります。

復興、や、高度成長、や、近代化、といった
国家的目標喪失と同時に
プロ野球、から、何かが抜けてしまい
日本のプロ野球、になってしまったような
ニュアンスを僕は感じてしまいます。
プロ野球、と、日本のプロ野球。

国民的歌手、であるとか、国民的美少女、という言葉も
だんだんと死語に近くなってきていますが
国家的目標喪失と無縁ではないような気がします。

国民的ヒロイン、キューちゃん、こと
女子マラソンの高橋尚子選手が
アテネ五輪代表から外れたことに激怒して
日本陸連に抗議の電話を入れたりしている人達は
きっと、国民の一体感、連帯感、が失われていく事を
本能的に恐れている層なのだと思います。
誤解されると困りますが
僕はそれが良いとか悪いとか言っているわけでは
ありません。

マスメディアもマスメディアで
なんとか、あの素晴らしい日々
つまり、日本人が一丸になって戦争や
経済戦争へ向かっていた1940年体制の幻想を
取り戻そうとして躍起のようです。
長島監督は脳梗塞で入院してしまいましたが
日本代表の監督は長島茂雄以外にはない、という声も
大きいようで、何としてでもアテネオリンピックは
長島監督で、という、空気、が、世間様、に
形成されようとしています。
一度そういった、空気、が、世間様、に形成されてしまうと
日本社会では言いたいことが言えなくなってしまいます。
このまま行けば、長島監督には、しばらく病気の療養に
専念してもらっては……などと言おうものなら
非国民、扱いされるような、空気、になっていくかも
しれません。

でも実際の社会システムは
完全に変化してしまっていて
若い人達は、漠然としたマジョリティ(多数派)の中で
みんなと一緒にしていても
あまりいい事はないのではないか、と
気がつき始めています。

政治家が、国民のみなさん、と呼び掛ける時も
そうですが、90年代以前と異なり
都市部と地方、高所得者層と低所得者層
若年層と中高年層といった形で
国民、の利害が多様化してしまっているので
政治家の、国民のみなさん、という言葉も
何だか空疎に聞こえてしまいます。

1940年体制下においては、全ての日本人は
たいてい同じライフスタイルである、というのが
常識、だったので、政治家も、不特定多数の
国民、に対してメッセージを発することが
できたわけですが
現在は事情が異なります。

高度成長期、や、バブル、の頃と違って
政策によるパイの分け前は、ゼロサム、になってきているので
例えば、構造改革によって恩恵を受ける層、と
構造改革によって損失を被る層、に
国民、が分かれてしまっているわけです。

国民のために構造改革を、といった形でしか
現在の政治家はメッセージを発することができませんが
道路公団の民営化によって損失を被る、国民、は
猪瀬直樹さんの事務所に脅迫の電話をかけたりします。
構造改革によって全ての、国民、が
一律に、痛みを伴う、わけではないわけです。

僕は基本的に、失うものなど何もない若年層、なので
構造改革、をどんどん進めていってくれた方がよいのですが
官庁絡みの仕事や公共事業によって
生計を立てている層にとっては
ちょっと待ってくれよ、となるはずです。

でも政治家は、国民のみなさんのために
構造改革を、と呼び掛ける
しかないわけです。

そういった構図の中で、民主党が
マニュフェスト、という言葉を持ち出して
きたのも象徴的でした。

漠然とした各政党のスローガンよりも
マニュフェストの数値目標を見れば
その政権によって、自分が恩恵を受ける層なのか
損失を被る層なのかがよく分かるわけです。

東西冷戦下のイデオロギー対立の下では
スローガン、が有権者にとって最も分かりやすいもの
だったのかもしれませんが
近代化を終え、資本主義陣営と共産主義陣営の対立も
終えた現代では、マニュフェストによる数値目標、による方が
有権者もより選択がし易いのかもしれません。

マニュフェスト、ではなくて、政権公約、でも
よいように思ってしまいますが
戦後長らく続いた自民党の一党支配の下で
政権公約、という言葉は
選挙の時だけの、美辞麗句、という意味になって
しまったので、マニュフェスト、という言葉が
必要になったのだと思います。

社会構造の急激な変化によって
そういった書かれた文字の、読み、或いは、発音、と
その、意味、が遊離してしまっている言葉が
大量発生しているように思ってしまいます。
文学的に、ちょっと気取って言えば
シニフィアンとシニフィエが
遊離してしまっている、という事になるのかも
しれません。

このエッセイで何度も書いていますが
現在は、あらゆる分野が過渡期なので
それに対応する、言葉の発明、が求められている
のかもしれません。

何だか変です。
プロ野球、と、日本のプロ野球。


-プロ野球と日本のプロ野球(2)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.com/2004/03/220043.html



関連、

2003年死語辞典(1)~(7)
http://digifactory-neo.blogspot.com/2003/12/150200312003121.html