2003年6月1日日曜日

伝統の一戦 2003.6.X 初出

記事によると
伝統の一戦である
サッカーの日本・韓国代表戦で
0-1で日本代表が敗れた、そうです。

伝統の一戦がいつのまにか
プロ野球の巨人・阪神戦から
サッカーの日本・韓国代表戦に
変わってしまいました。

いつ変わったんだよ、と思いますが
変わってしまったらしい。
そういった事に対して世代間、地域間で
コンセンサスが出来ていなくて
最近僕はよく混乱しています。

先日も、ある五十代の方と話を
していたのですが、その方は
髪を染めたりピアスをしている若者は
不良だと思っていたし
僕が皮パンを履いてバイクに乗っている姿を
見てからは、暴走族の話になってしまいました。

マスコミは、一般大衆、を想定して
情報を発信しなければならないので
どこかで、日本人の常識、を
設定しなければならないのでしょうが
伝統の一戦、と書いた時
巨人・阪神戦をイメージする人と
日本・韓国代表戦をイメージする人がいて
田舎、と書いた時
こ汚なくてダサいところをイメージする人と
水や空気がおいしくて人々が暖かいところを
イメージする人がいて
茶髪にピアス、と書いた時
気合いの入った不良をイメージする人と
お洒落に気をつける軟弱な若者を
イメージする人がいるのだ、という視点が
抜けてしまいます。
一言で言えば価値観の多様化の視点が
抜けている、という事になるのでしょうが
小説を書く上でもそれは結構
重要な問題になります。

小説というのは文字だけで読者に
その物語世界が存在するのだ、と
思わせなければならないわけです。
そういった時に、伝統の一戦、と
書いた時、巨人・阪神戦をイメージする人と
日本・韓国代表戦をイメージする人がいる
という事になると
表現がよりストリクトなものにならざるを
得なくなります。
つまり、日本の常識、に基づいた
比喩やメタファーが使えなくなります。

例えば、茶髪にピアスの三人の若者が
こちらを見ていた、と書いた時
それを不良の三人組が因縁をつけている、と
イメージする人と
お洒落に気をつける軟弱な若者三人組が
こっちを見ている、とイメージする人とが
いるとなると、その表現は使えません。

読者の頭の中はどうなっているんだろう、と
いう事が把握できていないと
文字だけで物語世界をつくる事はできません。
精神病者は精神病者の話は書けないのです。

価値観の多様化がすごいスピードで進んでいるので
もう日本人全てが共感できる小説というものは
出てこないようにも思います。
それと僕が今まで書いてきた小説が
どんどん古くなっています。
ほんの二、三年前のものでも
並んでいる単語からイメージされるものが
変わってきてしまっています。

伝統の一戦が、巨人・阪神戦か
日本・韓国代表戦かは、社会にとっても
僕にとっても、結構重要な問題です。