2003年7月1日火曜日

文系人間による数学講座(1) 0 ジーニャ 2003.7.X 初出

0という数字は不思議な数字です。

まず両手にコブシを作ってみます。
そこで石がそこに一つあれば
人差し指を上げてⅠ。
石がそこに二つあれば
人差し指と中指を上げてⅡ。
石がそこに三つあれば
人差し指と中指と薬指を上げてⅢ。
石がそこに四つあれば
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅣ。
石がそこに五つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅤ。
石がそこに六つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指を上げてⅥ。
石がそこに七つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指を上げてⅦ。
石がそこに八つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指を上げてⅧ。
石がそこに九つあれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指を上げてⅨ。
石がそこに十あれば
人差し指と中指と薬指と小指と親指ともう片方の手の
人差し指と中指と薬指と小指と親指を上げてⅩ。 

ここまではなんとなく理解できます。
幼児に1~10までの数字を教える時も
こうやって教えればよいわけです。
でも何もない状態、そこに石が一つもない状態、0、を
教える時、どうやって幼児に説明すればよいのでしょう。
そこに石が一つもないなら
石が0個という言い方は変です。
そこに石が一つもないのなら
石という概念も存在していないことになります。
つまり石が0個ではなく、それは単に0です。

少年はよく、何で? 何で? と聞いて
大人を困らせますが、その、何で? を
真面目に考えていくと、結構重要な問題に行き着いたり
します。
で、少年のようにピュアなハートを持ったまま
大人になってしまった僕は
この問題を真面目に考えてみたのです。

そこに何もない状態、0、を
最初に発見したのは誰か、となると
これはどうやら古代のインド人らしいのです。
何の本で読んだか忘れてしまいましたが
現代人が当たり前のように使っている
数字、0、は、古代インドのサンスクリッド語で
始めて登場したものらしいのです。

サンスクリッド語の、0 。
ジーニャとかシーニャと発音するらしいです。
ではジーニャとはどういう意味か、というと
それが、空、という意味らしいのです。
インドは仏教発祥の地ですが
仏教の概念とも関係しているのかな、と思ったら
やっぱりそうで
色即是空の、空
空即是色の、空
一切空の、空が
サンスクリッド語の、0、ジーニャに
あたるらしいのです。

僕は何もない状態、0、と
最初に説明してしまいましたが
ジーニャは正確には、何もない状態、ではなくて
数式化してみると
空=0
無=0
でも、空≠無、らしいのです。

A=B
C=B
ならば
A=C
のはずですよね。

なのに
空=0
無=0
空≠無
なのです。

なんだ、それ。
論理破綻をきたしているぞ。

というわけで、空、サンスクリッド語の、0、ジーニャは
論理を超えた哲学的、形而上学的、宗教的概念でも
あるわけです。凄い数字だ、0、ジーニャ。

仏教の唯識論においては
最終的に一切は、空、であるとします。
一切空が解脱であり
ニルバーナであり、涅槃です。
そしてお釈迦様の悟りの境地を
おもいっきり単純化して数式化すれば
空=0
無=0
空≠無
0、ジーニャ
となるのかもしれません。

空=0
無=0
空≠無
は論理破綻をきたした数式ですが
この関係を体得できたら
その人は悟っている、と言えるのかも
しれません。


文系人間による数学講座(1)
0 ジーニャ


-文系人間による数学講座(2)、へ続く-
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