2003年7月1日火曜日

千と千尋の神隠しとトンネル体験 2003.7.X 初出

宮崎駿監督の千と千尋の神隠しが
大ヒットしてアカデミー賞も受賞して
しまったという事で、僕もミーイズムを
発揮して観てみたのですが
うん、やっぱり凄いと思ってしまいました。

千と千尋の神隠しというアニメは
中産階級の核家族というどこでもありそうな
家族が、夫の転勤?で山間地をドライブして
いるシーンから始まります。
そしてちょっと車を停めたところに
古びたトンネルがあり、そこをくぐっていくところから
物語が始まります。
トンネルを抜けるとそこは異次元空間で
主人公の千尋が八百万の神に混じって
様々な経験を積んで、ちょっぴり大人に
なってからもう一度トンネルをくぐり抜けて
現実の世界に戻ってくる。
いわゆる中世日本で多く語り継がれた
神隠し譚の現代版です。

トンネルを抜けるとそこに別世界がある。

恐ろしや、川端康成のエッセイにも書きましたが
僕は、トンネルを抜けるとそこに別世界がある、と
いうのは、誕生や死に対して誰もが深層意識にもっているイメージの原型を
刺激するような気がするのです。
つまり、国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった、という一文と
千尋がトンネルをくぐりぬけるとそこに
八百万の神の世界があった、というのは
同じ構図で、どちらも母親の胎内から
産道のトンネルをくぐり抜けてこの世に生を受ける
人の誕生と、トンネルを抜けて花畑や天使のいる世界に
出て行く臨死体験のイメージが思い起こされる
なあ、と。

そしてどんなに政治体制が違っても
生活習慣が違っても、卵から産まれたり
する人類はいないわけなので
川端康成の、雪国、や
宮崎駿監督の、千と千尋の神隠し、は
外国でも広く受け入れられ
高く評価されるのではないか、と
勘ぐってみたわけです。

もちろん、雪国、も、千と千尋の神隠し、も
オリエンタルなものに対する西洋人の
興味を満足させる内容だ、という要素も
あるかもしれません。
でもトンネル体験は人種を超えています。
だって卵から産まれる人類はいないのだから。
うん、きっとそうだ。
たぶんそうだ。
絶対にそうだ。

人類のイメージの原型としてのトンネル体験。

母親の胎内から産道というトンネルを
くぐってこの世にくる。
そして暗いトンネルをくぐって
花畑があり天使やご先祖様のいるあの世へ行く。
人の誕生と死に共通するトンネル体験。
きっとそこには何かあるのだ。

人工授精で代理出産するにしても
ラエリアン・ムーブメントの
クローン人間にしても
女性の胎内を借りて
トンネルをくぐってこなければ
人間は誕生できません。

逆に臨死体験においても
トンネルの先に別世界があるというのは
全世界共通であるらしく
生前の信条により花畑や光の世界に
いるのがイエスだったり、ご先祖様だったり
閻魔様だったりするだけで
基本的なパターンは変わらないとの事。

卵から産まれる人類はいないので
みんなトンネルをくぐってこの世に
来たのだ。そしてトンネルをくぐって
またどこかにに行く。

どこから来てどこへ行くかは分からない。
なのに来てしまった。
どっかに行かなければならないはずなのに
どこへ行ったらいいのか分からない。
人に聞いても教えてくれない。
なのに、もの思う脳や心は与えられている。
人類とは全く困った存在だ。
それを仏教では
独生独死独去独来という格好いい言葉で
表現しています。

暴走族はいろんな漢字を戦闘服に
刺繍し、トラック野郎はいろんな漢字の
コピーを車体にペイントしていますが
仏教の、独生独死独去独来、には
ちょっとかなわないのではないでしょうか。
はっきり言って格好よすぎる。
それとも、独生独死独去独来、を格好いいと
思ってしまう僕の感性に問題があるのでしょうか。
人生とは、独生独死独去独来、で
人と人との間を人間(じんかん)と言う。

僕はちょっと分かってきたような気がします。
人間はトンネルをくぐって
独生独死独去独来な世界にデビューし
そこで、すったもんだがあった後
なんだかよく分からないまま
またトンネルをくぐってどっかに行く。

人生五十年、下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり。
ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか(敦盛)

うーん全くその通り。
それはどんな時代どんな場所でも変わらない
人類普遍の姿なのだ、と。

そんな人類普遍の姿を思わせるトンネル体験を
さりげに冒頭とラストに織り込んで
千と千尋の神隠しを大ヒットさせ
さらにアカデミー賞までゲットしてしまう。
恐るべし、宮崎駿監督。
恐るべし、川端康成。
リスペクトお釈迦様。


-千と千尋の神隠しとトンネル体験-
雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)