2003年6月1日日曜日

構造改革が進めば日本にイタリア人が増える!? 2003.6.X 初出

というわけで
何のために死ぬか、というのは
何のために生きるか、と同じ事だと
僕は思うのですが、どうでしょう。

煙草も酒もやめて
毎日のジョギングを欠かさない、という
ヘルシーな生活を送っていても
人は何故か、ふと虚しさにとらわれる時がある。

何のために死ぬか、死ねるか、というのは、
その人が人生において
何にもっとも価値を見出しているか
という事の証明でもあり
健康のために死ぬ、という人はいないし
それは日本語としても破綻しています。
健康は手段に過ぎないような気がする。

昔は、日本のために~死ぬ人がいた。
ちょっと前までは会社のために~死ぬ人がいた。
それは人々が日本のために生きていた時代や
会社のために生きていた時代があった、と
いうことの証明のように思います。
では現代人は何のために死ぬのだろう。
つまり現代人は何のために生きているのだろう。
それが分からなくなってしまったし、掴めなく
なってしまったような気がする。

現在は年間自殺者三万人と言われ
確かに人はよく死んでいますが
それは、日本のため~でも
会社のため~でもないようだし
家族のため~でもなさそうです。
単に精神的に経済的に追い込まれて死んでいる人が
ほとんどのような気がします。
本当に切ない死に方だし
死んでも浮かばれないというのは
この事か、とも思ったりします。

或る友人が
戦前は天皇制が、戦後は企業社会が
日本人に人生の価値と
社会的規範とを与えていたのに
現在それがなくなってしまい
日本社会はアノミー状態に陥っているのだ
と言っていましたが、それもあるような気がします。
(アノミー。フランス語。個人や集団相互の関係を
規制していた社会的規範が弛緩、または崩壊した時に
生ずる混沌状態  by 三省堂 大辞林 )

若者の間で少し前まで、本当の自分探し、と
いうものが流行っていたような気がしますが
きっと天皇制や企業社会のルール以外での
何のために死ぬか、を
みんな探していたのだと思います。

で、イタリア人の男の一番格好いい死に方は
女のために死ぬことだ、という俗説があります。
僕はイタリアに行ったことがないので
本当のところは分かりませんが
何のために死ぬか、が
何のために生きるかだ、という僕の仮説に
従えば、イタリア人の男は、女のために生きている!
という事になります。
おお、イタリア男……

さて、僕は現在何のために死ねるのだろう?
このエッセイを読んでくれるみなさんはどうでしょう。
僕はもう日本のために死ねる世代ではないような気が
するし、勤め先が突然なくなる、という経験を
何回かしているので、会社のために死ぬ、という
のももう無理のように思います。
でもホレた女のためならどうだろうか?
死ねるかもしれない、と僕は思いました。
気がついたら僕はイタリア人になっていたのです。
マンマミーア、メノメール、メノマーレ。

国のために死ねるのも
会社のために死ねるのも
女のために死ねるのも
何かのために死ねる、というのは
きっと男として人として同等に格好いい事
なのであって
女のために死ぬことができる
イタリア人化した格好いいこの僕を
国や会社のために死ねた前の世代の人間達が
ナンパだとかケシカらんとか言って批判することなど
できないのではないでしょうか。

もう日本社会は若者に生きがいを
設定することはできないようですし
無理に設定しようとすれば
きっとファシズムが生まれるはずです。
既にその兆候はあります。

構造改革が進んで終身雇用の勤め人が
どんどん減っていけば
若者だけでなく中高年にも
何のために生きればいいのか分からない
何のために死ねばいいのか分からない
という人が広がっていくでしょう。
もうファシズムを避けるには
イタリア人になるしか残された道はないのかもしれません。

構造改革が進めば日本にイタリア人が増える。
嗚呼、マンマミーア、メノメール、メノマーレ。