0という数字は不思議な数字です。
まず両手にコブシを作ってみます。
そこで石がそこに一つあれば
人差し指を上げてⅠ。
石がそこに二つあれば
人差し指と中指を上げてⅡ。
石がそこに三つあれば
人差し指と中指と薬指を上げてⅢ。
石がそこに四つあれば
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅣ。
石がそこに五つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅤ。
石がそこに六つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指を上げてⅥ。
石がそこに七つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指を上げてⅦ。
石がそこに八つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指を上げてⅧ。
石がそこに九つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅨ。
石がそこに十あれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅩ。
ここまではなんとなく理解できます。
幼児に1~10までの数字を教える時も
こうやって教えればよいわけです。
でも何もない状態、そこに石が一つもない状態、0、を
教える時、どうやって幼児に説明すればよいのでしょう。
そこに石が一つもないなら
石が0個という言い方は変です。
そこに石が一つもないのなら
石という概念も存在していないことになります。
つまり石が0個ではなく、それは単に0です。
少年はよく、何で? 何で? と聞いて
大人を困らせますが、その、何で? を
真面目に考えていくと、結構重要な問題に行き着いたり
します。
で、少年のようにピュアなハートを持ったまま
大人になってしまった僕は
この問題を真面目に考えてみたのです。
そこに何もない状態、0、を
最初に発見したのは誰か、となると
これはどうやら古代のインド人らしいのです。
何の本で読んだか忘れてしまいましたが
現代人が当たり前のように使っている
数字、0、は、古代インドのサンスクリッド語で
始めて登場したものらしいのです。
サンスクリッド語の、0 。
ジーニャとかシーニャと発音するらしいです。
ではジーニャとはどういう意味か、というと
それが、空、という意味らしいのです。
インドは仏教発祥の地ですが
仏教の概念とも関係しているのかな、と思ったら
やっぱりそうで
色即是空の、空
空即是色の、空
一切空の、空が
サンスクリッド語の、0、ジーニャに
あたるらしいのです。
僕は何もない状態、0、と
最初に説明してしまいましたが
ジーニャは正確には、何もない状態、ではなくて
数式化してみると
空=0
無=0
でも、空≠無、らしいのです。
A=B
C=B
ならば
A=C
のはずですよね。
なのに
空=0
無=0
空≠無
なのです。
なんだ、それ。
論理破綻をきたしているぞ。
というわけで、空、サンスクリッド語の、0、ジーニャは
論理を超えた哲学的、形而上学的、宗教的概念でも
あるわけです。凄い数字だ、0、ジーニャ。
仏教の唯識論においては
最終的に一切は、空、であるとします。
一切空が解脱であり
ニルバーナであり、涅槃です。
そしてお釈迦様の悟りの境地を
おもいっきり単純化して数式化すれば
空=0
無=0
空≠無
0、ジーニャ
となるのかもしれません。
空=0
無=0
空≠無
は論理破綻をきたした数式ですが
この関係を体得できたら
その人は悟っている、と言えるのかも
しれません。
文系人間による数学講座(1)
0 ジーニャ
-文系人間による数学講座(2)、へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/220037.html