2003年6月1日日曜日

トイレ考 やはり芥川龍之介はすごい 2003.6.X 初出

注:お食事中の方はすいません。
  トイレの話です。食事が済んで
  一息ついてから読んで下さい。

というわけで人間にとってトイレとは何か
という話が激論に至ったのであります。
育ちが良くて上品な僕は
顔をしかめながらも
実は興味があって
聞き耳を立てていたのですが
以下要約。

だいたい何処へ行っても
水洗トイレがあって
くみ取り式便所、というものを
見る方が珍しくなってしまって
しまいましたが
トイレが水洗か、くみ取り式か、と
いう問題は、年配の方にとっては
重要な問題だったようです。

かつて西洋に追いつき追い越せ、と
近代化に取り組んでいた日本人にとって
西洋文明が築いた近代社会というものは
口惜しいけれど魅力的なもので
憧れと、その裏返しである
コンプレックスの対象であったようです。

それで西洋文明に劣等感を持っていた
かつての日本人は、西洋人というのは
どうやら糞尿をオケに溜めておいて
窓から捨てていた歴史があるらしい、とか
西洋婦人のフレアスカートは
庭に置いたオマルにクソをするために
スソが広がっているのだ、という事を発見し
ほれみろ、あんな文明などたいしたことないぜ
と、なんとも下らない事で自尊心を
取り戻したらしいのです。
六十代くらいの方は、この話がスッと分かるかも
しれません。

そんなクソやトイレについての議論が延々と
繰り広げられたのです。

東京近郊でも未だに水洗トイレが
完備していない地域があるのだから
東京だってまだまだだ、等と発言して
いる方もいました。
僕は何がまだまだなのか理解できなかった
のですが
東京のトイレ水洗化率は80年代に
80パーセントくらいだったそうで
(その時日本全体では30パーセント)
当時ヨーロッパの先進国は
ほぼ100パーセントのトイレ水洗化を
達成していたので、東京だってまだまだだ、という
事らしいのです。
(現在は東京も100パーセントになったの
だろうか? )
どうやら年配の方にとっては
トイレが水洗か、くみ取り式か、と
いう問題は、民族のプライドに
かかわる問題だったようです。

中には
昔の日本人はJAPANESE式トイレに
しゃがみこんでクソをしてたから
足腰が強かったのだ、とか
俺はアイドルは絶対にクソをしないと
信じてた、とか極論を言う人もいて
人間とクソとトイレと文明の関係と
いうものは、実に興味深いものがあるな、と
僕は感心しました。

マルキ・ド・サドのソドムの百二十日と
いう小説においては、ちょっとここには
書けないようなクソに関する行為が
延々と繰り返されていて、それが哲学的
命題にまで至っていますし
古事記においては、アカやクソから
神が生まれたり、カワヤでオホトを
ササレて~などという現代語訳すれば
トイレでエッチ、という描写が出てきたり、と
人間とクソとトイレと文明の関係は
文学的にも重要なもののように思います。

育ちが良くて上品な僕は、本当に
参ってしまい、今日は上手く要約
できませんでしたが
僕が一番、人間とクソとトイレと文明の
本質に迫っているな、と感じるのは
芥川龍之介の、好色、という短編です。
主人公のプレイボーイ氏が
狙った女を射止める事ができなくて
悶々としているのですが
なんとそのプレイボーイ氏
思いを断ち切るために
ホレた女のクソを見ようとします。
ホレた女のクソを見て
恋心を絶とうとする。
人間とクソとトイレと文明の
本質に迫った、普遍的な小説に
仕上がっています。
僕は、やはり芥川龍之介はすごい、と
思いました。


-トイレ考 やはり芥川龍之介はすごい(完)-


ソドムの百二十日

口語訳古事記 完全版