2003年10月1日水曜日

小説とは何か(5) 2003.10.X 初出

そもそも小説が進化してきた、というよりも
小説は時代を書いているわけなので、その時代の側が変化しているだけ
だったりもします。

川端康成のノーベル文学賞受賞は、日本のオリエンタリズムが
世界に認められたわけですが、大江健三郎さんの場合は
オリエンタリズムではなくて、普遍、として認めらた感があります。
安部公房(アベコウボウ)という洒落た名前の作家も
ノーベル文学賞を狙えた、と言われていましたが
安部公房氏の小説も、日本のオリエンタリズムとは無縁の普遍的、な小説です。
これからは、普遍、をテーマにした小説しか成り立たないかもしれません。
日本のオリエンタリズム溢れる小説を書こう、と思っても、
社会が完全に近代化・西洋化してしまったのでもう書く対象がなかったりします。

日本であり、且つ、普遍的な小説、がベストかもしれません。
小説ではありませんが、北野武さんの、HANABI、という映画は、
日本であり、且つ、普遍的な映画、でした。

では翻って、その普遍とされる西洋文学とは
いったいどのようなものか、と考えてみますと
これは、存在の耐えられない軽さ、という小説で知られる
ミラン・クンデラという作家が、小説の精神(法政大学出版局)という
中々面白いエッセイ集を書いています。
以下引用。

至高の審判者、の不在の中で
世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわしました。
神の唯一の、真理、はおびただしい数の、相対的真理、に解体され、
人々はこれらの相対的真理を共有するようになりました。
こうして近代世界が誕生し、と同時に
近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある
小説が誕生したのでした。(7ページ)

小説。すぐれた散文形式。この形式において作者は
実験的自我(登場人物)を介して実存のさまざまな
重大な主題をとことん考察する。(170ページ)

要はミラン・クンデラの小説観で言えば
近代化して人々が神の死亡を知ってしまい
至高の善悪の基準がなくなって価値観の相対化がおき
何が正しくて何が間違っているかわからなくなって
しまったところに、小説、が発生し
作者は作品の中で相対化してしまった価値観の中で
生きる人々の姿を書いて行くのだ、ということになります。

やはり神の死亡なのかな、と思ってしまいます。
僕はこのエッセイで98年から2002年にかけて
日本社会は完全に近代化したのだ、という事を何度も
書いてきましたが、それは同時に日本社会でも
神が死んでしまったという事を意味します。
僕は一般の人々が神の死亡を知る、それを持って
近代化は達成されるのだ、と考えています。
2003年現在の近代化した日本社会では、
もう倫理観の最終的なより所としての神は死んでしまいました。
それに加えて、日本社会独特の、世間様、というものも
機能しなくなってきているので、普通こうだよね、という形で
分かり合える部分もどんどん減ってきています。
ある意味今こそミラン・クンデラの定義するところの
小説、を読んで、一人一人が人間の実存的問いに思いを
馳せなければならない時代だったりするわけですが
パソコンや携帯電話の操作を覚えるのに時間を
取られてしまって中々、小説をきっちり読む、という
時間がとれなくなっているのが現状だったりします。

それがコミュニケーション不全を起こし
社会の様々な場面で悲劇的な事件となって
噴出しているような気がします。

近代化による神の死亡と近代小説の発生、というのは
イスラム世界を見るとよく分かります。
イスラム世界では、まだ神が死んでいないので
つまり近代化が達成されていないので
アラーやマホメッドを侮辱した小説を書いたり
すると、ファトワ、が出せれて
作家の身に危険が及ぶ場合があります。

実際、悪魔の詩、でイスラム教を冒涜したとされる
サルマン・ラシュディという作家には
ファトワが出されました。
ファトワ、死刑です。
アナカシコ、アナカシコ……。

イスラム世界はそういう世界なので
今も上手く近代化できずにいます。
近代化できないと、結局西欧先進国との関係で
経済的格差が開いてしまうので、奴らは悪魔だ、などと
いう話になってしまいます。
たぶんそれがテロの温床になっていると思います。

日本でも明治期に廃仏毀釈(仏教を捨てる)によって
成立した国家神道が、国体概念、として機能していた頃は、
天皇陛下について下手なことを書くと死人が出る、などと言われていたようです。
最近、建国義勇軍、を名乗って爆発物をしかけたり
している事件が増えていて僕は大変気がかりなのですが
ほとんどの人は支持する、というよりも
眉をしかめている、という感覚だと思います。
というか、そうであって欲しい。

前回の、ポップなお地蔵さん、のエッセイにも
書きましたが、現代の日本社会は、消費者金融が地蔵菩薩を
ポップなキャラにしたてて借金を薦めるTVCMを大々的に流しても
基本的に誰も文句を言いません。
つまり日本は良くも悪くも完全に近代化してしまったので、
神の死亡、価値観の相対化、という段階にきているわけです。

サカキバラ事件を起こした少年に小説を
書かせたかったという人がたくさんいた、というのも
このラインで考えるとよく分かります。
人々が完全に神の死亡を知ってしまって
価値観の基準となるべきものがなくなって
しまった現在の日本社会にあって
あの少年は、透明な存在の不安、を
自らのうちに、バイオモドキ神、を創造する事で
解決しようとし、凶行に及んだわけです。
そこには、ミラン・クンデラ的意味での
近代小説、が誕生しています。
誤解されると困りますが
だからあの少年が偉い、という事では決してありません。

やはりあの少年は、その毒を小説で表現すべきだったのかもしれません。
不謹慎な表現ですが、小説の中でなら
何人殺してもいいのです。
僕はあまりそういう小説を読みたいとは思いませんが。

あ、俺このままではヤバいかも、という
感覚を抱えている人は、小説を書いてみるといいかも
しれません。別に賞を取るとか取らないとかは
抜きにして、そういったプロセスは自分に対する
セラピーになるかもしれませんし、
少なくとも人間に対する認識が深まる機会にはなるはずです。
一人で抱えていた心のおりを、他者に読ませる作品を意識して
書いてみることで、自分に対する他者性を獲得できます。
あ、俺の感性ヤバいかも、と思えるのが他者性です。
他者性を獲得できれば、暴発して凶行に及ぶ
少年は減るような気がします。

以上、小説とは何か、と大きく飛び出して
ズラズラと書いてきてみたわけですが
小説とはいったい何なのだろう……。
小説とはヤバいこと!?
いや、やはり現代のノーベル文学賞作家である
大江健三郎さんが言うとおり
小説とは、精神のことをするとこ、なのでしょう。



-小説とは何か(完)-

古代研究〈3〉国文学の発生 (中公クラシックス)

日本の名著 1 (中公バックス)

日本書紀〈2〉 (中公クラシックス)

日本書紀〈3〉 (中公クラシックス)

口語訳古事記 完全版

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈2〉 (講談社文芸文庫)

死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)

日輪の翼 (小学館文庫―中上健次選集)

愛と幻想のファシズム〈上〉 (講談社文庫)

愛と幻想のファシズム〈下〉 (講談社文庫)

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)

奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)

暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)

天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1)

風の歌を聴け (講談社文庫)

個人的な体験 (1964年)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)