2003年10月1日水曜日

テクスト 2003.10.X 初出

本文(テクスト)、という形で、前回のドン・キホーテのエッセイの中で
書き流してしまいましたが
文学の世界にどっぷりとつかって抜けられなくなってしまった気の毒な人達は、
作品として提出された本文、テキスト、の事を、ちょっと気取って、
テクスト、と呼んだりします。
テキストでいいじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、
そこはちょっと気取って、テクスト、なのです。
マスコミや音楽業界の人が使う、ギョーカイ語、のようなものです。

ギョーカイ語は部外者を排除する冷たさがありますが
ギョーカイ語を理解している者同士での伝達が早くなったりする効果もあるので、
一概に悪いとは言えないように思います。

でもやはりギョーカイ語を使ってお互いコミュニケーションをしていると、
どうしてもちょっとした優越感が出てきてしまいます。
それが部外者には嫌味に思える時もあります。
秘密結社の合言葉のようなものです。テクスト。

他に文学の世界にどっぷりとつかって抜けられなくなってしまった
気の毒な人達が使う言葉に、シニフィアン、と、シニフィエ、などがありますが、
この辺までくると実は僕ももうその意味するところがよく分かりません。
シニフィアン、と、シニフィエ、がどうのこうの、と
言っている人達のうち4割か5割は、たぶんその用語の意味するところを正確には
理解していないのではないか、と僕は睨んでいます。
でも、テクスト、という概念は結構重要だと僕は思います。

なぜ、テクスト、という概念が重要かと言うと
人間はどうしても、その作者の容姿その他の姿形と
作品の世界を被らせてしまうからです。
若くて美人な女性が、文壇で大きな賞を受賞したりすると
必ずと言っていいほど、大きな批判の声が出てきますが、
その批判はたいていどこかズレた、感情的なものである事がほとんどです。

何であんな奴に賞をやったんだ……etc.

懸命なる読者諸氏はお気づきの通り、やっかみ、が
入るわけであります。
テクスト、が素晴らしくて賞を受賞したはずなのに
受賞者が若くて美人な女性だったりすると
文句の一つも言いたくなるのが人情というものでしょう。 

若くて美人な上に、文壇の大きな賞までもらいやがって
コンチクショウ……etc.

人間というものは、どうしてもその作者の容姿その他の
姿形に目がいってしまって、本文、テキスト、を
まともに読めなくなってしまうから、テクスト、という
概念が重要なのだと僕は思います。

大きな声では言えませんが、実は僕も
街を歩けば、必ず年頃の娘さんが2.3人は振り返る、と
いう、好美男子、色男、ナイスガイ、いわゆるイケメンでありますので、
テクスト、をまともに読んでもらえない可能性が大なのであります。

僕とは逆に、あまりビジュアルが芳しくないタイプの方が
恋愛物の小説を書いたりすると、あの男(女)は、現実生活で異性に縁がないから
小説の世界で恋愛物語を書いて自分を慰めているんだ、などと
推測されてしまいがちです。

何を言いたいのかといいますと
ビジュアルが良くても悪くても結局、テクスト、を
まともに読んでもらえないのだな、という事を
言いたいわけであります。

そういった矛盾を解決する手段の一つとして
作者が存在しないものとしてテクストだけ読め、という文学理論が
出てくるわけであります。
現代作家の、テクスト、を読む方法としては
結構有効な手段だな、と僕も思います。

作者が存在しないものとして、テクスト、だけ読む。

現代作家は同時代に生きているので
僕達はどうしても、偏見、を持って、テクスト、を読んでしまいます。
僕たちは、作者がTVCMに出演して
ビールを美味そうに飲んでいるシーンを見たりすると
どうしても、テクスト、を読む際も色々と考えてしまいます。

TVCMなんか出演して俗物め……結構儲かってんだろな……
意外と女にモテそうだな……etc.

