2003年10月1日水曜日

情熱の薔薇(3) 2003.10.X 初出

僕は以上見てきたような、社会の敷いたレール、に乗らないで、
中学・高校とも全く勉強せずに、NBA選手目指してバスケットボール
ばかりしていたので、社会が敷いたレール、に乗せられて受験勉強ばかり
している同級生達からは、変人、のように見られていました。
太平洋戦争中なら、僕は、非国民、だったわけですね。

社会が敷いたレールに乗るための、受験戦争、にとられて、
出征、してしまった同級生達は、今頃どうしていいか分からず
路頭に迷っているはずです。
だってもう社会が敷いたレールはないのだし
画一的な大卒ホワイトカラー中間管理職、みたいなものも
そんなに必要とされていないのですから。

どうだ! あの頃僕を、非国民、扱いした
同級生や暴力教師どもよ、ざまあみろ! と
太平洋戦争後の、進歩的文化人、のような事を
僕は言いたいわけではなくて
終戦後においても、第二の敗戦、と呼ばれる
現在の状況においても
日本中で一気に180度価値観が変わってしまう、という構図は
不健康なのではないか、という事を言いたいわけです。

僕は、戦争に加担した、とされ
戦後ずっと沈黙を強いられてしまった文学者や
画家が嫌いではありません。
むしろ終戦後急に、進歩的文化人、となって
しまった人達よりも気合が入っていて
格好いいな、とさえ思ってしまうところもあります。

第二の敗戦、と呼ばれる現在の状況においてもそうで
奇跡の戦後復興を成し遂げた人達や
NHKの人気番組、プロジェクトX、に見られるような
高度成長を成し遂げてくれた人達に対して
僕は敬意を持っています。
ただ、バブルの狂乱、を引き起こした人達は
好きではありません。
この人達が、戦犯、のような扱いを受けるのは
ちょっと分かります。

いずれにしろ、戦争も経済戦争も、完敗したのが
明らかになってから、日本人みんなが一緒に
価値観を180度変える、という構図は一緒です。

それは現在進められている、構造改革、と呼ばれる
基本的な社会構造の変換を、バブルの狂乱の前、つまり
1970年代にやっておけば全く問題なかったのに、
どうしてできなかったのだろう、という問いに繋がります
(太平洋戦争においては、軍部の暴走、がこれにあたると思います)
80年代のバブルの狂乱、や、90年代の失われた10年、は
やはり痛手というか余計だったと誰もが思うでしょうし
そこに太平洋戦争における軍部の暴走を見るのは
僕だけではないと思います。
つまり構図としては、敗戦も、第二の敗戦、と呼ばれる
現在の状況も一緒なわけです。

新世紀に入りやっと、小泉政権のもとで、構造改革が必要だ、という
コンセンサスが社会にできたのはよいのですが、本来なら1970年代から
やっておかなければならないような事を、20年以上遅れてやろうとしている
からそれは、痛みを伴う、構造改革になってしまったわけです。

いつまでも高度経済成長が続くわけがないのだから
本来ならオイルショックで一息入れた1970年代に
戦後復興期や高度成長期型の社会システムの改革に
着手しておかなければならなかったのに
太平洋戦争と同じで、そのまま
みんなと一緒に、バブル経済に突入し
完敗が見えるまで何もできないでしまった。

どうして僕がこういった見方をするのか、と
言いますと、僕は1970年代の生まれなのですが
生まれてからずっと社会システムとぶつかってばかり
いたような感じがするからなのです。
それはもしかして、20年近く構造改革が遅れている
社会システムとぶつかっていた、という事のではないか、と
最近思うようになったからなのです。
そしてそれはたぶん、僕だけではないのではないか、と。

だから現在の機能しなくなってしまった
社会システムと齟齬をきたして
ブチキレそうになってしまっている子供達の気持ちが
なんとなく想像できてしまったりするのです。

そしてあの頃の僕がそうだったように
おそらく少年達は、言葉を持たないままノイローゼ寸前の状態で
悩んでいるのだと思います。そしてナイフを手にしてしまう。

別にグレてる訳じゃないんだ
ただこのままじゃいけないってことに気付いただけさ

先生たちは僕を不安にするけど
それほど大切な言葉はなかった

誰のことも恨んじゃいないよ
ただ大人たちにほめられるようなバカにはなりたくない

そしてナイフを持って立ってた
そしてナイフを持って立ってた

このエッセイに度々登場するブルーハーツという
80年代に一世を風靡したパンクバンドの
少年の詩、という曲の一節です。

このままでは、間違った教育による犠牲者、が
どんどん増えていくばかりのように思えて
僕はとても憂鬱な気持ちになります。
僕が知る範囲では、学校の現場では
ほとんど価値観の変化が見られないようです。

透明な存在の不安、に怯えながら
いい大学に行け、だの、なるべく大きな会社に入れ、だのと、
完全に時代遅れの訳の分からない事を要求してくる親や
教師達の存在にも苛立ち
ナイフを手にしそうになっている少年がいたら
僕は呼びかけたい

言葉を書け
言葉はナイフの代わりなのだ

と。

筆の走った勢いで極論してしまえば
国語のテストで、ここで作者は何を言おうとしていますか、
以下のA~Cのうち一つを選びなさい

A、いとおかし
B、とてもおかしい
C、ちゃんちゃらおかしい

などとやっている、文学教育、などというものは
C、ちゃんちゃらおかしい、なのであります。

少年達よ、そんな、文学教育、は無視していい。
ナイフを持つ代わりに、読みたい本をたくさん読んで
言葉を鍛えておけ。言葉はナイフの代わりなのだ。



-情熱の薔薇(4)へ続く-
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