2004年2月1日日曜日

ヤバいの逆転(5)素敵な男性は合コン来ないよね 2004.2.X 初出

とにかく戦後日本システムの下では自明だった事が
あらゆる分野で、物凄いスピードで
変化を迫られているので
僕はこれからの日本社会では
恋愛の定型も変化していき
その可能性も狭まっていくのではないかと思って
しまいます。

先進国型の自由恋愛の場合は
たいていちょっと気取ったお店で
ちょっと気取ったお酒を飲みながら
なんとか男女の共通の話題を探り当て
親和欲求を満たしつつ

この男は浮気に走らずいつでも一緒にいてくれて
確実に毎月の家賃7万円を払ってくれるのだろうか……

とか

この女は一回セックスしたら
すぐに結婚の話を持ち出すタイプなのではないだろうか……

とか

この男は一見誠実そうに見えて
実は相当な女たらしなのではないかしらん……

とか

この女は口では、料理が得意なの、などと言って
家庭的なところをアピールしてはいるが
いざ子供ができたら実家に子供を預けて
遊びまくるタイプなのではないだろうか……

などとお互いの胸中を詮索しながら
次第にドツボにハマっていき
共依存の痴情のもつれの末に
ブスッ! と刃傷沙汰に及んだりします。

でも現代の日本社会では
男のような女
女のような男
という組み合わせが増えてしまったので
上記のようなステレオタイプな恋愛関係は
むしろ稀少になっていき、ギャグ、に
近くなっていくかもしれません。

ちなみに、このまま男が弱くなり女が強くなる状況が
あと10年以上続けば
女みたい、の意味するところは、猛々しい、になり
男みたい、の意味するところは、イジイジ
クヨクヨ、グズグズ、モジモジ……になっていくかも
しれません。

あんた男みたいに、グズグズ、モジモジしてないで
女みたいにシャキッとしないさいよ!

ちょっと笑えないものがあります。

少々話が逸れてしまいましたが
これからの時代の、恋愛の定型、が変化していくの
ではないかしらん、という話なのであります。

まず旧来の日本社会では、同世代の青年男女の
ライフスタイルはたいてい同じ、だったので
王様、ゲーム! 的な、合コン、で出会い
二次会のカラオケの途中から
気にいった男女が抜け出す、という
恋愛、がメインだったような気がしますが
ここまでメディアも趣味もライフスタイルも
多様化すると、合コン、カラオケ、というパターンは
もう成立しないのではないかと思ってしまいます。

ちなみに僕は、ある合コンでご臨席賜った
女性の方に、素敵な男性は合コン来ないよね、と
呟かれて、グサッ、ときたことがあります。
何も合コンの席で、合コンに来ている男性である
僕に向かって、素敵な男性は合コン来ないよね、と
単刀直入に呟かなくてもよいのではないか、と思って
しまったのでありますが
世の男性諸君よ

素敵な男性は合コン来ないよね

だそうであります。

柳田国男の、明治大正史、世相篇(中公クラシックス)の
250ページに

・ 何時の世の中でも青春の男女が迷わず、また
過たなかった時代というものはあるわけがない。
いっさいの判断を長者に委ねる者は格別、
すこしでも自分の思慮と感情とを働かせようとすれば、
ぜひとも何らかの修練方法と、指導の機関とが
必要であった。
幸いに村に若連中・娘連中と称するやや干渉に
過ぎたる批評者の群れがあったおかげに、
われわれの自由婚姻は幸いにして
多くの似合いの女夫(めおと)を作り得たのである。

とありました。

要は、いつの時代も、青春の男女が色恋で間違いを
犯さなかった時代はないのだから
親の、いいなずけ、ではなく
自由な恋愛をして結婚するのならば
それなりの、恋愛教育、や、恋愛訓練、や
恋愛技術、が必要なのだよ、という
事なのだと思います。
明治大正史、に書いてある事が、現在も有効だったり
するので、古典というのはやはり読んでみるべきだな、と
思ってしまいます。
現在、子供達にどこまで性の知識を与えるか、という
議論がなされているようでありますが
明治・大正、の時代と
さして状況は変わらないのだな、と
思ってしまいます。

ちなみに柳田国男の、明治大正史、には
処女会、なるものも紹介されておりました。
さすがに、童貞会、は見当たりませんでしたが
中々よいです。処女会。

僕は別に、民俗学の大家、柳田国男先生を
冷やかしているというわけではなくて
処女会、というネーミングに見られるように
かつての日本社会では、女性の貞操観念、が
自然に信じられていたのだな、という事を
言いたいわけであります。