人間はそうなりがちなので、作者が存在しないものと
して、テクスト、だけ読む、という方法は結構有効な
アプローチだと僕も思ったりするわけです。

作者が存在しないものとして、テクスト、だけ読む。

そんな無理な努力をしなくてもよい方法が実は一つだけあって、
それは、古典、を読むという事です。
時代が経てば、美の基準、も変わりますから
当時作者が、絶世の美女、だったと言われても
美人に見えなかったりします(男性も同じ)
平安時代の美人は、現代のブ○、という話はよく聞きます。
作者は金持ち二代目のボンボンで一度も働かずに
小説ばかり書いていました、などと年譜に書いてあっても
本人この世にいないわけなので許せたりします。
何十年、何百年前の歴史上の人物に嫉妬心を抱くほど
愛に飢えた人間はそんなにいないと僕は思います。

つまり全ての古典は、先入観なしに素直な心で、
テクスト、だけ読む事ができるわけです。
やっかみ、の入りようがない。
本人この世にいないわけだから。
だから正確に読める。
残っているのは、テクスト、だけ。
それが、古典、です。

前回紹介した、ドン・キホーテ、を書いたセルバンデスが大きく認められたのは、
実はセルバンデスが亡くなってからです。
正確に言えば、セルバンデスが認められたわけではなく
残されたドン・キホーテという、テクスト、が認められたわけです。
やはり、テクスト、が全てのような気がします。
多くの時代、多くの場所で、多くの人に、何か、を感じさせた、
テクスト、だけが、古典、として残っているわけです。

それは実は小説だけに限らなくて、絵でも音楽でも
いい、テクスト、は、作者がこの世にいなくなっても
古典、或いは、マスターピース、となって
この世に残るのだと思います。

そういった古典を、たくさん読んで、たくさん観て
たくさん聴いて、鍛えられた、眼、は
たぶん現代作家の、テクスト、を読む際も
結構有効なのだと思います。
昔はそういった、読みのプロ、が、日本中にゴロゴロいたのだと僕は思います。
別に僕は偉そうに現代の文化状況を嘆いているわけでは
なくて、卵のなかみ、に何度か登場している
二日町の文芸喫茶のマスターは、そういった
読みのプロだったなあ、と今思い出したわけです。

そのマスターの話では、日本文学が一番元気だった頃は
三島由紀夫と太宰治が喧嘩したらしいぞ、なんていう
話題先行の形でテクストが売れたこともあったそうです。
そうは言ってもやはり三島と太宰のテクストは今も残っています。
やはり、テクスト、が本物なのでしょう。

芥川龍之介も三島由紀夫も太宰治も川端康成も
日本文学の巨匠はみんな自殺しているので
物書きは死ねば本物、のような感覚が日本人には
あったりして、二十代で芥川賞作家となってしまった
平野啓一郎さんが受賞当時、相当自殺を勧められたらしい、という
ユーモラスなエピソードがあったりします。
死ねば本物、という感覚は、ハラキリ、とか、カミカゼ、と
結びついた日本独特の感覚ではないか、と最近睨んでいるのですが
いったい何なのだろう。
不倫の二人が追い込まれた後に心中する、という
渡辺淳一さんの、失楽園、は大ヒットしましたが
やはり日本人は死なれると、もう駄目、なのかもしれません。

やはり死ねば本物なのだろうか。
いや、そんなことはないと思う。
だいたい人間はみんな生まれた瞬間から
毎日死に向かっているわけです。
人類史上一つだけ確かなことがあって
それは、一度この世に生を受けて
死ななかった人間はまだ一人もいない、という事です。

人間は遅かれ早かれみんな死ぬ。
だから死ねば本物、というのは嘘だと僕は思う。
だってみんないずれ死ぬのだから。

テクストは正直です。
作者が投身自殺しようと、焼身自殺しようと
心中しようと、生きながらえて大往生しようと
残るテクストは残るし
残らないテクストは残らない。

テクスト、は正直です。




-テクスト-