時は移い、再び現代へ-。
明治以来の画一的中央集権化が終わり
価値観が多様化し始め、収入にも格差が生じ
ある世代の青年男女は、たいてい同じライフスタイルである
という条件下での、常識、がどんどん壊れていけば
合コン、は成立しなくなっていくかもしれません。
合コン、も死語になるのかもしれません。

合コン、は、言い換えれば、集団お見合い、です。
こう書いたからといって、僕は、合コン、を
否定しているというわけではありません。
柳田国男が、明治大正史、において
書ききったように
いつの時代も、青春時代の男女が
色恋で間違いを犯さなかった時代はないのであります。
お見合い、も、合コン、も
自由恋愛の中で、一組の夫婦を誕生させるための
一つの方法だと僕は思います。
ただ、その個人の恋愛技術を補ってくれるはずの
合コン、の場が、社会構造の変化によって
成立しなくなっていくのは大変な事だな、と
思うわけであります。

ここまで考察してくると
素敵な男性は合コン来ないよね、と僕が
とある女性に合コンの最中に呟かれて、グサッ、と
きたのもよく分かります。
素敵な男性、つまり
集団主義による結果の平等社会から
個人主義による機会の平等社会へ移行しようと
している現代社会において
ビジョンを持ち、何とかしようと努力している男性は
合コン(集団お見合い)の場には来ないよね、という意味
なのだと思います。

合コンで、受けるネタ、を探している暇があれば
素敵な男性は、英単語の一つでも覚えてしまうのでは
ないでしょうか。

最近居酒屋に出入りしたりしても
かつてのような、大所帯での合コン、を
あまり目撃しなくなったような気がしますが、どうでしょう。
2対2、か、3対3、か、4対2、くらいまではあっても
4対4以上は見かけなくなったような気がします。

若い人達は分からないかもしれませんが
ねるとん紅鯨団、というカップリング番組が
テレビで放送されていた頃は
あちこちの居酒屋で、15対17、とか
23対18、という物凄い大所帯の、合コン、が
見受けられたものです。

僕の感覚では、おそらくかつて、合コン、に
群がっていた層が、現在、出会い系サイト、に
集まっているような気がします。
一日中ケータイで、出会い系サイト、のメールを
チェックして、セックスしたとかしないとか
自慢話ばかりしている若い男性と職場で
一緒になったことがありますが
僕はあまり、羨ましい、とは思いませんでした。
そこまですれば、確かにセックスさせてくれる女性に
たまにあたるかもしれませんが……。

先述のとある女性の言葉を借りて言えば
素敵な男性は、出会い系サイト、にも
合コン、にも、来ない、という事に
なるのかもしれません。

でもこれまた先述の柳田国男が言うように
いつの時代も、青春の男女が色恋で間違いを
犯さなかった時代はないのだから
自由恋愛をするのなら、男女が上手くマッチングする
場所なり、機関の提供は必要だと思ってしまいます。
そうなると、結婚相談所の盛況、となってしまうの
でしょうか。

僕は、見合い、というのは、第三者が
当事者の、信用、を見込んで申し出るものなのだから
中々合理的なシステムなのではないかと
思ってしまうのですが
現代では、恋愛結婚じゃなきゃ格好悪い、という
常識、ができてしまったので
みんなとりあえず、恋愛、の形を取ろうとします。

でも歴史を紐解けば、むしろ、恋愛、というのは
非日常的で、且つ、貴族的なものであって
とんでもないテンションの高さ、と
とんでもない金と時間の労力、と、時には
命の危険、まで要求されうるものなので
あります。

現代の若い男女は、とても恋愛をイージーに
考えて、合コンや出会い系で簡単に知り合い
簡単にセックスして
簡単に刺したり、簡単に刺されたり
簡単に警察に訴えられたり
簡単に仕事を失くしたりしているようであります。
その辺は僕も、偉そうな事は言えませんが……。

今回は、僕が恋愛に対してちょっと奥手であるためか
動揺してあっち行ったりこっち来たりして
とりとめのない話になってしまいましたが
要は、現代はありとあらゆる分野が
過渡期なので、もうしばらく恋愛に関しても
訳の分からない事件、は続くだろうという話なので
あります。



-ヤバいの逆転(6)宇宙人の時代、へ続く-
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明治大正史 世相篇 (中公クラシックス)